戻る

このページは以下URLのキャッシュです
http://portal.nifty.com/kiji/180903203840_1.htm


思い出の膳所(ZEZE)をZOZOスーツで歩く - デイリーポータルZ

 

特集 2018年9月3日
 

思い出の膳所(ZEZE)をZOZOスーツで歩く

この写真にはザ行が全て含まれています。
この写真にはザ行が全て含まれています。
滋賀県大津市に、膳所(ZEZE)という、ちょっと難読地名なエリアがある。

ここは僕が小・中・高校生時代の12年を過ごし、今のところ人生の中で一番長く住んだ場所なのだ。

とは言え、現在では実家も別の町に引っ越したし、他に立ち寄る要素もまったく無いため、長らく訪れていない。

膳所(ZEZE)、今どうなってるんだろ。ZOZO(ゾゾ)スーツ着て行ってみようか。
1973年京都生まれ。色物文具愛好家、文具ライター。小学生の頃、勉強も運動も見た目も普通の人間がクラスでちやほやされるにはどうすれば良いかを考え抜いた結果「面白い文具を自慢する」という結論に辿り着き、そのまま今に至る。

前の記事:「ジェネリックメンマへの挑戦」
人気記事:「夏休みの宿題で作った文房具図鑑がすごい」

> 個人サイト イロブン Twitter:tech_k

膳所でZOZOスーツが着たかった

ということで、ここは膳所駅前。

JR琵琶湖線の膳所駅と京阪石坂線の京阪膳所駅が隣接しているため、平日午前中でもわりと乗り換え客が行き来する場所だ。
個人的に、死ぬ前の走馬燈に出ること確実なぐらい思い出深い膳所駅周辺の景色。
個人的に、死ぬ前の走馬燈に出ること確実なぐらい思い出深い膳所駅周辺の景色。
6歳で京都からここに引っ越してきた時は「わー、電車が走ってる」とちょっとテンション上がったのを覚えている。
(当時の京都市内の交通網は絶対的に市バスだったので、電車が珍しかった)
それにしても、当時は平屋建てだったJR膳所駅がいつの間にか橋上駅舎になっていて驚いた。降りる駅を間違えたかと一瞬焦ったぐらい。
タゲだぶりに来た膳所駅。雰囲気ががっぱど違っちゅう。
タゲだぶりに来た膳所駅。雰囲気ががっぱど違っちゅう。
で、もう言いたくて仕方ないので言ってしまうけど、今回は単に「膳所(ZEZE)でZOZOスーツ」をやりたいがためにここまで来たのだ。ノスタルジーとか実はどうでも良くて。
ZOZOタウンの全身計測タイツ、ZOZOスーツが昨年11月に発表された時からこれをやろうと思っていて、ようやく届いたのが今年の8月。
つまり約9ヶ月温め続けた渾身の1ショットである。
タゲだぶりに来た膳所駅。雰囲気ががっぱど違っちゅう。(久しぶりに来た膳所駅。雰囲気がかなり違ってるなぁ)
タゲだぶりに来た膳所駅。雰囲気ががっぱど違っちゅう。(久しぶりに来た膳所駅。雰囲気がかなり違ってるなぁ)
さらに念を入れて、手には「ざざ虫の佃煮」を持ってみた。ZAZAである。滋賀県はなんの関係もなくて、長野県産だ。

関係ないといえば、キャプションも近江弁ではなく津軽弁だ。いわゆるズーズー弁(ZUZU)である。監修は五所川原弁話者であるライター西村さんの奥様にお願いした。

とどめに「膳所にいた頃を振り返る記事を書きたいから一緒に来てくれ」と適当なことを言って父親を引っ張り出した。
一昨年に弟のところに初孫が生まれたので、彼は爺(ZIZI)なのだ。

これで一枚の写真に「ZAZA」「ZIZI」「ZUZU」「ZEZE」「ZOZO」が揃ったことになる。
女子高生の集団に、すれ違いざまに「膳所でZOZOスーツや…」と呟かれた。ネタバレ早い。
女子高生の集団に、すれ違いざまに「膳所でZOZOスーツや…」と呟かれた。ネタバレ早い。
よし、やることはやって満足したし、あとは懐かしい町並みをぶらついて帰ろう。
(ここから先はただただ僕の個人的な懐かし話となります)

父の仕事と息子の小学校

さて、膳所駅から北側へ、琵琶湖をめざしてゆるーい坂を下りていく。
町名としては馬場(ばんば)というあたり。
父は基本的にシャイな人なのだが、息子がZOZOスーツ着て一緒に歩いていることに関しては「そういう仕事なんやな」とコメントしたきりだった。
父は基本的にシャイな人なのだが、息子がZOZOスーツ着て一緒に歩いていることに関しては「そういう仕事なんやな」とコメントしたきりだった。
父「膳所駅はだいぶ変わっとったけど、この辺は雰囲気変わらんな」
き「そういやお父さん、確かここらでテナントビル作ったよな?」
父「おお、そうな」

当時の父は京都で設計事務所を経営しており、僕が小学校から中学に入る頃(1985年前後)にはそんな仕事もやっていたのだ。
やたら忙しくしていてめったに家にいない父親が、平日昼に地元をうろうろしている、というのが珍しく、よく覚えているのだ。
そしてこの「覚えてる」に関してはもうひとつ別の理由もあるのだが、それはまた後述する。
30代の頃に父が設計したテナントビル。
30代の頃に父が設計したテナントビル。
父「おー、ここや。『VANVA 1』な」

住所が大津市馬場一丁目なので、VANVA 1。なかなか目の前がうっすら暗くなるような、地方感あふれるネーミングだ。
1980年代って、女性ファッション誌の『ViVi』が流行ってたからか、バ行を「V」で表記するのが流行って気がする。

父「小さいテナントビルやけど、あの頃は入居待ちがかなり出るぐらいには流行ったんや」

今では空きスペースも出ているようだが、それでもまだビルとして生き残っていてくれているのは、息子としてもちょっと嬉しい。

ちなみにこのVANVA 1のはす向かいが、僕の母校、大津市立平野小学校だ。
我が母校、大津市立平野小学校。OBとはいえこの格好なので「防犯カメラ作動中」の看板にビビってる。
我が母校、大津市立平野小学校。OBとはいえこの格好なので「防犯カメラ作動中」の看板にビビってる。
僕の世代は、大ボリュームゾーンの団塊ジュニア世代。
さらにその世代が入学するタイミングで学区内に複数の団地群が建ってしまったため、当時は児童数が1500人超という、近隣でも珍しいマンモス小学校だった。
母と僕と弟と入学式と。約40年前の写真。
母と僕と弟と入学式と。約40年前の写真。
45人学級7クラスという大編成でも最終的には教室が足らず、途中で急きょ新校舎(プレハブに毛が生えたみたいなやつ)を建て増していたっけ。
今のご時世だと児童も減ってるだろうし、新校舎とか持て余してるんだろうなー…と思ったけど、調べたら現在でも児童数は1100人以上いるらしい。後輩たち、今でもうじゃうじゃいるんだな。安心した。