http://famicoroti.blog81.fc2.com/blog-entry-2657.htmlレトロゲームの周年を祝う風潮について思ったこと
<周年はおめでたい?> レトロゲームが発売した日に
「○○周年おめでとう」ってツイートをよく見かけます。
それが話題のきっかけとなって、当時のことを思い出したり、熱く語ったりできるので、個人的には良いことなんじゃないかと思っているのですが、とあるゲームクリエイターの
「昔のゲームのことを今さらおめでとう言われても困る」というようなツイートを見かけて、この構図は興味深いなと思いました。
つまり「周年」という事実と「おめでたいかどうか」は別問題ということか!
たしかに、今でも続いてるような人気シリーズ物ならば、メーカー自ら周年を祝うこともあるでしょうが、もうとっくに完結してるようなソフトの場合は事情もそれぞれなのかもしれません。もちろん任天堂の故・山内元社長みたいな、単純に
「周年イベントが嫌い」ってひとも中にはいると思いますけどね。
※1 それは稀なケースでしょう。現に、岩田さんになってからバンバンやるようになりましたし(笑)
※1 第1回 宮本茂が語る、1999年9月。(樹の上の秘密基地)において宮本氏が山内元社長について「社長が嫌いなんで、そういうの。「何周年記念」ということに、何の意味があるんや、っていうひとだから。」と語っている。<ゲームは体験がともなうもの> ただ、私は思うのですよ。
偉大な作品ほど
作者の手を離れていくものなんじゃないのかなって。
あえて極端な表現をするならば、偉大な作品はいずれ
「人類の宝」になるからです。なんてことを言い出すと収集つかなくなるので(笑)、逆にちっぽけな例を出しましょう。僭越ながら私オロチは20年くらい前に『レッグさん』というインディーズゲームをつくっていました。自分では大人向けにつくっていたつもりが、なぜか当時の中学生とかにカルトな人気があったのですけど、今、プレイすると正直やってられませんもん(笑)
でもごく稀に今でも「レッグさんで人生を学んだ」みたいな書き込みとか見かけることあるんですよ。やっぱり嬉しいのです。ただ、なんて言うか、それよりも「レッグさん」は私の作品じゃなくて、もはや
その子の作品になってるんだなって思ったのですよ。
※足が主人公の学園アドベンチャーゲーム(自分でも意味がわからん) なぜかと言うと、ゲームは漫画や小説など他のジャンルの作品と違って
体験がともなうものだからです。体験ってのは間違いなく、そのひと固有のものじゃないですか。したがって「作者よりもユーザーのほうが思い入れが強い」という現象が往々にして起こり得るわけですよ。
まったく偉大じゃないカルトなインディーズ作品の作者ですらそういうことがあったのですから、商業的に成功したような偉大な作品なら、なおさらでしょう。
<提供する側と享受する側> そう考えると、たぶん、ゲームを提供する側と享受する側には、どうしても
温度差のようなものが生じてしまうのだと思います。
ゲームには、大量に生産される
工業製品という側面があるのは事実。提供する側にしたら、どんどん飽きてもらってどんどん新作を買ってもらわないと商売にならないわけです。しかし享受する側の中にはいつまでも同じ作品が好きでいてくれるひともいるわけで、その温度差みたいなものが変な空気を醸し出してる場面を、今でもときどきSNS上で見かけるのです。
参照記事:ゲーム界の祟り神「飽きる」という感情をめぐる雑考
たとえば
ゲーム保存問題なんかもそう。とあるアーケードゲームメーカーに「なぜ貴重な昔のゲーム機を会社に保存しておかないんだ」というようなことを言ってくるひとがいて困ったという関係者のツイートを見かけたことがあります。これはどちらが良いとか悪いとかの話じゃなくて、ビジネス的な観点で見てるのかどうかの違いだったんです。
周年を祝う件にしても、我々ユーザーが勝手にやってる分にはべつにいいと思うのですよ。なぜならゲーム体験だけは間違いなく我々のものだから。逆に言うと「体験のないお祝い」に
大した意味はないのです。挨拶みたいなもんでしょう。それが悪いとはまったく思いません。しかしながら、提供する側と享受する側には温度差が存在するってことは弁えておくべきだなあと今回の件で感じました。
これからも、愛する作品を生み出してくれたクリエイターさんへの敬意を忘れずに、心からの祝福と、感謝と、
節度ある愛をぶちまけて行きたいと、改めて思った次第です。
| | と言いつつ、周年ネタほとんどやったことない(笑) |
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