【ミリマス】紗代子は最高の瞬間を掴まえたい
その微笑みは狂気を孕んでいた。
人が浮かべて見せる表情のうちで、最も恐ろしいのは笑顔だと聞いた覚えがある。
そんな事をふと思い出してしまうぐらいには、だ。
画面の中に映る少女は、デジタルデータで記録されていたその少女は、私の心を怯えさせて、
思わず羽織っていた毛布に指をかけさせる程には見る者を圧倒したのだった。
自室の机で眺めてた、ノートパソコンの中で笑う少女。
けれど「きゃーっ、きゃっきゃっきゃっきゃっ」だとか
「ひぇー、ひぇっひぇっひぇっひぇっ」なんてわざとらしい演技はセットじゃない。
もしもそんな笑い声を彼女が上げていたのならば、
私はきっと耳にはめていたイヤホンを慌てて外したことだろう。
そうして、その必要がないほどに静まり返った舞台の上で、
彼女はただの一言も発さずに悠然と立っているのだった。
思わず、意識を飲み込まれてしまいそうになる微笑。
そんな少女の笑顔に端を発した不気味な静寂を打ち破ったのは、
共演している役者が小道具のシャベルを鳴らす音だ。
カツン、と床に当てられた切っ先が乾いた金属音を立てる。
それを合図に、まるで金縛りが解けたかのように息を吹き返す役者と観客席。
そして、画面越しに覗いていた私。
『ご覧、ボクの言った通りだったじゃないか』と、
金物を鳴らした男装の麗人は用意されていた台詞を吐いた。
私は思い出したように手元の台本を確認すると、その台詞部分を指でなぞる。
演出として書かれている通り、微笑みの少女以外は誰も彼もが絶望に満ちた顔をしてる。
……だけど、それは言ってもしょうがないことだ。
何せ、自分たちを長年閉じ込めていた世界の壁に空けた大穴の先に見つけたのが――。
『壁の向こう側にはまた壁があった。
君はまだ、バカげた空言で穴を掘り続けましょうと言うつもりか?』
そうだ。舞台に用意されたスクリーンに大写しとなった壁の存在。
それはゆうに一時間を超えた演劇のラストを飾る為の代物。
そびえ立つ壁の向こうに理想のユートピアを描いた物語の登場人物たちと、
ハッピーエンドを期待してここまで見続けた観客を同時に叩きのめすための。
『ええ、そう、掘るんですよ』
だけど、たった一人にとっては違っていた。
このお話の主役である彼女は、率先して壁に穴を掘り続けていた少女はウットリと、
まるで恋をしているかのようにその頬を緩めて周囲へと笑いかけたのだ。
『だって、壁はまだそこにあるんだから』
「だって、壁はまだそこにあるんだから……かぁ」
思わずふぅっと息を吐いた。
重ねた台詞は全く別の物に聞こえた。
舞台に送られる拍手がまばらに響き、長い出し物が終わったことを私に告げる――
そんな中で、最低限このレベルの演技が求められているという事実を再確認して肩が重い。
「雪歩ちゃんってば、普段と違い過ぎるって」
ついそんなことを漏らしてしまったけども、
きっと他に誰もいない部屋じゃ少しぐらいの泣き言は許されるよ。
……私はプレイヤーの再生を停止すると、パソコンの電源を落として椅子からベッドに移動する。
そうして枕に乗せた頭で考えるのは、どうしてこの役が自分に回ってきたのかという、
今更どうにもできない自らの境遇についてだった。
芸能事務所、765プロダクション所属アイドル候補生高山紗代子。
それが十七の私が持つ肩書き。
高校生という世界の枠からは少しだけはみ出てみた結果。
三年生を迎えてから努力の証に得た勲章。
けれども私は、昔からアイドルになろうと夢見て生きてたワケじゃない。
幾重にも重なるケミカルライトが揺れる波間、
その向こう側にあるステージで歌い踊る人達というものは、
当時、その眩しさに目を細める存在足りえても、
私自身が憧れる対象には決してなり得なかったのだから。
でも、だからこそその場所をゴールに据えてみたと言える。
本気でアイドルを目指そうと思ったのは、それが自分から一番遠い存在だったからだ。
困難な目標を見事にこなしてみせてこそ、私は変われると頑なに信じ、
取り巻く環境も何かしら変化するものだと思い込んだ。
少なくとも、オーディションに挑戦し始めの頃は精神的にも前向きで、
私は自分が以前の状態にまで持ち直したような気だってしてた。
だけど私は、すぐに自らの実力不足を痛感する羽目になってしまう。
受けるオーディションの結果は連戦連敗。
元々容姿に自信があるワケでも、特別ダンスや歌が得意でもない。
まして受験勉強なんかとは違って
合格の為のハッキリした対策だって無い世界だ。
人に自慢のできる取り柄も無い、武器となる一芸も持たない私にとって唯一の物と言っていい、
アピールポイントとして毎回のように口にしていた「やる気がある」という言葉が、
実のところは追い詰められ、後にも引けなくなったカラ元気を撒き散らしてる姿だったと気づいたのは、
恥ずかしいな、765の面接官だったプロデューサーに拾われた後の世間話。
「君を合格にしようと思わされた、その元気がカラ元気だったとしても良いじゃないか。
そういうのをさ、根性があるって言うんじゃないの」
偶然にも、私と同じ型の眼鏡をしていた彼はそう言ってにへらと微笑んだ。
それは入所後の面談も兼ねた事務手続きの席でのことで、屈託なくかけられた言葉は、
それまで私の体を縛っていた緊張の糸を容易くほどき――彼の前で涙を見せたのはこの時が最初。
あれ以来、涙腺が随分と緩くなってしまった気がするけど。
それは誰にも聞かせられない私の小さな秘め事だ。
……さて、そんな『39プロジェクト』オーディションとの出会いを経たことで、
私は晴れて765プロライブ劇場の一員となった。
何度もの不合格を経験した末に、
ようやく一流アイドルを目指すという目標の第一歩を踏み出した形になる。
とはいえ、所属して暫くの間は候補生という括りに同期のメンバーとまとめられ、
元々は臨海公園が作られる予定だったという、海沿いの広々とした土地に建てられた劇場施設でみっちり基礎を鍛えることに。
そうしてふた月もすれば体の方も慣れ始めて、
心にも幾らかの余裕が生まれた頃、私たちは唐突な話を聞かされることになったのだ。
「君たちは今度の公演で舞台デビューだ」
それは、ある日のレッスン終わりのことだった。
私を含めた五人の候補生を呼び集めたプロデューサーは、
いつもの柔和な笑顔を崩すことなくそう言った。
アイドルデビューとは言われなかった。
私と同じことを疑問に思ったのだろう。
一列に集められた中で最年長だった琴葉さんが、
まるでその場のみんなを代表するように質問するため手をあげる。
「プロデューサー、それは私たちからも候補生の肩書が外れるということでしょうか」
訊かれた彼が頭を掻く。でも、私たちが一番気にする点はそこだ。
だって、デビューの形はどうあろうと、
人前に出るということは活動が本格化することを意味するもの。
だけどプロデューサーは、問いかけるような視線を浴びせる私達一同の顔を見回すと。
「いや、本格的なデビューはもうしばらく先の話になる。
難しく考えることじゃないさ。これはまぁ、レッスンの次のステップだよ」
「つまり、私たちの瀬踏みですか」
「……もう少し気楽に、実習だと思って欲しいなぁ。君たちは大人組や桃子らとは事情も経験も違うんだ。
なるたけじっくり、段階を踏んで仕上げたいってのが俺と事務所の考えでね」
そうして彼は、「それともだよ」と琴葉さんと真っ直ぐ目を合わせ。
「君としては折角集めた原石でも、一山いくらの状態でこのまま売る方が良かったかな?」
言われた彼女が僅かに首をすくめる。
実習という例えを聞いて、誰かが安堵の息を漏らす。
質問に答えてもらった琴葉さんが「わかりました」と頭を下げると、
プロデューサーは機嫌よく頷き手を叩いた。
「とにかく、トップアイドルへの道も一歩からだ。
ステージで必要な度胸と経験をつける為にも、みんなで端役から頑張ろう!」
「おーっ!」と、彼と一緒に拳を突き上げる人がいる。
反対に、待ち受ける不安から体を震わせる気弱な人も確かにいて。
私は自分の隣で青くなっている可憐ちゃんの肩をポンと叩くと、
ドキドキするけど一緒になって頑張ろうね、なんて偉そうに励ましてみたりするのだった。
……本音を言えば自分だって、不安で一杯だった癖に。
とはいえプロデューサーの言った通り、
その不安や恐れを払拭するために用意されたのが劇場と言う名の舞台だった。
765プロライブ劇場では、平均週に二、三回、公演という形で何らかのショーを披露してる。
何らかの、なんて私の歯切れが悪いのは、
この劇場の扱う演目の種類が多岐に渡っているせいだろう。
そもそもがアイドル事務所の施設なので、歌やダンスのパフォーマンスを見せるライブをするのは当たり前。
でもそれ以外にも劇場では漫談、講談、コントにお芝居、朗読会から演奏会、
時には大掛かりなマジックショーなんて出し物まで。
曰く、ともかく既存の枠には収まらない、
バラエティ色こそが765プロの強みなんだとか。
当然、私たち新人アイドル候補生は、先輩たちが行う舞台のバックダンサー以外にも、
こうした演目のお手伝いだってすることになる。
つまり、それがプロデューサーの言った私たちの舞台デビューであり、
度胸をつける為の大事な修行だったワケだ。
「大事なのは舞台に立ったって経験なの」と、
メンバーの中では唯一本格的な演劇経験を持つ琴葉さんは言う。
――彼女は高校で演劇部所属なのだ。
「緊張の初舞台は誰にだってあるわ。
もっと言えば、どれほどベテランになったって新しく演じる話は全部そう。
だからこそ、舞台に立ったっていう共有可能な経験を、
少しでも多く積んでおくことが何より自分の自信になるの」
五人揃って初めてのミーティング。少なくない不安に揺れる私たちに、
琴葉さんは一歩先を行く経験者として完璧なまでの演説をぶってみせた。
するとミーティングルームの机を囲むうちの一人、
のんびり屋の美也さんがそんな彼女の言葉に肯いて。
「おぉ! それは将棋においても同じですな~。
私も初めて戦う相手よりは、数をこなした相手の方がやり易いです~」
なるほど分かった! というようにポンとその手を打つんだけど、
納得が自分の中で完結してるのか、彼女はニコニコ笑って細かい説明までは口にしない。
それでも何とか理解しようとすれば、対局経験数は無駄にならない……
なんてことを言いたいんだろう。多分。
実際、隣に座るエレナちゃんなんかはいまいち理解してないようで。
「つまり当たって砕けろチャレンジの、チリも積もって大和晴れだネ!」
なんて元気よく指を鳴らした後。
「な、習うより慣れろの方が……。失敗はしなさそうで、縁起は良いんじゃ……」と、
向かいに座る可憐ちゃんからオドオドとしたツッコミを貰ってるような有様だった。
生まれはブラジル、小さな頃に日本(こっち)へ引っ越してきたというエレナちゃんが披露した、
ちょっと怪しい慣用句のパレードに琴葉さんがやれやれと首を振る。
「とにかく!」
そうしてパンッ、と手にしていた台本をひと叩き。
みんなの注目を集めると、もう既にチームの中のまとめ役に収まりつつあった彼女はこう言った。
「初舞台がバックダンサーじゃなくて、お芝居なのは僥倖だわ。本を読んだ限りだと五人に振られた出番も多くないし、
これだったら誰かが台詞をとちっても私がすぐにフォローできる」
「頼りにしてるよ、コトハ!」
「ありがとうエレナ。でも、だからってさっきみたいな適当なことわざ使ってちゃ、練習で怒られちゃうんだから」
琴葉さんの冗談めかした御忠言でその場に小さな笑いが起きる。
どうやら今回集められたメンバーの相性は悪くないみたいだ。
……と、雰囲気が明るくなったところで、
そんなことを考えていた私と琴葉さんとの目が合った。
「そういえば、紗代子はどう?」
「えっ」
「不安に感じてることがあるならこの場でみんなに言っておいてね。
その為のチームミーティングなんだもの」
「わ、私は……」
笑顔で訊かれて、戸惑う。
自分自身の抱く気持ち。
初舞台に対する期待と不安と興奮は、正直言って中途半端。
私はエレナちゃんほど後ろも見ないで走れないし、
可憐ちゃんほど手当たり次第に不安を感じてるワケでもない。
だからって、美也さんみたく堂々と微笑んでもいられない。
それはつまり、今の私は、どんな方向へでも転がっていけるってことでもあるんだろうけど。
「――不安はあまり感じてません。
だって、この五人が力を合わせれば、壊せない壁なんて無いと思いますから!」
私は震える指を握り拳。自分には武者震いだって言い聞かせて、
みんなを不安にさせないようできるだけ元気にそう答えた。
後ろ向きな言葉を形にしたくなくて、
琴葉さんが求めていた答えとは少しズレた感じになった気もするけど。
……それでも美也さんがむふふと頬を緩め。
「そうですね~。どれほど困難な壁にぶつかっても――」
「うんうん! 五人でドカンと砕けちゃおっ!」
「だ、だからそれじゃ、壊れちゃうのは私たちですから……。力加減は程々で……」
さらには三者三様の反応を受けた琴葉さんが「そうだね」と一同の顔を見回して。
「足りない部分は補うから。とりあえずは最初のレッスンを頑張ろうね!」
そう言って話を締めくくる。案の定、その後の話し合いで
チームのリーダーは琴葉さんに決まった。
ちなみに私は副リーダー。
始めは柄じゃないって断ったんだけど、
琴葉さんからも「紗代子だと安心できるから」なんて言われちゃうと……。
急に気分が大きくなって、ココならこんな私でも頼られる事が嬉しくって、
つい、「そこまで言うなら」なんて安請け合いをしてしまったのだった。
だけどそうして、私たちの実習チームは着実に経験を重ねて行った。
初めこそ勝手が分からないから手間取ることもあったけれど、
琴葉さんが最初に言った通り、数をこなすのは度胸のレベルアップに効果的で。
例え一度の出番は短くても、何十回とお客さんの目にさらされて舞台に立つうちに、
気の弱かった可憐ちゃんでさえ見違えるように成長して――。
「サヨコ大変! 帰ってきたカレンが倒れちゃった!」
「でも今日は最後の出番まで頑張ったよ。ほら、立てる? 私が肩を貸したげるから」
「う、うぅ……。す、すみません紗代子さん。……あ、安心したら、力が抜けて」
――うん! 間違いなく成長してる!
以前は開演のベルを聞いた途端に気絶することだってあったもんね。
さて、そんな風に私たちのチームが少しは物になった頃だ。
五人はいつかのようにプロデューサーに呼び出されてレッスンルームに揃っていた。
とは言っても、あの時と違うことだってある。
それはメンバーの顔から余計な緊張が無くなっていたことと、
プロデューサー以外にもう一人、別の大人が同席してたこと。
「さて諸君!」
パンと両手を打ち鳴らし、プロデューサーがこの場の視線を集めながら言った。
いつものようなにへら笑い。眼鏡の奥はへの字の瞳。
アイドル達からはもっぱら胡散臭いと評判の笑顔を本日はさらに際立たせて、
彼はぐるりとみんなを見回すと、自分の隣に立つ細身の男の人を芝居がかった身振りで紹介する。
プロデューサーよりは少し年上、三十歳前後ぐらいの鋭い針金みたいな人だ。
「こちら、劇団唐変木の木無塚さん。君たちの演技レッスンを
何度か指導しているから見知っているとは思うけども、今日は大切な話があって来てもらった」
「どうも、無理やり叩き起こされてきた休日出勤の木無塚です。
コイツときたら善は急げとばかりに無茶言って――」
「あっははは……でも塚さん、鉄は熱いうちにってね。
実は今度、君たちがメインでやる舞台脚本を彼にわざわざ書き直してもらったんだ」
「お陰でこの数日は睡眠を削ったよ。全く、これだから勢いだけの企画屋ってのは」
「そんなこと言って、直すなら自分がって引き受けたのは塚さんでしょ」
そうして、目元にくまを作っている木無塚さんは、
ぶつぶつとプロデューサーへの文句を続けながら私たちの前に一冊の台本を掲げて見せる。
それは先ほど説明があった通り、私たち実習チーム用の単独公演
――つまり、日頃の練習成果を発表するテスト公演みたいな物だ――の為に準備されたらしい劇の本。
表紙には大きな文字で『壁を掘る人』と書いてあった。
本を手にした木無塚さんが言う。
「これは昔、まだ765に劇場なんて無かった頃に書いた話でね。
主演はこの山師が売り出そうとしてた男嫌いのお嬢さん――」
「雪歩ですよ」
「そう、あのお嬢さんと一緒に他数人。あてがきで書いたオリジナルです。
なので今回、この劇を君たちにやらせたいってコイツの話を聞いた時に、
だったら手直しの必要があるなと書き直したのがコレになります」
すると、説明が一区切りされたタイミングで琴葉さんが小さく手をあげた。
「質問かな?」プロデューサーが腕を組み訊けば、彼女は「はい」と返事をして。
「あの、次の発表で私たちがその劇を演ることは分かりました。
でも、あてがきということは、既に配役が決まっているってことですよね?」
彼女の質問を受けた木無塚さんは「勿論」と答えて肯いた。
私の隣ではエレナちゃんが、同じく隣の美也さんに「アテガキって?」と声をひそめて内緒話。
「あてがきですか~? お手紙を出すときに書いておく、相手の住所と名前のことですよ~」
難なく答えているけども、先の文脈から察するに、
今話してるあてがきとは全く別の物だろうな。
案の定、そんなことも知らないのか? とでも言いたげに顔をしかめた木無塚さんが。
「あてがきを簡単に説明してしまえば、用意する役を演じる者に合わせて書くことだ。
例えば、君たち二人の役にそれぞれサッカーと将棋の趣味を持たせたりね」
正しい"当て書き"の解説を披露して、目を細めるように嘆息する。
……やれやれどうもって感じかな?
でも、エレナちゃんたちは彼の言葉に驚いたような声を上げると。
「ワタシがサッカー好きなの知ってるノ!?」
「将棋についても言い当てられてしまいました……!」
凄いというより気味が悪いといった様子で二人が木無塚さんを見た。
すると彼は、フッと口角を上げるようにして「何、褒められるほどの知識じゃない」なんて。
「塚さん、塚さん。アナタ、褒められてるんじゃなくて気味悪がられてるんですよ」
「なにっ!? どうしてそんな反応をされなきゃならんのだ。
こっちはね、今回の直しの為に五人のプロフィールから何から読み返してイメージを膨らませたってのに」
「それでも趣味がどうこう急に言われちゃって。警戒しますよ、普通」
「なんだと! 自分だって訊かれれば嬉々と答えておいていけしゃあしゃあ――」
「そりゃ、彼女らの人となりを売り込むのが俺の仕事なんですから。多少は饒舌になりますって!」
木無塚さんとプロデューサーとの応酬がにわかに口論じみてくる。
二人の放つ険悪ムードに可憐ちゃんが隣で怯えだす。
この場をどうにか収めなきゃ。そう思った矢先に琴葉さんが二人の会話に割って入った。
――たちまち、二言三言のやり取りで速やかに鎮静される事態。
私がやってもこうはならない、その手際の鮮やかさは流石に委員長とあだ名されるだけのことがある。
余談だけど、実際に学校でも委員長を務めているらしい。
「……少し見苦しいところをお見せしたね。それで、先ほどの質問を答えようか」
仕切り直すような咳払いを一つ。
身の置き所を探すような口ぶりで木無塚さんは断ると、改めて私たち五人と向き合った。
そうして、彼から渡された台本をプロデューサーが一部ずつみんなに配っていく。
受け取れば、見た目の厚みの割りにある重さに少しだけ気持ちが後ずさる。
でも、始める前からこれじゃいけない。
私は本を両手でしっかり持ち直すと、木無塚さんの話に耳を傾けて、
次の瞬間、驚きにソレを取り落とした。
……なぜならば、だ。
「今回の話で主役を演じてもらうのは、高山紗代子、君だ」なんて冗談には聞こえない宣告を、
私はみんなの前で言い渡されてしまったのだから。
どうして私が? そう思った。
琴葉さんじゃないの? とも思った。
木無塚さんから「主役は君だ」と言い渡され、
混乱した私はそのあとの説明も殆ど上の空になって聞いていなかった。
メンバーにはそれぞれ睡眠と引き換えに生まれた台本と、かつて使われた古い台本の写し、
それから雪歩ちゃんが演じた公演の内容を収めたDVDが手渡された。
「準備期間はおおよそ一か月。本番はたったの一度きり。
なるべく練習を見てあげたいけど劇団の仕事もあるもので、
こちらに顔を出す機会はそう多くは取れないと思います」
言って、木無塚さんがジトッとした目つきでプロデューサーを睨みつける。
「……こうなったのも半分はお前のせいだからな」
「桃子たちのこともよろしく頼みますよ」
二人のやり取りから推測すると、どうも自分たち以外にも
劇団のお世話になるアイドルがいるようで、木無塚さんがメインで携わる仕事はそっちらしい。
今回脚本を書き直したのはそのついで、
といったような会話が私たちの前で広げられる。
……しばらくすると、こちらが手持ち無沙汰で待っていることに気づいたプロデューサーが言った。
「まっ、込み入った話は酒の席に。早速だけど君たちには、
今度の話がどんな物かを一通り見てもらうとしよう。……エレナ、足踏みするのを止めなさい!」
そうして用意されるプレーヤー。
暇つぶしのステップを止められてむくれるエレナちゃん。
私たち五人は画面の前へと集まると、再生された映像に注目して目を凝らす。
映し出された舞台は当然ながら劇場じゃない。
「市民ホールだね」誰が答えるでもなくそんな言葉が聞こえてきた。
ざわめきの中、照明が落ち、いよいよショーが幕を上げる。
『その世界は四方に壁があった』
語り部の声が響く。
ステージに用意された西洋風の街のセット。
右へ左へ、往来を賑やかに行き交う人々。
レンガ造りの建物が並んだ舞台の奥には、
スクリーンで表現された大きな壁が映っている。
語り部の声が、続く。
『唯一の街を囲むようにして壁があった。
岩壁は天高く雲をつかむようにそびえ立ち、人々は壁の中の世界で暮らしていた。
誰も疑問は持たなかった。なぜなら街が生まれるその前から、壁は変わらずそこにあったからだ。
何年も、何年も、人々は変わることの無い平穏の中で過ごしていた。
……だがある時、一人の少女がこう思った』
そうして、行き交う人々の流れに紛れて舞台の中央までやってきた少女が突然その場で立ち止まった。
左右へはけていく人波。少女だけが一人残される。
彼女は顔だけを向けてそびえる壁を一瞥すると、
今度は客席へと体ごと向いて喋り始める。
『あの壁の向こうには何があるんだろう? 大人たちは無駄なことだと言うけれど、私はそれを確かめたい。
こんな街に、こんな場所に、引きこもって終わる一生は嫌だ!』
まるで叫びかけるように言う彼女は私の知ってる人だった。
萩原雪歩。
同い年の、それでいて私よりも先にアイドルとして活動している少女が見せる、
まだ初々しさが残る時代の姿がそこにあった。
劇は順調に進んでいく。登場人物も次第に増えていく。
街を取り仕切る立場にいる男装の麗人(こちらも私が知ってる人。菊地真ちゃんが演じていた)に、
雪歩ちゃん扮する主役の少女が虚空を指して『見てください』と語りかける。
『空の流れは壁の向こうへと続いて行く。
それはつまり、あの先に世界が広がっているという証拠。
私はそれを確かめたい。もしかすると、あの壁を越えた先には
この街のような場所があるかもしれない。新しい出会いが待ってるかもしれない』
『だが、実際に壁の向こうを見た者などいない。よじ登ろうにも険しすぎて、
今までにもいた君のような愚か者は、誰一人生きては帰らなかった』
『だから私は壁に穴を掘る。このシャベルで!』
そう言って雪歩ちゃんが、いつも使ってる愛用のシャベルを頭上で高く掲げて見せた。
……実際、彼女は恐怖や羞恥が自分の許容を超えた際に、
自身の身を隠す為の穴を作り出すという不思議な特技を持っている。
それは雪歩ちゃんを知る人なら誰でも知ってる情報で、
恐らくはこれが木無塚さんの言う当て書きの結果なんだろう。
『正気じゃないな』男装の真ちゃんが切り捨てる。
相手を蔑むように見つめながら、
彼女はそれがどれほど馬鹿げた計画なのかを淡々とした口調で指摘する。
『壁を削るには大変な労力が必要になる。それにアレがどれほどの厚みを持つかも知れていない。
記録によれば大昔に一度、街ぐるみで横穴を掘ったそうだけども』
『知っています。昼夜休まず掘り進めて一か月。
どこまで行っても果てはなく、結局は諦めて引き返してしまったそうですね』
『ならばなぜ馬鹿げたことをしようとする? 大の大人数十人がかかってそれだ。
君のような小娘一人の細腕で、アレを穿つだなんて夢追い事だと分かるだろう!』
けれどもだ。シャベルの少女は凛と背筋を伸ばしたまま、
麗人の視線を撥ね退けるようにして言い切った。
『できます! なぜなら私には夢がある。追うべき夢と街一番の掘削の腕がある。
例え住人の全てに反対されようとも、私は私の夢を追い、あの壁に大穴を空けて見せる!』
『だったらもう君を止めなどしない、勝手にしろっ! だがな、ボクは言っておくぞ。
あの壁の向こうには夢でなく、厳しい現実が待ってるだけかもしれないと』
二人の間に火花が散る。
麗人が『絶望だよ!』と一言吐き捨て舞台の袖へと去っていく。
劇の前半はそれで終わり、私たちはただただ食い入るように画面を見つめていた。
――これを、演じなくちゃならない。
そう思えば、自然と身震いする体。
続く劇の後半は、少女が一人、
壁に穴を掘り続けるシーンを中心に進んでいく。
他の住人達から理解を得られず変り者扱いされる彼女。
どこまで行っても穴は暗く、一人での作業にも限度がある。
けれど、少女は諦めない。
ここで彼女が、穴を掘ることが好きだというバックボーンが語られる。
だからこそ街一番の掘削術を持っているという理由も説明される。
――穴を掘るのは、楽しい。
だけど、それでも挫けそうになってしまった彼女の元へ、心配した友人の一人が声をかける。
「おー、ワタシもああいう演技をしなきゃダメなんだナ~」
先に配役を台本で確認していたんだろう。
独り言のようなエレナちゃんの呟きがみんなの耳に届いた。
それからすぐに、可憐ちゃんと美也さんの担当する役も登場して。
「みんなで一致団結して穴を掘る。まるで演じる私たちみたいですね~」
「で、でも。琴葉さんの役が足りませんよね……?」
「私はあの、麗人役がそうだから」
「麗人役って悪いコトハ?」
「それだと琴葉さんが悪役みたいじゃない。……あ! 噂をすれば出てきたよ」
そうして、物語はよくあるテンプレートをなぞり出した。
『君の戯言を証明するためだ』なんて口では文句を言いながらも、
シャベル少女の熱意にほだされて、麗人は街ぐるみでのサポートを開始する。
一人だった頃とは比べ物にならないスピードになって進む作業。
主人公たちのささやかな交流を挟みながら、
次第に思いは一つとなり、登場人物たちは一丸となって穴の中をドンドン進んでいく。
前半じゃ息詰まるように大人しかったバックミュージックは明るく奏でられて、
穴を掘るという演技をする誰も彼もが大変そうでも笑顔だった。
特に、雪歩ちゃんが穴を掘っている時の楽し気な演技と言ったらもう!
……まるで役が乗り移ったかのように
意気揚々とシャベルを振るう彼女の姿はまさにハマり役で、
それは画面を見ているみんなが「凄いね」と口々に賞賛する程の出来栄えで舞台に躍っていた。
『ひとつ掘っては、父のため……。人を呪わば穴二つ……』
ただし、彼女が作業中に口ずさむ歌については、
どうなんだろうと首を傾げてしまったものだけど。
それでも舞台にはハッピーエンドの予感が溢れていて、
それを感じさせるだけの会話や演出だって沢山あった。
仲間に囲まれながら穴を掘って、『幸せだな』なんて言葉を呟くシャベルの少女。
――けれども、物語の終わりはあまりに突然に、随分とあっけなく訪れてしまったのだ。
「大失敗だったの」
彼女はにこやかに笑ってそう言った。
対座する私と琴葉さんは次の言葉がすぐには出なかった。
その日、みんなからは『和室』と呼ばれる劇場内にある一室で、
私たち二人は『壁を掘る人』の主役を演じた雪歩ちゃんと机を囲んでいた。
理由は簡単。今度の挑戦は絶対に失敗できないと息まく私の為に、
だったら経験者から話を訊いて、役作りの参考にするべきだと指針を提示した琴葉さん。
そうして私たちは善は急げとプロデューサーに無理を言って、
忙しい雪歩ちゃんの時間をわざわざ割いてもらったのだ。
だけど彼女は、私たちが『壁を掘る人』を演じることになったと聞いて
「懐かしいな」と当時を振り返り、「あの劇は大失敗だったよ」というとんでもない言葉で追想に一区切りをつけた。
「失敗?」と、琴葉さんが釈然としない様子で訊き返す。
「うん、失敗。私じゃ、あの劇をハッピーエンドにできなかった」
「ハッピーエンドにって……。そもそもあの話自体が悲劇だよね?
みんなで頑張って穴を掘って、だけどその先にはまだ壁があって」
「だからだよ。紗代子ちゃんも私の演技を見てそう思ったでしょ?」
そう言って雪歩ちゃんはまた笑顔。
レッスンルームで目撃した、恍惚とした物とは違う爽やかな風のような微笑み。
「あの頃は私、まだアイドルにだってなり立てで、色んな嫌なことからも逃げたくて。
そこに、プロデューサーがあのお仕事の話を持ってきたの。雪歩にピッタリの物語だって」
「それも、やっぱり木無塚さんが当て書きで?」
「そうだよ。……貰った脚本には私のことが書いてあった。
色んな言い訳を並べ立てて、嫌な物や場所から逃げようとする弱虫な私が主役だった」
琴葉さんの質問に答えてから、
目を伏せた雪歩さんは手元の湯飲みに口をつけた。
だけど、淡々と語る彼女の喋ってる意味が私にはちっとも理解できない。
少なくとも大半のシーンにおいて、劇中の彼女は強い意志で周りを引っ張って、
頑固に夢を追う熱い人間に思えたから。
とても演じた本人が言うような弱虫になんて見えなかった。……なのに。
「だからきっと、今の私にもう一度あの演技をしろって言われても……。
出来ないと思うし、それを紗代子ちゃんのお手本にしてもらいたくもないな」
「それは、あの演技が思わぬ会心の出来栄えだったから?」と琴葉さん。
でも雪歩ちゃんは小さく首を振ると。
「ううん、違うの。……生意気なことを言うようだけど、私はきっと、あの頃より強くなってるから」
彼女は、私と琴葉さんの顔を交互に見比べこう言った。
「だからもう二度と、あの日の演技は出来ないんだ。……真似する事なら、今でもできると思うけどね」
貴重な彼女との時間はそれで終わった。
プロデューサーが雪歩ちゃんを迎えに来ると、
和室には私と琴葉さんの二人が残された。
去り際を使って彼女が耳打ちしてくれた内緒話。
「実はね、余計な先入観を持たせないで欲しいって言われてたの」
その告白が私を驚かせる。
そうして申し訳ないような、でもどこか
期待をしてるような顔で雪歩ちゃんはこの場から去って行った。
まるで役なんて作らなくても大丈夫だよ、
なんて無責任に放り出されたような気もしてくる。
さっきまでしてた話の内容を反芻して、
私は何だか期待外れだったなと、がっかりしたようなため息を漏らす。
すると、そんな私に琴葉さんが。
「紗代子は、雪歩ちゃんの話が物足りなかったみたいだね」なんて。
「物足りないってよりも、惑わされたって感じです。煙に巻かれちゃったとでも言うか」
「でも、雪歩ちゃんに口止めをした木無塚さんたちの気持ちも……私は少し、分かるな」
琴葉さんが机の上で頬杖をつく。
私はそんな彼女の視線の先を追って、
壁に掛けられている『なんくるないさぁ』と書かれた掛け軸を発見する。
「私がいつもしてる役作りってね」
そうして琴葉さんは、ぽつりと呟くように話し出した。
「与えられた役を、自分に重ねることを意識しながら進めるの。
台本を何度も読み込んで、過去の公演があるならそれを観て、
演じる役の言葉遣いや立ち振る舞い、表情なんかを一つずつ丁寧に真似していく。
少しずつ、自分とは違う役の面影を重ね合わせていく。
理想と決めた完成系のイメージに、自分と役を擦り合わせるの」
「だけど琴葉さん、今回の分は当て書きだって。
そうなると完成系って言うのはつまり、役作りをしてない自分になりませんか?」
「だから先入観を持たせたくなかったんじゃないのかな?
雪歩ちゃんがさっき言った通り、彼女の真似をするだけの紗代子にはなって欲しくなかったから」
「……ううん、何だか難しいなぁ」
思わず頭を抱えた私を見て、琴葉さんが「だよね」と頷いた。
「でもそれが演技の楽しさだから。今回の課題は難題だね」
「それで、紗代子さんはどうしたいの?」と、目の前に座る小さな女の子は言った。
次いでストローの飲み口から唇を離し、半分ほどの量になったカフェラテの容器をテーブルに戻す。
ここは765プロライブ劇場内にあるラウンジ。
アイドルたちの憩いの場で、私は自分よりも遥かに年下な業界の先輩と席を共にしてた。
元子役アイドル周防桃子と言えば、齢十一にして事務所の誰より長い芸歴(キャリア)と共に、
デビューした時点で知名度だってある程度有していた鳴り物入りの穎才だ。
私みたいなオーディション組とは違ってスカウトで事務所に来たと聞くし、
事実、彼女は実習期間もそこそこに、大人組に混じって早々とデビューを果たしていた。
それを可能にするだけの実力も既に備えていたと言える。
そんな彼女に、私は今度の劇を演じる上でのアドバイスを貰いに来ていたのだ。
雪歩ちゃんと話した日からは既に一週間の時が流れていた。
本番までは、後半月の時間も残っていない。
「――後はそう、役作りは当然した方が良いよ」
頼りない後輩からの相談を受け、小さな女優は肘をついて語る。
「お兄ちゃんからも聞いてるけど、紗代子さんたちって今まで端役の経験ばかりでしょ?
今度は出番も台詞も段違いに増えただろうし、
桃子的には、舞台の上でよっかかれる物は多ければ多いほど良いと思う」
「それは、琴葉さんも同じことを言ってた。特に私は主役を演じるから」
「あー……。琴葉さんも、ね」
諸々の事情を聴き終わり、あらかた助言も語り終わり、
念の為だと私が持ってきていた『壁を掘る人』の台本に目を通して桃子ちゃんは呟く。
けど、その口ぶりは明らかな違和感を感じさせた。
奥歯に物が挟まった、なんて表現がしっくりくるほど普段の調子よりキレが無い。
私が不思議に思っていると、彼女は台本のページを捲りながら。
「あの人のことだから、さっき桃子が言ったみたいなアドバイスはみんな聞いてるんじゃない?」
「う、うん。昔の公演を始めて観たその日のうちに」
「だよね。……なのに紗代子さんは、桃子にもこうして助言を貰いに来てる」
桃子ちゃんは上目遣いで見上げるように、目だけをこちらに向けて言った。
人の心を見透かすような視線。「行き詰まったんだ」その一言に全てが込められていた。
「……そうだよ」
掠れるような声で、答える。
「私、あの子の気持ちが分からない。練習しても役が掴めないんだ。
……どうしてあんなに楽しそうに、当ても無く壁を掘れるんだろうって納得できないままでいる。
最後の結末を知ってるから、どうしたってそれがチラついて、いつの間にか笑顔でいられなくなってるの」
「でも台詞は覚えられるんでしょ? 初めてなら、人前であがらずにいれれば上々だよ」
でもそれは、私が知りたい助言じゃない。
思わず表情を硬くすると、桃子ちゃんは後ろめたげに小さく首を縮め、
音を立てながら持っていた本を閉じた。
「……役作りはね、自分を造り変えるんだよ」
そうして、謝罪の代わりに答え始める。
「演じる役になりきるの。本を読んで、想像して、その役がどんな考えを持ってるのか、
どんなことをする人なのかを自分の中に取り込んでく」
「それは、琴葉さんも言ってたかな。自分と役を合わせて行くって」
だけど私の言葉を聞いた桃子ちゃんは、眉間に皺を寄せて口調を強くする。
「悪いけど、桃子が言ってるのはお手本を真似するって話じゃないよ。
集められるだけの情報を集めたなら、それを元にして一から演じる役を形にしていく作業なの。
文字通り任された役に生まれ変わる。
例えば紗代子さんになれって言われたなら、脚本の中のらしくない部分を
説得して変更させられるぐらいのレベルまで、その人の考え方や行動を自分の中で組み上げるワケ」
こちらが驚いてしまうぐらいに刺々しい、らしくない桃子ちゃんの口ぶり。
感情を無理に抑えるような声音で彼女は一気に捲し立て、
「桃子が教えて貰った、役者として一番大事にしてる心構えなんだから」と突き放すように説明を終わらせた。
「でも、それも分からないような人たちが演技派だ何だって持て囃されて。
見る人が見れば、下手くそだってすぐわかるのに……みんな節穴ばっかりだよ」
さらには悲しそうに視線を伏せて、彼女はため息と共に肩を落とす。
私はなんて声をかけたらいいかが分からなくて、
ただ「あ、ありがとう。参考になったよ」と、その場しのぎのお礼を返すしかできなかった。
――これ以上は容易に踏み込ませない。
そんな目には見えないけど分かる拒絶のラインが私たちの間に引かれてたから。
「……ごめんなさい。少し、嫌なことを思い出しちゃったから」
別れ際、桃子ちゃんは私にそう言って小さな頭を下げた。
そうして再び顔を上げると、彼女はいつものようにしっかり者の女の子になって。
「だから一つだけサービスしておくね。……迷ってるなら動けば良いと思う。
自分でも経験してみなくちゃ、身に付かないことって結構多いんだよ」
目を開けると自室のベッドの上だった。
どうも、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
私は上体だけを起こして枕もとの時計で時間を確認する。
――パソコンの電源を落としてからは、まだ三十分も経っていなかった。
その割に、随分と深く眠っていたような気分がする。頭がスッキリ冴えている。
不思議とこれから自分が何をすればいいか、大まかな方針が胸に浮かんでいた。
私はもう一度机の前に戻ると、二冊の台本を並べて腕を組んだ。
この二週間、何度も何度も読み返したソレはどちらも相応にくたびれて、
でも、役を掴むための手助けには全くならなくって。……なのに今は。
「……やっぱりだ」
二つを読み比べて気づく。
むしろ、どうしてこんな単純なことに
今まで気づけなかったんだろうと自分の馬鹿さ加減に呆れてしまう。
木無塚さんは確かに言った。「君たちに合わせて本を書き直した」と。
それなのに新旧どちらの脚本も、主人公の行動や台詞には殆ど手が加えられていなかった。
私以外のメンバーが演じる役柄には、多くの変更が入っているのにだ。
(具体的な例を一つ上げるなら、エレナちゃんの役にはリフティングを披露するシーンが追加されていたりした)
これが彼の手抜きで無いとするならば、
木無塚さんはあえて変更を最小限に留めたんだろう。
つまり、それだけ私と雪歩ちゃんには多くの共通点があって、だけど、決定的な違いもあって。
『私じゃハッピーエンドにできなかった』
雪歩ちゃんの言葉を思い出す。
同時に、期待に満ちた顔をして私の前から去ったことも。
……それはもし、もしもうぬ惚れてしまってもいいならば。
彼女は私に、こう言い残したかったんじゃないだろうか?
私なら雪歩ちゃんと同じ役柄でも、この劇をハッピーエンドに導けるって。
「確かめなきゃ」
本番までの時間は残り少ないけど、
取るべき方法だけは霧が晴れたようにハッキリと分かっていた。
夜が明けるまでの動けない時間が勿体なくて、その日は中々寝付けなかった。
翌日、劇場を訪れた私は迷うことなく事務の美咲さんから鍵を預かって、
用具室からお目当ての物を探し出した。
ズシリと両手に伝わる重み。鈍く光を反射する無骨な作り。
普段は中庭にある菜園で使われてる頑丈さだけが取り柄のような大きなシャベル。
私は運動のできる格好に着替えると、それを本番さながらに胸に抱いて劇場の外へと持ち出した。
――見上げた空の天気は快晴。
劇場横に広がる砂浜に人影は私一人。
おあつらえ向きのシチュエーションに否応なく高まるボルテージ。
今日一日、時間はたっぷり使えるだけあった。
サクリと、最初の一挙は拍子抜けするほどにあっけなく。
でも、確かに突き出したシャベルにはひと掬い分の砂が乗って、
地面にも小さな小さな穴が空いた。
抱いた気持ちは始まりの予感。
それと後には引けないという思い。
地面に刺して、力を込めてすくい、取り上げた砂を穴の傍にドンドン積み重ねて。
淀みなく、リズムよく、手にしたシャベルを振るい続ける。
ザクザクサクリ、サク、サクリ……。そのうちに汗が流れだした。少しずつ息も上がってきた。
だけど眼下の穴はまだ小さく、人ひとりが隠れられるほどの深さもない。
振るう、シャベルを、砂をすくい。振るう、シャベルを、土をどけて。
溢れる汗、砂浜に吹く風が肌に張り付き気持ちがいい。
小さな頃、公園の砂場で遊んでた気持ちを思い出す。
大きな山を作っていた。大きな穴を作っていた。
暗くなるまで、親が迎えにやって来ても、夢中になって続けていた。
――どうして? 楽しかったからだ。
ただ穴を掘るというその行為に、見返りも求めず没頭した。
それだけ私は小さかった。きっと誰もが一度は経験するだろう、幼少期の頃の淡い想い出。
……だけど、今の私は少し違う。
誰にも見られてないと分かってても、やっぱり人目は気になるし、
とめどなく流れる汗が不快だなんて気持ちにもなる。
疲れたなんて思いもよぎり、なんでこんなことをしてるんだろうと絶え間なく疑問は湧き出てきて、
これが本当に役作りに繋がるのかって訝しむもう一人の自分がいる。
どうしたってあの頃みたいな素直な気持ちで穴は掘れない。
でも、今の私でもそれが出来た時は? ただ穴を掘ってるそれだけでも、
この上ない喜びを身体全部で感じ取って、幸福感に浸れるようになったならば。
「――あっ!」
ガツンと、シャベルの先端が何かにぶち当たった。
見れば、握り拳ほどの石が砂の中から顔を出していて、
それにシャベルをぶつけてしまったのだとすぐに気がついた。
屈み込み、拾い上げ時に、私は光が弾けるように答えの欠片を掴み取った。
そして同時に、雪歩ちゃんが言った失敗の意味と彼女の見せた笑顔のワケ、それに気づいて背筋を冷たくした。
彼女が今の私のように、たった一人で穴を掘っても諦め無かった理由は何だったか?
劇中、穴を掘りながら『幸せだな』と彼女は言った。
ラストシーン、『壁はまだある』と彼女は言った。
『弱虫な自分が逃げる話』だと雪歩ちゃんは恥じ入るように劇を振り返った。
誰も彼もが絶望に顔を濁した時、彼女だけは一人笑っていた。
こちらをゾッとさせるような、満面の笑顔を浮かべていた。
……それをどうして恐ろしいと感じたのか?
その答えは酷く単純な物で、なぜなら一緒に穴を掘っていた仲間たちとは――。
エレナちゃんに声をかけられた時、
私は自分の作った穴に膝から下を入れるようにして砂浜に座り休んでいた。
作業は長く続けていたと思うのに、
私はまだ精々それぐらいの深さまでしか穴を掘ることができてはいなかった。
……膝の上に乗せてるシャベルがとても重い。
実際に体感する以上に、迷いはシャベルの目方を容赦なく増やす。
「サヨコはここで何してるノ?」
そんな中、エレナちゃんは作業する私を見かけて砂浜までやって来たのだった。
その手にはサッカーボールが抱えられ、
私同様運動着に着替えている彼女は海風に長い髪を揺らし。
「もしかして落とし穴でも作ってたのカナ~? 誰を落とすノ? プロデューサー?」
「まさか! 誰も落としたりしないよ。
……私は少し、役作りの練習。エレナちゃんこそ何してたの?」
訊き返されたエレナちゃんが答える。
「ワタシも今度の劇の練習!
ワタシね、演技はあんまり上手じゃないし、台詞もとちってばかりだけど――」
そう言って彼女は持っていたボールを膝で軽く上げて、
落ちてきた所をパシンと両手でキャッチして見せると。
「だからこそ一番の見せ場はビシッとキメたいんだヨー! リフティングだけは完璧にこなして、
観てるお客さんに楽しんでもらいたいし、ビックリしてもらいたいからネ!」
笑顔で語るエレナちゃんを見て、私は素直に羨ましいなとそう思った。
彼女は今の自分に出来ることと出来ないことの区別をつけ、
その中でも特に結果を出せそうなことに時間と力を注いでいる。
その判断が正しいかどうかは問題じゃなく、
ハッキリとした目標を持って努力している姿が眩しかった。
――目標。そうだ、私にもそれがあったハズだ。
今日この場所にやって来た理由が。
思ってもなかったことに気を取られて、歩みを止めてる時間なんて必要ない!
「よっ……と!」
私は再びシャベルを握りなおすと、それを支えにして砂浜に立ちあがった。
エレナちゃんが興味津々といった様子で私のことを見てる。
私は彼女に見られながら穴掘り作業を再開する。
深く、広く、穴を大きく。今はがむしゃらでも何でもいいや、
探し物を見つけるまで私は掘ってみせるんだから!
そうして穴を掘っていると、いつの間にかエレナちゃんの姿は消えていた。
多分、砂浜だとリフティングだってやり辛いから、劇場の方まで戻ってしまったんだろう。
痺れた腕を振り上げて、額に流れる汗を拭い、潮風の中で一心不乱にシャベルを振るう。
正直な話、もう楽しいだとか何だとか、
役作りがどうとかいったこともどうでもよくなりつつあった。
確かなのは一つのゴールだけ。自分の腰の深さまでこの穴を掘る。
できたら今度は胸まで掘る。そこまで行ったら全身が入るぐらいまで掘る!
私は人より不出来な人間だから、きっとそれぐらいしないと見つけたい物を見つけられない。
そこまでやっても何一つ変わらないかもしれない。
でも、最後までやり抜いてみなくっちゃ、
それが正しいのか間違ってるのか判断することだってできやしない!!
「後悔することには慣れっこなんだぞぉ……!」
海水が染み出し、重くなった砂に負けないようにシャベルを持ち上げる。
息が切れて苦しいのは頑張ってる証だと思い込む。
日差しの暑さにだって負けてられない。
自分で自分に「頑張れ!」って心の中でエールを送る。
誰も応援してくれないのなら、せめて私だけは最後まで自分の味方でいてあげなくっちゃ。
「紗代子!」
その時だ。私は名前を呼ばれて動きを止めた。
掲げていた両手がダラリと垂れ下がる。
その勢いに膝が耐え切れずに、
慌てて地面に刺したシャベルを杖の代わりにして体を支える。
振り向けば、すぐ近くにプロデューサーが立っていた。
その隣にはエレナちゃんの姿だってある。
「なに一人で無茶なことをやってるんだ!」
プロデューサーはそう言って私のことを怒った。
まるで悪戯の現場を押さえたお母さんのような怒り方だった。
彼は砂浜に足跡を残しながらこちらにやって来ると、
へとへとになってる私をゆっくり地面へ座らせて、手にしていたハンドタオルを頭にかけてくれた。
「全く帽子も被らないで……。エレナ、飲み物を渡してやってくれ」
「うん!」
「プロデューサー、なんでここに?」
「何でもかんでもないだろう? エレナが教えてくれたんだよ。紗代子がビーチで穴を掘ってるってな」
エレナちゃんから缶入りのスポーツドリンクを渡されながら、
私はプロデューサーと目を合わせた。
心配そうにしてる表情。
慌てて駆け付けたんだろう、彼だって額に汗してる。
「聞いたぞ、役作りなんだって? ……それにしちゃ、やってることが不自然だろう」
私は眼鏡を外して顔から汗を拭い取ると。
「でも、劇に出てくるような壁に心当たりが無かったので……」
「だから砂浜相手に穴掘りか?」
「はい。丁度いい場所だって思ったんです」
訊かれたままに答えていく。彼が安堵と呆れを混ぜたため息を吐く。
私からジュースと交換するようにシャベルを受け取ったエレナちゃんが、
ザクっと音を響かせて穴から砂をすくい上げた。
「ワオ!? お、重いぃ……!」
そうして、ぎこちない動きですくった砂を土砂の山へ。
私と一緒に一連の動作を眺めていたプロデューサーが「へっぴり腰!」とヤジを飛ばす。
するとエレナちゃんはプーっと頬を膨らませて。
「ならプロデューサーもやってみてヨー!」
「いいけど俺の腕前はプロ級だぞ?」
両手で突きつけるように差し出されたシャベルを
不遜な態度で受け取って、今度はプロデューサーが挑戦した。
「はっ!」
掛け声一つ、エレナちゃんがすくったよりも遥かに多い量の砂をえいやっと彼は持ち上げて、
その両腕をプルプルさせつつシャベルの砂を山の上へ。
「なーんだ、ワタシよりフラフラしてる」
「よく見ろ! 量が二倍だ二倍」
「……あの、二人とも何しに来たんですか?」
子供みたいな言い争いに呆れた私が尋ねると、
二人は揃ってこちらを向いてこう答えた。
「勿論紗代子を――」
「手伝いに来たノ!」
まるで突然の出稽古をしているようだった。
自分たちが使う分のシャベルを取りに一旦戻ったプロデューサーは、
砂浜に実習チームの他のメンバーも一緒に連れて帰って来て。
「紗代子ちゃん、水臭いですぞ~」
「わ、私にもお手伝いさせてください!」
あれよあれよと言う間もなく、美也さんと可憐ちゃんも穴掘り作業の一員に加えてしまったのだ。
琴葉さんも後からタオルや飲み物を手にしてやって来た。
シャベルは三本しか無いから、漏れたメンバーは園芸用の小さなスコップで砂を掻き出すことになる。
だけど流石に、六人が一斉に穴を掘るだけのスペースは無い。
でも、劇中でも初めはそんな感じかもしれないとか、シャベルを動かすのはこんな動きなんだとか、
そういったことを一つずつ確認するお喋りをしながら作業は続き。
「そういや、これってどこまで掘りたいんだ?」
「とりあえず腰ぐらいまでの深さって聞きましたけど」
「このまま掘り続けたらブラジルにだって届くかナ?」
「おお! 夢は大きく、ですな~」
「と、途中でマントルなんかがあるんじゃあ……」
賑やかに過ぎて行く時間は、一人きりで作業をしてたら絶対に味わえない経験で。
……わざわざ自分の時間を削ってまで、こんな思いつきに付き合ってくれてる
みんなにどうにか感謝を伝えたくて、私は作業中しきりに声をかけて回る。
「手伝ってくれてありがとう」「無理してない?」「疲れたら遠慮なく休んでくれていいよ」って。
すると、一緒に掘り出した土を固める作業をしてた可憐ちゃんが。
「紗代子さんは……。い、いつでもそうやって、私たちを気にかけてくれますよね」
言われて耳を疑った。
別に当然のことをしているつもりだった私は、
訊き返そうにも彼女が恥ずかしそうにもじもじしてるのを見て喉まで出かかった言葉を引っ込めた。
その顔を普段よりもっと真っ赤に照らしたまま、
可憐ちゃんは自分のペースで続きを話す。
「……ほ、本番前に、頑張ろうねって声をかけてもらえると、
私、自分が強くなれるような気がするんです。
……出番が終われば、プロデューサーさんか紗代子さんの、どちらかが褒めてもくれるから」
そうして彼女は、「だから、怖くても最後まで頑張れて……。
その……。い、いつもありがとうございます!」なんて、大きく頭を下げたのだ。
私はそんな可憐ちゃんを前にして、驚き呆然と立ち尽くしているだけだった。
……私が勇気を与えてる? この私が?
学校じゃ堅物だって遠巻きにされて、
真面目になればなるほど煙たがられてるような存在なのに……。
ガツンと、頭を殴られたようなショックだった。
だって、劇場のみんながそんな私の振る舞いを少なからず受け入れてくれてるのは、
相談にだって乗ってくれるのは、そこに『お仕事』っていう最低限の繋がりがあるからだと思っていたからだ。
私が必要以上に見せてない、高山紗代子を知らないからこそ、
お互いに不快にならない距離を保ててるんだと思ってた。
なのに――。
「可憐ちゃん……」
思わず彼女の名前を呼んだ。
すると少女は照れ臭そうにはにかみながら。
「あの、もし、よかったなら……。こ、これからは可憐って呼んでください!
……その方が、気合も貰える気がするので」
目の前の彼女はオドオドと、それでも私が引いていた境界線を越えて見せた。
一瞬理解ができなかった。
私にとって、「さん」も「ちゃん」も必要以上に馴れ馴れしく、
また、よそよそしくしないためにキチンとつけてただけに過ぎない。
……嫌われたくない気持ちが苦肉で引いた、マナーを騙った卑屈な手口。
「……か、可憐」
「っはい!」
「可憐――」
「は、はい!」
「可憐……!」
「な、何だか気恥ずかしいですね……。改めて呼んで貰うのも……」
気づけば、「えへへ」と笑う可憐の前でポロポロと涙を流していた。
大粒の水滴がシャベルを伝う。異変に気付いた琴葉さんたちが心配そうに私のもとに集まってくる。
……大バカ者だ、私は。
少し考えれば気付けるようなことばかり幾つも幾つも見落として。
『お仕事』なんて薄い繋がりしかないのなら、どうして彼女たちが私に付き合ってくれるだろう?
一緒にこんなバカげた作業を見返りもなく手伝ってなんてくれるだろう?
「あ……ありが、とうは……。わたしの、台詞だよ……!」
言葉は酷くたどたどしく、でも、温かな歓迎をもって受け取ってもらえたように思う。
……少なくとも、この日を境にして私はみんなをメンバーではなく仲間と呼べるようになった。
そうして、やっと見つけたんだ。私の目指すべきゴールの形。
いつかに失ってしまっていた私が私でいられる場所を。
みんなで大きな穴を掘った。飛行機雲が流れる下で私たちは記念撮影をした。
目が潰れるほどの笑顔を撮られるの随分久しぶりのことで、
写真の子が自分だと気づくのに若干の間が必要になってしまうほどだった。
「うん、素敵な一枚です!」
あの日、どこからともなく砂浜に現れた、
事務所専属のカメラマンさんから渡された写真は机の上に飾ってある。
学校や劇場に向かう時に、それと睨めっこをするのは私の新しい日課となった。
――勝負の結果はいつもイーブン。
そうして『壁を掘る人』の本番が約一週間後に迫った頃、
久々に稽古場へ顔を出した木無塚さんが、
これからはほぼ毎回練習を見られるようスケジュールを押さえられたとみんなの前で告白した。
犯人は勿論プロデューサー。
でも私は、そんな彼を増々不機嫌にさせるような提案をしなくちゃいけなかった。
仲間と未来に進むために、最高の景色をみんなに見せるために。
「だからなるべく、後ろ向きな台詞は言いたくありません」
自分で手を加えた台本。紙がくたびれるまで何度も何度も読み直したそれを、
私は一度目の通し稽古終わり、木無塚さんに呼び出された時に持っていった。
パイプ椅子に座って稽古を眺めていた彼に、「ちょっと来て」と言われた理由は分かっていた。
私が演出を無視したからだ。
劇中でシャベルの娘が自信を無くしそうになるシーン。
その殆どにおいて私は自分にエールを送るアドリブを追加した。
他にも誰かと一緒にいる場面において、弱気になった相手を力強く励ます演技もだ。
「君はどうしてそんなことをしたの?」
私の渡した本を捲り、抑揚の無い冷たい問いかけ。
以前なら即座にビクついて、お話にだってなっていなかっただろう状況でも、
美也さんたちが心配そうにこちらを伺っている気配や雰囲気を背中に感じるそれだけで、
今の私は冷静に、自信をもって自分の意見をぶつけられる。
「それは、それこそ私の演じるシャベルの娘だと思ったからです。
初め、木無塚さんはこのお話を当て書きだって教えてくれました。
だったら私の演じるこの役は、もっと私に寄せても良いだろうと」
「勝手に思って変えたのか? 脚本を書いたこちらに断りなく」
「それも一度演技をお見せした後の方が、説得しやすいと思いましたから」
別に口喧嘩をしてるつもりはない。ただ、自分に正直になっただけだ。
雪歩ちゃんじゃない私だからこそできる演技。説得力あるその理由。
木無塚さんが台本を閉じてこちらに向きなおる。
その表情はまるで私のことを試すようで。
「確かに、君の演技は以前見た時よりハツラツとしていたね。
……穴を掘るシーンの途中で笑顔を忘れることも無くなってた」
「はい。ありがとうございます」
「だからこそ訊いてみたいんだよ。君は周防君に言ったそうじゃないか。
ラストシーンを知っているからこそ自分は笑顔になれないんだと」
その言葉にドキリとさせられた。
でも、どうしてそんなことを知ってるんだと動揺したってワケじゃない。
むしろ私は嬉しかった。きっとそれも、私の知らないところで桃子ちゃんが相談したりしていたんだろう……
他ならぬ私の悩みを気にかけて、彼女が自分の考えで喋ってくれたことなんだ。
「作り笑いを覚えたのかい?」
意地悪そうに木無塚さんが言う。
私は「いいえ」と首を振ると、絶対の自信をもってこう答えた。
「ハッピーエンドが見えるからです。穴を空けて見つけた壁のさらに向こう側へ、みんなを連れて行くだけのその形が」
私の答えを聞いた彼の眉がピクリと上がる。
「形だって? ……だが、君だって見ただろう?
あの壁の先には何もない空間があるだけかもしれない」
「なら、そこに新しい街を作ればいいんです。何も行き止まりってワケじゃないですから」
「穴は延々と掘り進められるかもしれない」
「だったら、トンネルを広げて空間を作ります。
どこまでも掘り進められるってことは、自分たちの世界を無限に広げられるってことじゃありませんか!」
そうして「詭弁だな」と呟く彼に向けて、私は強く言い放った。
「だからおかしいんですよ、それが。
どうしてあの話を書いた本人が、そんなに簡単に諦めようとするんですか!?」
稽古場中の視線が私に集まってくる。
でも、口をついて出る言葉は留まるなんてことを知らない。
「このお話、雰囲気は全体的にコメディタッチ。シャベルの娘も基本は強引に話を進める子で、
後半に向けて大団円の予感を感じさせておいて、一貫した諦めないってテーマが底にあって……
なのに最後の最後であんな結末に暗いムード。
多分、前の公演がああいう終わりを迎えたのは主演が雪歩ちゃんだったからです。
正確には、彼女の演じるシャベルの娘があまりに純粋過ぎたから……。
だから途中で取り違えた。彼女は演じてるうちに目的と手段が入れ替わった。
そうして主役が勘違いをしていたから、あの話は最後の最後でハッピーエンド足り得なかった」
私は驚き顔の木無塚さんを前にして捲し立てると、
唇を噛みしめて自分が見つけた『例の笑顔』の真相を彼に話して聞かせた。
木無塚さんの表情がみるみるしかめっ面に変わっていく。
稽古場に剣呑な雰囲気がじわじわ集っていく。
……それでも私は勇気を持って、これだけは最後まで伝えなくちゃならない。
本気を形にしなくちゃならない。心の弱気を飲み込んで、呼吸を整え口を開く。
「なので弱気な私を全部捨てて、
どこまでも前に進み続けるシャベルの少女を演りたいんですっ!
今度こそお話の筋書き通り、客席を含めた全員にラストシーンの先を見せたいから!」
「だから私は壁に穴を掘る。このシャベルで!」
そう叫んで頭上に掲げたのは、あの日に砂浜で使ったシャベルだった。
目線の先に並んだライトが眩しいけど、
私は不敵な笑みを絶やすことなく琴葉さんの次の台詞を待つ。
「正気じゃないな」
そして台詞が発せられた瞬間、サクリと、心臓を一突きにされたような気がした。
舞台の上に吐き捨てられた言葉はナイフのように鋭くって、
今、目の前に佇む人物がどれほど役を作り込んで来たかをヒシヒシと肌に感じさせる。
実際、寒気を覚えるほどの冷たさだ。
本気で彼女に嫌われていると思わず錯覚するほどの……。
だけど私は負けられない。木無塚さんに大見得を切った手前もある。憎まれっ子世に憚るだ。
観客席からの視線をその身に浴びながら何とか私は演技を続け、
琴葉さん相手に殴り合いのような台詞の応酬を繰り広げて、見事に彼女の口から「絶望だよ!」の一言を引き出した。
――劇の前半が、終わる。
袖に戻れば、今すぐその場にへたり込みたい気持ちをグッと堪える。
そうして目の前にいた琴葉さんに「凄かったです。さっきのやり取り」と感じたままの言葉をかけると、
彼女は「ありがとう」とこちらを見もせず歩き出した。
……きっと、ああいうのを本気の役作りだって言うんだろう。
今の彼女にとっての私はまだ、目障りなシャベルの娘なんだ。
その代わりに「良いじゃないか!」と声をかけてくれた人がいる。
舞台を端から見ていたプロデューサー。それから台本を片手に笑う木無塚さんだ。
「ここまでは君の演出通りだが。さて、その調子でラストまで体力は持つのかな?」
「持たせますし、ダメなら根性でやり遂げます」
舞台の間はプロデューサーに預けていた眼鏡を受け取りつつ、私が笑ってそう返すと。
「ちょっと塚さん。うちの紗代子を苛めないでください」
「よく言う。彼女の瀬踏みをさせた癖に」
「そうですよプロデューサー。私、スッゴク勇気を出したのに……。
アレが全部、役作りの出来栄えを試されていただけだったなんて」
二人から集中砲火を浴びて、「おっと、他の子の様子も見てこなくっちゃ」なんて、
プロデューサーはわざとらしく言って逃げて行った。
その背中を目で追いかけながら、私は思わず木無塚さんと一緒に笑い声をあげる。
「だが、まぁ、無理をしない程度に後半も頑張りなさい」
「……その約束は聞けないと思いますよ。
だって、最初から最後まで全力の演技。それが新生シャベルの娘ですから」
そうして労ってくれたお話の産みの親へと意気込みを語り、私はメイク直しに向かった。
……そうとも、彼に言った通り。
後半になれば前半よりもっと、この体が空っぽになるぐらい全力の演技をぶつけるんだ!
彼女の微笑みは狂気を孕んでいた。
なら今の私が浮かべる笑顔はなんだ?
客席に見せる顔はどうだ?
共演者に向ける表情はあれほど独りよがりな物か?
――そんなワケない! と私は胸を張って言い切ることが出来る。
時に、笑顔は人の心をざわめかすけど、基本的には相手の警戒を解く物だ。
見る者を安心させる物だ。私の笑顔はそうでありたい。
アイドルとしてステージに立つ以上は、そこがどんな場所だろうと見た人に勇気や元気や幸せや、
そういった物を分けてあげられる笑顔を浮かべて立っていたい。
その昔、ケミカルライトの隙間から覗き見た想い出の記憶の中のように、眩しく光る物でありたい。
誰かの憧れになれるような。誰かの背中を押せるような。
決して目先に転がる土くれに、安い幸せを見出して沈んでいくような笑顔じゃダメだ。
周りが未来を見てる中で、一人だけ先に満足して、俯いてるような笑顔じゃダメだ。
その為にも、私は誰より前を向いてなくちゃ。未来を先に見据えなくちゃ。
そこに立って、ゴールを切って、やってやれないことなんてどこにも無いぞって昔の自分に見せつけてやるんだから!
……だから、今は、このシャベルを。
音に合わせて、全身の力を振り絞って、
あの日にすくった砂に比べたら、空気なんて綿にも敵わないんだから――。
「風の匂いだ!」
可憐の台詞が舞台に響き渡る。
それを合図に、私は疲れ切った息を上げる仲間たちを励ますためのエールを送る。
スピーカーから流れる音楽と、シャベルを振るう際の効果音がタイミングを計る為の道具。
いくらセットがあると言ったって、目の前の空間に大きな岩壁は存在しない。
ただ、私の見ているその先に、自分を信じてくれる人と、笑顔を届ける相手がいるだけだ。
振るう、シャベルを。
見えない壁に穴を空けて、待ってる人達に想いが届くように。
踏み出す、足を。
土を踏み締め、新たな道を作るように。
次の台詞の為のカウントを意識。どれだけクタクタになっていても平気。
だって私の中のカラ元気は、飛び切り諦めの悪い代物だから。
私がアイドルとして通用するだろうってお墨付きを、あの人から貰った一級品の根性なんだから!!
「く、のぉぉぉ……!」
最後のカウントを振りぬいた。シャベルが壁を穿ち抜いた。
揺らぐ上体、気の抜ける体、でも、膝の踏ん張りを効かせて
私はその場に崩れ落ちまいと必死に歯を喰いしばって堪え、土の崩れる音を確かに聞いた。
背後でガツンと鈍い音が鳴った。
「――ご覧、ボクの言った通りだったじゃないか」
その言葉を合図に振り返った。
私の笑顔を出迎える役の琴葉さんは、
これ以上無いほどの絶望に満ちた表情でそこに立っていた。
流石の演技力だと内心思う。きっと彼女が主演だったならば、
シャベルの娘はここまでみっともなくヘロヘロな姿で立ってたりはしない。
でも、その姿が悪いなんてことを誰が決めた?
これがありのままに見せる全力なんだ。走り続ける私の姿なんだ!
私は息を整えると、不敵な笑顔を顔に浮かべて彼女と向き合った。
……そういう表情の参考にしやすい人が、何かと気にかけていてくれたのは実に幸運なことだと思う。
「か……壁の向こう側にはまた壁があった。
君はまだ、バカげた空言で穴を掘り続けましょうと言うつもりか?」
琴葉さんが僅かにその身を下がらせる。
アドリブの演出だろうけど、私のやり易いようにこの場を整えてくれたんだろう。
……そうして、そういう芸当が出来るからこそ、
彼女はシャベルの娘になれなかった。だから私がこの役に選ばれた。
「ええ、そう、掘るんですよ!」
私は一歩距離を詰めて、自信満々の笑顔で台詞を紡ぐ。
体が震えてるのは疲れじゃなくて武者震いだ。
聞く人に不安を抱かせないように、ありったけの元気を込めて言い放った。
それができるからこそ私がこの役なんだ。
どこまでも愚直で不器用な私だから、もしかしたらって思わせるんだ。
「だって、壁はまだそこにあるんだから!」
力強く、大見得を切って。
「私たちはみんなでたった今、不可能を可能にしたんだから!!」
この先があるってことを信じさせる。
ゴールを切っても次のゴールが用意出来ることを、物語に幕が下ろされても、
その世界の"その後"はちゃんと続いて行くってことを証明して見せる瞬間を――ここだ!
私はここで笑顔を見せなきゃならない。飛び切り最高の景色を見た笑顔。
毎日写真で見てるあの笑顔を。人から人へと伝えられる、高山紗代子の本物の!
舞台から袖に戻った私は、出迎えてくれたプロデューサーの腕の中へ崩れるように倒れ込んだ。
……立っているのがやっとの状態だった。膝は震えて、歯の根が合わず、
本当に出番が終わったのか、フワフワと夢の中にいるような気分で私は体を支えられた。
でも意識は徐々にハッキリしだし、割れんばかりの――なんて大袈裟には言えないけれど、
それでも確かな客席からの拍手の音が私を包む。
そうして傍に寄って来た見学の彼女。
悔いを残したままでいた少女はとめどなく涙を流しながら、
私に「ありがとう」と震える声でこぼしたのだ。
見れば、プロデューサーも涙してた。木無塚さんも満足そうに頷いていた。
エレナちゃん、美也さん、可憐が泣きながら私の体に抱き着いてきて、
琴葉さんだけが一歩引いた場所からみんなの様子を眺めていた。
……私はなんだか照れ臭くて、誤魔化すように「み、みんな、ちょっと泣きすぎじゃない?」なんて。
だけどすぐに、美也さんが鼻をすすりながら。
「そういう紗代子さんこそ、涙がちょちょぎれてるじゃありませんか~」
言われて自分の頬に触れる。確かに涙の筋がある。
「私、嬉し涙なんて初めて流してる……!」
驚いて、声を上げて……そう、そうだ。
これは悲しくて流す涙じゃない。弱さを悔やんで流す涙でもない。
今の精一杯を全力でやり切って、その結果に満足して流す嬉し涙。
少なくとも、今まで経験したことの無い理由で私が流す私の涙。
「紗代子が、それだけ今の舞台に全力だったって勲章だな。……とはいえ」
プロデューサーはそう言ってタオルで涙を拭ってくれた。
彼は他の子達の涙も同じようにして拭い取ると、いつものように小さくパンと手を鳴らして。
「これで人前に出られる顔になった。じゃあ次は、全力でお客さんの声に応えて来なさい。
カーテンコールが終わるまでは舞台の幕が下ろせないぞ」
その言葉でみんな気づかされた。未だ鳴りやんでいない拍手の音と、
私たちの準備が終わるのを静かに待っていたリーダーの存在。
「……もう、みんな大丈夫かな?」
「は、はい! すぐに準備をして――」
「コトハってば、黙ってないで早く言ってヨー!」
五人で並び、その手を繋ぐ。
送り出してくれるプロデューサーの笑顔を霞ますほどのスマイルを浮かべ、
繰り返しみんなと一緒に見たい、最高の景色を前にして私は気持ちを昂らせる。
夢を途中で諦めたりしない限り、私たちは何度だって感動の瞬間を掴まえられるってことを信じながら。
「諸君! 最後まで笑顔はタップリとだぞ? なんてったって君たちは――」
そうして背中へ投げかけられる声に振り向くと、私は大きく頷いた。
アイドルの笑顔を届けるために。
まだまだ駆け出しの新人だけど、掛けられた期待に応えるために。
口にした言葉は道になった。頷く彼が背中を押した。
――大丈夫、私はまだまだ進んで行ける。
「プロデューサー、行ってきます!」
新しく見つけたゴールは遥か先に。
一秒だって無駄にしない。
私は進み続けるんだ。
以上閉幕。
お読みいただきありがとうございました。
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