【モバマス】佐々木千枝を生贄に捧げる
神と言っても、由緒があるとか、ご利益があるとか、そういうことではない。舞台には、そこでしか観ることのできない、人知を超越した特別な何かがある、ということ。
だから、テレビやネットでいくらでもお芝居を観ることができる時代であっても、人々は生の舞台を求める。演劇に、ライブに、儀式に。
舞台の神には、そうそう会えるものではない。何もかもを捧げないと会うことはできない。
私も、会えるとは思っていなかった。
佐々木千枝というアイドルに出会うまでは。
「あの……プロデューサーさんに、伝えておきたいことがあって」
私が担当しているアイドル、佐々木千枝は、電話の向こうでそう言った。
声にはやや緊張を帯びているようだった。あとの言葉がすぐに続いてこない。
珍しい、と私は思う。
「どうしたの?」
「その……」千枝は電話の向こうで口ごもる。「この前、二十歳の誕生日の前後のお仕事を少なくしてください、ってお願いしたと思うんですけど……」
「ああ、どこかうまいくいかないところがあった?」
千枝の成人の誕生日である六月七日の前後は、一生に一度の成人の祝いの予定を入れやすいように、前々からスケジュールを調整してある。
「そうじゃなくて、予定の……ご連絡で」
「わかった、ちょっと待ってね」
私はデスクの手帳を取る。千枝のプライベートの予定は報告してもらっている。今や押しも押されもせぬトップアイドルである彼女も、普段はひとりの女の子だ。いくら同性とはいえ、プライベートまですべてプロデューサーである私に筒抜けというのはあまり気分が良くないだろう。けれど、何かあったときにすぐにフォローに回るためにはやむを得ない。
「大丈夫。いつ?」
「ええと……まだ、日程はこれからなんですけど、その……相手が」
千枝はそこでまたすこし詰まった。それから、小さな声で一人の男性の名前を挙げた。
私もよく知っている人物で、千枝の元プロデューサー。千枝が以前に所属、活動していたユニット『ブルーナポレオン』を担当していた男の名前だった。
いろいろあって、今は社を離れている人物である。
千枝はずっと、その元プロデューサーに想いを寄せていた。
「……二人で会うつもり?」
「はい」
千枝の声は落ち着いていた。静かだけれど、確かな意思が感じられる。
「……そう」
前に千枝から一度聴かせてもらったことがあった。
千枝は元プロデューサーのことが、最初に憧れてから今もずっと好きだということ。
けれど、元プロデューサーは、同じ「ブルーナポレオン」のメンバーだった、荒木比奈と結ばれるであろうということ。
それでも、千枝自身が先に進むために、たとえ成就しなくても、元プロデューサーに想いを伝えたいと願っていること。
私は手帳に視線を落とし、空いているほうの手でページをめくる。
目を細めた。鼓動がほんのすこし、早くなる。
ついに、この日が来たと思った。
同時に、来てしまった、と思った。
「彼に、伝えるの? 千枝の気持ちを」
「はい」千枝の声は凛としていたけれど、すこしだけ震えている。「桃華ちゃんに協力してもらって、人に見られたり、怪しまれたりしないようにします」
「……芸能人として一番いい時期だから、心配は心配よ」
これは本当の気持ちだ。
「正直に言って、本当は止めたい」
これは半分が本当で、半分は嘘。
「でも……私も、千枝がずっと抱いてる想いは知ってる」
これは本当。だけど、意味は逆。
できるだけ、冷静な声になるよう努めた。真意を隠すために。
「だから、マスコミに抜かれるようなことだけは避けて。できる限り協力するから」
そう。協力する。それがプロデュースになるから。
そのために、私は千枝が、何年も何年も胸の中で暖めていた想いを、利用しようと思っていた。
「うん、ありがとう……それじゃあ」
千枝は、そう言って電話を切った。
電話を置いて、深く、深く溜息をついた。
手帳を見る。佐々木千枝には、七月後半から舞台の仕事が入っている。
同じ美城プロダクションのアイドル、龍崎薫とダブルキャストで主演女優を務める舞台だった。
大きな仕事だ。おそらく、この舞台は、女優としての佐々木千枝の今後を占う。
私はその舞台で、佐々木千枝をいけにえに捧げようと思っている。
「……だから、私は……あなたと……」
自室で台本を通読して頭に入れながら、私の担当する役のセリフを読み込んでいく。
一時間ほどそれを続けて、私は台本を閉じて、ひとつ息をついた。
台本の表紙を見る。頭の中にプロデューサーさんの顔が浮かんだ。
プロデューサーさんが取ってきてくれた、大きなお仕事。私の成人後初めての、舞台のお仕事だった。
「あのときのプロデューサーさん、嬉しそうだったな」
私は思い出して、思わず顔がほころんだ。
「千枝! すごい仕事が取れたの!」
プロデューサーさんは目をキラキラさせて、私にそう教えてくれた。
私の今のプロデューサーさんは、どちらかといえば落ち着いている印象で、いつもスマートに仕事をしている大人の女の人、というイメージだった。
プロデューサーになる前は、女優を目指していたと聞いたことがある。だけど、あるとき限界を感じて、それからは未来の女優を育てることに専念している。今の夢は、トップ女優を自分の手でプロデュースすることらしい。
だから、その日のプロデューサーさんは、なんだか夢見る少女みたいで、私は驚いたし、ほほえましかった。
「舞台なんだけどね、監督も脚本もすっごいんだから、ほら!」
企画書を見せてくれる。
「この舞台を成功させたら、千枝はもっと高いところに行けるわ!」
プロデューサーさんは、そう言って熱っぽい目で私を見つめた。
その目を見て、私は素直に、がんばろうと思った。
きっと、プロデューサーさんの期待に応えようと。
誰かの夢のために頑張るのは、とても嬉しくて、素敵なことだと思うから。
「……ここ、難しいな……」
物語の終盤の盛り上がりのシーンに差し掛かって、私はううん、と唸った。
「……『どうして! どうしてお兄ちゃんを、奪ったの!』……ううん……」
ヒロインが悪役に対して憎悪をむき出しにするシーンだった。クライマックスに向かうために重要なセリフで、きちんと表現できるかどうかが舞台全体の評価にダイレクトにつながってしまう。
「……憎い、憎しみ……」
私は心の引き出しをひとつずつ開けてみる。
演じるのにはいろんなやり方があるけれど、普段抱くことのないような気持ちは演じるのが難しい。
その場面を想像して。その登場人物が乗り移ったつもりで。気持ちを高めてみる。
けれど、なったことのない気持ちになるのは、これ以上なく難しい。
「……許せないっていうくらい憎く感じることなんて、これまでなかったなぁ……」
それは、とても人に恵まれた、幸せな人生だからこそとわかってはいるけれど。
私は台本をベッドに置いて、ひと息つくことにした。
「薫ちゃんは、どんな風に演じるんだろう? 聞いてみようかな」
言いながら、携帯電話を操作する……けれど、その手はSNSではなくて、スケジュールアプリを開いていた。
無理を言って約束を取り付けた、憧れの元プロデューサーさんとの二人きりのお誕生会まで、あと一カ月と半分くらい。
「……楽しみだなぁ。えへへ」
口元が緩んじゃう。憧れの人と会えるのは、すごく楽しみ。
でも、その反対側ではやっぱりどこか、怖いような気持ちもあって。
きっと、あの人は私が気持ちを伝えても、私を受け入れてはくれないだろう。それも何度も何度も頭の中で覚悟をしたつもりだった。
それなのに、頭のどこかには、ほんの少しだけ、もしも私を選んでもらえたら、という期待の気持ちが残ってる。
きっと、それが想うっていうことなんだろうけど。
私は胸の中の複雑な気持ちを愛おしく思いながら、スケジュールアプリを閉じて、薫ちゃんへの相談のメッセージを綴り始めた。
「佐々木千枝のプロデュースを私にやらせてください」
ブルーナポレオンの活動終了後、部長に深く頭を下げてまでした私の希望は、難なく通った。
以前にたまたま、千枝が受けた女優としての仕事を観る機会があった。そこに光るものを感じた私は、ずっと彼女をプロデュースしてみたいと思っていた。
彼女となら、もしかしたら舞台の神に会えるかもしれない。そう思っていた。
千枝のプロデューサーとなった私は、千枝に積極的に女優としての仕事を振っていった。舞台、ドラマ、映画。女優としての千枝はぐんぐん力をつけ、一方で私は人間としての千枝にどんどん惹かれていった。
私は千枝のプロデューサーであり、同時に友人であり、姉でもあった。私生活でも積極的に関わり、千枝がずっと抱いている元プロデューサーへの恋心すら打ち明けてもらえるようになった。
だから、佐々木千枝という人物を舞台のいけにえに捧げるのは、心苦しいと思うようにもなった。
けれど、舞台の神様に出会うことを目指さなかったら、自分自身がどうしてプロデューサーという道を選んだのか、その前提すら崩れてしまうから。
苦しいけれど、私はそれをやり遂げなくてはならなかった。
「……うん、素敵よ、千枝」
「えへへ……ありがとう、プロデューサーさん」
千枝はそう言って、その場でくるっと回ってみせた。
過去に同じユニット『ブルーナポレオン』で活動していた松本紗理奈がコーディネートを手掛けた、千枝の勝負服。
美城プロダクションのアイドル、櫻井桃華の邸宅の客間のひとつ。私は千枝とともに、彼女の想い人である元プロデューサーの到着までの時間を過ごしていた。
千枝は元プロデューサーに、成人の祝いとして二人きりのパーティーを要求した。元プロデューサーとはいえ今は一般人である彼は、その要求を一度は断った。一般人とトップアイドルの会合なんて、マスコミが放ってはおかない。彼の判断は常識的だ。
けれど、そこは千枝が一枚上手だった。友人の桃華に頼み、お互いが別々に櫻井邸を訪れ、櫻井邸の中で二人きりになる。この案には元プロデューサーも折れざるを得なかった。
「あの人も、大人になった私を見て驚いてくれるかな?」
そう言って千枝は少女みたいにはにかんだ。
肩を大胆に出した大人びたドレス姿で、佐々木千枝という美女にそんなあどけない表情をされれば、同性でもたまらなく心がかき乱される。
「千枝さん、到着されたようですわ。お食事のお部屋へお通しします。すぐ隣ですわ」
櫻井桃華が部屋に入ってくる。千枝には微笑みを。私には鋭い視線を、千枝にはわからないようにほんの一瞬だけ向けた。
「うん、ありがとう……ああ、緊張……するなぁ……」
「あら、今の千枝さんならきっと、お会いになる殿方のほうが何倍も緊張しますわ」
そう言って桃華は微笑み、千枝の背中をそっと押した。
「じゃあ……行ってくるね、プロデューサーさん」
「ええ」私は笑顔で千枝を見送った。「しっかりね」
千枝はそう言って、部屋を出ていった。
出がけに、桃華はもう一度、私を強い目で睨みつけた。
千枝と千枝の元プロデューサーは、ひとつ隣の部屋で誕生会をしている。壁の向こうの音は洩れ聞こえてはこない。
誕生会のあと、きっと、千枝の想いは、予定通りの儚い終わりを迎える。
千枝はどんな表情をして、それを迎えるだろうか。考えただけで、胸が痛んだ。
やがて、隣の部屋の扉が開く音がした。
私も部屋から出る。
廊下には、千枝の元プロデューサーがいた。
玄関へ向かう彼を私は追いかけ、横に並ぶ。
「……ちゃんと、言った通りにしてくれた?」
私の問いに、彼は平坦な声で返事を返した。
「言われなくても、千枝の想いは、断るつもりだったから」
「そう。ごめんなさい。あなたには荒木さんがいるものね。……でも万が一っていうこともあるから」
その可能性を疑わずにいられないくらい、千枝は本当に魅力的に成長している。
「なあ」彼は立ちどまり、真剣な眼でこちらを見る。「どういうつもりなんだよ。急に連絡してきたと思ったら『今度のパーティーでは千枝の想いを断れ』ってのは。この立場で言うことじゃないかもしれないけど……千枝の個人的な想いに介入するなんて、していい事じゃないだろ」
彼の目にはわずかな怒りも見て取れた。
千枝が元プロデューサーに想いを伝えると教えてくれたあと、私がしたことは、彼に千枝を確実に振ってくれるよう依頼することだった。
彼が怒るのも無理はない。非常識な依頼だ。
「……私には、私のプロデュースのやり方がある」
私はそう言って、真剣な眼で彼を見つめ返した。
そうして、にらみ合ったまま、数秒。
彼はふっと息をついて、視線を外した。
「……元プロデューサーに過ぎない社外の人間がどうこう言うことじゃあない。思うことはあるけど、今はそれを言える立場じゃない。……帰るよ」
「ええ」
私は彼を見送る。彼はこちらを振り向かずに櫻井邸を後にした。
私はそのまま、小走りに廊下を戻った。
戻った先の廊下には櫻井桃華が立っていた。桃華は明らかな敵意をこちらに向けている。
「……わたくしは、あなたの考えには賛同できませんわ」
櫻井桃華にも、私が何をしたのかは話をしてある。
「してもらおうとは、思っていない。でも……だから」私は頭を下げる。「櫻井さんには、千枝の支えになってあげて欲しい」
「言われなくても」桃華は自分の胸に手を当てた。「千枝さんは、わたくしの親友ですから」
そう言って、桃華は傷心の千枝がいるであろう部屋へと入っていった。
私は自分の胸を掴む。
それから息を吐いた。
心臓の鼓動の速さはいつもと同じなのに、いつもより重く、暗く、痛かった。
でも、止まるわけにはいかなかった。
佐々木千枝を、舞台の神のいけにえとして捧げるまでは。
――千枝、ごめんな――
ほんの少し前に聞いたあの人の声が頭の中で何度も繰り返される。
覚悟はできていた。できていたはずだった。どんなことがあっても受け入れるつもりだった。それでもやっぱり心はかき乱されていて、私の目にはふいに涙があふれた。
「……千枝さん?」
桃華ちゃんの心配するような声。
結局、その日の私は櫻井邸に泊めてもらうことになった。コドモの頃みたいに、天蓋付きのベッドで二人で一緒に眠ろうと、桃華ちゃんは提案してくれた。
その気遣いに、私は心から感謝した。
「……うん」私の声は少し震えた。「だいじょうぶだよ」
全然大丈夫じゃない声になっちゃったなぁ、と私は思う。桃華ちゃんは何も言わず、黙ってブランケットの中で私の手を握ってくれた。
一人にならなくてよかったと私は思った。もし部屋に一人で居たら、きっと泣き腫らした目になっちゃって、次の日のお仕事に差し支えただろうと思うから。
長い長いあいだ育てて大きくなっていた想いなだけあって、すぐには振り切れそうにない。
――私はまだ、恋をしていた。
それからしばらく経って、私の心の傷も癒えかけたころ、今のプロデューサーさんの取ってきてくれた舞台のお仕事は、ついに本番を迎えることになった。
初日の公演は私から。公演前日の今日は、劇場近くのホテルに泊まることになっている。
最後の稽古も順調に終わり、あとはしっかりと身体を休めて明日を迎えるだけ。
ゆっくり長い時間をかけてお風呂にで体を温めてから部屋に戻ると、携帯電話がメールの着信を知らせていた。
髪に巻いたタオルを片手で押さえながら、もう片方の手で携帯電話を取り、受信メール画面を開く。プロデューサーさんからのメールが届いていた。
明日の朝、劇場に向かう前に私の部屋に来てくれるらしい。時間を確認して、私は了解の返事を返す。
「プロデューサーさん、よろこんでくれるといいな」
私は携帯電話の画面を見つめて、つぶやく。
プロデューサーさんが、お仕事が取れたことをあんなに嬉しそうにしていた舞台だったからこそ、厳しいお稽古もここまで頑張ってこれた。
元プロデューサーさんも誘おうか迷ったけれど、結局決心がつかなかった。比奈さんと一緒に、と誘ったのではなんだか変な感じになってしまうし、一人で来られるのも、二人で来られるのもなんだか心が乱れてしまいそうな気がする。
オトナって、難しい。
それでも私は、笑顔を作る。作れるくらいには、飲みこめるようになった。
「よし、がんばろう!」
私はそう言って、ドライヤーをかけるため、洗面台へと向かった。
千枝の舞台、初日の朝。私はホテルの廊下を千枝の部屋へと歩く。
胸と腹の間に確実に感じているストレス。胃が鉛みたいにずっしりと重い。
それでも。私はなお歩幅を大きくして、千枝の部屋へと向かう。
ふぅぅ、と低く息をついてから、千枝の部屋の扉をノックした。間があって、ドアスコープの光が消えたあと、チェーンロックの外れる音がして扉が開く。
「おはようございます」
「おはよう」
笑顔を交わす。
部屋の中へと入り、全体を一瞥する。特に乱れたところは見られない。千枝の表情からしても落ち着いているようだ。
「体調はどう?」
「普段と同じくらいには眠れました。プロデューサーさん、コーヒー飲みますか?」
「いいえ」私は首を振る。「本番前でしょう、私には気を使わなくていいから」
「はい、わかりました」
千枝はそう言ってベッドに腰かける。
大丈夫そうだ、と私は思った。
もしも大丈夫じゃなさそうだったら。私はこれからしようと思っていることを中止したかもしれない。
すべては振れ幅だ。感情も、体調も、演技も。過ぎたるは及ばざるがごとし。やりすぎてはいけない。
でも、最大の成果を取るためには、やりすぎない最大のリスクを取らなくてはならない。
「千枝」私は部屋の入口に立ったままで、千枝に話しかける。「聞いてほしいことがあるの」
千枝は私を見て一瞬不思議そうな顔をしてから、私の表情を読み取ったのか、真面目な顔で私を見つめた。
「……落ち着いて聴いてね」
発した私の言葉は、そのまま私に言い聞かせるためのものだ。
ここで落ち着かなくては意味がない。このくらいの演技ができなくては、元女優志望としても、千枝のプロデューサーとしても面目が立たない。
「……この前の、あなたの、プロデューサー……元プロデューサーとのこと、なんだけれど」
千枝の肩が呼吸と一緒に少し上がった。
「私が、彼に言ったの。千枝の想いは、断ってほしい、って」
ポイントオブノーリターン。
私は千枝から目線を切らない。
芸能人として一番大切な時期を守りたかったから。
プロデューサーとアイドルが恋愛なんて許されないから。
言葉はいくつか用意している。でも、それを言う必要が生まれるかどうか。
沈黙が流れた。時間にして十秒くらいか。実際はもっと短かったのかもしれない。
千枝は声の一つも発さないで、二、三度呼吸で肩を上下させて、それから両の手でゆっくりと自分の顔を覆う。私も呼吸を一度。千枝は深く一呼吸して、それから消え入るような声を漏らした。
「……でていってください」
言い終わりにそのままふーっと長い息を吐いている。私がその場に止まっていると、千枝はもう一度同じことを言った。
「でて」千枝の声には音はなく、ほとんど息だけだった。「いって」
千枝の顔を覆う両の手の指の間から、千枝の目がこちらを見ていた。私を睨みつけていた。
はっきりとした憎悪を持って。
私はその千枝の目を見つめたまま、にらみ合ったまま、ゆっくりと後ずさり、部屋から出た。
静かに扉を閉める。ホテルの部屋の扉、オートロックが私と千枝の間を決定的に隔てた。
頭を垂れる。深く息をついた。
すべきことをした。私は自分の部屋へと足早に廊下を歩く。
部屋に入る。着ていた服を、下着を除いて全て乱暴に脱ぎ捨てる。ジーンズを履く。サイズの大きいトレーナを着る。ウィッグを被り、サングラスをかけ、マスクをつける。キャスケットを深めに被る。手帳のチケットホルダーから、自分で手配したチケットを取り出す。関係者用の招待席ではない、劇場の後ろ側、一般席のもの。
準備は整った。観に行こう。神をその場所に降ろす、生贄の儀式を。
数年、切望したその瞬間のための準備は、今ここに実を結ぶ。
私はぼろぼろ涙を流していた。その理由が、これから立ち会う瞬間を望んでなのか、拒んでなのか、私自身にも判らなかった。
「本日は、ご来場いただき誠にありがとうございます。開演に先立ち……」
鷺沢文香の声でナレーションが再生される。あらかじめ録音されたものだ。客席の照明がゆっくりと消えて、舞台の幕が上がる。
舞台の上には、衣装をまとった千枝がしっかりと立っていた。
「よかった」
私は口の中でつぶやいていた。
千枝の表情は凛としていて、およそ、さっきの私の言葉のダメージを引きずっているようには見えない。
そうして、物語は動き始めた。
問題のない、文句のない演技だった。
千枝は喜びを、悲しみを、動きと台詞に乗せて丁寧に表現していく。立派な女優の姿だった。
穏やかな序盤、物語の転換となる事件を経て、舞台は中盤の山場をこえ、クライマックスへと近づいていく。
私の胸の鼓動はにわかに早くなっているようだった。
千枝が演じる舞台の脚本は全て頭に入っている。これから、千枝は、怒りと悲しみを表現する。
大切な兄を、理不尽に奪われた登場人物の感情を。
BGMが止まり、千枝が舞台上で一歩前に出る。
「ねえ、どうして?」
そこまでは、普段通りの女優、佐々木千枝の姿だった。
そこからだった。
まずは空気が冷えた。
空調が効いているからではない。千枝の纏う空気、雰囲気が舞台を観る人の体感温度を下げた。千枝の目はゆっくりと輝きを失っていき、瞳の奥に深い深い暗闇をのぞかせている。
「どうして……」
発した音は平坦なのに、ぶ厚い氷の板みたいな冷たい存在感を感じる。
私は身震いした。おそらくこの劇場でいま、千枝を見ている多くの観客もまた震えているだろう。
でも、まだここからだ。
千枝はそこから大きく三歩、事件の犯人である登場人物に向かって詰め寄る。
「どうして!」
千枝の声は一気に怒気を帯びる。
「私の大切な、ひとを!」
私は息を止めた。本来のセリフとはほんの少し異なっている。けれど。
「私から、奪ったの!?」
千枝の大声は、劇場の反響板に何度も反射して、私たち観客の耳を通して脳を揺さぶった。
私はその声を聞いたときに、涙は流していなかったけれど、多分泣いていたんだと思う。
時間が止まったようだった。
いや、佐々木千枝のすさまじい演技に、劇場全体の時は一瞬、止まっていた。客も、役者も、スタッフも、その瞬間は確かに千枝が支配していたのだ。
その一瞬で、私は脳内に麻薬物質があふれ出しているような陶酔感に浸ることができた。
これだった。
この瞬間が観たくて、舞台を志し、そして諦め、その夢を千枝に託した。
千枝が持っていなかった、激しい怒りの感情。
ないものを表現するのは難しい。穏やかに生きることが許されるこの国で、理不尽に対する強い怒り、相手を殺してしまいたいと思うほどの怒りを自分の内側に宿すことは難しい。
それで演技ができなくなるわけではない。殺人者を演じるとして、実際に人殺しの経験が必要になるわけではない。けれど、何を経験し、糧にしたかは、演じるうえでこれ以上なく大切なことだ。
千枝なら、私に対する怒りの感情を、きっとプラスに転じることができる。そう信じていた。
そして、千枝はそれを見事にやり遂げたのだ。
プロデューサーである私と、担当アイドルである佐々木千枝の関係性そのものをいけにえに、神を呼ぶ。
そうすれば、かならず佐々木千枝は、その神をも喰らって更なる高みに到達することができるだろう。
もうこれで、私は千枝に会うことは許されない。
でも、それで千枝が先に進めるなら、私はこうするしかなかったから。
それが、私にできる、佐々木千枝のプロデュースだった。
「……う、あ」
あまりの千枝の剣幕に、そのあとに続く、千枝より二回り年上の俳優が言葉を失う。
「……どうして?」
千枝はもう一度、セリフを重ねた。それで、劇場の時間はもう一度動き出した。
俳優がセリフを続ける。
私は自分が笑顔になるのを我慢できなかった。
千枝。
一番高いところまで、たどり着いて。
貴女なら絶対にできるから。
心優しいあなたに辛い思いをさせて、ごめんね。
ありがとう。
そして、千枝はその舞台を最後までやり通し、エンディングテーマをバックに、共演者とともに三方礼をしたあと、主演が挨拶をしている傍らで、気を失い舞台に倒れた。
――千枝の容態に異常はなかった。その後、千枝はダブルキャストの龍崎薫とともに千秋楽までの全公演を無事に演じ終えた。舞台評論家の間では、佐々木千枝の演技は概ね素晴らしかったが、特に初日の千枝の演技が非常に良かったという評価が多くみられ、初日の公演は、ちょっとした伝説のような扱いを受けた。
夢の中で私は、どこだかわからない、水に包まれているみたいなふわふわしたところにいた。
どうしてこんなところにいるんだっけ、と考えて、ああそうか、舞台の最後に倒れたんだ、と思い出す。
最後まで演じられてよかった。
たぶん、あんなふうにできるのは、一回だけ、私のこれからの生涯でもたぶん、この一回だけだと思うから。
それをちゃんと、プロデューサーさんは見に来てくれていた。
私に気づかれないように、きっと私に気を使わせないように変装してきたんだろうけど。
わかるよ。
何年も一緒にやってきたんだよ。
舞台からはお客さんの顔がみんなみんな見えるんだよ。遠くでも、二階席でも。
私はプロデューサーさんが変装した姿を思い出し、おかしくなって、ちょっと笑ったあと、自分の胸に手を置いてみた。
夢の中だからだろうけど、私の手はずぶずぶと自分の胸の中に沈んでいった。
私の胸の中には、たくさんの感情が、記憶が、渦巻いていた。
プロデューサーさんと話をしたいな、と私は思っていた。
ねえ、プロデューサーさん。
プロデューサーさんが、私をわざと怒らせたこと、すぐにわかりました。
私が舞台でちゃんと怒る演技ができるようにそうしてくれたこと、わかってたんです。
だから、私も絶対、それをちゃんと受け止めて、演技でお返ししなきゃって思いました。
大好きだった前のプロデューサーさんの気持ちに水を差されたことは、本当に悲しかったけれど、でも、プロデューサーさんはそれを、わたしのために、他の誰でもないプロデューサーさん自身が身体と心を張って、やってくれたんだよね。
私を、怒りの気持ちも知っている、オトナにしてくれるために。
だから、私もちゃんと、この気持ちを持ったまま、舞台にあがらなきゃって思ったんです。
「……そろそろ、起きなきゃ」
私は、夢の中で、自分に向かってつぶやいた。
目覚めなきゃいけない。
でも、目覚めたらきっと、私は……本当は失いたくなかった、大切な気持ちをひとつ、失ってしまうんだろう。
でも、目覚めなきゃいけない。
大切な人達に、会いに行かなきゃいけないから――
私は、目を開ける。
天井のライトの光が視界に飛び込むのと同時に、私の身体は誰かにぎゅっと締め付けられた。
「……薫ちゃん……?」
私は声から予想した名前を呟いた。私の視界の端で私を抱きしめて泣いているのは、やっぱり薫ちゃんだった。
「よかった、あのね、千枝ちゃんは舞台で倒れて、それで……」
「ごめんね、心配かけちゃった」
「ううん」薫ちゃんは顔をあげ、涙ぐんで私を見る。「私は、大丈夫だよ」
私は身体を起こす。楽屋のひとつに仮設のベッドを作って寝かされていたみたいだった。
「どのくらい、眠ってたんだろう」
「舞台が終わって二時間くらいだよ、お医者さんは心配ないって言ってたけど、本当にびっくりしたんだよ」
「そっか……薫ちゃん、ありがとう」
そういって私は薫ちゃんを抱きしめて、抱き締めながら、私の気持ちを探す。
「ああ……」
やっぱり、どこにも見つからなくなっている。
九年間抱き続けていた、私の大切な気持ち。
「千枝ちゃん?」
薫ちゃんの声には答えずに、私は薫ちゃんの肩に額を預けて、ほんのちょっと泣いた。
「……なくなっちゃった……」
声が震えている。
私が、小さなコドモだったときから、ずっとずっと心の中に持ち続けていたはずの気持ち、前のプロデューサーさんに恋をしていた気持ちは、柔らかく溶けて、私の心のどこかに散って行ってしまった。
後には、前のプロデューサーさんと比奈さんの幸せを願う気持ちだけが残っている。
「千枝ちゃん、何かなくしちゃったの? 舞台かな、探してこようか?」
薫ちゃんが尋ねてくれたけれど、私は首を横に振った。
「ううん。大丈夫」私は薫ちゃんに笑いかける。「もう、大丈夫なんだ」
薫ちゃんは不思議そうに私を見ていた。
「両手にいっぱい、大事なものがあるから、私は大丈夫」
家族も。
前のプロデューサーさんの優しさも。
ブルーナポレオンのみんなとの思い出も。
桃華ちゃんや薫ちゃん、ほかのプロダクションのアイドルのみんなとの絆も。
今のプロデューサーさんがくれた、大切な経験も。
抱えきれないくらい、私は持っているから。
だから、私は胸を張って、オトナになろう。
「……そうだ、ねえ、薫ちゃん、楽屋の外に、私を待ってくれている人、居るよね?」
「え?」薫ちゃんは目を丸くした。「うん、居るけど……千枝ちゃん、どうしてわかるの? 目が覚めてたの?」
「ううん、なんとなく」
言いながら、私は立ち上がろうとして――ふらつく。まだ、半分はあっちの側にいるみたいだった。
「まだ休んでた方がいいよ!」薫ちゃんが私を仮設ベッドに座らせてくれる。「プロデューサーさんだよね? 呼んでくるよ!」
「うん、私が呼んでるって、伝えて……」私はそれから、それだけじゃたりないと思って、言葉を足す。「会いたいって、伝えて」
「わかった!」
薫ちゃんは元気に部屋を飛び出していった。
それから数秒後、ノックの音が響いて、わたしは「はい」と返事を返す。
部屋の扉が開くと、私の大好きな、今のプロデューサーさんが顔をのぞかせた。
私が涙ぐみながら笑うと、プロデューサーさんもやっぱり涙ぐみながら笑って。
そして私たちは、お互いにかけ寄って、強く抱きしめ合った。
(終)
SS速報にアップしたバージョンはいくらかミスがありますので修正版をお望みの方は渋で当該タイトルを検索してくださいませ。
【モバマス】十年後もお互いに独身だったら結婚する約束の比奈と(元)P
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- 2018年03月14日 23:47
- 千枝を生贄にブルーアイズを召喚する流れじゃないの?
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