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ネットが普及し、誰もが自由に不特定多数に向けて情報発信できる時代が到来した。ネットには人々の「生の声」が溢れ、今ではマスメディアも「人々の意見」として、ネットの声を紹介することが珍しくない。時にはネット世論の影響で、社会に大きな変更が加えられたり、企業や人々に批判が集中したりすることもある。
しかしながら、ネット世論を単純に「社会の総意」と考えるのは危険である。なぜならば、例えばテレビ局や新聞社などが行う世論調査とネット世論には、決定的に異なる点があるからだ。
直接訪問や電話などの手段を使った世論調査は、基本的に「聞かれたから答えている」受動的な発信である。例えば、政党支持率の調査であれば、普段はとりたてて政治の話をしない人でも、電話で聞かれたから「あえて」自分の支持政党を答える。
こうした調査は受動的であるがゆえに、「声を発するつもりのなかった人」の意見も反映しており、実社会の意見分布に近いといえる(ただし、現在マスメディアなどで行われている世論調査も、サンプルの偏りについて問題点が指摘されており、安易に鵜呑みにはできない)。
その一方で、ネット世論は「発信したい人が発信する」という、極めて能動的な動機に基づいて形成される。そもそも発信したいと思わない人は、たとえ自分の考えを持っていたとしても何も書かない。対して、「誰かに自分の意見を伝えたい」という思いが強い人は、何回も書き込み、声が大きくなる。
それだけではない。中庸な意見の持ち主が書き込みを行ったとしても、それに対して過激な意見や中傷が返ってくることは珍しくない。そうなると、その人は幻滅し委縮して、やがてネット上での発信に消極的になってしまう。実際、ネットでは政治やジェンダーの話題を避けているという人も、読者の中にいるだろう。
一方で、極端な意見の持ち主は、めったなことでは委縮しない。なぜならば、彼らは自己の正しさを強く確信しており、何度でも発信するし、何を言われてもくじけないからである。このようなメカニズムで、ネット上では極端な意見が過剰に出回り、偏った言論空間が形成されていると考えられる。
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