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三島由紀夫の美文・名文 : はれぞう
三島由紀夫の美文・名文
2018/5/21
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三島由紀夫の美文・名文
no title



1: はれぞう 2018/05/21(月) 14:44:03.108 ID:+OGttmkZa
いうまでもなく肉体ははかないもので、第一、今の世の中では、体だけでは一文にもならない。金になるのは何らかの形の知能です。
おまけに知能のほうは、年をとるにつれて累積されてゆくが、体のほうは、三十代から衰退の一路を辿りはじめる。
そうかといって、金にもなるしモチもいい知能だけを後生大事にしている男は、私には何だか卑しくみえる。
一回きりの人生なのですから、はかないものをもう少し大事にして、磨き立てたっていいではないか。
筋肉はよく目に見え、その隆々たる形はいかにも力強いが、それが人間の存在の中で一等はかないものを象徴しているというところに、私は人間の美しさを見ます。
肉体に比べると、人間の精神的産物や事業や技術は、はるかに長保ちがする。
しかし短い一生を、長保ちのするものだけに使う、というのは何だか卑しい感じがする。
肉体を軽蔑することは、現世を軽蔑することである。私はキリスト教の坊主というものが、そのために、卑しく醜くみえて仕方がない。
肉体を完全に包んだゾロリとしたあの黒い法衣は、男の着るものではなく、精神的宦官の着るものです。
キリストは痩せこけてはいても、まだ裸なだけマシというものだ。(中略)
フランス語の単語を五千知っているのと、胸囲が一米十センチあるのと、どっちが立派なことかというと、甲乙がつけにくいというのが私の考えだが、
世間はもちろん単語五千のほうへ軍配をあげます。世間の女房というものもそうだ。
「うちの主人も今度課長になりまして」とか、「宅も自動車を買ったものですから」とか、くだらない自慢ばかりしている。
「主人の胸囲は一米十センチございますのよ」とか、「主人の上膊は三十八センチですのよ」とか自慢しているのをきいたことがない。
こういうことは、女性の大きなまちがいで、男性は女性の好むところに従って行動しようとするものですから、
胸囲を十センチふやす手間を惜しんで、課長になったり、自動車を買ったりすることばかりに熱中する。
その結果女性は、一人の完全な男を失うのです。男の肉体ははかないものである。
一文にもならないし、社会的に無価値で、誰にもかえりみられず、孤独で、
……せいぜいボディ・ビルのコンテストへ出て、人に面白がられるぐらいのことしかできない。
現代社会では、筋肉というものは哀れな、道化たるものにすぎない。だからこそ、私は筋肉に精を出しているのであります。
「不道徳教育講座 肉体のはかなさ」より

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no title

1001: 以下、関連記事をお送りします 2018/05/19(土) 13:57:17.37 ID:harezou
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49: はれぞう 2018/05/21(月) 18:04:17.126 ID:cgFDbjCna
ある日私は風邪気味で学校を休まされたのをよいことに、父の外国土産の画集を幾冊か部屋へもちこんで丹念に眺めていた。(中略)
……するとその一角から、私のために、そこで私を待ちかまへていたとしか思われない一つの画像が現れた。
それはゼノアのパラッツォ・ロッソに所蔵されているグイド・レーニの「聖セバスチャン」であった。
チシアン風の憂鬱な森と夕空との仄暗い遠景を背に、やや傾いた黒い樹木の幹が彼の刑架だった。
非常に美しい青年が裸かでその幹に縛られていた。手は高く交叉させて、両の手首を縛めた縄が幹につづいていた。
その他に縄目は見えず、青年の裸体を覆ふものとては、腰のまはりにゆるやかに巻きつけられた白い粗布があるばかりだった。
それが殉教図であろうことは私にも察せられた。
しかしルネサンス末流の耽美的な折衷流の画家がえがいたこのセバスチャン殉教図は、むしろ異教の香りの高いものであった。
何故ならこのアンティノウスにも比(たぐ)ふべき肉体には、他の聖者たちに見るような布教の辛苦や老朽のあとはなくて、
ただ青春・ただ光・ただ美・ただ逸楽があるだけでだったからである。
その白い比ひない裸体は、薄暮の背景の前に置かれて輝いていた。身自ら親衛隊として弓を引き剣を揮ひ馴れた逞しい腕が、
さしたる無理もなくい角度でもたげられ、その髪のちょうど真上で、縛られた手首を交叉させていた。
顔はやや仰向きがちに、天の栄光をながめやる目が、深くやすらかにみひらかれていた。
張り出した胸にも、引き緊った腹部にも、やや身を撚(よぢ)った腰のあたりにも、漂っているのは苦痛ではなくて、
何か音楽のような物憂い逸楽のたゆたひだった。左の腋窩と右の脇腹に箆深(のぶか)く射された矢がなかったなら、
それはともすると羅馬の競技者が、薄暮の庭樹に凭(よ)って疲れを休めている姿かとも見えた。
矢は彼の引緊った・香り高い・青春の肉へと喰ひ入り、彼の肉体を、無上の苦痛と歓喜の焔で、内部から焼かうとしていた。
しかし流血はえがかれず、他のセバスチャン図のような無数の矢も描かれず、ただ二本の矢が、その物静かな端麗な影を、
あたかも石階に落ちている枝影のやうに、彼の大理石の肌の上へ落としていた。
何はさて、右のやうな判断と観察は、すべてあとからのものだった。
その絵を見た刹那、私の全存在は、或る異教的な歓喜に押しゆるがされた。
私の血液は奔騰し、私の器官は憤怒の色をたたへた。この巨大な・張り裂けるばかりになった私の一部は、
今までになく激しく私の行使を待って、私の無知をなじり、憤(いきどほ)ろしく息づいていた。
私の手はしらずしらず、誰にも教へられぬ動きをはじめた。
私の内部から暗い輝かしいものの足早に攻め昇って来る気配が感じられた。
と思ふ間に、それはめくるめく酩酊を伴って迸った。……
……やや時がすぎて、私は自分がむかっていた机の周囲を、傷ましい思ひで見まわした。
窓の楓は、明るい反映を、私のインキ壺や、教科書や、字引や、画集の写真版や、ノート・ブックの上にひろげていた。
白濁した飛沫が、その教科書の捺金の題字、インキ壺の肩、字引の一角などにあった。
それらのあるものはどんよりと物憂げに滴(したた)りかかり、あるものは死んだ魚類の目のように鈍く光っていた。
……幸い画集は、私の咄嗟の手の制止で、汚されることから免れた。
これが私の最初の ejaclatio(射精) であり、また、最初の不手際な・突発的な「悪習」だった。
「仮面の告白」より

50: はれぞう 2018/05/21(月) 18:12:35.368 ID:cgFDbjCna
子供はよもや鯉幟(こひのぼり)を、形やデザインの面白さといふふうには見まい。
小学校では五月の図画の時間に、よく鯉幟の絵を描かされるが、子供の描く鯉幟はいづれも概念的で、
青葉若葉に埋もれた家々の屋根高く、緋鯉と真鯉が、地面と平行に景気よく風をはらんでゐる姿である。
風がなくて、ダランとした鯉幟を描く子は、よほどの問題児であると考へてよいが、
どの子も、実際は、風がなくて垂れた鯉幟を見てゐるのに、絵に描くとさうは描かない。
ある意味では、垂れた鯉はリアリズムなのであるが、子供は、物事を典型的な、あるべき姿でしかとらへようとしないのである。
それに、垂れた鯉は本当の魚ではなくて、ただの布のオモチャだといふことを、あからさまに証明してゐる。
しかし風をはらんだ鯉は、ウソと本当、象徴と現実とを兼ねて、遊泳してゐるのである。
大胆で誇張された鯉幟のデザインは、遠目で見られることを計算してゐる点で、あくまで機能的である。
歌舞伎の小道具に見られるやうな、強い、なまなましい、野蛮な配色が、鯉の活力を表現してゐる。
殊に真鯉は、五月の青空を背景にして、その黒い鱗の土俗的な新鮮さが、官能的でさへある。
日本の五月の空がこんなに明るく、日本の五月の風がこんなに光りに充ちてゐなかつたら、
もちろんこんな配色やデザインは生れなかつたであらう。(中略)
インドには、ヒンズー教の一つのあらはれとして、サクティ(エネルギーの意)崇拝といふのがあつて、
エネルギーは本来女性に属するものと考へられ、その神像は大地母神カリやドゥルガである。
日本の鯉幟に象徴されてゐるエネルギーはあくまで男性の活力であつて、武士階級の思想をあはらしてゐる。
農耕民族の神話時代の日本人は、天照大神をすべてのエネルギーの源泉と考へたのであるが、武士社会の男性中心主義が、
男性的活力を、ほがらかな明るい五月の空に、尚武の象徴としてひるがへしたのは当然である。
今のやうな女性の強力な時代には、そして日本男児がこれほど衰微した時代には、鯉幟なんか廃棄されてもよささうなものであるが、
これに代る女性的活力の象徴としては、まさか、パンティーをひるがへすわけには行くまい。
「こひのぼり」より

51: はれぞう 2018/05/21(月) 18:18:15.292 ID:cgFDbjCna
他人に場ちがひの感を起させるほどたのしげな、内輪のたのしみといふのはいいものだ。
たとへば、祭りのミコシをかついだあとで、かついだ連中だけで集まつてのむ酒のやうなものだ。
われわれに本当に興味のある話題といふものは他人にとつてはまるで興味のないことが多い。
他人に通じない話ほど、心をあたたかく、席をなごやかにするものはない。
「内輪のたのしみ」より

52: はれぞう 2018/05/21(月) 18:31:24.907 ID:cgFDbjCna
よく人の家へ呼ばれて、家族の成長のアルバムなんかを見せられることがある。ところがこんなに退屈なもてなしはない。
人の家族の成長なんか面白くもなんともないからである。写真といふものには、へんな魔力がある。みんなこれにだまされてゐるのである。
ある家族が、自分の家族の成長の歴史を写真で見れば、なるほど血湧き肉をどる面白さにちがひない。
しかもそれが写真といふ物質だから、物質である以上、坐り心地のよい椅子が誰にも坐り心地よく、美しいガラス器が誰が見ても美しいやうに、
面白い写真といふものは、誰が見ても面白からうといふ錯覚・誤解が生じる。そこでアルバムを人に見せることになるのであらう。(中略)
大部分の写真は、不完全な主観の再現の手がかりにすぎない。それは山を映しても、ふるさとの懐しい山といふものは映してくれない。
ただ「ふるさとの懐しい山」を想ひ起す手がかりを提供してくれるにすぎない。
「ふるさとの懐しい山」といふものは、あくまでこちらの心の中にあるので、
その点では、われわれ文士の用ひる言葉といふやつのはうが、よほど正確な再現を可能にする。
いちばんいい例が赤ん坊の写真である。
他人の赤ん坊ほどグロテスクなものはなく、自分の赤ん坊ほど可愛いものはない。そして世間の親がみんなさう思つてゐるのだから世話はない。
公園で乳母車を押した母親同士が出会つて、「まあ、可愛い赤ちゃん」「まあ、お宅さまこそ。何て可愛らしいんでせう」などとお世辞を言ひ合ふが、
どちらも肚の中では、『なんてみつともない赤ん坊でせう。まるでカッパだわ。それに比べると、うちの赤ん坊の可愛らしいこと!…(中略)』さう思つてゐる。
カメラはこの「可愛い赤ん坊」を写すのである。
実は、本当のことをいふと、カメラの写してゐるのは、みつともないカッパみたいな未成熟の人間像にすぎないが、
写真は、言葉も及ばないほど、「可愛い赤ん坊」の手がかりを提供する。(中略)
かへすがへすも注意すべきことは、自分の赤ん坊の写真なんか、決して人に見せるものではない、といふことである。
「社会料理三島亭 携帯用食品『カメラの効用』」より

53: はれぞう 2018/05/21(月) 19:00:24.991 ID:cgFDbjCna
私はこの世に生をうけてより、只の一度も赤い羽根を買つたことがない。
そのシーズンの盛期に、大都会で、赤い羽根をつけないで暮すといふ絶大のスリルが忘れられないからだ。
赤い羽根をつけないで歩いてごらんなさい。
いたるところの街角で、諸君は、何ものかにつけ狙われてゐる不気味な眼差を感じ、交番の前をよけて通るおたづね者の心境にひたることができる。
自分は狙われてゐるのだといふ、こそばゆい、誇らしい気持に陶然とすることができる。もし赤い羽根をつけて歩いてごらんなさい。
誰もふりむいてもくれやしないから。冗談はさておき、私は強制された慈善といふものがきらひなのである。(中略)
駅の切符売場の前に女学生のセイラー服の垣根が出来てゐて、カミつくやうな、もつとも快適ならざるコーラスが、
「おねがひいたします。おねがひいたします」と連呼する。
私がその前を素通りすると、きこえよがしに、「あの人、ケチね」などといふ。
「アラ、心臓ね」「図々しいわね」と言はれたこともある。
これは尤も、通るときの私の態度も悪いので、なるべく悪びれずに堂々とその前をとほるのが、よほど鉄面皮に見えるらしい。
しかし、ただ胸を張つてその前を通るだけのことで、鉄面皮に見えるなら、それだけのことができない人は、
単なる弱気から、あるひは恥かしさから、醵金箱(きよきんばこ)に十円玉を投じてゐるものと思はれる。
一体、弱気や恥かしさからの慈善行為といふものがあるものだらうか?
それなら、人に弱気や羞恥心を起させることを、この運動が目的にしてゐると云はれても、仕方がないぢやないか?
大体、弱気や恥かしさで、醵金箱にお金を入れる人種といふものは、善良なる市民である。
電車で通勤する人たちがその大半であつて、安サラリーの上に重税で苦しめられてゐる人たちである。
さういふ人たちの善良なやさしい魂を脅迫して、お金をとつて、赤い羽根をおしつける、といふやり方は、どこかまちがつてゐる。

54: はれぞう 2018/05/21(月) 19:02:50.610 ID:cgFDbjCna
もつと弱気でない、もつと羞恥心の欠如した連中ほど、お金を持つてゐるに決つてゐるのだから、
おんなじ脅迫するなら、そつちからいただく方法を講じたらどうだらう。
大体、私のやうに、赤い羽根諸嬢の前を素通りすることで鉄面皮ぶつてゐる男などは甘いもので、もつと本当の鉄面皮は、
ひよこひよこそんなところを歩いてゐるひまなんぞなく、車からビルへ、ビルから車へと、ひたすら金儲けにいそがしいにちがひない。(中略)
本来なら、慈善事業とは、罪ほろぼしのお金で運営すべきものである。
さんざん市民の膏血をしぼつて大儲けをした実業家が、あんまり儲かつておそろしくなり、まさか夜中に貧乏人の家を一軒一軒たづねて、
玄関口へコッソリお金を置いて逃げるのも大変だから、一括して、せめて今度は罪ほろぼしに、困つてゐる人を助けようといふ気で金を出す。
これが慈善といふものだ。ところが日本の金持は、政治家にあげるお金はいくらでもあるのに、
社会事業や育英事業に出す金は一文もないといふ顔をしてゐる。
ちつとも世間に迷惑をかけず、自分の労働で几帳面に仕入れたお金なんかは、世間へ返す必要は全然ないのである。
無意味な税金を沢山とられてゐる上に、たとへ十円でも、世間へ捨てる金があるべきではない。
その上、赤い羽根なんかもらつて、良心を休める必要もないので、そんな羽根をもらはなくても、
ちやんと働らいてちやんと獲得した金は、十分自分のたのしみに使つて、それで良心が休まつてゐる筈である。
さんざんアクドイことをして儲けた金こそ、不浄な金であるから、世間へ返さなければ、バチが当るといふものである。(中略)
社会保障は、憲法上、国家の責務であつて、国が全責任を負ふべきであり、次にこれを補つて、大金持が金をふんだんに醵出すべきであり、
あくまでこれが本筋である。しかし一筋縄では行かないのが世間で、(中略)
助けられる立場にゐながら、人を助けたい人もある。
赤い羽根も無用の強制をやめて、さういふ人たちを対象に、静かに上品にやつたらいいと思ふ。
「社会料理三島亭 鳥料理『赤い羽根』」より

55: はれぞう 2018/05/21(月) 19:09:07.849 ID:cgFDbjCna
この叫び(剣道のかけ声)には近代日本が自ら恥ぢ、必死に押し隠さうとしてゐるものが、あけすけに露呈されてゐる。
それはもつとも暗い記憶と結びつき、流された鮮血と結びつき、日本の過去のもつとも正直な記憶に源してゐる。
それは皮相な近代化の底にもひそんで流れてゐるところの、民族の深層意識の叫びである。
このやうな怪物的日本は、鎖につながれ、久しく餌を与へられず、衰へ呻吟してゐるが、
今なほ剣道の道場においてだけ、われわれの口を借りて叫ぶのである。それが彼の唯一の解放の機会なのだ。
私は今ではこの叫びを切に愛する。このやうな叫びに目をつぶつた日本の近代思想は、すべて浅薄なものだといふ感じがする。
それが私の口から出、人の口から出るのをきくとき、私は渋谷警察署の古ぼけた道場の窓から、空を横切る新しい高速道路を仰ぎ見ながら、
あちらには「現象」が飛びすぎ、こちらには「本質」が叫んでゐる、といふ喜び、
……その叫びと一体化することのもつとも危険な喜びを感じずにゐられない。
そしてこれこそ、人々がなほ「剣道」といふ名をきくときに、
胡散くさい目を向けるところの、あの悪名高い「精神主義」の風味なのだ。
私もこれから先も、剣道が、柔道みたいに愛想のよい国際的スポーツにならず、あくまでその反時代性を失はないことを望む。(中略)
スポーツは行ふことにつきる。身を起し、動き、汗をかき、力をつくすことにつきる。
そのあとのシャワーの快さについて、かつてマンボ族が流行してゐたころ、
「このシャワーの味はマンボ族も知らねえだろ」と誇らしげに言つてゐた拳闘選手の言葉を私は思ひ出す。
この誇りは正当なもので、何の思想的な臭味もない。運動のあとのシャワーの味には、人生で一等必要なものが含まれてゐる。
どんな権力を握つても、どんな放蕩を重ねても、このシャワーの味を知らない人は、人間の生きるよろこびを本当に知つたとはいへないであらう。
「実感的スポーツ論」より

56: はれぞう 2018/05/21(月) 19:14:19.164 ID:cgFDbjCna
エレキは有害で、青少年に対して危険であり、ベートーヴェンは有益で、何ら危険がないのみか
人間性を高めるといふ考へは、近代的な文化主義の影響を受けた考へであつて、
ベートーヴェンのベの字もわからない俗物でも、かういふ議論は鵜呑みにするし、
現代の政府の文化政策もこの線を基本的に離れえないことは明白である。
しかし毒であり危険なのは音楽自体であつて、高尚なものほど毒も危険度も高いといふ考へは、
ほとんど理解されなくなつてゐる。政治と芸術の真の対立状況は実はそこにしかないのである。
してみると日本には、真の危険な芸術家は一人もゐないといふことになり、政府も
そんなに心配する必要はなし、万事めでたしめでたし。
「危険な芸術家」より

57: はれぞう 2018/05/21(月) 19:17:39.126 ID:cgFDbjCna
この間伊豆の田舎の漁村へ取材に行つてゐて、その村のたつた一軒の宿に泊り、夕食に出された新鮮な魚が、
ほつぺたが落ちるほど美味しかつたが、一晩泊つてみてびつくりした。別に化物が出たといふ話ではない。
ここは昔ながらの旅籠屋で、襖一枚で隣室に接してゐるわけであるが、前の晩の寝不足を取り戻さうと思つて、
九時ごろ床についたのがいけなかつた。(中略)
又眠らうと寝返りを打つたとたん、隣りの部屋へドヤドヤと人が入つて来て、酒宴がはじまつた。
と、それにまじつてトランジスター・ラヂオの大音声の流行歌がはじまつたが、
ラヂオをかけながらの酒宴といふのもへんなものだと思ふうちに、それがもう一つ向うの部屋のものだとわかつた。
更に別の部屋からは、火のつくやうな赤ん坊の泣き声。
……夜十時といふころ、宿全体が鷄小屋をつつついたやうな騒ぎになつてしまつた。
やつと静まつたのが十二時すぎだつたが、それがピタリと静まるといふのではない。
しばらく音がしないで、寝静まつたかなと思ふと、連中は風呂へ行つてゐたので、風呂からかへると、又寝る前に一トさわぎがある。
西瓜の話ばかりなので、商売は何の人だらうと思つたらあとできいたら果して西瓜商人であつた。
一時すぎにやつと眠りについて、朝五時をまはつたころ、村中にひびきわたるラウド・スピーカアの一声に眠りを破られた。
「第八〇〇丸の乗組員の皆様、朝食の仕度ができましたから、船までとりに来て下さい」
それから間もなく静かになつて、又眠りに落ちこむと、今度はラヂオ体操がスピーカアから村中に放たれた。

58: はれぞう 2018/05/21(月) 19:19:09.894 ID:cgFDbjCna
──かうして一日たち二日たつた。最初の一夜は、「これは大変だ」と思つたのに、馴れといふものは怖ろしいものである。
二日目にはもう隣室の話し声は気にならず、トラックやバスの響きに眠りを破られることがなくなつた。
三日目になると完全にコツをおぼえ、宿中全員が寝静まらぬうちは眠らぬことにきめ、女中を呼ぶにも大音声を張りあげ、
食事がおそいときは、「おそいぞ!」と怒鳴り、よその子供がバタバタ廊下をかけまはれば、「うるさいぞ!」と怒鳴つて、
夜寝不足ならば十分昼寝をし、ほぼ快適な生活を送れるやうになつた。
──それはさておき、かりにも都会で、プライヴァシィを重んずる「近代的」生活を、生活だと思ひ込んでゐる人間には、
人の迷惑などを考へずにのびのびと暮してゐるかういふ旧式の日本人の生活は、おどろくべきものであつた。
都会なら、となりのうるさいラヂオを容赦しないが、ここではラヂオはすべて音の競争であつて、
隣りのラヂオがうるさかつたら、家のラヂオの音をもつと大きくすればそれですむのである。
みんながそれに馴れ、何の苦痛も感じないなら、人間の生活はそれで十分なので、何も西洋のプライヴァシィを真似なくてもいい。
西洋の冷たい個室の、完全なプライヴァシィの保たれた生活の裏には、救ひやうのない孤独がひそんでゐるのである。(中略)
そこへ行くと、日本の漁村の宿の明朗闊達はおどろくばかりで、人間が、他人の生活に無関心に暮すためには、
何も厚いコンクリートの壁で仕切るばかりが能ではなく、薄い襖一枚で筒抜けにして、免疫にしてしまつたはうが賢明なのかもしれない。(中略)
しかし、この昔風の旅籠屋が、襖一枚の生活を強制するのが、
昔を偲ばせて奥床しいとは云ひながら、それがそのまま昔風とは云ひがたい。
何故なら、江戸時代には、人はもう少し小声で話したにちがひないし、
怪音を発するトランジスター・ラヂオなんか、持つてゐなかつたからである。
「プライヴァシィ」より

59: はれぞう 2018/05/21(月) 19:23:56.552 ID:aPInwMdSa
いつのころからか、私は自分の小学生の娘や息子と、少年週刊誌を奪い合って読むようになった。
「もーれつア太郎」は毎号欠かしたことがなく、私は猫のニャロメと毛虫のケムンパスと奇怪な生物ベシのファンである。
このナンセンスは徹底的で、かつて時代物劇画に私が求めていた破壊主義と共通する点がある。
それはヒーローが一番ひどい目に会うという主題の扱いでも共通している。
私だっておもしろいのだから、今の若者もこういうものを面白がるのもムリはない。
劇画や漫画の作者がどんな思想を持たうと自由であるが、啓蒙家や教育者や図式的風刺家になつたら、その時点でもうおしまひである。
かつて颯爽たる「鉄腕アトム」を想像した手塚治虫も、「火の鳥」では日教組の御用漫画家になり果て、
「宇宙虫」ですばらしいニヒリズムを見せた水木しげるも「ガロ」の「こどもの国」や「武蔵」連作では見るもむざんな政治主義に堕してゐる。
一体、今の若者は、図式化されたかういふ浅墓な政治主義の劇画・漫画を喜ぶのであらうか。
「もーれつア太郎」のスラップスティックスを喜ぶ精神と、それは相反するではないか。
ヤングベ平連の高校生と話したとき、「もーれつア太郎」の話になつて、その少年が、
「あれは本当に心から笑へますね」と大人びた口調で言つた言葉が、いつまでも耳を離れない。
大人はたとへ「ア太郎」を愛読してゐてもかうまで含羞(がんしゅう)のない素直な賛辞を呈することはできぬだらう。
赤塚不二夫は世にも幸福な作者である。

60: はれぞう 2018/05/21(月) 19:25:11.625 ID:aPInwMdSa
世の中といふのは困つたもので、劇画に飽きた若者が、そろそろいはゆる「教養」がほしくなつてきたとき、与へられる教養といふものが、
又しても古ぼけた大正教養主義のヒューマニズムやコスモポリタニズムであつてはたまらないのに、さうなりがちなことである。
それはすでに漫画の作家の一部の教養主義になつて現はれてをり、折角「お化け漫画」にみごとな才能を揮(ふる)ふ水木しげるが、
偶像破壊の「新講談 宮本武蔵」(一九六五年)を描くときは、芥川龍之介と同時代に逆行してしまふからである。
若者は、突拍子もない劇画や漫画に飽きたのちも、これらの与へたものを忘れず、自ら突拍子もない教養を開拓してほしいものである。
すなはち決して大衆社会へ巻き込まれることのない、貸本屋的な少数疎外者の鋭い荒々しい教養を。
「劇画における若者論」より

61: はれぞう 2018/05/21(月) 19:27:30.862 ID:aPInwMdSa
私は大体笑ふことが好きであり、子供のころから
「この子を映画へ連れてゆくと、突拍子もないところでケタケタ笑ひ出して、きまりわるい」
とおとなにいはれた。徳大寺公英氏の思ひ出話によると、中学時代も、
教室でキャッキャッと一きは高い笑ひ声がするので、私がゐることがわかる、と先生がいつてゐたさうである。
おとなになつても、福田恆存氏の「キティ颱風」の招待日などには、拍手役ならぬ、笑声のサクラに狩り出された。
うしろのはうの席に、宮田重雄氏はじめ、笑ひの猛者がそろつてゐて、セリフの一言半句ごとに、声をそろへてゲラゲラ笑ふのである。
するとそれにつられて笑ひ出すお客がある。
福田氏は、新劇の観客層のシンネリムッツリを、よほどおそれてゐたのである。俳優のT君が、
「君の貧弱な体格からすると、笑ひ声だけが大きくて不自然だから、後天的に自分で育成これつとめたものだらう」
といつたが、これはマトをそれてゐる。私の肺活量はこれでも四千七百五十もある。
漫画は、かくて、私の生理衛生上必要不可欠のものである。
をかしくない漫画はごめんだ。何が何でもをかしくなくてはならぬ。
おそろしく下品で、おそろしく知的、といふやうな漫画を私は愛する。
悩殺する、とか、笑殺する、とかいふ言葉は、実存主義ふうに解すると、相手を「物」にしていまふことだと思はれる。
「人を食ふ」といふのもこれに等しい。われわれは他人の人格を食ふことはできぬ。
相手を単なる物、単なる肉だと思ふから、食ふことができる。
漫画はだから「食はれる状態」をうまく作りあげねばならぬ。「物」になつてゐなければならぬ。
知的な漫画ほどこの即物性がいちじるしく、低級な漫画ほど、笑ひ話の物語性だの、教訓性だの、によりかかつてゐる。
下手な落語家は「をかしいお話」を語るにすぎないが、名人の落語家ほど、
笑はれるべき対象を綿密に造形して、話の中に「笑はれるべき物」を創造してゐるのである。
何もいはゆる、サイレント漫画が知的だといふのではない。
言葉がない代りに、社会の良風美俗に逆によりかかつてわからせてゐるやうな、不心得な漫画も散見する。

62: はれぞう 2018/05/21(月) 19:29:51.317 ID:aPInwMdSa
漫画は現代社会のもつともデスペレイトな部分、もつとも暗黒な部分につながつて、
そこからダイナマイトを仕入れて来なければならないのだ。
あらゆる倒錯は漫画的であり、あらゆる漫画は幾分か倒錯的である。
そして倒錯的な漫画が、人を安心して笑はせるやうではまだ上等な漫画とはいへぬ。
日本の漫画がジャーナリズムにこびて、いはゆる社会的良識にドスンとあぐらをかいて、そこから風俗批評、
社会批評をやらかして、それを漫画家の使命だと思つてゐる人が少なくないのは、にがにがしいことである。
もつとも漫画的な状況とは、また永遠に漫画的状況とは、他人の家がダイナマイトで爆発するのをゲラゲラ笑つて見てゐる人が、
自分の家の床下でまさに別のダイナマイトが爆発しかかつてゐるのを、少しも知らないでゐるといふ状況である。
漫画は、この第二のダイナマイトを仕掛けるところに真の使命がある。
あんまりのんびりしてゐると、ほかならぬ漫画家自身が、右のやうな漫画を演じなければならぬことになりますぞ!
さて私も、かういふ商売をやつてゐて、何やかと漫画に描かれることが多い。
この一文で、漫画家諸氏のお名前を一つもあげなかつたのは、かかる職業上のおもんぱかりであるが、
われわれ文士も「素人時評」といふやつは、ほとほとにがにがしい、イヤ味なものだと思つてゐるのである。
小説書きでないやつに、小説なんてわかるものか!漫画家でないやつに、漫画なんてわかつてたまるものか!それでよろしい。
さて、一つの漫画は、小説家が、かういふ雑文をたのまれて、
をかしくもない文章を、頭から湯気を立てて書いてゐる、といふその状況である。
「わが漫画」より

63: はれぞう 2018/05/21(月) 19:32:27.346 ID:A8Xtcydz0
小説よりエッセイの方がおもろいおっさんだな
感情薄いんかな

64: はれぞう 2018/05/21(月) 19:36:46.434 ID:iPLTdOh10
何を喋っても現代ではホモの2文字に集約されるから悲しいなあ

65: はれぞう 2018/05/21(月) 19:40:47.929 ID:aPInwMdSa
剣道の、人を斬るといふ仮構は爽快なものだ。
今は人殺しの風儀も地に落ちたが、昔は礼儀正しく人を斬ることができたのだ。
人とエヘラエヘラ附合ふことだけにエチケットがあつて、
人を斬ることにエチケットのない現代とは、思へば不安な時代である。
「ジムから道場へ──ペンは剣に通ず」より

66: はれぞう 2018/05/21(月) 19:45:06.204 ID:aPInwMdSa
男のおしやれがはやつて、男性化粧品がよく売れ、床屋でマニキュアさせる男がふえた、といふことだが、
男が柔弱になるのは泰平の世の常であつて、大正時代にもポンペアン・クリームなどといふものを頬に塗つて、
薄化粧する男が多かつたし、江戸時代の春信の浮世絵なんかを見れば、
男と女がまるで見分けがつかぬやうに描かれてゐる。男が手や爪の美容に気をつかふのは、
スペインの貴族の習慣で、そこでは手の美しい男でなければ、女にもてなかつた。
私はこんな風潮一切がまちがつてゐると考へる人間である。男は粗衣によつてはじめて男性美を発揮できる。
ボロを着せてみて、はじめて男の値打がわかる、といふのが、男のおしやれの基本だと考へてゐる。
といふのは、男の魅力はあくまで剛健素朴にあるのであつて、それを引立たせるおしやれは、ボロであつても、
華美であつても、あくまで同じ値打同じ効果をもたらさなければならぬ。
指環ひとつをとつてみても、節くれ立つた、毛むくぢやらの指をしてゐてこそ、男の指環も引立つのだが、
東洋人特有のスンナリした指の男が、指環をはめてゐれば、いやらしいだけだ。
多少我田引水だが、日本の男のもつとも美しい服装は、剣道着だと私は考へてゐる。
これこそ、素朴であつて、しかも華美を兼ねてゐる。
学生服をイカさない、といふのも、一部デザイナーの柔弱な偏見であつて、
学生服がピタリと似合ふ学生でなければ、学生の値打はない。あれも素朴にして華美なる服装である。
背広なんか犬に喰はれてしまへ。世の中にこんなにみにくい、あほらしい服はない。
商人服をありがたがつて着てゐる情ない世界的風潮よ。タキシードも犬に喰はれてしまへ。
私はタキシードの似合ふ日本人といふものを、ただの一人も見たことがないのである。
「男のおしやれ」より

67: はれぞう 2018/05/21(月) 19:49:08.299 ID:cgFDbjCna
私はこの「文章読本」でまず声を大にして、皆さんに、文学作品のなかをゆっくり歩いてほしいと申します。
もちろん駆ければ十冊の本が読めるところが、歩けば一冊の本しか読めないかもしれません。
しかし歩くことによって、十冊の本では得られないものが、一冊の本から得られるのであります。
小説はそのなかで自動車でドライヴをするとき、テーマの展開と筋の展開の軌跡にすぎません。
しかし歩いていくときに、こちらは言葉の織物であることをはっきり露呈します。
つまり、生垣と見えたもの、遠くの山と見えたもの、花の咲いた崖と見えたものは、ただの景色ではなくて、
実は全部一つ一つ言葉で織られているものだったのがわかるのであります。
昔の人はその織模様を楽しみました。小説家は織物の美しさで人を喜ばすことを、自分の職人的喜びといたしました。
しかし現代では文章を味わう習慣よりも、小説を味わうと人は言います。
彼の文章がいいという言葉はほとんど聞かれず、彼の小説はおもしろいと言われます。
ところが文章とは小説の唯一の実質であり、言葉はあくまでも小説の唯一の材料なのであります。
あなた方は絵を見るときに色彩を見ないでしょうか。ところが言葉は小説における色彩であります。
あなた方は音楽を聴くときに音を聴かないでしょうか。ところが言葉は小説における音譜なのであります。
さっきからたびたび繰り返したように、文章を味わう習慣は、民衆のあいだでは長いこと耳から味わう習慣となっておりました。
それからまた貴族のあいだでは目で味わう習慣になっておりました。
目にしろ耳にしろ、日本の古典には味わわれるような文章がたいへんに多い。いわゆる美文と称されるものはその代表的なものであって、
内容などはどうでもよく、ただ味わうために作られた、ちょうど見るための美しい日本料理のようなものであります。
われわれはなんでも栄養のあるものしか取ろうとしない時代に生れていますから、目で見た美しさというものをほとんど考えませんが、
文章というものは、味わっておいしく、しかも、栄養があるというものが、いちばんいい文章だということができましょう。

68: はれぞう 2018/05/21(月) 19:50:18.249 ID:cgFDbjCna
文章の味には水からウィスキーまで、さまざまなものがあります。また油揚げからビーフステーキまで、さまざまなものがあります。
そのどの味が最上のものだということを私は言おうとするのではありません。
しかし文章の味には、味わってわかりやすい味もあれば、十分に舌の訓練がないことには味わうことができない味もあります。
これから私はたくさんの例文をあげて、それぞれの文章の味を解説して行こうとするのですが、日本語のいかに堪能な西洋人でも、
森鴎外や志賀直哉の文章がわかりにくいのは、それがきわめて微妙な味、水に似た味わいをもっているからにほかなりません。
もちろん水に似た味わいは、食通が最後に玩味するものでありますが、濃い葡萄酒やウィスキーに似た味わい、
一例が谷崎潤一郎氏の文章の味わいも捨てられないものであります。
われわれはいまや空想的な飾りだけの文章を美しいとは言いません。
しかしそうかといってお役所の通達のような文章をも美しいとは言いません。
飾りがなくって、しかもお役所の通達のようではないもの、そのような文章の味は、一面それを味わう側も進化していると言えるかもしれません。
しかしそのような文章の味が、微妙なものを求められれば求められるほど、一般の民衆の文章の好みと、さきほど言ったリズールの味わい好む文章とが、
ますます離れてくることはいたしかたないことで、ここに例はあげませんが、私は大衆に愛好されている、
むしろ熱狂されている作家たちの文章のなかに、実に下卑た悪文の数々を見出すことができるのであります。
それに較べると近松や西鶴を喝采した時代の民衆は、はるかに精妙な舌をもっていたと言わなければなりません。
文章の美の平均水準からいうと、近松のような装飾的な文章が、いまや古くなり、無意味になったと言いながら、
そういう文章を好んだ時代の方が、少くとも文章を味わう習慣を、その喜びを深く知っていたということは言えるのであります。
「文章読本」より

69: はれぞう 2018/05/21(月) 19:54:31.593 ID:aPInwMdSa
飛行機が美しく、自動車が美しいやうに、人体は美しい。女が美しければ、男も美しい。
しかしその美しさの性質がちがふのは、ひとへに機能がちがふからである。(中略)
機能に反したものが美しからう筈もなく、そこに残される手段は装飾美だけであるが、
文明社会では、男でも女でも、この機能美と装飾美の価値が巓倒してゐる。
男の裸がグロテスクなどといふ石原慎太郎の意見は、いかにも文明に毒された低級な俗見である。
「機能と美」より

70: はれぞう 2018/05/21(月) 19:56:34.262 ID:aPInwMdSa
猫は何を見ても猫的見地から見るでせうし、床屋さんは映画を見てもテレビを見ても、人の頭ばかり気になるさうです。
世の中に、絶対公平な、客観的な見地などといふものがあるわけはありません。われわれはみんな色眼鏡をかけてゐます。
そのおかげで、われわれは生きてゐられるともいへるので、興味の選択ははじめから決つてをり、
一つ一つの些事に当つて選択を迫られる苦労もなく、それだけ世界はきれいに整備され、生きるたのしみがそこに生じます。
しかし人生がそこで終ればめでたしですが、まだ先があります。同じ色眼鏡が、ほかの人の見えない地獄や深淵をそこに発見させるやうになります。
猫は猫にしか見えない猫の地獄を見出し、床屋さんは床屋さんにしか見えない深淵を見つけ出します。
「序(久富志子著『食いしんぼうママ』)」より

71: はれぞう 2018/05/21(月) 20:00:12.756 ID:aPInwMdSa
テレビによつて、いくらでも雑多な知識がひろく浅く供給されるから、
暇のある人はテレビにしがみついてゐれば、いくらでも知識が得られる代りに、
「中国核実験」と「こんにちは赤ちゃん」をつなぐことは誰にもできず、知識の綜合力は誰の手からも失はれてゐる。
無用の知識はいくらでもふえるが、有用な知識をよりわけることはますますむづかしくなり、
しかも忘却が次から次へとその知識を消し去つてゆく。
「秋冬随筆」より

72: はれぞう 2018/05/21(月) 20:02:18.642 ID:aPInwMdSa
人間のやることは残酷である。鳥羽の真珠島で、真珠の肉を手術して、人工の核を押し込むところを見たが、
玲瓏(れいろう)たる真珠ができるまでの貝の苦痛が、まざまざと想像された。
このごろ流行のダムも、この規模を大きくしたやうなものである。
ダム工事の行はれる地点は、大てい純潔な自然で、風光は極めて美しい。
その自然の肉に、コンクリートと鉄の異物が押し込まれ、自然の永い苦痛がはじまる。
「『沈める滝』について」より

87: はれぞう 2018/05/21(月) 21:15:31.451 ID:u3daEj230
>>72
人間にとって一番身近な自然は自身の肉体である
三島はその自然に永い苦痛を与えていた自覚が恐らくなかったのだろう
それは言わば肉体に対する一種の卑しい蔑視であった
三島の誇った肉体は、自然でもなく機能的でもなく
彼の思想の体現でありつまり西洋的であった
三島は根本から矛盾の人であった

73: はれぞう 2018/05/21(月) 20:04:55.785 ID:cgFDbjCna
「電信柱」

お家のお庭向きのへいの前に小さい道がある。
そしてそこに木でできた電信柱が立つてゐる。今日の噺はその電信柱の電線の噺である。
ある春の日、僕は縁側に座蒲団をしいて日向ぼつこをしてゐた。
その日は勉強もなかつたし、又遊ぶ事もなかつた。
それでなんの気もなくその電線をながめてゐた。するとそこへ、三羽の雀がさへづりながらとんできた。
三羽の雀はふとその電線の上へ停つた。そして鬼ごつこでもするやうに電線の上を飛び廻つたのだ。
その度に電線はゆらゆらとゆれた。そのとき電信柱は、
「雀さん、そんなに体の上を飛び廻つてはいたいですよ」
とでも云つたのだらう。三羽の雀は又話をしながらとんでいつた。

それから月日はたつて八月になつた。
八月といへば暑いさかりである。
僕はハンカチーフで汗をふきふきシロップを飲んでゐた。
その時、僕の頭に浮かんだのは、あの春の日のことであつた。
今度は帽子をかぶり庭にでてその電線をみてゐた。
するとそこにはいつの間に来たのか沢山の小鳥が電線の上にとまつてゐて、大きな声をはりあげて歌をうたつてゐた。
あげは蝶や黄色虫が小鳥のまはりをとんでゐる。
樅(もみ)の木や杉の木や松などが歌に合はせて踊るやうに葉をうごかしてゐた。
お向ひの物干の青竹が笑ふやうにして云つた。
「電線さんおにぎやかですね」

平岡公威(三島由紀夫)9歳の作文

74: はれぞう 2018/05/21(月) 20:06:46.825 ID:cgFDbjCna
「大内先生を想ふ」

ヂリヂリとベルがなつた。今度は図画の時間だ。しかし今日の大内先生のお顔が元気がなくて青い。
どうなさッたのか?とみんなは心配してゐた。おこゑも低い。僕は、変だ変だと思つてゐた。
その次の図画の時間は大内先生はお休みになつた。御病気だといふことだ。
ぼくは早くお治りになればいゝと思つた。
まつてゐた、たのしい夏休みがきた。けれどそれは之までの中で一番悲しい夏休みであつた。
七月二十六日お母さまは僕に黒わくのついたはがきを見せて下さつた。
それには大内先生のお亡くなりになつた事が書いてあつた。
むねをつかれる思ひで午後三時御焼香にいつた。さうごんな香りがする。
そして正面には大内先生のがくがあり、それに黒いリボンがかけてあつた。
あゝ大内先生はもう此の世に亡いのだ。
僕のむねをそれはそれは大きな考へることのできない大きな悲しみがついてゐるやうに思はれた。

平岡公威(三島由紀夫)9歳の作文

75: はれぞう 2018/05/21(月) 20:15:24.500 ID:m8t89X5Da
かつて私は、「薔薇と海賊」という芝居を書き、いっぺん強姦されただけで子供が出来、以後全く誰にも身を委せない女主人公を描きましたが、
こういう女主人公の考え方が、みんなには奇矯に映ったらしいが、書いている私は別に奇矯だと思わなかった。
女の考えとしたら、むしろ論理的で科学的なのではないか、と思っています。
ちかごろある赤新聞に、某映画俳優に処女を奪われた上捨てられた女が、その後、彼への復讐のつもりで、多くの男と関係を結び、
なお最初の男を憎み抜いているという告白記事が出ましたが、こんなのはバカの骨頂で、怨まれた映画俳優こそ、いい災難です。
彼女が失ったのは、肉体的処女膜だったが、それと一緒に、自ら進んで、精神的処女膜をも放棄してしまったのです。
前者を失っても、いっしょくたに、後者まで失う必要はないので、「薔薇と海賊」の女主人公は、前者は失ったが、
後者は自分の自由意志によって、絶対に失うまいと決心したわけです。前者を失うのは一つの事件にすぎぬことが多い。
後者を失うのは何かというと、自分の心柄で、世間のいやしい常識に負けたのです。
「処女を失った女はもう汚れた女だ」という世間的な低級な考えに、自分から進んで屈服したのです。
ですから、一度処女を失ってクヨクヨしている女性がいたら、こう忠告しよう。
「クヨクヨしなさんな。そんなことは忘れてしまいなさい。『処女をささげた男を忘れられぬ女の生理の嘆き』などという
 赤本的赤新聞的生理学講座に迷わされてはいけない。自分は依然、精神的処女膜を保っていると考え、結婚までせいぜい身をつつしみ、
 絶対に他人および良人に口外せず、生涯の秘密にしてしまいなさい」
「不道徳教育講座 処女・非処女を問題にすべからず」より

76: はれぞう 2018/05/21(月) 20:18:13.534 ID:m8t89X5Da
お節介は人生の衛生術の一つです。われわれは時々、人の思惑などかまわず、これを行使する必要がある。
会社の上役は下僚にいろいろと忠告を与え、与えられた方は学校の後輩にいろいろと忠告を与えます。
子供でさえ、よく犬や猫に念入りに忠告しています。
全然むだごとで、何の足しにもならないが、お節介焼きには、一つの長所があって、「人をいやがらせて、自らたのしむ」ことができ、
しかも万古不易の正義感に乗っかって、それを安全に行使することができるのです。
人をいつもいやがらせて、自分は少しも傷つかないという人の人生は永遠にバラ色です。
なぜならお節介や忠告は、もっとも不道徳な快楽の一つだからです。
「不道徳教育講座 うんとお節介を焼くべし」より

77: はれぞう 2018/05/21(月) 20:20:34.149 ID:m8t89X5Da
世間に尽きない誤解は、「殺人そのもの」と、「殺っちまえと叫ぶこと」と、
この二つのものの間に、ただ程度の差しか見ないことで、そこには実は非常な質の相違がある。
私はイギリスで探偵小説や犯罪推理小説がもっともさかんなのを面白い現象だと思いますが、
あの乙に澄ました英国紳士が殺人の描写を読んで夢中になっているところを想像すると、いかにも自然に思える。
英国人は、「殺っちまえと叫ぶ」国民ではあるが、それは虫も殺さぬ常識人であることと少しも矛盾しません。
いちばん沢山実際に人を殺したのは、あの崇高な理想主義者のドイツ人です。
「不道徳教育講座 『殺っちゃえ』と叫ぶべし」より

78: はれぞう 2018/05/21(月) 20:25:36.997 ID:m8t89X5Da
たいていの気取ったエチケット講座には、洋食の作法として、「スープは決して音を立てて吸ってはいけません」などと、おごそかに戒めています。
子供のときから味噌汁を音を立ててのみ、お薄茶もおしまいのときには
チューッと吸い込む作法に馴れて来たものに、むりやり西洋人の作法を押しつけようというのです。
ところでこういう表面的作法に一等影響をうけやすいのは女性であって、女性はとかく上っ面だけで物事を判断しますから、
「好きな彼氏がいたんだけど、はじめて二人で夕食をしに行って、スープが出て、いきなり彼氏が、ズルズルッという、
 ラーメンでも流し込むような音を立てて、ポタージュを吸い出した瞬間、わたしは生理的嫌悪を感じて、それ以来、彼氏がすっかりイヤになりました」
などというのは、たいていの女性雑誌の「恋愛心理の微妙さの特集」とかいう、告白記事に出ています。
私は別にこんな女性心理は、微妙でも何でもなく、ただの虚栄心だと考えますが……。

エチケット講座の担当者たちを見ればわかりますが、彼らは私にとっては格段尊敬すべき人たちとも思えません。
洋食作法を知っていたって、別段品性や思想が向上するわけではないのですが、
こんなものに影響をうけた女性は、スープを音を立てて吸う男を、頭から野蛮人と決めてしまいます。
それなら、あんなフォークやナイフという凶器で食事をする人は、みんな野蛮人ではないでしょうか?

79: はれぞう 2018/05/21(月) 20:28:08.885 ID:m8t89X5Da
たまたまここへスープの音の話を持ち出したのは、私の最も尊敬する先輩が、二人まで、すさまじい音を立ててスープを吸う。
二人とも外国をまわって来た人ですが、外国のどこかの都市の、気取ったレストランで、もし御両人が相会してスープを吸ったら、さぞや壮観だろうと思われる。
御両人とも日本最高の頭脳に属するが、スープを音を立てて吸ったりすることは、日本最高の頭脳たることを少しもさまたげないのである。
そればかりではない。私は両氏を見ていると、あれだけあたりかまわずズーズー音を立ててスープを吸えたら、
あのくらい頭がよくなるんじゃないかと思うことがある。
──事はスープだけにとどまらない。或る中世芸能の研究家が、私の目の前でナイフに肉をのせて、
御丁寧に刃のほうを下唇へあてがって、口の中へ肉をほうり込むところを見たが、
これなんかは、いつ口が切れやしないかと相手をヒヤヒヤさせて、スリルを満喫させる点だけでも功徳というものである。

エチケットなどというものは、俗の俗なるもので、その人の偉さとは何の関係もないのである。
静まり返った高級レストランのどまん中で、突如怪音を発して、ズズズーッとスープをすすることは、社会的勇気であります。
お上品とは最大多数の決めることで、千万人といえども我ゆかんという人は、たいてい下品に見られる。
社会的羊ではないという第一の証明が、このスープをすする怪音であります。
「不道徳教育講座 スープは音を立てて吸うべし」より

80: はれぞう 2018/05/21(月) 20:30:54.532 ID:m8t89X5Da
男というものは、もし相手の女が、彼の肉体だけを求めていたのだとわかると、一等自尊心を鼓舞されて、大得意になるという妙なケダモノであります。
男にとって最高の自慢になることは、彼のやさしい心根や、純情や、あるいは才能や、頭脳を愛されたということではなくて、
正にそのものズバリ、彼の肉体を愛されたということなのである。
これは男性の通性であって、高級な知的な男たると、低級な男たるとを問いません。ところが女性は全然ちがうらしい。
彼女たちは、「私」のほうが「私の体」よりも、ずっと高級な、美しい、神聖な存在だと信じているらしい。
だから、この高級で清浄で美しい「私」をさておいて、
それ以下の「私の体」だけを欲望の対象にする所業はゆるせないのである。
これは奇妙な自己矛盾であって、もし女性が自分の肉体を、高級で、美しくて、神聖なものと信じていたら、
それにあこがれる男の欲望をも、高く評価する筈であるが、
多くの淑女は妙に自分の肉体それ自体を神聖で美しいものと感じない傾きがある。

女性が自分の肉体について持っている考えは二重になっており、「私の体は美しいわ」という自信は、ともすると個性とかかわりのない、
「女一般の肉体として優れている」という感じ方にすぐつながるらしい。女性は自分の肉体に、終局的に、個性と主体性を自らみとめない傾向がある。
これが女性が流行に弱い一つの理由でもあります。
とにかく女の人が自分の体に対して抱いている考えは、男とはよほどちがうらしい。
その乳房、そのウェイスト、その脚の魅力は、すべて「女たること」の展覧会みたいなものである。
美しければ美しいほど、彼女はそれを自分個人に属するものと考えず、何かますます普遍的な、女一般に属するものと考える。
この点で、どんなに化粧に身をやつし、どんなに鏡を眺めて暮らしても、女は本質的にナルシスにはならない。
ギリシアのナルシスは男であります。
「不道徳教育講座 痴漢を歓迎すべし」より

81: はれぞう 2018/05/21(月) 20:36:02.785 ID:m8t89X5Da
日本刀はたま(銃弾)のように速くないけれども、一たん鞘を抜けた以上は、物、あるいは人を斬るという目的なしには鞘に納まることができない。
その目的に向けられないで抜かれてしまった場合には、日本刀は容易に敗北し、挫折するのである。
そのいい例が日大騒動でも見られたのであるが、ある体育会の学生たちが日本刀を持っておどり込んだにもかかわらず、
たちまちその日本刀を奪われて敵の捕虜になって袋だたきの目にあってしまったという。
かりにも日本刀を持ちながら人を殺傷せずに鞘に納まったということが、私には信じられない。
おそらくこの日本刀は殺傷の目的ではなく恫喝、脅迫の目的に従って抜かれたのであろう。
それはしかし日本刀本来の目的とは違うのであるから、自分本来の目的と違う目的に使われた武器はその瞬間に力を失うのである。
このことは本年度にうわさされていた治安出動についてもいえることである。治安出動が初めから恫喝、ないし脅迫の目的で行使されるならば、
何万発の弾薬を用意し、何千挺の銃器を用意しようと効力を発揮しないことは、この日本刀の例に照らしても明らかである。
「行動学入門 行動とは何か」より

82: はれぞう 2018/05/21(月) 20:38:04.672 ID:m8t89X5Da
さて、行動の特色は時間のかからないことである。私もおりに触れて幾つかの行動をするけれども、
たとえば、東大全共闘に呼ばれて討論集会に行ったときは、集会の所要時間はわずか二時間半。
私はそのために何一つ準備もせず、ただタクシーに乗ってうちから駒場の東大へ行き、討論が済むとまたタクシーに乗って帰ってきただけであった。
したがって、その所要時間はどんなに多く見積もっても四時間を越えてはいない。
しかし、世間ではその行動が過大に宣伝され、おもしろがられ、人々の興味と関心の的にしばらくの間なっていた。
そして、人々は私に東大全共闘との討論集会の話ばかりをするのであった。
しかし私にとっては四時間という時間は一月の中のほんのわずかな時間であって、芝居を見ても四時間はかかり、長い映画を見ても四時間はかかる。
それなのに人々はその短い時間の行動にしか興味を示さず、一月のうち二十四時間の三十倍、
七百二十時間の私の長い時間の過ごし方についてはほとんど興味を示すことはない。
しかし、七百二十時間マイナス四時間の七百十六時間は、その全部がそうであるとは言えないが、
その大半は地味な小説をえんえんと書き続けていくデスク・ワークにささげられたものである。
それは行動ではないからして、無限に時間がかかり、すでに三冊目にかかるまでに四年間かかった小説は、四冊目が終るまであと何年かかるかわからない。
行動は迅速であり、思索的な仕事、芸術的な仕事には非常に長い時間がかかる。
しかし生はある意味では長い時間がかかり、死は瞬間に終るのに、人々はどっちを重んじるだろうか。
「行動学入門 行動とは何か」より

83: はれぞう 2018/05/21(月) 20:43:21.460 ID:m8t89X5Da
攻撃行動はいつも明快であり、しかも何かの大きなうしろだてがあるのが普通である。たとえば国家の命令とか、上官の命令とか、
世間一般がその行動をよしとするような行動は、当然非常にはっきりした攻撃的な形をとるのは機動隊を見てもよくわかる。
多くのスポーツは、前述したように集団競技の防御、攻撃の両面を含んで、そこには「気が進まないけどやる」という要素はあまり含まれない。
たいていの場合にはスポーツは嬉々として行うものであり、みずから進んでその行動に身を投じるという性質が行動の根拠になっている。
昔の戦争に参加する人たちも多くはそうであった。ところが、戦争に行くのがいやでたまらないのに、しかたなしに兵隊にとられ、
しかたなしに戦地に駆り出されるというのは、徴兵制度が始まってからのことであり、帝国主義戦争時代のような、普通のヒューマニズムや道徳を乗り越えた、
国家の無邪気なエゴイズムが発揮されていた時代と違って、戦争自体が、表はいかにもやむを得ずという形をとるようになった。
すべての戦争は自衛の戦争の形態をとり、帝国主義戦争、領土侵略戦争、植民地戦争という外観はできるだけ避けられるようになった。
自衛の戦争という観念自体に、「やむを得ず」という観念が含まれる。「いやいやながら」という考えが含まれる。
いやいやながらという気持は複雑であって、その気の進まなさには、一面好奇心や欲望が隠されている。
われわれは気の進まない行動をするときに、どこまでほんとうに気が進まないのか疑問なのである。
「行動学入門 行動のパターン」より

98: はれぞう 2018/05/21(月) 22:00:38.448 ID:u3daEj230
>>83
観念や考えと気分を混同しているのはわざとなのか天然なのか
いずれにしても論理的ではない

84: はれぞう 2018/05/21(月) 20:49:56.441 ID:I3PHn1e8a
では、なぜ流行はすぐおわるのか? 飽きられるからです。では、なぜ飽きられると捨てられるのか? 捨てても別に痛くも痒くもないからです。
うるさい父親に飽き飽きしていても、捨てればとたんに生活に困るからエレキ息子エレキ娘どもは我慢しているのであり、
「流行おくれ」という最大の悪口の象徴的存在として、自分の親たちを見ているにすぎません。
ところで、流行の妙な点は、家来のほうが主人に飽きて、次々ととりかえるという点です。
主人のほうが家来に飽きて、次々とクビにするなら話がわかるが、流行の場合は、
平伏し、あがめ奉り、尊敬し身も心も捧げている側が、突然気分がかわってソッポを向いてしまうことです。
そして今まで王座についていた流行は、何で自分が飽きられたのかさっぱりわからず、スゴスゴと王座を下りてゆかねばならないのです。
飽きられる前に自分から身を隠したなどという奥床しい流行はめったになく、そういう稀な幸運を与えてくれるのは、突然の死だけであります。
すなわち、バレンチノの死、ジェームズ・ディーンの死、赤木圭一郎の死、……こういう人たちは、ふしぎともう飽きられる心配がない。
「おわらない流行」とは、つまり、突然、人々の手の届かないところへ行ってしまうこと、神様になってしまうことなのです。
清潔なものは必ず汚され、白いシャツは必ず鼠色になる。人々は、残酷にも、
この世の中では、新鮮、清潔、真白、などというものが永保ちしないことを知っている。
だから大いそぎで、熱狂的にこれを愛し、愛するから忽ち手垢で汚してしまう。
しかしどんな浅薄な流行でも、それがおわるとき、人々は自分の青春と熱狂の一部分を、その流行と一緒に、時間の墓穴へ埋めてしまう。
二度とかえらぬのは流行ばかりでなく、それに熱狂した自分も二度とかえらない。
あなたは、手の中で蚊を握りつぶす。もう刺される心配はない。
しかしブンブン言っていた蚊とあなたが共にいた騒がしい世界は、それと同時に永久におわってしまったのです。
「おわりの美学 流行のおわり」より

85: はれぞう 2018/05/21(月) 20:50:32.604 ID:u3daEj230
昔ハマったが今となってはそんなに凄くない感じがする
頭の中でほとんど反論しながら読みました

86: はれぞう 2018/05/21(月) 20:51:49.242 ID:I3PHn1e8a
はっきりいってしまうと、学校とは、だれしも少し気のヘンになる思春期の精神病院なのです。
これは実に巧みに運営されていて、入院患者(学生)たちには、決して「私は頭がヘンだ」などと気づかせない仕組みになっている。
先生たちも何割か、学生時代のまま頭がヘンな人たちがそろっていて、こういう先生は学生たちとよくウマが合う。
何千人という人間のいる学校のなかで、ほんの何人かの先生がこの秘密を知っていて、この秘密を決して洩らさぬように学校経営をやってゆく。
いまさら東大生の何割かが精神病だなどと発表されて、おどろくことは何もありません。
試験とは、この頭のヘンな連中に、「私は正気だ」と確信させるための手続きであって、そのために彼らの脳裏の奇妙なケンランたる考えとは、
全く関係のない問題ばかりが出て、それでこそ勉強はますます苦痛になるが、
ともかく答案を書けば、何ほどか、自分は正気だという安心をいだける仕組みになっている。
ゼミナールなどというものでは、頭のヘンなところが、少し露呈してもゆるされるぐあいにできている。(中略)
どうして大学の中では頭のヘンな学生に対して、まともに答えなければならぬという社会的義務があるのでしょう。
頭のヘンな若い連中の相手をしているのが好きな人たちだけが、先生という職業を選ぶのではないでしょうか?
さて、問題は、この「学校のおわり」です。学校のおわりは卒業式ということになっている。しかし、それで本当に卒業した人が何人いるでしょうか?
本当の卒業とは、「学校時代の私は頭がヘンだったんだ」と気がつくことです。学校をでて十年たって、その間、テレビと週刊誌しか見たことがないのに、
「大学をでたから私はインテリだ」と、いまだに思っている人は、いまだに頭がヘンなのであり、
したがって彼または彼女にとって、学校は一向に終っていないのだ、というほかはありません。
「おわりの美学 学校のおわり」より

88: はれぞう 2018/05/21(月) 21:17:21.851 ID:wu4G5LJ4a
女がひとり鏡に向つて、永々とお化粧をし、いい洋服を着て、いいアクセサリーをつけて、いよいよお出ましとなる。
そこで又仕上りを鏡で丹念にしらべる。……世間では、かういふのを、女のナルシシズムと呼んでをり、女の第二の天性と信じてゐる。
しかし彼女は本当に、鏡の中に自分の顔を見てゐるのであらうか? 彼女が鏡の中に見てゐるのは、本当に自分の姿なのであらうか?
私にはどうもそのへんがよくわからないのである。
私の見るところでは、「自然」は女に、彼女の本当の顔を見せないやうに見せないやうにと配慮してゐる。
その用意周到はおどろくばかりで、ここには定めし、自然がさうせざるをえなかつた理由がひそんでゐるにちがひない。さうとしか考へやうがないのである。
自意識といふものは全然男性的なもので、そこには精神と肉体の乖離が前提とされ、精神が肉体を離れてフラフラと浮かれ出し、
その浮かれ出した地点から、自分の肉体を客観的に眺め、又、自分の精神を以て自分の精神自体をも、
客観的に眺めるといふ離れ業を演じるのが、すなはち自意識である。

もちろんこんな離れ業は、いつも巧く行くと限つたわけではないが、自意識とは、
さういふ離れ業をともすると演じようとする、精神の不可思議な衝動である、と定義してよからう。
しかるに、女の精神は、子宮が引きとどめる力によつて、男の精神ほど自由にふらふらと肉体を離れることができない。
男には上部構造である頭脳と、下部構造である生殖器とが、全然関係のない別行動をとることもできるけれど、
女にはどうも、古代の爬虫類のやうに、頭と下半身と両方に脳があるらしいのである。
脳と言つてわるければ、女の精神を支配する中枢は二つあつて、一つは頭脳であり、もう一つは子宮であつて、
この二つが実に密接に共同して働くから、精神はいつも、この二つに両方から引つぱられてゐて、肉体から離脱できない。
ヒストリーの語源が子宮にあることは周知のとほりである。
簡単に言ふと、男性の精神構造は、一つの中心点をもつ円であり、女性の精神構造は二つの中心点をもつ楕円であるらしい。

93: はれぞう 2018/05/21(月) 21:24:36.421 ID:u3daEj230
>>88
非常に西洋的というかデカルトだよな
われ思うゆえにわれ在りで三島は止まってた
西洋ですらユングやフロイトやら無意識について既に論じていたのに

89: はれぞう 2018/05/21(月) 21:19:23.613 ID:wu4G5LJ4a
女の精神はかくて存在に帰着し、男の精神はともすると非在に帰着するが、
自意識とは、非在に関する精神の、もつとも生粋な、もつとも非在的なものである。
女の精神とて、もちろん自意識に似たものは持つことができる。しかし、自意識が自意識を生み、
みるみる無数の合せ鏡の生む鏡像のやうに増殖する、自意識の自己生殖は、決して女性のものではない。
自意識が彼女を本当に喰ひつぶすまでに行かないならば、それは結局、「擬自意識」の部類に属するだらう。
女のもつ「自意識めいたもの」には、肉体(子宮)といふ安全弁がついてをり、
男の自意識のやうに、ブレーキが利かなくなつて暴走して、崖から真逆様に顛落するといふやうな事態は起りえない。
(さういふとき、奇妙にも、その男の自意識の暴走車は、彼自身の自意識の海の中へ顛落するのであるが……)。

ここではじめて、私には、自然が、女に対して、彼女の本当の顔を見せまい見せまいとしてゐるその配慮の理由が呑み込めるやうに思ふ。
それは明らかに生物学的要請であり、女の妊娠の責務を守るためであらう。
鏡とあんなにしよつちゆう深く附合つてゐる女が、みんな鏡の中へ投身して破滅してしまつたのでは、人類は絶滅してしまふ。
そこへ行くと、妊娠のつとめを持たない男はさうなつても一向構はない。
水鏡に映るおのが美貌に惚れ抜いて、水へ身を投げて死ぬナルシスが、決して女でなくて、男であることは、
ギリシア人の知恵と言へるであらう。ナルシスは、どうしても男でなければならないのである。
かくて、女たちが、鏡の中に見つめてゐる像が、彼女自身の姿でないことは、ほぼ確実になつた。
自分でないものの姿に見とれることを、ナルシシズムと呼ぶのは、言葉の誤用である。
私見によれば、女にはナルシシズムは存在しえないのである。
「ナルシシズム論 一」より

90: はれぞう 2018/05/21(月) 21:21:08.492 ID:wu4G5LJ4a
「A子さんつて、自分のバカさにどうしても気がついてゐないのね」といふ批評が成立するためには、
さういふ御本人が自分のバカさに気がついてゐなければならない。
しかし女が、「ええ、どうせ私はバカだわよ」と言ふときには、彼女は決して自分のバカさをみとめてゐないのである。
それは、すなはち、「あなたのやうな不公正な目から見れば、どうせ私はバカに見えるでせうけれど」といふ意味である。
「私つて目が小さいでせう」と女に言はれて、「ああ、小さいね」と答へる男は、完全に嫌はれる。
もう少し思ひやりに富んだ男でも、同様に嫌はれる。それは、「私つて鼻ペチャだから」と言はれて、
「でも、とんがつた鼻より魅力があるよ」と答へるやうな男である。
私がかうして徐々に、女性の内面的な顔から外面的な顔へと移行してゆくところに、注意していただきたい。
思ふにそこには確たる境界線がないのである。

「私つてどうせバカだわよ」といふ言葉と「私つてどうせ不美人よ」といふ言葉との間の懸隔を、
たとへば、男の同じやうな発言、「俺はどうせバカなのさ」と「俺は二枚目ぢやないからな」といふ
二つの言葉の間の懸隔と比べてみれば、前者の懸隔はほとんどゼロに等しくなるであらう。
つまり、男の発言には、自嘲のなかに必ずアイロニーと批評が含まれるのが通例で、それが自意識の表徴なのである。
さつきも言つたやうに、女が「どうせ私つてバカだわよ」といふ場合、
「あなたのやうな不公正な目から見れば、どうせ私はバカに見えるでせうけれど」といふ風に、判断の主体が故意にぼやかされてゐる。
判断の主体及び基準が自分にあるかのやうに一応装はれてゐるが、実は、相手に半ば判断の主体が預けられてゐる。
男が「俺はどうせバカなのさ」といふときは、自分の判断によつて自分のバカさ加減が痛烈に意識されてゐるのと同時に、
自らがその判断の主体であつて、他人の判断はゆるさないといふ強烈な自負がある。

91: はれぞう 2018/05/21(月) 21:21:17.625 ID:1fEBAVfaM
理屈に納得するかはどうあれ文章として読んで面白いから良い
何が違うのかわからんが文豪ってのはそういう文章が書ける人種だと思う

92: はれぞう 2018/05/21(月) 21:22:32.385 ID:wu4G5LJ4a
次に、女が「私つてどうせ不美人よ」といふ場合は、判断の主体が故意にぼかされてゐる点において、
「私つてどうせバカだわよ」といふ場合と、ほとんど径庭がないが、男が「俺は二枚目ぢやないからな」といふときには、
明らかに、判断の主体は、痛恨を以て、遠い遠い、見えざる第三者の手に全的に預けられてゐるのである。
なぜなら男は、人間の顔、容姿等の外観は、もともと社会的な価値であつて、他人の判断によつてしか評価されないといふ苦い知恵を、
(自意識の鍛練によつて)、夙(はや)くから自得してゐるからである。
ここに男の、劣等感や優越感の早い形成が見られるので、男は比較対照による客観的価値判断を早くから身につけてしまふのである。

もちろん男といへども、少女が最初の男に愛されてはじめて自分の美に目ざめるやうに、最初の女に愛されてはじめて自分の魅力を知ることも多い。
しかし、彼の内面性は、それによつて鼓舞され、あるひはそれによつて歪められることがあつても、決して彼の外面性と一直線につながらないのである。
かくて、男が鏡を見てゐるとき、何を見てゐるかが明らかになる。
すなはちそこに見てゐるものは、彼の顔、彼の純粋な外面に他ならない。
女のやうに、内面から外面へ、さらに、化粧によつて変容した第二の外面へ、一つながりにつながる複雑なイマジネーションの複合としての顔ではない。
彼は髭は剃るが、化粧をする必要はない。
このやうに、純粋な外面としての顔が鏡面に出現し、こちらから見る主体は、純粋自意識として作用するとき、
そこにはじめてナルシシズムが、ナルシスの神話の恋が成立するのである。
「ナルシシズム論 二」より

94: はれぞう 2018/05/21(月) 21:25:12.873 ID:wu4G5LJ4a
私はナルシシズムが、決して偏奇な知的一傾向ではなく、おどろくほど普遍的な衝動であることを、ボディ・ビルディングのジムで学んだ。
そこには多くの鏡があるが、鏡の前は大てい混雑してをり首をさし出してネクタイを結ぶのも容易ではなかつた。(中略)
青年たちが、自分の育成した二頭膊筋や大胸筋を鏡に映して、その光りかがやく新しい筋肉に、時の移るのも忘れて見とれてゐるのを見て、
私はナルシシズムが、男のもつとも本源的な衝動であり、今まで社会的羞恥心から隠蔽されてゐたにすぎないのではないか、といふ考へをいよいよ強めた。
ボディ・ビルディングは、いかにもナルシシズムの範例的形態である。その自己完結性にはあらゆる逆説がひそんでゐて、
鏡に映る自分の新しい逞しい筋肉は、自分でありながら純粋な「他者」であり、考へられるかぎりの純粋な外面であるのと同時に、
しかもそれは自分の意志とエネルギーによつて創造したものなのである。

鏡に映るその筋肉ほど、ナルシシズムにとつて、といふのは、男性の自意識にとつて、恰好な対象はあるまい。
しかし、そこには同時に、ナルシシズムの重要な一要素が欠如してゐる。
ここには自意識が自意識を喰ひ、鏡が鏡を蝕むところの、あの不可思議な自己生殖の運動と、それによつて起るナルシスの投身、
すなはち自己破壊の衝動が、ふしぎなほど欠けてゐる。
ボディ・ビルダーたちは、大好きな家畜をいたわるやうに自分の逞しい肉体をいたはり、ヴィタミンやカロリーの摂取に余念がない。
男のナルシシズムには、死の衝動へ促す行動性が必要なのである。
そしてこのやうな行動的ナルシシズムは、鏡への投身による鏡の破壊をめざして、拳闘、レスリング、柔道、
剣道等の格技や、自動車レース、モーター・サイクルなどのスピードへ向ふのである。
「ナルシシズム論 三」より

95: はれぞう 2018/05/21(月) 21:27:24.634 ID:wu4G5LJ4a
純粋ナルシシズムの本当の姿は、他人の賞讃を必要としないことであるが、ここには美のきはめて微妙できはめて難しい問題がひそんでゐる。
なるほどナルシスは美しい。他人の目から見て美しいのである。そしてナルシスが、他人の目から見て客観的に美しくなければ、
あの神話の美しさ自体が成立しないのであるが、一方ナルシスが絶対に排他的であり、彼が他人の賞讃を一切必要としないほど、
自意識の客観性に絶大の自信を持つてゐなければ、同様に、あの神話は意味がなくなつてしまふ。
ナルシスは己れを知つてゐなければならず、自己批評の達人でなければならず、
そしていかなる容赦ない自己批評も破砕できぬほどに美しくなければならないのである。
してみるとこの神話の恋には、二つの、いづれ劣らぬ大切な要素があることがわかる。
一つは彼の絶対的美貌であり、一つは彼の自意識の絶対的客観性である。
この二つが揃はなければ、ナルシスの恋は成立しない。

他人の賞讃が、しかし、女の場合には、肉体的賞讃にとどまるやうに、女自身も要請し、社会も亦これを要請してゐるのは、
男の世界が守つてゐる知的精神的ナルシシズムの縄張りを、女に犯されないための用心であらう。
そのためにこそ、男は、古代の男の肉体的ナルシシズムの不安(ゾルゲ)の地獄を、女のために開け渡したのである。
しかし、さうして開放された世界が、女に果して不安(ゾルゲ)を与へたかどうかは疑はしい。
鏡の前にゐるとき、女は明らかに幸福に見える。その幸福を見て、男は又しても不可解なものにぶつかるのである。
どうして化粧をしてゐるときの女は、そんなにも幸福なのであらうか? ナルシシズムが幸福であらう筈がない。
それならば、それはきつと、何かわからぬ、何か別のものにちがひない。
とまれかくまれ、「幸福」とは、男にとつてもつとも理解しがたい観念であり、あらゆる観念の中で、もつとも女性的なものである。
「ナルシシズム論 四」より

96: はれぞう 2018/05/21(月) 21:48:45.699 ID:ig6aqdCaa
私は民主主義と暗殺はつきもので、共産主義と粛清はつきものだと思っております。
共産主義の粛清のほうが数が多いだけ、始末が悪い。暗殺のほうは少ないから、
シーザーの昔から、殺されたのは一人で、六十万人が一人に暗殺されたなんて話は聞いたことがない。
これは虐殺であります。(中略)
たとえば暗殺が全然なかったら、政治家はどんなに不真面目になるか、殺される心配がなかったら、いくらでも嘘がつける。
「国家革新の原理──学生とのティーチ・イン」より

97: はれぞう 2018/05/21(月) 21:54:45.868 ID:u3daEj230
ナルシスは己れを知ったが故に死んだ
アダムとイヴは知恵の実を食した故に常命となった
珍しきが花というが
この世には絶対的美も絶対的客観性もない
人が美(に限らずあらゆる価値観、概念)を知った瞬間、その美等はいずれ死ぬ定めを負う
自意識が自意識である以上
ある特定の価値や概念に規定されるものであるから
自意識もまた死ぬ定めにあり
そのような定めを負った自意識が幸福を知らぬは必然である
特定の価値や概念が緻密かつ論理的であればあるほど…

引用元: http://hebi.5ch.net/test/read.cgi/news4vip/1526881443/


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三島由紀夫の美文・名文
2018/5/21
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