【モバマス】水曜日の午後には、温かいお茶を淹れて
相葉夕美、小日向美穂、佐藤心、八神マキノ、大沼くるみのお話です。
「あんたみたいな人、芸能界に居るべきじゃないと思う」
オーディションが終わった直後の控室の中、低くて冷たい声で、その人が言った。
「さっき言ってたよね。誰かを元気にするために頑張りたい、だっけ? じゃあまず、あたしを元気にしてよ。あんたが落ちて、あたしが通ったら、あたし超元気になれるよ」
私は何も言い返すことができなくて、ただ、その人の目を見つめ返すしかできなくて。
「中途半端な気持ちで来んの、迷惑」
そこまで言って――その人は、私の目のまえから、煙のように消えちゃった。ううん、消えちゃったと思ったのは私の勘違い。控室の床が崩れて、私は暗闇へと真っ逆さまに落ちていたんだ。
その人は、見下すように、私のことを見下ろしてた。
私は必死で、どこかにつかまるために手を伸ばし――
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「……あ」
スマートフォンにセットしていたアラームが鳴ってる。部屋のカーテンのすきまから、柔らかい朝日が差し込んでいた。
ベッドの外までぐっと伸びっぱなしの右手。私は身体を起こして、枕元のスマートフォンのアラームを止める。
「……んんっ……ふぅ」
伸びをして、ひとつ息をついた。首元にはじっとりと嫌な汗。
「また、同じ夢……見ちゃったなぁ」
右手を胸に。まだ少し、鼓動が早いまま。
一か月ほど前、たまたまオーディションで一緒になった他のプロダクションの人から言われた言葉は、頭のなかでずっと渦を巻いてた。グループ面接形式の、ドラマのキャストを決めるためのオーディション。意気込みを聞かれ、私は誰かを元気にしたいと言い、その人は自分自身が輝きたいと言っていた。
オーディションが終わってから、控室でその人は強い声と表情で、私に……さっき夢で見た通りのことを言ったんだ。
オーディションの結果は、私は落選。彼女は通過。
友達やトレーナーさんは、気にする必要はないと言ってくれたし、私も気にするつもりはなかったけど……どうしてか、あのときの言葉は、私が自覚してるよりもずっと深く私の胸に刺さったみたいで、こうしてよく夢にも現れてる。
気にする事ではないとは思っているけど。でも……私はデビュー以来ずっと、外部のオーディションに落ち続けていて。
誰かのためになりたいと思っていたはずの私は、誰のためにもなれないまま、時間だけが過ぎていった。
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私が所属している芸能事務所、美城プロダクションの駐車場、花壇に並ぶアマリリスやナデシコ、ほかにもたくさんお花さんたちは、春の陽気の中で嬉しそうにお日様を見てる。
プロダクションに来るときはいつも、花壇のある駐車場を通ってから中に入ることにしてる。花壇はとても丁寧な人が手入れをしているみたいで、どの花もとっても幸せそう。いつも元気を分けて貰ってるんだ。
「時間……うんっ、そろそろ行かなきゃ」
腕時計を確認すると、プロダクションの人から指示されていた時間が迫ってた。今日から私には新しい担当プロデューサーさんがついてくれるらしく、今日はその顔合わせ。これまで担当してくれたプロデューサーさんは、日程連絡の電話口で、新しいプロデューサーさんの元でも頑張ってねって励ましてくれたんだ。
今まであまり力になれなくてごめんね、とも。
そんなことはありませんってすぐに言ったけれど、オーディションを勝ち抜けない私が言っても、励ましにもならなくて。
だから、新しいプロデューサーさんをがっかりさせないように、これまで以上に頑張らなくちゃ。
私は駐車場で人知れず決意を新たにした。
「お花さん。私、きっとみんなみたいにきれいに咲けるように、頑張るからねっ!」
発した声は、思わずちょっと大きくなってしまって、誰かに聞かれていなかったか、あたりを見回して……
と、駐車場の端っこで、警備員のおじいさんがこちらを見てるのに気づいた。聞かれちゃったかな。私はちょっと恥ずかしく思いながら、その場を離れた。
「……あの警備員さんが、花壇のお手入れをしてくれているのかなぁ?」
私はちょっとだけ後ろを振り返って、警備員さんのほうをみてみる。時折見かけるあの警備員さんは、結構なお歳だと思うんだけど、姿勢が良くてすらっと細く背が高くて、いつも穏やかな顔をして、駐車場を見回っていたっけ。
ときどき、お花さんたちを眺めていることもあったかな。今度、勇気を出してお話してみるのもいいかもしれない、と、プロダクションのエントランスの扉を開きながら、私はぼんやりと考えてたんだ。
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「ええと、相葉……夕美さんね! その、申し訳ない!」
顔合わせのために指示されていた部屋に入るなり、壮年の男の人が、両手を合わせて私に頭を下げた。
驚いた私が返事をできずにいると、男の人は頭を掻きながら、困り果てた様子で言う。
「いや、ちょっと社内が荒れてるんだ……昨日、倒れて病院に運ばれてったやつがいてね」
「えっ!?」
さすがに、予想外の出来事。
「過労らしい。さっき病院から連絡が入ったんだ……そいつが社内の重要企画にいくつか関わってたから、今は社内がてんやわんやでね……ちょっと、これからの人事もやりなおしになるかもしれないんだ。悪いんだけれど、すこし待っていてもらえるかな」
「あ、は、はい……」
男の人が部屋の椅子を手で示して、私は言われるがままそこに腰かけた。
「じゃあ、ちょっと待たせるけれど、また戻ってくるから……ん」
部屋を出ようとした男の人は、自分のスーツのパンツのポケットを探ると、スマートフォンを取りだした。画面を見て「ええっ」と声を漏らすと、慌てた様子で耳に当てる。
「はい! ええ、ええ、そうなんです、すいません、ご心配を……はい……えっ!? え、いや、それはさすがに……」
男の人は電話をしながら、私のほうをちょっとだけ気にしたあと、そのまま部屋を出て行った。
部屋の中でぽつん……と、私は独りぼっち。
「……えっ、と……」
嵐のように過ぎた出来事を、もう一度振り返る。いま部屋の中で私を待っててくれた人は、新しいプロデューサーさんじゃなくて、別の人。
社内が大変なことになってて、新しいプロデューサーさんとは会えるかどうか、わからない。
「……私、どうなるんだろう?」
駐車場に咲くお花さんたちみたいになれるように頑張ろうと思っていた私の意気込みは、はやくもお先真っ暗になっちゃった。
しばらくぼんやりしたり、スマートフォンでSNSを眺めたりしていると、扉が開く音がして、さっきの男の人が部屋の中に戻ってきた。さっきよりもずいぶん疲れた顔で、額は汗でびっしょり。
男の人はふうう、と深いため息をついてから、私に言った。
「ああっと、とりあえず……相葉さんたちのプロ……担当者は、もともとの予定とはちょっと別の人間が着くことになったよ。せっかく来てもらったところで申し訳ないんだけど、準備が必要になるから……明後日の午後、もう一度来られるかな?」
私は手に持っていたスマートフォンでカレンダーをチェック。大学の講義は午前で終わりそう。私は頷いて、男の人にお返事した。
「よかった、じゃあまたここで、とりあえず電話番号渡しておくね」男の人が名刺を取り出した矢先、また男の人のスマートフォンが鳴りだす。「ああ、ごめんバタバタして……それじゃ、また明後日ここにきてね!」
男の人は言いながら、部屋から出て行ってしまった。ふたたび、私は部屋の中で独りぼっち。
「……今日は帰るしかないのかな?」私はさっきの男の人の言葉を思い出す。「相葉さん“たち”って言ってたけど……私のほかにも、宙ぶらりんになっちゃった人が居るってことなのかな」
私は言いながら荷物をまとめて、部屋から出ると、来た道を戻っていく。慌ただしい廊下を出て、エントランスを抜けて、駐車場へ。お花さんたちは相変わらず元気いっぱいにまぶしく咲いている。警備員さんは……いないみたい。休憩中かな。
予定がなくなっちゃった私は、普段は通らない道を散歩して帰ることにした。
「ちっひろさぁーん! はぁとの新しいプロデューサー、どうなってんすかー?」
翌々日、約束の時間にプロダクションの打ち合わせ場所を訪れ、ドアを開けようとした私は、部屋の中から聴こえてくる芝居がかった黄色い声に、一瞬固まった。
そろそろとドアを開けてみる。中には女性が四人。緑色のスーツを着た三つ編みの女性は、プロダクションの事務員、千川ちひろさん。表舞台には上がらないけれど、プロダクションの顔のような人で、社員と所属するアイドルたちでちひろさんを知らない人はいないくらいの有名人。
あとの三人はちひろさんの方を見ていて、後ろ姿だからちょっと自信がないけど、さっき声をあげていた人は知ってる。ツインテールのちょっと背の高い人は、佐藤心さん。かなり個性的なキャラクターのアイドルで、顔と名前は一致するけれど、一緒にお仕事をしたことはない。
ほかの二人は、はじめまして、かな?
「ええと、佐藤さん、ちょっと待ってください……あ、相葉さん、こんにちは」
「こんにちはっ!」
ちひろさんが私に気づいて挨拶をしてくれたので、笑顔でお返事。部屋のなかのみんながこっちを振り返る。みんな、不安そうな顔をしてる。
「これで、みんな揃いましたね」
ちひろさんが微笑む。
「これから……皆さんの担当者をお連れします。もう少しだけ待っていてくださいね。それまで、お互いに自己紹介の時間ということで」
そういって、ちひろさんは部屋から出ていっちゃった。
残された私たち四人は、それぞれに顔を見合わせて。ほんのちょっとだけ、沈黙。
「えっと!」こういうときは明るくしなきゃ! と思って、私は声を挙げた。「とりあえず、はじめましてだし、自己紹介します! 相葉夕美って言います、よろしくお願いします!」
「あっ、わたしは!」黒のショートヘアに、印象的なくせっ毛が飛び出してる女の子が続いた。「小日向美穂です、その……よろしくおねがいします!」
美穂ちゃんは一生懸命で丁寧、性格も真面目そう。なんだか安心。
「えーっと」心さんが困ったみたいに苦笑いしてる。「なんのために集められたんだかわかんないけど、ちひろさんがああ言ったってことはー、とりあえずこのメンバーでなんかするってことかー? えっと、しゅがーはぁとのことは、はぁとって呼んで☆」
心さんはぺろっと舌を出して、ばちんって音がきこえそうなウインク。美穂ちゃんがきょとんとしてる。私も、キャラクターの強さに押され気味。でも、これがキャラが立ってる、ってこういうことなのかも。
「……八神マキノよ。よろしく」
長くて艶のあるロングヘア―の女の子が、眼鏡の向こうから真剣な目でこちらを見ながら、静かに挨拶した。
立ち姿はとってもスタイルが良くて、オトナっぽい。でも、学校の制服を着てるってことは、私より年下なのかな。
「……」
ひととおりお互いの名前を伝えて、そのまま沈黙。お互いに状況がわからないから、しょうがないよね。ちょっとだけ空気が重たくなりかけたところで、心さん……はぁとさんが部屋に備えられたチェアに腰を下ろした。
「ま、これから何するかわかんないのに、落ち着いておしゃべりしてらんねーよな☆ プロデューサーが来るまで大人しく待っとけ待っとけ♪」
「……賛成するわ」マキノちゃんがそれに続く。「必要なことは自分で調査すればいいのだし」
私と美穂ちゃんはお互いに顔を見合わせて、どちらともなくチェアに腰かけた。
それから一分くらい経ったころ、部屋の扉が開き、私たちは一斉に立ち上がる。
「皆さん、お待たせしました」
ちひろさんが入ってきて、その後ろからすらっと背の高い、スーツとハットを身に着けた落ち着いた雰囲気のおじいさんがゆっくりと入ってきた。
……あれ。
私の頭の中に、何かがひっかかったような気がしたけど、それが何なのかわかる前に、ちひろさんが続ける。
「こちらのかたが、みなさんの担当者です」
紹介されて、男性はハットをとると、ゆっくりとお辞儀をした。
「おおう、ロマンスグレー……☆ ってぇ、ちひろさん、こちらのおじい……オジサマは――」
はぁとさんが探るようにちひろさんに問いかける。それもそのはず、この人は私が今まで観てきたどんな芸能関係の人よりも、芸能から遠い雰囲気。アイドルと直に接するプロデューサーさんは、体力仕事が多いこともあるのか、もっと若い人がほとんど。そのあとは出世して幹部になったり、直接アイドルに関わらないところに異動になったりするみたいだし、社内にこんな年配のプロデューサーさんが居たなんて聞いたことがない。
でも、ちひろさんはにっこり笑って頷いた。
「ですから、みなさんの担当者です。これからみなさんはしばらくのあいだ、このかたの指示の下で活動してもらいますね」
言われて、もう一度おじいさんは軽く会釈をした。――そのとき。
「あっ!」
私は思わず声を挙げていた。
「あの、駐車場の――」
声に出して、私はそこで言葉に詰まる。
「ん? 駐車場?」
はぁとさんが不思議そうな声を挙げる。ほかの二人も、私の方を見ていた。
「え、ええと……」
私が困っていると、ちひろさんがにこやかな顔で後に続いた。
「はい、こちらの方は、美城プロダクションの、駐車場の警備をしていらっしゃいました。これからは、皆さんの担当――」
「ちょ、ちょいちょいちょーい!」はぁとさんがちひろさんの言葉を遮る。「え、いまちひろさん、駐車場の警備って言った? 言ったよね? おいおい、冗談キツいぞ☆ それって芸能関係者でもなんでもなくて――素人じゃね?」
私を含む全員が、男性のほうを見る。男性は穏やかな顔でたたずんでいた。
「心さん、失礼ですよ」
ちひろさんが真剣な顔ではぁとさんをたしなめる。
「ちょ……マジ?」
はぁとさんの声は一オクターブくらい低くなってた。
その時、男性が一歩前に出る。
「皆さん、突然のことで驚いていると思いますが、よろしくお願いいたします」
心地いい穏やかな声と、笑顔で、その人は言った。
「あのっ、よ、よろしくおねがいします、プロデューサーさん!」
沈黙していた私たちのなかで、最初に声を発したのは美穂ちゃんだった。
「よろしくおねがいしますっ!」
「よろしくお願いします」
「……よろしくお願いします」
私たちもそれぞれ後に続く。はぁとさんはなんだか、茫然自失としてた。
「それじゃあ、部屋に移動しましょう」
そう言って、ちひろさんはにっこり微笑んだ。
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「おいおーいちひろさーん、これってプロデューサールームじゃなくて、警備員室じゃね?」
移動した先、プロダクションの敷地内駐車場の一角にある警備員さんの詰め所で、はぁとさんはちひろさんにツッコミを入れた。……さっきよりちょっと、元気がないみたい。
「仕事に必要な道具は運び込んでありますよ」
「そういうことじゃないっしょー……☆」
がっくりと肩を落とすはぁとさん。
「すいませんね、みなさん。私がこちらのほうが落ち着くものですから」
プロデューサーさんが言う。
「それでは、私は業務に戻りますので、これで」
ちひろさんはプロデューサーさんにそう言うと、深く丁寧にお辞儀をして、部屋から出て行ってしまった。
「ふむ」プロデューサーさんは私たちを見回す。「まずは皆さん、かけてください。椅子が不ぞろいで申し訳ない。お茶を淹れましょう」
私は部屋を見回す。八畳くらいの部屋には書棚がいくつかと、シックな茶箪笥がひとつ。会議室にあるような長机が二つ。そこに折り畳みの椅子が並んでる。背もたれの有るものとないものがあって、机の上には一台のノートパソコン。部屋の隅に『事務用品』と油性ペンで書かれた段ボール箱が二つ重なってた。
私はうなだれるはぁとさんに、背もたれのあるパイプ椅子に座るよう促した。
「夕美ちゃん、ありがと……沁みるぞ☆」
はぁとさんは燃え尽きたボクサーみたいにぐったりと椅子にもたれかかった。
「あの、お茶、私が淹れますよ!」
ガスコンロでお湯を沸かしているプロデューサーさんのところへ美穂ちゃんがかけていく。
「いえいえ、これは私がやります。初めてのお客さんのおもてなしですから、やらせてください。みなさんは座って」
プロデューサーさん穏やかに言われて、美穂ちゃんはありがとうございますとお礼を言って、椅子に座った。
マキノちゃんもしばらく部屋を眺めていたけれど、やがて椅子のうちのひとつに座った。
電気ケトルがぽこぽこと音を立てて、プロデューサーさんは用意した五人分の湯のみにお湯を入れて湯のみを温める。上品な見た目の急須に茶葉を入れてから、すこし時間を置いて、湯のみのお湯を急須へ。またすこし時間を置いて、手慣れたしぐさで五人分のお茶を淹れて、私たちそれぞれに湯のみを渡してくれた。その仕草は流れるように美しくて、プロデューサーさんがスーツを着ているせいか、私たちのいる場所は警備員さんの詰め所なのに、まるで高級なお屋敷の執事さんに淹れてもらったみたいに感じた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
私たちの声が揃った。
「ふむ。失念していました。お茶菓子を用意しておけばよかったですね」
「そんな、おかまいなく!」
プロデューサーさんの言葉に、美穂ちゃんがぶんぶんと手を振る。
「……いただきます」
マキノちゃんが両手で湯のみを持つと、ゆっくりと口に運ぶ。喉がこくん、と小さく動いて、それからゆっくり湯のみを降ろすと、じっと机を見たまま、ほう、と息をついた。
「……おいしい」
マキノちゃんの声は、それまでよりもずっと真に迫っていたので、私と美穂ちゃんはちょっと顔を見合わせてから、それぞれの湯のみを口に運ぶ。
温かいお茶が、口の中に入ると同時に、鼻と口を通して、一杯に広がる甘み。ちょっと飲んだだけで、一面の緑に囲まれてるみたいなさわやかな気分になる。
「ほんとだ、おいしい!」
「こんなにおいしいお茶、はじめて飲んだかも」
「それは良かった」
プロデューサーさんは嬉しそうに微笑んだ。
「ほら、はぁとさん、とってもおいしいですよ!」
はぁとさんに促すと、はぁとさんは「スウィーティーじゃねぇな……」って小さな声でつぶやいてから、お茶を一口飲んだ。
「おお、すげっ」
はぁとさんも驚いたみたい。
「それで」マキノちゃんがプロデューサーさんに向きなおる。「あなたが、これから私たちのプロデューサーになる……ということよね」
「心配させてすみませんね」プロデューサーさんは私たちを見回す。「これからは私が、あなたたち四人を担当します」
「今までは、駐車場の警備員をしていた?」
「ええ。この会社とは少々……縁がありまして、その関係で」
「……そう」
マキノちゃんは呟いて、机に置いた湯のみの水面を見つめた。
「やっぱ素人ってことだろ、それって、それって……なんなんだ……」
はぁとさんが部屋の隅っこを見つめて、絶望的な目でつぶやく。
「不安はあると思います。私も、不安です。ですが、まずはすべきことをしましょう」
「すべきこと……?」はぁとさんの顔がぱっと輝く。「あ、レッスンとか!? それとも、いきなりユニットデビュー? やーん☆」
はぁとさんの軽い調子はどこ吹く風、といった調子で、プロデューサーさんは落ち着いた動きで湯のみを口に運ぶ。
「まずは、荷解きをして、ここでお仕事ができるようにしましょうか」
はぁとさんがびしーっ、と右手の甲をプロデューサーさんに向ける。ツッコミかな?
「プロデューサーに言ってもしゃーねーかもしんないけど、それ、あたしたちがやる仕事じゃなくね?」
「……確かに、意図が読めないわね。肉体労働が嫌だというわけではないけど、ここもプロダクションの敷地内。整備は総務部の業務だと思うわ。備品管理にも関わることよ」
マキノさんは冷静にプロデューサーさんに問う。
プロデューサーさんは穏やかに微笑んで、立ち上がった。
「皆さんもおき聞になったと思いますが、いま、社内は大変混乱しています。非常事態ではありますが、総務が正規のプロデューサールームを整えるのを悠長に待っていられるほど、のんびりした業界でもないことは皆さんもご存じのはず。であれば、私たちができることをすれば、一歩先んじることができます。もちろん、これは独断ではなく、総務や経理も了解していることです」
「……なるほど」
マキノさんは頷く。でも、その目は真意を探るみたいにプロデューサーさんを見てた。
またすこし場の雰囲気が固くなってきたのを感じて、私は口に含んでいたお茶を飲みこんで、椅子から立ち上がった。
「あのっ! 私、手伝います! みんなも、いろいろばたばたしちゃったけど、プロデューサーさんの言うとおり、今はこのお部屋の準備をして、身体を動かしたほうがすっきりすると思うなっ!」
「私も、手伝います!」
美穂ちゃんも立ち上がる。
「ふむ。よろしいですか?」
プロデューサーさんははぁとさんの方を見る。はぁとさんははぁーっと長い息をついて、立ち上がった。
「……しゃーねーな、やるか☆」
マキノちゃんも立ち上がった。
「それでは、まずはダンボールを長机の上に置いて。中に事務用品とリストが入っているはずです。数に間違いがないかを確認してください」
私は美穂ちゃんと二人でダンボールを持ちあげる。
「佐藤さんは、こちらによろしいですかな」
「やぁん、プロデューサー、はぁとって呼んで☆」
プロデューサーさんは一瞬沈黙する。
こんなときでもキャラクターを貫き通せるはぁとさんはすごいなぁ。
「……佐藤さん、お願いできますか」
「……はぁーい」
もう一度『佐藤さん』と呼ばれ、はぁとさんは素直にプロデューサーに従った。
「ここに座り、このノートPCをセッティングしていただきたい。わかりますかな?」
「……そりゃ衣装の型紙を作ったりもするから、ふつーに使うくらいなら……」
はぁとさんは椅子に座ると、ノートPCを開いて電源を入れた。
「すいません、旧い人間なもので、新しい機械は不得意でしてね」
「今日びパソなんか新しい機械とはいえねーぞ。ま、しゃーねーなー☆」
「みなさん」プロデューサーさんは部屋の端に立って、みんなに声をかけた。「ここはこれから、打ち合わせなどで日常的に使うこととなります。置かれた机なども含めて、皆さんの使いやすいように配置をしていただいて構いません。そうですね……相葉さん」
「はいっ!」
「相葉さんをリーダーに、この部屋を事務所にするための模様替えをしていただきたい。自由に配置していただいて構いません。お願いできますかな?」
「えっ、いいんですか!?」
「ええ。重たいものを動かすときは気を付けて、協力して行ってください」
「えっと……」私は部屋を見渡して、家具の配置を考えてみた。「うん、やってみます!」
「よろしくおねがいします」プロデューサーさんはにっこり微笑んでから、何かに気づいたような顔をした。「ああ、でも……できれば、そこの茶箪笥だけは、そのままに……」
すこし申し訳なさそうな顔をしてプロデューサーさんが行ったので、私は思わずちょっと吹きだしちゃった。
「はいっ!」
「あ、はぁとは? って、まだパソのセッティング終わってねーけど」
「佐藤さんは、そのまま続けてください。……ふむ、佐藤さん」プロデューサーさんは、真面目な目ではぁとさんを見た。「背筋が曲がっています。姿勢を」
「っ……」
はぁとさんはなにか言いたそうだったけれど、黙って姿勢を正した。
それから日が落ちるくらいまでかけて、私たちはプロデューサーさんのお部屋の模様替えを終えた。汚れが気になっちゃって床の雑巾がけもしちゃったから、ずいぶん時間がかかっちゃったけれど。
「うん、これで完成っ!」
「おつかれさまでした!」
私は美穂ちゃんとハイタッチ。
「機能性にも優れた配置にできたと思うわ」
マキノちゃんも満足そう。
「みんなお疲れー、って、はぁとはずっとパソいじってただけだったけどな☆」
「お疲れ様です。お茶を……といいたいところですが、外はもう暗い。今日はここまでにしましょうか。最後に予定の調整をして、解散にしましょう」
「はいっ」
私たちはそれぞれに手帳やスマートフォンを取りだすと、お互いの予定を確認した。
「そうそう。さっき佐藤さんが言っていたことですが」プロデューサーさんは私たちの顔を見回す。「もちろん、皆さんにはこれから、レッスン、お仕事を、そしてゆくゆくはユニットとしての活動もしていただくつもりです。そのための助力をさせていただくつもりですので、皆さんもそれぞれに、邁進していただきたい」
「えっ! ユニット!? マジで!? プロデューサー、それマジ?」
はぁとさんが最初に反応して、私たちもそれぞれに顔を見合わせる。美穂ちゃんもマキノちゃんも、嬉しそうだった。
「それには正しくステップを踏んでいただかなくてはいけません。今日はその第一歩です。みなさん、お疲れ様でした」
「はいっ!」
私たちの声は、きれいに揃った。
「それでは、次の水曜日に」
そう言って、プロデューサーさんは部屋に鍵を開けると、帽子を取ってお辞儀をして、プロダクションを後にした。
私たち四人は、日が落ちて街灯とビルの光に照らされた薄暗い駐車場で、それを見送る。
「……なんだか、へんなことになっちゃったね」
美穂ちゃんがつぶやく。
「そうだね」私は今日一日を思い出す。「でも、プロダクションもなんだか大変みたいだし、しょうがないよ」
「プロデューサーはああ言ってたけど、あの歳で、しかも芸能界と関係ない駐車場警備員だろ? ほんとにプロデュースできんのか? ユニットデビューさせてくれるって聞いたときはちょっとテンション上がっちゃったけどー……、素人のじーさんだろ? 正直、怪しくね?」
はぁとさんがおどけたように言う。
「敏腕プロデューサーが一人、過労で倒れたという話は本当ね」マキノちゃんが眼鏡をくい、と持ち上げた。「内部でも急な人事異動があったみたいよ。その人が担当する予定だった社内のプロジェクトに代理の人をあてがって、優先度の高い順に担当者がずれて、その結果ね」
「その結果、はぁとたちは優先順位の低いお荷物アイドルだから、プロデューサーが駐車場の警備員のじーさん?」はぁとさんの声には元気がなかった。「……マジかよ」
はぁとさんはぎゅっと拳を握った。しばらく、沈黙が流れて。
私は心が重たくなるような、不安な気持ちになったけれど――でも、当然かもしれない、と思った。私はしばらくオーディションもうまく行ってないし、いまだに「芸能界に居るべきじゃないと思う」って言われたことが心に残っちゃってる。
私も……お荷物、なのかな?
でも。はぁとさんや美穂ちゃん、マキノちゃんがアイドルとして落ちこぼれてるみたいには、私にはとても思えない。みんなとってもかわいいし綺麗だし、私よりずっと――キラキラしてると思うのにな。
「あ、あのっ、マキノちゃん、詳しいんだね? 私、知らなかったな」
美穂ちゃんが明るい声を挙げた。この場を盛り上げようとしてくれたのかな。
「諜報活動が趣味なの。あのプロデューサーのことは知らなかったから、これから調べないと」そう言って、マキノちゃんはふっと妖しく笑った。「私たちも、そろそろ帰りましょう。次の水曜には何らかの方針が出ると思うわ。契約を解除されたわけじゃないんだから、プロデューサーの言う通り、一歩一歩やるしかないわね」
「ま、それもそーだな。帰るか☆」
はぁとさんもそう言って笑った。
駐車場を出る前に、私は立ちどまって、さっきまで居た事務所と、プロダクションのビルを見比べる。プロダクションの高いビルは、今もほとんどの部屋に明かりがともっていて、なんだか都会らしくて、キラキラしていて。
一方で、私たちがこれから通う事務所は、当然だけど私たちが退室したから灯りも消えて、ひっそりとしていて。
「……これから、どうなっちゃうんだろう」
私はぽつりとつぶやいて、それから花壇に咲くお花さんたちをじっと見た。
街灯の光の中で、お花さんたちは昼間と変わらず懸命に咲いていた。
お花さんたちは、それぞれが一輪だけじゃなくて、花壇の中でみんな寄り添って咲いている。誰も見ていなくても、力強く。
「……私も、頑張ろっ」
大丈夫。一人じゃない。だって、新しい仲間ができたんだから。みんなで頑張ろう。
そう自分自身に言い聞かせて、私もプロダクションをあとにした。
1.相葉夕美-Syringa vulgaris :ライラック(友情・謙虚・思い出) ・・・END
「……ふう」
美穂ちゃんはほっとしたような息をついて、湯のみを長机に置いた。
「美味しいけど……美味しいけど、やっぱスウィーティーじゃねえな……」
はぁとさんが小さい声で愚痴を言ってる。
マキノちゃんは黙って、砂糖菓子をひとつ摘まみあげて、じっと数秒見つめてから、半分くらいをかじった。
「さて」プロデューサーさんが机の上でB5のノートを開く。「それでは、はじめましょうか」
新しいプロデューサーさんと私たちが出会ってから一週間後の水曜日の午後。私たちは、私たち自身が警備員室から模様替えをした事務室で、これからの打ち合わせをした。
事務室は十二畳くらいで、入口と対角線のあたりにガスも使える流し台がある。その隣にプロデューサーさんお気に入りの茶箪笥。そこから部屋の壁に沿って書類棚やラック、ノートPCを置いた事務机を置いている。長机は会議室みたいに部屋の中央に二台並べて、部屋の奥側、長机を並べた長方形の短い辺にプロデューサーさん。机の脚があるからちょっと座りづらいけど、プロデューサーさんがここを希望した。プロデューサーさんから見て左側に私と美穂ちゃん。右側にはぁとさんとマキノちゃんが座っている。
「あのう、打ち合わせの前にプロデューサー……お茶は今日もとーっても美味しいんだけどー、コーヒーとか、紅茶とかじゃあダメなんすか?」
はぁとさんが尋ねると、プロデューサーさんは微笑んでひとつ頷いた。
「申し訳ない。午後にこうして茶を淹れるのは長年の私の日課でして。老い先短い者のささやかな願として、みんなで打ち合わせる水曜の午後については、ご辛抱いただきたい。もちろん、普段この部屋を使うときには好きに持ち込んでいただいて結構」
プロデューサーさんは後ろ頭を掻きながら言った。普段の落ち着いた、厳格な態度とは違って、ちょっとくだけた雰囲気だったから、たぶんプロデューサーさんのこだわり、わがままなんだろうなと私は思って、思わず笑みがこぼれた。
「じゃあ、打ち合わせのときにはいつもこのお茶をいただけるんですね! 私、お茶菓子持ってこようかな」
美穂ちゃんは嬉しそう。いっぽう、はぁとさんはちょっと口をとがらせていた。
「では、打ち合わせを。今は皆さん、特に決まった活動はされていないとききました。美城には季節の節目にプロダクションを挙げてのライブがある。当面はそれを目標に活動をします」
「てことは、ユニット? ユニット?」
はぁとさんが身を乗り出したけれど、プロデューサーさんは首をゆっくりと横に振った。
「焦ってはいけない。まだ、私自身もみなさんたちのことをよく理解できてはいません。あなたたちのイメージと合わない曲や衣装を作るわけにはいきません。まずは地固めです」
「……なるほど☆」
はぁとさんは素直に頷いた。
「では……、小日向さん、八神さんのお二人には、それぞれレッスンを受けていただきます。お二人は夏の大きなイベント……サマーフェス、ですね。これのバックダンサーとして出演できるように調整していきます。ほかにも随時、仕事をご相談させていただくことになるでしょう」
「はいっ!」
「わかったわ」
美穂ちゃん、マキノちゃんは二人とも嬉しそうに返事をした。そうだよね、ぜんぜん先が見えないと思っていたところに、さっそくライブに出られる予定が決まったんだから。
……私は、どうなるんだろう?
「プロデューサー、はぁとは?」
はぁとさんも私と同じことを考えたらしく、ちょっと焦ったような声で訊く。
「佐藤さんには……こちらの書類を整えていただきたい」
プロデューサーさんは真面目な顔でそう言うと、何枚かのルーズリーフをはぁとさんの前に置いた。手書きの書類みたい。
「レッスンスケジュールなどを作ったのですが、トレーナーからデータのほうが助かると言われてしまいまして。申し訳ないが、これをパソコンで打ち込んでいただけますか」
「ちょっ……」はぁとさんは、ちょっと言葉に詰まった。「プロデューサー、冗談キツいぞ☆」
はぁとさんは、明るく装って、そう言ったけれど。
「申し訳ない、新しい機械には不慣れでしてね」
プロデューサーさんは、淡々とそう言った。
はぁとさんの顔がさぁっと青くなる。
「でも、でも、だってそれ……アイドルじゃなくて、OLとか、バイトの仕事だろ……? はぁとは、アイドルを……」
唇がちょっと震えている。
プロデューサーさんは、はぁとさんのほうに身体を向ける。
「レッスンスケジュールを見てください」
はぁとさんは言われて、手渡されたスケジュールを眺める。
「あ、はぁとの名前……と、夕美ちゃんも。レッスン、あるんだ……」
はぁとさんの声は、ちょっとだけ和らいでいた。
「やぁん、心配したぞ☆ じゃあじゃあ、サマーフェスも?」
はぁとさんの表情はぱっと明るくなる。
「……それは、レッスンの進捗次第です」
「っ……じゃあ、頑張るっきゃねーな☆」
そう言って、はぁとさんは立ち上がると、部屋の隅のPCが置かれた机にずんずんと歩いていって、椅子にどっかと座って、PCの電源を点けた。
プロデューサーさんはその姿を見て、肩で息をひとつ。
「佐藤さん。背筋が曲がっています。伸ばしてください」
「っ、はぁい!」
はぁとさんのやや苛立った返事が返ってきた。
プロデューサーさんは私のほうに向きなおる。
「さて、相葉さんは――」
「はいっ」
私の鼓動がほんのすこし早くなった。
プロデューサーさんがにっこりと微笑む。
「少し、散歩にでかけましょうか」
「……えっ?」
予想外の言葉に、私の口から裏返ったみたいなへんな声がでちゃった。
---
美穂ちゃんとマキノちゃんはサマーライブのための説明を受けにライブ担当者さんのところへ。はぁとさんは書類つくりをしてからダンスレッスン。そして私とプロデューサーさんは、文字通り散歩に出かけた。
プロダクションのある場所を離れて、ビジネス街を抜け、住宅街のほうへと歩く。四月に入ったばかりの風は心地よくて、街路樹も道端のお花もみんな元気に色づいている。
私も思わず上機嫌――になっちゃってるけど、いいのかな。
私の右斜め前を黙って歩いているプロデューサーさんの横顔をちらっと見るけれど、なにを考えているのかはわからない。
立ち並ぶ家々の玄関を見ながら、事務所の前にプランターを置くのもいいかもしれないなぁ、なんて考えていたとき、プロデューサーさんが角を曲がった。プロデューサーさんの進む先には、都会にしてはちょっと大きな公園。ここが目的地だったみたい。
公園は学校のグラウンドくらいの広さがあって、一角には砂場やブランコ、鉄棒、ジャングルジムなんかの遊具が置かれ、遠くのほうは芝生になってるみたい。学校が終わった時間なのか、小学生や中学生と思われる子供たちがそこかしこで遊んでる。
「あそこが空いてますね」
プロデューサーさんは遊具の近くにあるベンチを指し、そこへ向かった。
座面をさっと撫でて、特に汚れていないことを確認すると、プロデューサーさんはベンチの片側に座り、私に隣に座るようにと手で示した。
「あ、じゃあ、失礼します」
私はほんのちょっと緊張を感じながら、示されるままに隣に座る。ちょっと離れたところで、中学生と思われる男女が集まってなにかを話してる。みんな私服だったけれど、鞄を持っているから、学校帰りなのかもしれない。
「すいませんね、付き合わせてしまって。社内はどうも落ち着かないもので」
プロデューサーさんは穏やかに言った。「相葉さんのこれからの方針のために、直接お話をしたいと思っていました。面談のようなもの、ですね。小日向さんと八神さんは今日までにその機会を持つことができたのですが、相葉さんは都合が合わなかったもので」
「そうだったんですね。突然散歩って言われたので、すこし驚いてしまいました」
「せっかく天気がいいので、散歩も楽しんでもらえればうれしい」
「もちろんです! お天気もいいですし。道端のお花さんたちも楽しそうな季節ですしね」
「それはよかった」プロデューサーさんは帽子をちょっと持ち上げて、小さく礼をする。「……さて、さっそくお伺いしましょう。相葉さんは、どういうアイドルになりたいと思っていますか。どうして、アイドルをやりたいと思っているのですか」
「……」
あたりまえな、ごくごくあたりまえな質問をされているのに、私は言葉に詰まった。
思い出すのは、この前落選したオーディションのときの、一緒に受けた他社の応募者の子からの言葉。
『――誰かを元気にするために頑張りたい、だっけ? じゃあまず、あたしを元気にしてよ。あんたが落ちて、あたしが通ったら、あたし超元気になれるよ。中途半端な気持ちで来んの、迷惑』
私が落ちて、あの子は通った。だからあの子は元気になった。あの子が通ったということは、私よりもあの子のほうが誰かを元気にできるっていうことだから、私は、私が落選したことで、私の希望を叶えてしまったことになる。
――あれ。でも、これで、いいんだっけ? 私がしたかったことって、こうだったっけ?
前より上手に踊れるようになっても。前より上手に歌えるようになっても。私の心は結局、あの時からずっと、同じところで立ち止まっている。
なんとか声を出そうとして、でもそこで詰まってしまい、私は足元を見た。
視界の端に見えているプロデューサーさんは、黙って私の言葉を待っている。
なにか言わなきゃ、と私が迷っていると。
「ふぇぇぇぇぇぇぇぇぇえええん!」
私たちの正面のほうから、女の子の泣き声が聞こえた。私もプロデューサーさんも、声のしたほうに注目する。
さっき目にした、なにやら集まって話しているように見えた中学生くらいのグループだった。男の子が数人で、一人の女の子を指さして笑っている。
「やーい、泣き虫! ドジ! バーカ!」
子どもっぽい罵りの言葉で、男の子たちは女の子をからかっていた。実際にどっちも子どもなんだけれど。
「……ふむ」
プロデューサーさんはすっと立ち上がり、その子たちのほうへ歩いていく。私もそのあとを追った。プロデューサーさんが男の子たちと女の子のあいだを塞ぐようにして立ったので、私は女の子に寄り添った。顔中が涙でぐしゃぐしゃになっている。
「君たち、なにをしていたのかな?」
プロデューサーさんはあくまで穏やかに、男の子たちに問いかけた。
「な、なにって……」
男の子たちは明らかにうろたえる。自分たちのしていることがどういうことかは判っているみたい。
「楽しく遊んでいるのならいいが、どうも、彼女は悲しそうに泣いているみたいだからね。心配してしまいました。さて、きみたちのなかに、どうして彼女が泣いているのか知っている人はいるかな? よかったら、教えてくれますか」
「う……」
男の子たちはお互いに気まずそうに目を合わせる。そのすぐあと、罪の意識に耐えられなくなったのか、一人がその場から逃げ出した。
「あっ、待てよ!」
ほかの男の子たちは、逃げ出した子を追うようにその場から走り去っていった。
泣いていた女の子は、不思議そうな顔で私とプロデューサーを見ている。
「ふぇ……おじいちゃんたち、誰……?」
「大丈夫? ほら、涙拭こう」
私はハンカチで彼女の顔を拭く。ポケットティッシュを渡すと、女の子は自分で鼻をかんだ。
私は女の子を眺める。背中まで届く、ボリュームたっぷりのつやつやの黒のロングヘアー。白のブラウスとブラウンのスカートで、胸元に小さなリボン。それだけ見れば年相応の女の子だけれど、その子には大きな特徴があった。女の子のちいさな背丈に似つかわしくない、大きく成長した両の胸。たぶん、いや確実に私よりも大きい。
「お嬢さん、どうして泣いていたのかな」
プロデューサーさんは女の子の近くに寄って尋ねる。
「う、うぅ……くるみが、バカだから、ゆるゆるだから、ひぐっ」
と、話しているあいだに、また女の子の目元から涙がぽろぽろとこぼれてしまう。
「泣かなくてもだいじょうぶだよ」
「ふぇえ、ごめんなしゃ……ごめんなさい……」
私は彼女の涙をぬぐい続けた。ハンカチはぐっしょりと重たくなっていく。
「おや、困ってしまいましたね」そうプロデューサーさんは言ったけれど、顔は穏やかに微笑んでいた。「座りましょうか」
私たちはもといたベンチに、女の子を間に挟んで三人で座った。私が女の子の背中をさすり、数分たって、女の子はようやく落ち着きを取り戻してくれた。
「ぐすっ。くるみ……大沼、くるみ」
「大沼くるみちゃんかぁ。くるみちゃん。素敵な名前だね!」
「あの、お姉さん、おじいちゃん、やさしくしてくれて、ありがとぉ……」
「いえいえ、どうしたしまして」
プロデューサーさんが微笑む。
「くるみ、泣き虫だから……いつも、ドジで、お勉強もできなくって、栄養も頭じゃなくてお胸にいって、いつも泣いてばっかりだから……バカにされてもしかたないの」
「そんな」
「相葉さん」
プロデューサーさんが、口を開きかけた私を声と視線で制した。くるみちゃんは私とプロデューサーさんを不安そうにきょろきょろと見て、視線を足元に落とす。
「……くるみも、バカなのはいやだけど……」
くるみちゃんは迷ったように両の眉を眉間に寄せて、唇を結んだ。
プロデューサーさんは、くるみちゃんをじっと見ていた。頭のてっぺんから、足の先まで、ゆっくりと。見定めるみたいに。
しばらく、沈黙があったあと。
「大沼さん」
くるみちゃんはプロデューサーさんのほうを見る。
「大沼くるみさん。もしよかったら、アイドルになってみませんか?」
「えっ、ええっ!?」
くるみちゃんよりも私のほうが驚いて、つい大きな声をあげてしまった。
くるみちゃんはよくわかっていないのか、きょとんとしている。
「アイドル……? ってぇ……なに……?」
「えっと、くるみちゃん、アイドルっていうのは、皆の前で歌ったり、踊ったり、お芝居をしたり、おしゃべりしたり、テレビとかで……」
そこまで説明すると、くるみちゃんの顔が驚きの表情になって、それからすぐに曇った。
「……おじいちゃん、わるいひと……?」
詐欺かなにかだと思ったのかもしれない。突然そんな話をされれば、当然だよね。
「さあ、どうでしょう」プロデューサーさんは穏やかに微笑んだ。「でも、大沼さん。大沼さんは、なりたい自分があるのではないですか。さっき大沼さんは『バカなのはいやだ』と言いました。私は、芸能のお仕事をしています。もしかしたら、大沼さんがなりたい自分になるお手伝いを、できるかもしれません」
「……くるみが、バカじゃなく、なれる……?」
「私たちができるのはお手伝い。大沼さんの頑張り次第ですよ」
「……くるみ、わかんない……でも、そんなふうに言ってもらったのは、はじめてだから……くるみ、どうしていいか……でも、うれしい……でも」
くるみちゃんは迷ったみたいに言う。たぶん、怪しい人について行ってはいけないと知っていて、言われていることが誘惑なのかもしれないと疑っているんだ。
「これを、家の人に渡してみてください」プロデューサーさんは懐から名刺サイズのカードを一枚取り出すと、くるみちゃんに渡す。「大人の人にきちんと了解を頂かなくてはいけませんからね」
くるみちゃんは、それを受け取ると、大きな丸い目でじっと見つめた。
「さて、だいぶ陽が傾いてきました。私たちも帰ることにします。大沼さんも、今日は帰ったほうがいい」
くるみちゃんは声をかけられてもしばらくじっとカードを見つめていたけれど、やがて立ち上がると、深く頭を下げながら「ありがとうございました、さようなら」と言って、帰っていった。
「さて、我々も帰りましょうか」
「あっ、はい」
立ち上がったプロデューサーさんのあとを追いながら、私は結局、プロデューサーさんからの問いに答えられていないことを思い出す。
「あの……」
「いやはや、難しい」プロデューサーさんは夕日を見て目を細めながらつぶやく。「大人を相手にするのとはまた一味違いますね」
「来てくれるといいですね、くるみちゃん」私はくるみちゃんが帰って行ったほうを見た。「笑顔になってくれるといいなぁ」
私が言うと、プロデューサーさんは私の目を見て、嬉しそうに頷いた。
「それは、大沼さんや私たちの希望だけでもどうにもできないところです。連絡があることを祈りましょう」
そして結局、プロダクションの事務室に帰ったところでその日は解散になった。
「それで……」マキノちゃんが机の上に置かれたプロフィールシートを揃えて、クリアファイルに戻す。「このシートの子、大沼くるみちゃんは、私たちのユニットに参加することになった、ということね」
「うんっ! プロダクションの人が親御さんにもちゃんと説明をしてくれたんだって。決心してくれたみたいでよかった! 自信をもってくれるといいなあ」
私は言いながら、自分で入れたお茶を一口。プロデューサーさんのほうがいい茶葉をつかっているのか、期待したほどの味を出せていない。
あれから、くるみちゃんのお母さんからプロダクションに連絡があって、くるみちゃんはアイドルとして私たちと一緒に活動していくことになった。とんとん拍子で私たちとの顔合わせまで済んでいる。
今日の事務室は私とマキノちゃんの二人だけ。プロデューサーさんは打ち合わせ、はぁとさんはレッスン。美穂ちゃんはくるみちゃんを連れてプロダクションの中で新しい所属アイドルとしての登録手続き中。
「……妙ね」
マキノちゃんは口元に手を添えて、なにかを考えているみたいだった。
「妙って、なにが?」
「プロデューサーのことよ。元は駐車場の警備員で、プロデューサーとしての経歴はないはず。なのに出かけた先でいじめられていた女の子を独断でスカウトして、私たちが予定しているユニットに登録。どうして、プロダクションはそれを認めたのかしら。たしかに、この子は写真やプロフィールを見る限り、十分に魅力はあると思う。でも、いきなりスカウトなんて無茶よ。ふつうなら、オーディションを勧めるくらいにとどめるわ。」
「そういえば……」
「プロデューサーについて調べてみたけれど、警備員としての情報以外は見つからないの。社内の人にそれとなく聞いてみても一緒。古くからこのプロダクションで働いてはいるみたいだけれど……」
そのとき、プロダクションの扉が開いて、美穂ちゃんとくるみちゃんが戻ってきた。
「ただいまもどりました!」
「ただいま、もどりましたぁ」
ふたりは椅子に座る。私は二人の前にお菓子の袋を寄せ、電気ケトルのお湯を急須に注いでお茶の準備をした。
「あっちこっち手続きばっかりで大変だよね、くるみちゃん」
「うん……でも、みんな、やさしくしてくれるから、だいじょうぶ」
くるみちゃんは健気に笑う。
この前会ったときは顔が涙でくしゃくしゃになっていたけれど、こうして普段のくるみちゃんを見ていると、ちょっと自信なさげな笑顔がとっても魅力的に見える。守ってあげたくなる感じ。
「なにはともあれ、改めてこれからよろしくね、くるみちゃん」
マキノちゃんがくるみちゃんに微笑みかけた。
「よろしくおねがいしましゅ……します」
くるみちゃんは言い直して、ぺこりと頭を下げた。
私は湯のみにお茶を注いで、美穂ちゃんとくるみちゃんの前に置く。
「はい。美穂ちゃん、これからはどうするの?」
美穂ちゃんはお菓子の袋から柿ピーの小袋を取り出して自分の前に置いてから、私の質問に答えた。
「くるみちゃんの宣材写真を撮影しておくようにって、プロデューサーさんが。スタジオと社内カメラマンさん、スタイリストさんの予定は押さえてあるみたいです。でもプロデューサーさんは予定があって立ち合いはできないみたいで、私が案内するように頼まれました。そのあとはちょうど私のダンスレッスンがあるので、くるみちゃんを見学させるようにって」
「なかなかハードスケジュールね」
マキノちゃんが言いながら、お茶を一口。
「おしゃしん……と、ダンス……くるみ、ドジだから、ちゃんとできるかなぁ……」
くるみちゃんは不安そうに湯のみの水面を見つめた。
「大丈夫! 写真は自分でもびっくりするくらいかわいく撮ってもらえるし、ダンスも最初はだれでも初めてだから。私も、習いたてのころは全然できなかったけど、練習して少しずつできるようになったんだよ」
私が励ますと、くるみちゃんは興味深そうに頷いた。でも、まだちょっと不安そう。
「あっ、そうだ、私も見学していいかな?」
私が提案すると、くるみちゃんの顔がぱっと明るくなった。急ぎの予定もないし、くるみちゃんもすこしでも知っている人がそばにいるほうが、きっと安心だよね。
美穂ちゃんが頷く。
「うん、大丈夫だと思います」
「マキノちゃんは?」
「私?」マキノちゃんは突然話を振られたことに驚いたのか、意外そうな顔をした。「……私は、調査を進めることにするわ」
マキノちゃんの言葉に、美穂ちゃんとくるみちゃんは不思議そうな顔をした。きっと、プロデューサーさんのことを調査するのだろうと私は想像する。
「じゃ、写真撮影の時間まではちょっと休憩、お菓子パーティーだねっ!」
言いながら、私はお菓子の袋をテーブルの中央に移す。
それからしばらく、私たちはお茶とお菓子でおしゃべりに花を咲かせた。
「うん、いいねー、ちょっとだけ顔を右に傾けて、そう。じゃ、撮るよー、くるみちゃん、笑ってー」
シャッターの音が連続する。
「はうぅ、はずかしいよぉ……」
「大丈夫、くるみちゃん、こっち向いて! すっごくかわいいよー! はい!」
更に連続してシャッターが切られる音。くるみちゃんはスタイリストさんに用意してもらったフリルワンピース姿で、カメラマンさんの様々な指示に一生懸命に答えていた。
「ふええ、くるみ、うまくできない……ごめんなしゃい……」
指示に上手く応えられずに、くるみちゃんの目じりに涙が光った。カメラマンさんはいいよ、泣かないで、と言いながら、涙目のくるみちゃんを容赦なく撮影していった。泣き顔も魅力的だもんね。私も内心でカメラマンさんに同意するけれど、くるみちゃんにはちょっと気の毒かな。
しばらくのあいだ撮影が続いて、納得のいくショットが撮れたのか、カメラマンさんは満足そうに終了を宣言した。
「ほら、くるみちゃん、これがいま撮った写真だよ」
カメラマンさんはくるみちゃんを呼んで、デジタル一眼レフカメラの液晶画面を見せる。くるみちゃんが画面を見て目をぱちくりさせていた。
私と美穂ちゃんもくるみちゃんの後ろから画面をのぞき込む。
「あ、くるみちゃん、かわいい!」
美穂ちゃんが先に嬉しそうな声をあげた。
「うん、お姫様みたい!」
「うぅ……へんじゃないかな?」
くるみちゃんは口元を緩ませて嬉しそうにしながら、両の手で恥ずかしそうに自分の胸元を押さえた。撮られた写真はくるみちゃんの大きな胸も魅力的に映し出されている。
「クラスの男の子に見られたら、またバカにされるよぉ……」
くるみちゃんが弱々しく言ったので、私と美穂ちゃんとカメラマンさんはお互いに一瞬、視線を交わす。
「大丈夫だよ、自信もって! 美人さんだよ、くるみちゃんは」
カメラマンさんが励ますけれど、くるみちゃんはまだ不安そう。
「えっと……」美穂ちゃんがしゃがみこんで、くるみちゃんの顔を見上げるようにする。「私も、最初はすっごく恥ずかしかったんだ、短いスカートもなんだか怖かったし、写真にとられるのも苦手だった。いまも、ちょっと恥ずかしい、かな。だけど、恥ずかしくても少しずつ前に進んでいくと、ちょっとずつ恥ずかしがりやの自分から変われる感じがするの。それが、とっても楽しいんだ。だから、一緒に頑張ってみようよ」
美穂ちゃんの言葉を聞いて、くるみちゃんはちょっと迷っていたみたいだけれど、やがて、ひとつ頷いた。
「よかった!」
私はくるみちゃんの手をとって、ぎゅっと握る。
「くるみちゃん」カメラマンさんがくるみちゃんの前に立つ。「くるみちゃんはいま、大人に向かってどんどん身体が成長してるんだよ。男の子も女の子もみんな、そういう時期がある。変わっていく順番はばらばらで、あっちこっち急だったりするから、くるみちゃんも慣れなくてびっくりすると思う。でも、ほかの誰でもない自分の身体だ。くるみちゃん自身が大事にして、一緒に大人になっていくんだ。それは怖がったり恥ずかしいことじゃなくて、とても素敵な事なんだよ」
カメラマンさんはくるみちゃんの全身を撮った写真をくるみちゃんに見せる。
「くるみちゃんがアイドルを続けていれば、これからもどんどん新しい写真が増えていく。そのたびに、変わって大人になっていく自分にわくわくできると良いと思う」
そう言って、カメラマンさんはやさしくくるみちゃんに微笑みかけた。
くるみちゃんは自分の写真を、心にしっかり刻み付けようとするみたいに、じっと見つめていた。
「せっかくだから、見学だけじゃなくてちょっと身体を動かしてみますか?」
ダンスレッスンのトレーナーさんからそう問われて、くるみちゃんはふぇっ! と戸惑いの声をあげた。
「うぅ、くるみ、体育の準備運動もだめだめだから……」
「じゃあ、最初のウォーミングアップだけ一緒にやりましょう。くるみちゃんがこれからレッスンを受けるために、くるみちゃんがどのくらい動けるのかを見て、私たちが上手に教えられるように考えるためなので、協力してください」
「くるみちゃん、私も一緒にやるよ」
「はうぅ、わかりましたぁ……」
くるみちゃんは不安そうな顔で頷いた。
私たちはトレーニングウェアに着替えると、最初のウォーミングアップだけ一緒に身体を動かした。準備運動とストレッチ。たしかに本人から苦手と申告するだけあって、身体の動きがおぼつかない。なにかを怖がっているような動き。きっと活発に身体を動かすこと自体に不安があるんだろうと私は想像した。
トレーナーさんは、美穂ちゃんを含む他の参加者の皆に声をかけつつも、ときどきくるみちゃんの動きを注視して、手元のバインダーにメモをしていた。
そのあとは、私とくるみちゃんはダンススタジオの端に座って、レッスンを見学していた。くるみちゃんはずっと、美穂ちゃんのダンスを、口を半開きにして眺めていた。
やがて、レッスンは休憩時間に入る。美穂ちゃんがドリンクを片手に、汗を拭きながらこちらに歩いてきた。
「ふぅっ!」
さわやかに笑う美穂ちゃんの額には、汗がキラキラ輝いてる。
一方のくるみちゃんは、なんだか沈んだ顔だった。
「くるみ、あんなのできないよぉ……」
美穂ちゃんは私と目を見合わせた。
「えっとね、くるみちゃん、ちょっと立ってみて!」
「ふえっ?」
「夕美さん、さっきのレッスン曲よりちょっと遅いくらいのテンポで、手拍子してもらっていいですか?」
「うん、このくらいかな?」
美穂ちゃんが頷く。それから、私の手拍子に合わせて左右に身体を振った。
「くるみちゃん、私と同じ動きをしてみて」
くるみちゃんはぎこちない動きで美穂ちゃんを真似る。美穂ちゃんはちょっと膝を使って自然に左右に揺れているくらいの簡単な動きしかしていないので、くるみちゃんもすぐにその動きに慣れて、自然に動けるようになってきた。
「じゃ、その動きのまま、手の動きも入れるよ」
美穂ちゃんは両手を交互に突き上げるようにする。
くるみちゃんもそれに従った。
「えっと、こう……?」
「ほらっ、くるみちゃん、できてるよ!?」
美穂ちゃんは踊りながら、嬉しそうに声を出す。
「え、えっ?」
美穂ちゃんが動きを止めると、くるみちゃんも遅れて動きを止めた。美穂ちゃんが拍手する。私と、周りで観ていた何人かも拍手すると、くるみちゃんは恥ずかしそうに頬を染めた。
「全部をいっぺんに見ると、難しそうに見えるけど、ダンスって今みたいに、一つ一つの動きが順番に繋がってできてるんだ。だから、一度に覚えるのはひとつずつ。私も記憶力に自信があるほうじゃないんだけど、身体を動かしていくうちにいつのまにか覚えちゃうの。不思議だよね。それにね?」美穂ちゃんはトレーニングルームの中をぐるっと見渡す。「一人一人、みんな違うから、苦手でも大丈夫。もちろん、トレーナーさんが厳しいときもあるけど、でも、ぜったいに私たちのことをバカにはしない。だから、私たちも頑張れるんだ。がんばって、がんばって、それから難しいことができるようになるとすっごく嬉しいんだよ!」
言って、美穂ちゃんはにっこりと笑った。
屈託のない、本当にお花がそこに咲いたみたいな、明るい笑顔。思わず私も、胸が高鳴るような気がした。
「くるみも……できるように、なる?」
「うん、絶対なれるよ!」
美穂ちゃんはすぐに、心からそう信じているのだというように、くるみちゃんに返事をした。
ああ、と、私は思う。これが、アイドルなんだ。美穂ちゃんみたいに、まぶしくて――
「そろそろ休憩がおしまいになるから、またあとでね! 夕美さん、くるみちゃんのこと、お願いします!」
「あ、う、うん!」
私は我に返り、返事をする。
それから私は、くるみちゃんと一緒に、ダンスレッスンの見学を続けた。
一生懸命に踊る美穂ちゃんと、ほかの参加者の皆を観ながら、私はそっと胸に手を置く。
美穂ちゃんは、あんなにきらきらして、一生懸命で、それでも『お荷物』なのかな。
ううん、そんなことない。だって、美穂ちゃんはあんなに魅力的で、キラキラしているんだから。
――じゃあ、私は?
私は自問する。
プロデューサーにも問われたこと。結局、私はその答えもまだ、出せていない。
くるみちゃんは、さっきまでよりも真剣に、レッスンの様子を見つめていた。
2.小日向美穂 Gentiana scabra リンドウ(誠実) ・・・END
「……なぁーんかさ、はぁとー、やっぱ干されてね?」
くるみちゃんの初めてのレッスンから一カ月程度が経った水曜の午後、はぁとさんはノートパソコンのある席に座り、頬杖をついて、プロデューサーさんが淹れてくれたお茶の入った湯のみを見つめながらぼそりとつぶやいた。
はぁとさんは今日も、プロデューサーさんから頼まれた書類仕事をしている。お茶は淹れてから時間が経ってしまっているから、もう温くなっちゃっているかも。
毎週水曜午後のミーティングを終えた直後に、プロデューサーさんは仕事の調整のために少々、と言って早々に出かけてしまった。美穂ちゃんはボーカルのレッスン、くるみちゃんは学校の終わり時間の関係で普段のミーティングの時間には参加できないので、あとから合流してプロデューサーさんと個別に連絡を取り合う。結果、今日は部屋の中にはぁとさんとマキノちゃん、私が残っていた。
「……そう思う理由を聞きたいわ」
マキノちゃんが腕組をしてはぁとさんに尋ねた。
「なんかー、いっつもパソの作業ばっかさせられてるし? ここに座ったら姿勢を正せって細かいこと何度も言われてるし?」
「でも、レッスンは入ってるんですよね?」
「おー、入ってるぞー。でもな?」はぁとさんは不満そうに口をとがらせる。「いっつもいっつもトレーナーさんとはぁとだけのマンツーマンレッスンだぞ? しかも、トレーナーさんは『あの人』限定って、どういうことだっての☆」
はぁとさんはにこやかな声色を作って言った。かえってすごみがある。
『あの人』。きっと、プロダクション内部の四姉妹トレーナーさんたちのなかでも、もっとも厳しいと言われている人だ。
その人のレッスンと聞けば、アイドルたちは間違いなく、体力が空っぽになっちゃうくらいのハードワークを覚悟する。それくらいに厳しい人。でも、それだけの実力と実績を持った人でもある。
「これってパワハラじゃね? あぁっ……! な、夕美ちゃんはどう思う?」
「どう、って……」私は応えに困った。「レッスンについていけてるはぁとさんは、すごいなって」
「ありがと☆ でもそれ、はぁとへの返事になってねぇぞ☆」
はぁとさんは力ない笑顔で言った。
「……でも、あのトレーナーさんとマンツーマンのレッスンを連続で入れられるなんて、普通のスケジュールじゃないわ。どうしてかしら……」
マキノちゃんはひとりで考え込んでしまう。はぁとさんは構わず続けた。
「しかもさー、しかも! 内容もずーっと、基礎の基礎みたいなことばーっかりやらされてるんだぞ? もうはるか昔のはぁとがもっと若ーいころに一度やった……ってこら、今もぴちぴちだっつーの☆」
はぁとさんは自分で自分に突っ込むけど、ちょっとキレが悪い。
その時、事務室のドアが開いて、ちひろさんが中に入ってきた。
「おじゃまします。頼まれていた資料を持ってきました」
「こんにちは!」
私たちはそれぞれちひろさんに挨拶した。
ちひろさんは私たちの座る事務机の真ん中に、プロダクションの普段使いの封筒を置いた。
「頼まれた、って……プロデューサーさんからですか?」
私が尋ねると、ちひろさんはちょっと迷ったような顔をした。
「……ええと、あの、お戻りになればすぐにお分かりになると思いますので」
言いながら、入って来た扉へとちひろさんは後ずさる。ほんの少しの違和感に、私とマキノちゃんがちょっと目線を交わしたときだった。
「ちひろさぁん、美城プロ所属のアイドルってぇ、別にプロデューサー以外に仕事もらっちゃいけないってわけじゃないっすよねぇ? あのー、はぁとー、プロデューサーからはいやがらせみたいなレッスンしか指示されてなくてー、だからだから、はぁとになにかイイお仕事、ほんのちょーっぴりでいいんで、いただけないかなぁーって」
はぁとさんは立ち上がり、ちひろさんにすり寄るようにして、声色を使って言う。
けれど。
「心さん、私の一存で、意向と違うことをするわけには行きませんよ」
ちひろさんは、はぁとさんにぴしゃりと言った。
声にトゲがある、と私は思った。部屋の空気の温度が、ちょっと下がったみたいで。
なんだか、いつも笑顔のちひろさんらしくない。そう思ったとき――
「でも、もう!」はぁとさんは急に大きな声を出した。「もう、あとがないんだよ! わかるっしょ!? 三十路が少しずつ迫ってきて、アイドルとしてはギリギリ崖っぷちで、同年代の早苗さんや瑞樹さんはもっと活躍してるのに! もっと踊りたい、歌いたい、ライブがしたいんだよ! プロデューサーからは毎日のようにOLみたいな事務仕事ばっかり、いやがらせみたいなレッスンばっかり受けさせられて! こんな中途半端なことしてたら年食ってくばっかりだろ! もう、もうこんなのじゃ、アイドルって、言え――」
最後のほうは泣き声みたいになって吐き出したはぁとさんの言葉を、ちひろさんは睨みつけるくらいに強い目で見ていた。
私とマキノちゃんは、一言も発せずその場に凍り付いていた。
ちひろさんの背後の扉が開いて、穏やかな声がした。
プロデューサーさんとくるみちゃんが、部屋の中に入って来た。くるみちゃんは両手を胸のところでぎゅっと握って、とても不安そうな顔をしている。はぁとさんの声は事務室の外にも聞こえていたみたい。
プロデューサーさんはいつもの調子で、部屋の中に歩いてくると、帽子を脱いで長机の上に置いた。
「千川さん、お願いしていた書類はこちらですね」
「はい」
「ありがとうございます」
何事もなかったみたいに、プロデューサーさんは流し台のほうへと向かい――
「プロデューサー!」
はぁとさんが大きな声をあげた。声に驚いたのか、くるみちゃんの肩がびくりと跳ねる。
「はぁとに、仕事――!」
「佐藤さん」プロデューサーさんは、低い声で、諭すようにゆっくりと言った。「まだです」
「――っ!」
はぁとさんは、唇をぎゅっと結んで、プロデューサーさんを睨みつけると、ノートパソコンのある席に大きな音を立てて座り、乱暴にキーボードを打ち始めた。
ちひろさんは小さく頭を下げ、失礼しますと言って事務室から出て行った。
くるみちゃんはおろおろと泣き出してしまいそうな顔ではぁとさんや私たち、プロデューサーさんを見ていた。
――私やはぁとさんも含め、実績の弱いアイドルは、プロダクションに所属していなければ、とてもじゃないけれどアイドルとしての活動を続けることはできない。
美城プロダクションは芸能界でも最高峰のプロダクションだから、アイドルとして輝くことを目指していくなら、美城プロダクション以上にいい環境なんてまず得られない。
それに、美城プロダクションを辞めたアイドルなんて、どこのプロダクションだって欲しがりはしない。美城を辞めるなんて、トラブル以外にあり得ないと思われてしまうから。
だから、はぁとさんはここに残るしかない。
はぁとさんが黙って座ったときに考えていたのは、きっとそういうことだと私は予想した。
じゃあ、私は。私はどうして、美城プロダクションで、アイドルをしているんだろう。
「八神さんには、写真モデルのお仕事を受けていただきます」
ちひろさんが部屋を出ていき、プロデューサーさんが何事もなかったかのように自分と、希望したメンバーの分のお茶を淹れなおしたあと、プロデューサーさんはマキノちゃんに書類を手渡して言った。
マキノちゃんは渡された書類を真剣な目で見つめる。
「ティーンズファッション誌の写真モデル……毎回同じカメラマンが、モデルを変えて撮る連載なのね……カメラマンは……」
マキノちゃんは手元のスマートフォンでなにかを入力する。検索してるみたい。
「……かなりの大物みたいね。光栄だわ」
マキノちゃんは目を細めて、嬉しそうに言った。
その直後、私とマキノちゃんは、ほぼ同時にはぁとさんの方を見た。はぁとさんはこちらを見ずに、ずっとノートパソコンのキーボードをたたいている。
プロデューサーさんに言われ慣れたのか、はぁとさんは過剰なくらいに背筋を正していた。
「当日は、別のユニットのプロデューサーが随伴します。そのユニットから二名とマキノさん、合計三名での撮影となります」
「上条春菜さん……は、知っているわ。荒木比奈さんは初めて見るわね……最近プロダクションに所属したのかしら」
「八神さん」
プロデューサーさんが言う。いつもと声の調子が違ったので、マキノちゃんも、私も、くるみちゃんも、思わずプロデューサーさんに注目した。
「八神さんは、非常によく物事を調査、分析されているとか」
「そうね」
「この現場でも、八神さんにとって学ぶべきことがたくさんあると思います。事前の分析だけでなく、よく、現場の観察をしてみてください。当日のカメラマンをはじめとしたスタッフ、ともに仕事をするアイドル、随伴するプロデューサー。プロフィールや事前の情報からだけでは実感できないことが、きっと現場には隠れている。数値やデータにならないものも、面白いものですよ」
プロデューサーさんは、試すような目でマキノちゃんを見た。
「……」マキノちゃんは、手元の資料とプロデューサーさんとの顔を交互に見た。「……意識してみるわ」
プロデューサーさんは頷く。
「えっ!」
私の口から思わず声が漏れた。マキノちゃんも目を見開いていたし、はぁとさんも一瞬手が止まり、プロデューサーさんのほうを見た。
「ユニット……みんなで、うたったりおどったりするって、こと?」
くるみちゃんが尋ねると、プロデューサーさんは頷く。
「そうです。しかし……気の長い話になりそうです。いずれにしてもサマーフェスには間に合わない。秋か……いや、冬、でしょうね」
「じゃあ、それまでは……」
私が言うと、プロデューサーさんは頭を下げた。
「しばらくは現状の通りです。しかし、皆さんの進捗は決して悪くありません。周りに惑わされず、努力を続けてください」
「わかったわ」
マキノちゃんが満足そうに微笑んだ。
「それから少し先の予定になりますが、相葉さんと大沼さんは、サマーフェスを見学してきてください。大沼さんはイベント自体が初めてでしょうから、まずは舞台の裏と表から、舞台の雰囲気を感じていただきたい。相葉さんはご存知かもしれませんが、大沼さんをよろしくお願いします」
「はい」
「はいっ」
私とくるみちゃんは頷く。
「佐藤さんは」プロデューサーさんははぁとさんの背中に話しかけた。「フェスの日は、申し訳ないがオフとしてください」
「……」
はぁとさんはプロデューサーさんに向きなおり、全員がプロデューサーさんを見た。沈黙。
それもそのはず。だって『オフを指示する』なんて、ふつうはしない。
けれど、プロデューサーさんはそれを言った。その日は、フェスの会場に居ないこと。それ自体が、指示なんだ。
「……意味なく指示していることではありません。いまは、それが必要だということです」
プロデューサーさんははぁとさんにそう告げ、はぁとさんは何も言わなかった。
重苦しい空気の中でプロデューサーさんは打ち合わせの終わりを告げて、その日は解散になった。
それからしばらく経ったある日の午後、私は美穂ちゃんと一緒にお昼を近くの喫茶店で済ませてから、事務室のドアを開けた。
事務室の中の椅子に、マキノちゃんが真剣な目をして座っていた。
私と美穂ちゃんは、ふたりとも入り口のところで固まってしまった。
なぜなら――マキノちゃんは、座った席の向こうの壁の、何もないところをじっと見つめていたから。
マキノちゃんはとても、真剣な表情をしていた。
「あ、あの……マキノ、ちゃん?」
私はおそるおそるマキノちゃんを呼んでみるけれど、マキノちゃんは動かない。私は美穂ちゃんと顔を見合わせる。
「マキノちゃん」
美穂ちゃんがもういちど声をかけると、マキノちゃんはふーっと長く息をついて、それからようやくこちらを見た。
「……判らないの」
マキノちゃんはそれだけ言った。
でも、それだけじゃ私たちにもわからない。声をかけていいのかどうか迷っていると、マキノちゃんはふっと肩の力を抜いた。
「昨日、この前のミーティングで話のあったモデルの仕事に行ったの。特別なことはない仕事だった。でも、その仕事の最中に、上条春菜……あの人が、変わったのよ」マキノちゃんはそこで口元に手をやり、悩む。「いや……化けた、咲いた? と表現すべきかしら。とにかく、彼女のなにかが一変したわ。いい方向に」
私と美穂ちゃんは事務室の中に入り、それぞれ椅子に座る。
「なにか、きっかけがあったのかな?」
私が尋ねると、マキノちゃんが目を細める。悩んでいるみたいだった。
「撮影中、春菜の眼鏡へのこだわりを、カメラマンから妨げられそうになって、それをきっかけにプロデューサーが休憩を入れた。休憩中に春菜は自分のプロデューサーと、眼鏡アイドルを貫く決意を確認しあった。それだけ。それだけのはずなの。それだけなのに……どうして」
「決意したことが、きっかけになったのかな?」
美穂ちゃんが言うと、マキノちゃんは唸った。
「そうとしか言えない。でも、特別な言葉じゃなかった。想いが大事なのは否定しない。だけれど、あんなに……ううん、私の目で観ているのだから、疑いようもないわね。それは判っているの。だけど、私の目で観たものが、解析しきれない……あんなに短い時間の、短い言葉のやりとりで、あんなにも情報量、が……」
マキノちゃんは机に視線を落とすと、そのまま少し黙った。
それから、肩を小刻みに震わせる。
マキノちゃんは、ぎらついた目で笑っていた。
「解析しようとしても、解析しきれない……なんて、魅力的なのかしら……! 私も、ああなれる? ううん、なってみせる……それから、絶対に解析して、理論化してみせるわ」
――私の背筋が冷えたような気がした。
思わず身を引いて――私は、ふと思う。
ひょっとしたら、私がいまマキノちゃんから感じた雰囲気は、マキノちゃん自身が春菜さんに感じたものと、同じなんじゃないだろうか。
マキノちゃんは、机に左手をついて、ゆっくりとした動作で立ち上がった。
机についた左手で体重の一部を支えたまま、右手で髪をかきあげて、ひとつ息をつく。一連の動きは流れるようにしなやかで、マキノちゃんの首から背中、腰のラインは、私がどきりとしてしまうくらいに美しい曲線を描いて――
ほんの一瞬だったけれど、私は、見惚れていた。
「自主レッスンに行くわ。いまは、身体を動かしたいの」
「あ、私も行こうと思ってたんだ」美穂ちゃんが立ち上がる。「フェスの曲の振り付け、練習しておきたいなって。一緒にいいかな?」
「ええ、もちろん」
マキノちゃんは通学鞄を持ちあげると、ドアへと向かう。
「また、今度」
「夕美さん、また!」
「あ、うん、またね!」
私は部屋から出ていく美穂ちゃんとマキノちゃんに手を振った。
扉が閉まるまで、その後ろ姿を見送る。
――観たい。サマーフェスでマキノちゃんはバックダンサーとしての出演だけれど、マキノちゃんを観たい。
きっと、すごいマキノちゃんが観れる。
私は膝の上に置いていた両手をぎゅっとにぎった。
その時、事務室の扉が開いた。プロデューサーさんが中に入ってくる。
「こんにちは……おや、相葉さん、お一人ですか」
「はい。さっきまで美穂ちゃんとマキノちゃんが居たんですけど、自主レッスンに行くって」
「そうですか」プロデューサーさんは帽子を机の上に置く。「……相葉さん、お茶を淹れようと思いますが、飲まれますか?」
「はい、ぜひ!」
私が返事をすると、プロデューサーさんは嬉しそうに微笑んだ。
---
湯のみから、しっとりと甘い、いい匂いがたちのぼってくる。季節はどんどん夏へと近づいているけれど、プロデューサーの淹れてくれるお茶はいつも美味しくて、暑い日でもぜんぜん嫌じゃなくて、嬉しかった。
「八神さんの様子はどうでしたか?」
プロデューサーさんが湯のみを片手に、私に聞く。
「ええと……」私はさっき見た光景を思い出す。「撮影のお仕事で、なにかいい刺激をもらったみたいでした。同じお仕事だった上条春菜さんが、当日すごく……ええと、急に魅力的になったみたいで、マキノちゃんも、さっき、なんだかすごく、魅力的に見えて……」
私は言葉を止めて、頭を掻いた。
「ごめんなさい、なんだか要領を得てないですよね」
「いえいえ」プロデューサーさんは満足そうに言った。「よく判りました。八神さんはなにか掴まれたようです。楽しみですね」
「はい、本当にそう思います」
返事をしながら、私はふと、我に返った。
じゃあ、私は。なにかを掴んでいるだろうか?
これから、掴めるのだろうか?
「相葉さん」
「はい」
「先日は、面談が中断してしまい、申し訳ありませんでした。しかし……私が質問をしたあのとき、相葉さんには、迷いがあったように見えました」
プロデューサーさんは、穏やかな目でまっすぐに私を見ている。
「……はい」
「焦る必要はありませんが、迷いを持ったままのあなたを、私は舞台にあげたいとは思えません」
「はい」
当然だと思う。誰かを元気にしてあげたいと言っているアイドル自身が迷っていては、誰も元気になんてできないから。
プロデューサーさんは目を細め、私からはプロデューサーさんの瞳の色をはかりにくくなった。
「あまり、時間は長く残されてはいないのも、確かです。……期待していますよ」
その言葉は、私には重く、重く響いた。
「……はい」
せめて、返事だけは真摯にと、私はプロデューサーさんの目を見て答えた。
プロデューサーさんはふっと表情を緩ませる。
「幸い、ユニットに参加される皆さんは多種多様です。大沼さんのようにこれから伸びる人、八神さんのようにまさに今、なにかを掴んだ人。小日向さんも佐藤さんも、皆さんきっと、相葉さんといい影響を与えあうことができるでしょう」
「はいっ」
私はプロデューサーさんの言葉を胸に刻み込んだ。
淹れてもらったお茶を口に含んで、飲みこむ。程よく温度の下がったお茶の柔らかな甘みは、喉と口に優しく広がっていった。
時間は長く残されてはいない。
そう。みんなどんどん先に行ってしまう。立ちどまっている余裕なんて、ないんだ。
そうして、美城プロダクション、サマーフェスの当日がやってきた。
私はくるみちゃんを引率して、開演前に舞台裏でくるみちゃんに舞台の説明をする。
初めて見る舞台裏が珍しいのか、くるみちゃんは口をあけたまま、目を輝かせてあちこちを見ていた。
「舞台への入り口は、こっちが下手、あっちが上手っていうの。それから、今日のステージは階段をのぼったバルコニーも、アイドルの入場口になってるよ」
「ふぇえ……しゅごい……ひとの、こえ……?」
すでに開場時間は過ぎているから、舞台の向こう、客席からは、BGMとして会場に流れているアイドルの楽曲と、開演を待つ熱気が伝わってくる。
舞台に立たない私も、あてられてしまいそうなくらい、もう、熱い。
「お客さん、もうたくさん入ってるんだ。いつか、私たちも舞台に立てると……ううん、絶対立とうねっ!」
私が言うと、くるみちゃんは不安そうな顔をする。
「くるみ……だいじょうぶかなぁ……なれるかなぁ、アイドル……」
「なれるよ。美穂ちゃんが言ってたよね。私も、くるみちゃんならアイドルになれると思う」
「……がんばりゅ……」
くるみちゃんは唇をきゅっと結んで、頷いた。それから、あちらこちらにいるスーツやスタッフTシャツ姿の人たちを眺める。
「あのぅ……きょうは、ぷろでゅーしゃーは……?」
「プロデューサーさんは、今日はほかのお仕事があるみたいだから、みんなの活躍はあとでビデオで観るんだって」
私はプロデューサーさんから聞かされていたことをくるみちゃんに伝える。
プロデューサーさんは、私たちが仕事をする現場にはほとんど……いや、全くといっていいほど来てくれてはいなかった。ほかのユニットメンバーの皆から話を聞いても、地方のごくごく小さな、イベントコンパニオンみたいな仕事にちょっと顔を出してくれた程度。
もちろん、すべての仕事にプロデューサーが付いて行くわけじゃないけれど、こういう大きな社をあげてのお仕事には、マスコミ関係者も多く来るから、担当アイドルを売りこむためにも、プロデューサーさん自身の名を売りこむためにも、来ているのが普通。
「なんていうか……色々変わったプロデューサーさんだよね」
私はぽつりとつぶやいたけれど、くるみちゃんにとってはそもそも初めてのプロデューサーさんだから、変わっているかどうかわからないみたい。くるみちゃんは不思議そうに首をかしげていた。
「夕美ちゃん! くるみちゃん!」ステージ衣装姿の美穂ちゃんが楽屋口から舞台裏へと入って来た。「来てくれたんだ!」
「美穂ちゃん、今日はがんばってね!」
「あの、美穂さん、がんばってぇ……」
「ありがとう! えへへ。私、けっこう緊張しちゃってて……先に舞台裏でイメージトレーニングしようと思ってたんです。二人に会えてよかった!」
「初めてのライブだもん、仕方ないよ」
美穂ちゃんは、今日が初めてのライブのお仕事だった。でも、私もみんなも、美穂ちゃんは大丈夫だって知っている。
そう確信できるくらい、美穂ちゃんは今日のために頑張っていたから。
「美穂ちゃんは、どこから入場なの?」
「私はバルコニーからです。お客さんから見て右から二つ目のゲートで、城ヶ崎美嘉さんのバックとして、日野茜ちゃんと一緒に入場です」
「そっか、じゃあ、入場のときは美穂ちゃんを見てるね!」
「はい、うう……」美穂ちゃんは困り顔でもじもじする。「やっぱり、舞台裏に来ても、緊張しちゃいますね……」
それを聞いた私はくるみちゃんに目配せした。くるみちゃんははっとした様子で、ポケットからハンカチを取り出す。
「あ、あの……美穂さんに、プレゼントぉ……おまじない?」
くるみちゃんは、美穂ちゃんの前でハンカチをぱたぱたと振る。
「えっ……?」美穂ちゃんは不思議そうな顔をしていたけれど、すぐになにかに気づいたみたいに目を見開いた。「あっ、いい匂い! 香水かな?」
「えへへ、夕美さんに、やってもらったの……」
「くるみちゃんのハンカチに、カモミールの香水を振ったんだ。落ち着けるといいなって」
「ありがとう、くるみちゃん、夕美さん……うん、ちょっと落ち着けました!」
美穂ちゃんは胸に手をあてて、ほうっと息をついた。
「そろそろ、みんなも集合かな? 私たちは、関係者席から見てるね?」
「はいっ! 怖いけど、いっぱい練習した私を信じます!」
「あの、がんばってぇ……!」
私とくるみちゃんは、美穂ちゃんと固い握手を交わして、舞台裏を出て関係者席へと向かった。
開演前のアナウンスが終わってしばらく経ち、客席で鳴っていたBGMは徐々に大きくなる。それと同時に、客席の照明は暗くなり、お客さんが持っているペンライトの色とりどりの光だけが残り、そして、お客さんは期待の声を大きくする。
「始まるよ、くるみちゃん」
「はいっ」
ファンファーレが始まった。これから始まる舞台の華やかさを表現するような、色鮮やかでゆったりとした、荘厳なファンファーレ。
同時に、舞台がぱっと明るくなる。
私は舞台の二階バルコニー、右から二番目の入場口を見つけると、くるみちゃんに指で示した。
私とくるみちゃんは舞台を見つめる。
やがて、ファンファーレは終わって――最初の曲の、イントロが始まった。
その瞬間に、すべてのゲートから一斉に、アイドルたちが入場してきた。
会場が一気に熱気を帯びる。耳を震わせるような大きな歓声。
右から二番目のゲートは、ほんのすこしトラブルを疑ってしまうくらいの短い時間だけ周りから遅れて、美嘉さん、茜さん、そして美穂ちゃんが飛び出してきた。
「わぁ……!」
隣に座ったくるみちゃんが声を漏らす。
胸を打つように圧倒的な音と光の波が客席の私たちを覆って、最初のメロディが始まる。
美穂ちゃんが、大きな動きで舞い――
「……あ……」
私は、私の右目から涙が零れているのに気づいた。
右手の人差し指でそれをぬぐう。
ぬぐいながら、私は気づいちゃったんだ。
これまで、考えないようにはしていたけれど、私も、アイドルとしてあの舞台に立ちたかった。
きちんと見ておこう。美穂ちゃんとマキノちゃんの晴れ舞台も。
私がいま、舞台に立てないでいるこの悔しさも。
私は舞台を見つめながら、ペンライトを握る左手に力を込めた。
舞台の上で、マキノちゃんを探す。すぐに見つかった。舞台下手側、川島瑞樹さんの斜め後ろで、マキノちゃんは一分の隙も無いダンスを披露していた。
それは、決して、周りから浮いてしまうような独りよがりのものではなく、けれど、一度視界に収めればきっと誰も忘れられないくらいに完成されていて、私よりも年下とはとても思えないくらいに大人びて、妖艶で、気高くて――
アイドルだった。
マキノちゃん。マキノちゃんは、上条春菜さんが変わったことに驚いていたけれど。
私はいま、マキノちゃんがこんなにきれいに咲いていることに、驚いているよ。
私は両足に力を込めた。しっかり意識しないと、腰が抜けちゃいそうだったから。
そうして、美城プロダクションのサマーフェスは、ここが世界で一番熱いんじゃないかと思うくらいの熱気とともに終演を迎えた。
「うんっ、みんなすごかったねっ! くるみちゃん、みんなのところにいこう」
私がくるみちゃんに話しかけると、くるみちゃんがこっちを向く。くるみちゃんの顔は感動の涙と鼻水とでぐしゃぐしゃになっていた。
くるみちゃんは鼻をかみ、顔を拭くと、興奮冷めやらぬ顔で大きく頷いた。
やがて夏は終わり、時とともに、季節は移っていく。
3.八神マキノ Gerbera ガーベラ(神秘的な魅力) ・・・END
「うっ、うえっ、ふぇ、ひぐっ、ひっ、うえええ、びえええええ~~!」
大型家電量販店のスタッフルームに用意された待機場所で、くるみちゃんはとうとう声をあげて泣き出してしまった。涙はあとからあとからあふれて、衣装の袖はびっしょり濡れちゃってる。
「えっと、くるみちゃん、落ち着いて……」私はくるみちゃんの背中をさする。「ど、どうしよう……?」
量販店のスタッフさんも困り果てた顔をしている。
今日のお仕事である販促イベントの後半の部開始まで、あと、三十分。
---
話は一週間前にさかのぼる。
「イベントコンパニオン、ですか」
私が読み終えた資料を机に置くと、プロデューサーさんは頷いた。
「はい。ここから数駅の駅前にある家電量販店で、プロダクションとしても付き合いが長く、あちらの担当者も所属アイドルの扱いは心得ています。大沼さんの最初のお仕事として適当と判断しました。逆に、相葉さんには簡単すぎるお仕事となってしまい申し訳ありませんが……」
「いいえ、くるみちゃんの初仕事、しっかりサポートします!」
「イベントコンパニオン……って、なぁに……?」
私のとなりに座るくるみちゃんが首をかしげる。くるみちゃんには、まだ企画書のビジネス文書は少し難しいのだろう。
「お店で商品がたくさん売れるように、チラシを配ったり、お話したりする人のことだよ」
「うぅ……くるみ、できるかなぁ……」
くるみちゃんは不安そうにしている。はじめてのお仕事は誰だって不安だよね。
「きっと大丈夫だと思うな。チラシを配ってるあいだは『よろしくおねがいします』って笑顔で言えれば大丈夫だし、メーカーの営業担当者さんが司会みたいだから、私たちは司会の人と楽しくお話すれば大丈夫だよ!」
今回の仕事は、新製品のスマートスピーカーの販促イベントだった。営業の担当者さんが司会をするので、私もくるみちゃんも、お客さんと同じ『初心者』の立場に立つことが大事。裏を返せば、特別な準備をするより、素のままの私たちほうが好まれるお仕事。欲を言えば、イベントを見に来るお客さんに私やくるみちゃんのことも覚えてもらいたいけれど、あくまで主役は新製品。
当日の衣装はメーカーのロゴデザインに寄せた、身体にフィットするちょっとサイバーな感じのワンピースだった。
くるみちゃんをちらっと見る。サイズはきっと大丈夫だと思うけれど、慣れないうちは身体にぴったりフィットする衣装は恥ずかしいよね。
「……くるみ、がんばりゅ」
くるみちゃんは決意したように頷いた。
きっと、この前のサマーフェスがいい刺激になったんだろうな。
最初に出会ったときに言っていた、くるみちゃんの目標を思い出す。私にお手伝いできることはがんばろう。
そして、私もくるみちゃんと一緒に前に進まなきゃ。
「それでは、お願いします。当日は資料に書かれている通り、現地の家電フロアでバックヤードのスタッフに言えば待機場所に案内してもらえます」
「わかりました」
「はじめてのお仕事……うん」
私たちが頷くと、プロデューサーさんは穏やかな笑顔で頷いた。
「今日はよろしくおねがいします!」
「よろしくおねがいしましゅ……します」
お仕事の当日。私とくるみちゃんは家電量販店のスタッフさんに頭を下げた。
「こちらこそ、よろしくお願いします。そんなに複雑な仕事ではありませんし、なにか不測の事態があった場合には私がすぐフォローします。では、こちらへ」
スタッフさんはバックヤードに置かれた長机を手で示す。長机の上には二人分のペットボトルのお茶と、衣装が入っているらしいクリーニング業者の袋、それから星型のカラフルな機械――今日のイベントで使うスマートスピーカーが置かれていた。私が片手でも掴めそうなくらいの大きさで、表面は布でできてて、編みぐるみみたい。
「こちらがイベントでお二人に紹介してもらう新製品『アステル』です。イベント概要をお渡ししていると思いますが、お二人に司会の指示の通りアステルに呼びかけていただくのが主な内容です。あとは、最後に商品を手に取ったお二人を撮影し宣材にさせていただきます」
「わかりました」
くるみちゃんはアステルを物珍しそうに眺めている。
「着替えは毎度専用の場所を用意できなくて申し訳ないですが、スタッフの女性用更衣室でお願いします。ご案内しますね」
そう言うと、スタッフさんはクリーニング業者の袋を持って私たちを更衣室へ案内してくれた。
「くるみちゃん、だいじょうぶ? 緊張してる?」
衣装に着替えて待機場所に戻り、私はくるみちゃんに尋ねる。お仕事の時間が近づいて、くるみちゃんの顔には少しずつ緊張の色がにじんでいた。
「……すー、はー……うん、だいじょうぶ。夕美しゃん、ありがとぉ」
くるみちゃんは深呼吸して微笑む。その姿が健気で、私はちょっとだけ胸が苦しくなった。
はじめてのお仕事が思った通りに行くなんてことは殆どないし、くるみちゃんにはむしろ、たくさん経験して、失敗したり間違ったりしても大丈夫だと知ってもらうことが大事だと私は思っていた。
だから、緊張するのも大事な経験だよね。今日の私は、いざというときのフォロー役だ。
「じゃ、そろそろ時間だね。行こうか、くるみちゃん」
「……うん」
くるみちゃんは返事をしながら、自分の衣装の胸のあたりを気にしていた。やっぱり、いくら大きめの衣装を用意してもらったとはいえ、くるみちゃんの大きな胸ではぱつぱつになってしまっている。
着替えたときに身体が自由に動かせるか、呼吸が苦しかったりしないか、締め付けが強すぎないかは一緒に確かめたけど、まだ衣装を着ること自体に慣れていないのだろう。
「そろそろ時間です。行けますか?」
「はいっ」
スタッフさんに尋ねられ、私とくるみちゃんは返事をする。スタッフさんに先導されて、私とくるみちゃんは売り場をイベント会場まで歩いた。
くるみちゃんはちょっとだけ周りのお客さんの視線を気にしていた。ふつうに生活していれば、こういう衣装を着ることもないし、人の注目を集めることなんてない。だからこれも、経験を重ねてちょっとずつ慣れてもらうしかない。
「開始時間までは、イベント開始時間を告知しながらこのクリアファイルを配ってください。開始時間になりましたらこちらで声をかけます」
「わかりました!」
私とくるみちゃんはクリアファイルを受け取り、売り場の通路に立つ。
「くるみちゃん、私のマネをしてお客さんに声をかけてね。こういうのは貰ってくれないのが当然だから、貰ってくれたらラッキー、くらいの気持ちで、笑顔でねっ!」
「はぁい……がんばる」
くるみちゃんは気合十分、って感じ。あまり心配しなくてよさそう。
私とくるみちゃんはそれぞれ立ち位置を決めて、アステルの宣伝用クリアファイルを配り始める。
「新しいスマートスピーカー、アステルでーす、十一時からイベントやりまーす、よろしくおねがいしまーす!」
「新しいしゅ、スマートスピーカー、あしゅてるでーす! イベントやりまーしゅ、す、よろしくおねがいしまーす!」
私たちは大きな声でお客さんたちに声をかけた。
直接くるみちゃんに『がんばってね』と声をかけてくれるお客さんも居て、くるみちゃんは恥ずかしそうにしていたけれど、でもそれ以上に嬉しそうだった。
こういうのも才能っていうのかもしれない。私よりずっと活躍してくれている。心配する必要もなかったのかも。
一回目のイベント開始時間が近づく。私たちはクリアファイルの配布を中断し、イベントの準備をすることになった。準備といっても、イベントの流れを確認するくらいで、難しいことはほとんどない。
私たちは司会の女性と顔合わせする。私たちとデザインは一緒で、カラーリングが違う衣装を着た若いお姉さんだった。
「司会から、お二人にアステルの機能を試していただく指示をしますので、指示のとおりにアステルに呼びかけてください。司会はお客さんにもわかりやすいように、専門用語を極力使わないように説明しますのでご安心ください」
スタッフさんが説明してくれる。
「はい……あの、アステルって司会の方の言葉に反応しちゃったりしないんですか?」
「大丈夫です。いまは電源が入っていませんが、最初に『ハローアステル』と言うのがアステルへ指示するときの合図になっています」
「なるほど、合図があるんだ」
「あとは場に合わせて盛り上げていただければ」
「もりあげ……?」
くるみちゃんが首をかしげる。
「アステルのことがすごい! って思ったら、拍手したり、お客さんに笑顔を見せたりすることかなぁ。くるみちゃんが思ったとおりにやってもいいし、私と一緒にやっても大丈夫だよ」
「うん、くるみ、やってみる」
「よろしくおねがいします。……では、そろそろ時間ですね」
あたりにはイベントの開始を待つお客さんがちらちら集まってきていた。
「じゃあ、開始しますね。アステルの電源を入れて……よし」
星型のアステルの底がぼんやりと光って、ピポピポと音が鳴った。
「それでは、新型スマートスピーカー『アステル』の機能説明を行います、宜しければぜひご覧くださーい!」
司会のお姉さんが声をあげたので、私もそれに続く。
「どうぞー、お立ち寄りくださーい!」
「お立ち寄りくだしゃ、さーい!」
くるみちゃんも笑顔で声をあげた。
多少人が集まって来たところで、司会のお姉さんがマイクを持ちあげる。
「はい、お集まりいただきありがとうございます、本日は弊社の新製品、新型スマートスピーカー『アステル』をご紹介させていただきたいと思います!」
お姉さんは自分の名前を名乗ると、深く頭を下げる。
「本日、アシスタントを努めますのは、美城プロダクション所属のアイドル、相葉夕美さんと、大沼くるみさんです! くるみさんは今日がアイドルとしての初めてのお仕事だそうです! 皆さん、お手柔らかにお願いします!」
「よろしくおねがいしまーす!」
「よろしくおねがいします!」
私たちもお辞儀をする。拍手が帰って来た。くるみちゃんがはにかんでいる。
「それでは、さっそくはじめたいと思います、まずはアステルを呼んでみましょう。夕美さん、さっそくお願いします」
「はいっ。アステルを呼ぶときは、こう言います。……『ハロー、アステル!』」
スマートスピーカーが光り『お呼びでしょうか』と返事をした。
「ふぇえ、アシュ……ステル、しゃべった……」
くるみちゃんが驚くと、それにつられて何人かが笑い声を漏らした。くるみちゃんはちょっと恥ずかしそうに笑った。
くるみちゃんのアステルの挙動に対する一つ一つのリアクションはとても新鮮で、イベントに参加したお客さんたちにも好評だった。
これなら、心配はいらないかな。私がそう思ったころ、それは起こった。
「それじゃあ、こんどはくるみさんに機能を試していただきましょう。まずはアステルを呼んでもらいましょう……」
司会のお姉さんがそこまで言ったときだった。
「あー! くるみだー!」
子どもの声がした。くるみちゃんの肩がびくん、と跳ねる。
三人の男の子が、売り場をこっちへ歩いてくる。
「なんかヘンな服着てるぞ!」
「泣き虫くるみー、ゆるゆる胸でかおばけー」
私にはその男の子たちに見覚えがあった。公園でくるみちゃんをいじめていた男の子たちだ。
司会のお姉さんが戸惑っている。
私は考える。プロダクションが主催で、私たちが主役のライブイベントなら、迷惑なお客さんはスタッフさんの判断で退場させたりできるけれど、こういう現場ではそれはできない。お店にとってのお客さん、しかも子供を相手にするなら無下に扱うわけにもいかないし、かといって見て下さっているお客さんがいるイベント自体を中断するわけにもいかない。
私はコーナーの端に居たスタッフさんを見る。スタッフさんと目があった。考えていることは私と同じみたいだった。
「くるみーお前なにやってんだよー!」
男の子の一人がイベントスペースに入ろうとしてくる。くるみちゃんは固まっていて動けない。即座にスタッフさんが男の子たちの前に出た。
「きみたち、いま、イベントの最中だから、くるみちゃんとは今度お話してね」
「イベント? へぇー、ふーん」
男の子たちはにやにや笑う。
お客さんたちのあいだにも戸惑いが広がりつつあった。司会のお姉さんがこちらを見ている。私はくるみちゃんの肩に手を置く。
「くるみちゃん、今はお仕事のことだけ考えよう。あの男の子たちはスタッフさんが止めてくれるから、気にしないで」
「う、うん……」
くるみちゃんは頷く。表情は硬くなっているけれど、頑張ろうという意志は伝わってきた。私は司会のお姉さんに目で続行の合図をした。
「はい、失礼いたしました、それでは改めて、くるみさんにアステルを呼んでもらいましょう、ではおねがいします!」
「はぃ、えっと……はろー、あしゅてる」
沈黙。アステルは動かない。
くるみちゃんは焦った声を漏らす。
「あれ、ちょっと反応しないみたいですねー、くるみさん、もう一回お願いします!」
「はろー、あしゅてる!」アステルはやっぱり反応しない。「あしゅてるー!」
必死にくるみちゃんはアステルを呼ぶけれど、アステルは光らなかった。
くるみちゃんの焦りで活舌が悪くなってしまい、アステルが認識できる音になっていないのかもしれないと、私は思った。
「アステルが起動しないですね? でも大丈……」
「ぎゃはは、くるみ、だっせー!」
司会のお姉さんの声を遮って、男の子たちがくるみちゃんを指さし、大声をあげて笑った。
「う……」
くるみちゃんの肩が震える。
「お、泣くぞー、泣き虫くるみー!」
男の子たちに煽られて、くるみちゃんの目には涙があふれ、ぽろぽろと零れた。
「うっ、ひぐっ、う、ふぇ、えええええぇ……」
私がフォローに入るより、スタッフさんが男の子たちを止めるより早く、くるみちゃんの泣き声は売り場に響き渡ってしまった。
スタッフさんが私の方を見る。
「いったん中断します。相葉さん、大沼さんとバックヤードへ。こちらは私と司会とで収めますので」
「あの、申し訳ありませんっ!」
私は深く頭を下げた。
「いえ、簡単なイベントだからと対策を簡略化した私たちにも責任はあります。二回目のイベントのことは後で打ち合わせさせていただければ」
「わかりました。くるみちゃん、行こう」
私は両手で顔を覆って泣き続けるくるみちゃんを連れて、お客さんたちの心配そうな様子を尻目にバックヤードへと戻った。
そして、時間は現在に戻る。
「うえ、うぇぇえ、ふぇ~~ん、えぇ~~ん」
くるみちゃんは泣き止まなかった。
スタッフさんがバックヤードに戻ってきて、イベントは私たちの退場以降、大きなトラブルなく終わったことを教えてくれた。お客さんの何人かは、くるみちゃんを心配してくれていたとも教えてくれた。
くるみちゃんをいじめた子供たちは、玩具売り場へ去っていったらしい。
私は焦っていた。お仕事が自分の思った通りに行かないのはよくあること。だけど、それは自分の実力不足を感じて、それから努力を重ねて克服していくもの。さっきみたいに、自分が原因ではないトラブルで、しかも悪意を直接ぶつけられるなんて、そうそう起こらない。
このことで、くるみちゃんが始めて間もないアイドルのお仕事を怖がるようになってしまうのはよくない。そのためには、後半の部でくるみちゃんがお仕事をしっかり終えて自信をつけてもらうのが一番。でも、くるみちゃんが怯えてしまっては、お店の側に迷惑が掛かってしまう。これは学校の職業体験じゃなくて、お給料のあるれっきとしたお仕事なんだ。
プロデューサーさんは、この家電量販店とプロダクションは長い付き合いだと言っていた。ここで関係が悪くなって、プロダクションがこのお店からお仕事を貰えなくなってしまうのは避けなきゃいけない。
まずは、くるみちゃんを落ち着かせないと。
私はくるみちゃんをそっと抱きしめた。
くるみちゃんはそれでも泣き止まなかったけれど、早まっていた呼吸のスピードを少しずつ緩めていった。
「ふっ、ぐすっ。夕美しゃん、くるみ、くるみ……お仕事、だめに、しちゃっ」
「大丈夫、くるみちゃんの失敗じゃないよ」
「ふえぇ~!」
くるみちゃんは再び声をあげて泣き出す。
私はくるみちゃんを抱きしめたまま、時計を探す。次のイベント開始予定時刻まであと二十七分。
焦っちゃだめだ。私が焦ったら、それはくるみちゃんにも伝わっちゃう。
どうしようか悩んでいたとき、バックヤードの扉が開き――見知った顔が入って来た。
「プロデューサーさん!」
私が声をあげると、くるみちゃんが顔をあげた。私はくるみちゃんから身体を離す。
「ぷろでゅーしゃー……?」
グレーのスーツ上下に同じ色のハットを深くかぶったプロデューサーさんが、こちらに歩いてくる。ハットを取ると、スタッフさんに深く頭を下げた。
「この度はご迷惑をおかけしました」
「いえ、こちらも想定外の事態に対応が間に合わず、申し訳ありません」
スタッフさんも頭を下げる。
プロデューサーさんは私たちの前まで歩いてくる。
「相葉さん、大沼さん、お疲れ様です」
「プロデューサーさん、あの……」
何が起こったかを説明しようとすると、プロデューサーさんは手のひらを私に向けて、私を制した。
「お仕事の様子は見させていただいていました」
「えっ!」私は無意識に驚きの声を発していた。「ご覧になっていたんですか」
プロデューサーさんは頷く。
いつもは現場に来ないプロデューサーさんが、今日は来ていたなんて。くるみちゃんの初仕事だから?
疑問に思う私をよそに、プロデューサーさんはくるみちゃんに優しく語りかけた。
「大沼さん、災難でしたね」
「ぷろでゅーしゃー……ひぐっ、あのぉ、ごめんなさい……おしごと……失敗しちゃって……」
くるみちゃんはうつむく。プロデューサーさんは穏やかな顔で首を横に振った。
「トラブルや失敗はかならず起こります。これから大沼さんも、相葉さんたちもたくさん経験することです。だからこそ、失敗から次につなげることが大事です。大沼さん、後半のイベント、やれますか?」
「う、うぅ~」くるみちゃんの目からは涙がぽろぽろとこぼれている。「でも、くるみ、涙が止まらなくて、こんなんじゃ、お仕事、また、だめに、ふぐっ、うえぇ」
私は待機場所に用意されていたタオルで、ぐしゃぐしゃになってしまっているくるみちゃんの顔を拭いた。
「大沼さん」プロデューサーさんはくるみちゃんの前にかがみこむ。「私は、涙を流すことを悪いことだとは思いません」
「ふぇ……?」
くるみちゃんはきょとんとした顔でプロデューサーさんを見た。
「いけないなのは、涙がこぼれることではなく、心が泣いていることです。たとえ涙を流していても、心が前を向いてさえいれば、大沼さんは大丈夫ですよ」
プロデューサーさんはくるみちゃんの頭の上にそっと手を添えた。
「私は、大沼さんのお仕事は、まだ失敗していないと思います」
「でもぉ……でも、また男の子たちに邪魔されたり、くるみが泣き虫になったりしたら」
「たとえいくら涙が流れても、大沼さんの心が泣いていないのであれば、決して失敗にはなりません。イベントに予期せぬ邪魔が入るなら、それはスタッフも含めたイベント全体で対応するべき問題です。ですが……大沼さんが怖がって、心が泣いてしまい、諦めてしまうとすれば、そのとき、大沼さんが私たちと出会ったときに言っていた『変わりたい』という想いは、途切れてしまいます。大沼さん、もう一度、お尋ねします。後半のイベント、やれますか?」
私は、せめて自分もなにか力をあげられたらと思い、くるみちゃんの背にそっと手を当てて、祈った。
「ぷろでゅーしゃー」くるみちゃんは、両の大きな瞳からぽろぽろ涙をこぼしながら、それでも笑顔で言った。「くるみ、泣き虫で、ゆるゆるでおバカだけど、でも、お仕事、がんばりたい。涙がこぼれちゃっても、だいじょうぶかな?」
プロデューサーはゆっくりと大きく頷く。
「勿論です。大沼さん、あなたはもうアイドルの道を歩いています。大沼さんの涙も、大切な大沼さんの魅力です」
くるみちゃんは、大粒の涙とともに、でも力強く言った。
「くるみ、がんばる!」
プロデューサーは、何も言わずに微笑んで、くるみちゃんの手を握った。
すこし、嬉しそうだと私は思った。
「相葉さん、大沼さんのお顔を整えて差し上げてください」
「はいっ」
私は自分の化粧ポーチを取って、くるみちゃんの乱れた髪を整える。顔ももう一度拭き、整えた。
「うんっ、これでだいじょうぶ!」
私はくるみちゃんの肩をぽんと軽く叩いた。
「後半のイベント開始予定まで、あと五分です」スタッフさんが困ったような顔で言う。「あの……先ほどの男の子たちが、売り場に戻ってきています」
くるみちゃんの表情が、すこし厳しくなった。
「くるみちゃん……」
私が声をかけると、くるみちゃんはぎゅっと目をつぶって、それからもう一度目を開き、首を横に振った。
「くるみ、だいじょうぶ。夕美しゃんも、ぷろでゅーしゃーも、いっしょだから。お仕事、がんばる」
くるみちゃんの言葉に、私は胸が高鳴るのを感じた。
「くるみさん」司会のお姉さんがくるみさんの前に来る。「次のイベントも、よろしくおねがいします。つぎは男の子たちが何を言っても、私を信じてアステルに話しかけてみてください」
「ふぇ……?」
くるみちゃんが不思議そうな声をあげると、お姉さんはふふ、と意味ありげに笑って、売り場へと戻っていった。
「くるみちゃん、私たちも行こう」
私がくるみちゃんに言うと、くるみちゃんは大きく頷いた。
売り場のイベント会場には、さっきよりも多くの人が集まってきていた。くるみちゃんをいじめた男の子たちのほかに、前の回のイベントに居た人達もちらほら見える。くるみちゃんのその後が気になったのかもしれない。
私たちが立ち位置につくと、司会のお姉さんがマイクをとった。
「さて、それではふたたび、弊社新製品、新型スマートスピーカー『アステル』のご紹介をさせていただきます! アシスタントは先ほどに引き続き、美城プロダクション所属アイドル、相葉夕美さん、大沼くるみさん!」
「よろしくおねがいします!」
私とくるみちゃんの声が重なる。
「泣き虫くるみぃー!」
男の子たちが囃し立てるが、くるみちゃんはそちらを見なかった。今度はスタッフさんが、お客さんたちと私たちの間に待機して、心理的な壁になってくれている。
「では、さっそくくるみさんにアステルを呼んでもらいましょう! くるみさん、おねがいします!」
「はい……」
くるみちゃんは深呼吸する。
お客さんたちも固唾をのんで見守っていた。
「はろー、あしゅてる!」
くるみちゃんは元気な声でアステルを呼ぶ。でも、アステルはやっぱり動かない。
「あうぅ……」
くるみちゃんの目に涙がにじむ。
「泣き虫くるみー! 泣くぞ、泣くぞー!」
男の子たちが喜ぶけれど、くるみちゃんは構わずアステルだけを見ていた。
「はい、くるみさん、ありがとうございます! 困ってしまいました。アステル、反応しませんでしたね。けれど、これは故障でも、もちろんくるみさんが失敗したわけでもないんです。アステルは呼んでくれた人の声を覚えて、間違えてほかの人の声に反応しないように聞き分けます。このアステルは、第一回で夕美さんの声を覚えていたので、くるみさんの声に反応させるには、新たにくるみさんの声を登録をする必要があるんです」
「ふぇ、そうなの? あしゅてる、しゅごい……」
「じゃあ、アステルにくるみさんの声を登録してみましょう! 夕美さん、アステルに呼びかけて『声紋認証の追加』とリクエストしてください!」
「はい!」私は一歩前に出て、アステルに呼びかける。「ハロー、アステル。声紋認証の追加!」
アステルがピカピカ光り「声紋認証の対象者を追加します。私に呼びかけてください」と機械の声で発した。司会のお姉さんがくるみちゃんに合図する。私もくるみちゃんの背をちょっと押した。
「……すー、はー……はろー、あしゅてる!」
深呼吸してからくるみちゃんが言う。みんな、アステルが反応するか、固唾をのんで見守っていた。
そして、アステルは私の時と同じように光り「新しいユーザーを登録しました。お呼びでしょうか」と発した。
「あしゅてる、応えてくれた! やったー!」
くるみちゃんは心から嬉しそうに笑い、その場でジャンプした。うれし泣きの涙がくるみちゃんの目尻できらっと光り、会場からは拍手が巻き起こった。
「やりました! このように、アステルは人の声に対する高い判断力を持っています。さて、次はくるみさんにアステルの様々な機能を試してもらいましょう!」
司会のお姉さんも心なしか声が弾んでいる。
そのあとは、一回目のイベントでの私と同じ流れで、今度はくるみちゃんがアステルの様々な機能を試した。アステルが反応するたびにくるみちゃんは本当に嬉しそうに喜び、お客さんもみんな笑顔になっていた。
くるみちゃんをいじめていた男の子たちは、いつの間にか姿を消していた。
「ありがとうございました!」
イベントが終わり、バックヤードの待機場所で、私とくるみちゃんはスタッフさんと司会のお姉さんに頭を下げた。
「こちらこそ、ありがとうございました! とってもいいイベントになりました!」
司会のお姉さんもまた、笑顔で私たちに頭を下げてくれる。
「あの……一回目は、ごめんなさい、くるみ、早とちりして、泣いちゃってぇ……」
「いいえ、声紋認証について先にお伝えしなかった私たちにも原因があります。でも、実はお二人のおかげで、今日の売り上げはいつもよりちょっと良かったみたいなんです。売り場から『アイドルの子が健気で、アステルにも情が移ってしまった』と言って買ってくれた人がいたと報告がありました」
スタッフさんが言うと、くるみちゃんはふぇ、と短く声を漏らして、ぽろっと涙をこぼした。
これは、心が喜んでいる涙だから、だいじょうぶだよね。
私はくるみちゃんの横顔を見ながらそう思った。
「相葉さん、大沼さん、お疲れ様でした」
プロデューサーさんがこちらに歩いてくる。
「ぷろでゅーしゃー!」くるみちゃんがかけ寄る。「くるみ、ちゃんとできたかな?」
「ええ、とても立派でしたよ」プロデューサーさんは優しく微笑む。「初仕事、無事に成功ですね」
「えへ……でも、くるみ、いっぱい泣いちゃった……つぎはもうちょっと泣かないように、がんばる……」
「そうですね……相葉さんも、お疲れ様でした。フォローありがとうございます」
「いいえ、私はなにも……くるみちゃん、すっごく頑張ってくれて」
私が言うと、くるみちゃんは照れたようにこちらを見て笑った。
そう、くるみちゃんは、たくさん泣いてはいたけれど、決して心が折れたりはしななかった。
くるみちゃん自身が苦しい時も、自分自身よりお仕事のことを心配して。つまづきをしっかり挽回して、前に進んだ。
くるみちゃん自身が思っているより、ずっとずっと、くるみちゃんは頑張り屋さんで、強くて、思いやりがある。
そして、アイドルとして確実に前に進んでいる。
くるみちゃんの姿を見ながら、私は――私自身の心の中にも、新しい思いが芽吹いていることに気づいた。
そうか――と、私が思ったときだった。
「……っ。む……」
急に、プロデューサーさんの顔が歪んだ。なにかに苦しんでいるみたいに、眉間にしわを寄せる。
くるみちゃんがきょとんとした顔でプロデューサーさんを見る――
「くるみ!」
バックヤードへの入り口のあたりから女性の声が聞こえて、私たちはそちらに注目する。
「あ、ままぁ!」
くるみちゃんが手を振った。
くるみちゃんのお母さんらしいその人は、小柄だけれど、思わずみとれてしまうくらいにとてもスタイルがよくて、凛としていて、一言で表すなら、とてもかっこいい人だった。
「みなさん、くるみが大変お世話になっております、大沼くるみの母です」
くるみちゃんのお母さんは丁寧に頭を下げる。その仕草も美しい。
「大沼さんをお預かりしているプロダクションの者です。こちらこそ、大沼さんには大変お世話になっています」
プロデューサーさんも丁寧に頭を下げる。さっき一瞬見せた表情はもう消えて、いつもの穏やかな顔に戻っていた。
くるみちゃんは頬を赤らめていた。お母さんの前で褒めてもらったのが嬉しかったのかな。
談笑するプロデューサーさんたちを少し離れたところから眺めながら、私は思う。くるみちゃんも大人になったら、きっとすごくかっこよくなるんだろうな。
私はなんだか、今日のくるみちゃんを見られたことが、いつか自慢になるような気がして、思わず笑みがこぼれた。
週が明けた水曜日。私は事務室の前に置いたプランターに咲く秋のお花さんたちの様子を確認してから、鼻歌混じりに事務室の扉を開けた。くるみちゃんがとっても活躍したことを、みんなに伝えよう――
と、事務室の扉の中に入ると、中には先に来ていたはぁとさんが、私よりも上機嫌な様子でキーボードを叩いていた。
「おはようございます」私は鞄を机の上に置く。「はぁとさん、なんだかご機嫌ですね」
「わかる? きゃるーん☆ そっかー隠してもわかっちゃうかー。しゃーねーよなー☆」
はぁとさんは笑顔でぐっと伸びをした。
「何かいいことでもあったんですか?」
「ロンモチ☆ 聞いて驚けー、はぁと、ついにいーい仕事、ゲットしたんだぞ☆」
「えっ?」
私は驚きの声をあげた。
なぜなら、私たちにお仕事が来るときは、いつもこの毎週水曜午後の打ち合わせの場でプロデューサーさんから伝えられるから。
だから、はぁとさんが言っている、その『いいお仕事』は――
「はぁとの去年の仕事のツテをたどって、自分で取って来たんだぞー☆ あんのプロデューサーに、いつまでも干されてたまるかっての☆」
はぁとさんは舌を出してウインクした。
私は不安になる。お仕事が決まったのは良いことだけど、プロデューサーさんに無断でなんて、大丈夫なんだろうか――
4.大沼くるみ Juglans ウォールナット(野心) ・・・END
プロデューサーさんを通さずに、はぁとさんはお仕事を見つけてきたと言った。
「来週打ち合わせでー、ネット配信ラジオ番組のコーナーのアシスタント☆ はぁと、ぜーったいここでディレクターにイイとこ見せて、先のお仕事に繋げっぞ!」
そう言って、はぁとさんは机に置いたペットボトルのお茶を飲む。
「そう、なんですか」
私は曖昧な返事をして、椅子に座った。
春に私たちが集められてから、はぁとさんはずっとこの部屋で、アイドルの仕事とは言えないような事務仕事を続けていた。レッスンも毎回、最も厳しいと言われるトレーナーさんとのマンツーマンレッスンのみだった。
そんな状況だから、はぁとさんが『干されていない』と言えるのか、と問われると、それは私も自信をもってそうだとは答えられそうにない。
けれど――けれど、プロデューサーさんが、はぁとさんだけに冷たくするような人だとは思えない。プロデューサーさんの真意が見えないから、私は黙っているしかできなかった。
「そういや、夕美ちゃんもなんだか機嫌よさそうじゃなかった? なんかいいことあった? ほらほらぁ、はぁとに言ってみ? 言ってみ?」
「あ、そうなんです!」私は思い出し、胸の前で手を打つ。「この前のくるみちゃんの初仕事、くるみちゃんがとっても頑張ってて大成功だったので――」
それから私は、くるみちゃんの初めてのお仕事の様子を話した。
「なるほどなー、はぁあ、はぁとも負けてらんねーなー」
大きく伸びをしながら、ため息交じりにはぁとさんは言ったけれど、はぁとさんは私の話を聞いているあいだずっと嬉しそうにしてくれていたし、今の言葉の声色もとっても明るかった。
お仕事がもらえなくても、自分で前に進もうとするはぁとさんはすごい。
それは、私のシンプルな感想だった。
「おはようございまーす!」
「おはよう」
事務室の扉が開いて、学校の制服姿の美穂ちゃんとマキノちゃんが入って来た。
「おっつー☆ 今日もスウィーティー☆」
「あ、おはよう!」
私は立ち上がり、部屋の端の流し台で電気ケトルにお水を汲んで、電源を入れた。プロデューサーさんが来る前にお湯を沸かしておけば、プロデューサーさんが来たとき、すぐにお茶を淹れてくれて、スムーズに打ち合わせに入れる。
「夕美ちゃぁん、プロデューサーが来る前に、二人にもさっきの話、してやれしてやれー」
はぁとさんが私の背中に声をかける。
「えっ、でもはぁとさんには同じ話になっちゃいますよ?」
「スウィーティーな話は何度したっていいもんだぞ☆」
「なにか、いいことがあったんですか?」
美穂ちゃんがコートを壁のハンガーにかけながら尋ねる。
「あったあった、はぁとも報告あるけどー、夕美ちゃん、お先どうぞ☆」
はぁとさんは嬉しそうに笑う。きっと、はぁとさんも自分の話がしたいんだろう。
「それじゃあ……あのね、この前のくるみちゃんの初めてのお仕事で――」
私はもう一度、同じ話を始めた。
そうして、私の二度目の話が終わった直後、はぁとさんが自分の話を始める前のことだった。
「おはようございます……ああ、お湯を沸かしてくれていたんですね。ありがとうございます」
プロデューサーさんが入ってきた。いつものようにハットを取って机に置き、みんなの分のお茶の準備を始める。
「あれ?」
いつもとちょっと違う光景に、私は声をあげた。
いつもは私たち四人とプロデューサー、合わせて五つの湯のみがお盆に用意されるけれど、今日はひとつ多い、全部で六つの湯のみが置かれている。
「ああ、このあと、今日の打ち合わせには大沼さんも参加していただきます」
「くるみちゃんも?」
美穂ちゃんが意外そうな声をあげる。
「ええ、今日は皆さん五人全員にお伝えしておきたいことがありますので」
言いながら、プロデューサーは湯のみに注いだお湯を急須へ移す。
「そっかー、じゃあくるみちゃんが来るまでははぁとの話もお預けかなー」
はぁとさんはわざとプロデューサーさんに聞かせるみたいに言った。
美穂ちゃんがはぁとさんにそう言うのと同時に、プロデューサーさんがはぁとさんを見た。私は部屋の中に緊張が走ったような気がした。
「そう、実はー、はぁと、自分でお仕事ゲットしたんだぞ☆ 褒めて褒めて? ほらぁ、プロデューサー☆」
「えっ?」
美穂ちゃんが驚きの声をあげる。マキノちゃんもはぁとさんの方に注目した。プロデューサーさんは、目を見開いてはぁとさんを見た。
「……佐藤さん、それは、どういうことですか?」
プロデューサーさんの、普段より少し低い声が響いた。
「やぁん、怖い顔すんな☆ いま言った通りだぞ、プロデューサー☆ はぁとが有能だからって☆」
そう言って、はぁとさんはホチキスで綴じられた書類を机の上に置いた。きっと、はぁとさんが取って来たお仕事の企画書だろうと私は思った。
プロデューサーさんははぁとさんの席の前までやってくると、書類を取る。それを読んで――プロデューサーさんの表情が一変した。
それは、今まで一度も見せたことがないくらい、険しい表情だった。
「――いけない」プロデューサーさんは机の上の帽子を取る。「すみませんが、すこし外します。大沼さんが間もなく到着されるでしょうが、皆さんはそのまま待機していてください!」
そう言って、プロデューサーさんははぁとさんの書類を片手に、そのまま事務室から飛び出して行ってしまった。
「……は? ちょっ、プロ……!」
はぁとさんの声は、閉じられた事務室の扉にぶつかり、遮られた。
「なんっなんだよ!?」
はぁとさんが困惑した声で吐き捨てるように言った。
「……わからないわね」マキノちゃんが閉じた扉を見て言う。「私たちの契約条項では、他のプロダクションとの重複所属は認められていないけれど、個人での活動は妨げられていない。あんなに焦る必要があるのかしら」
「そう、そーだろ、マキノちゃん! はぁと、おかしいことしてないっしょ!?」
はぁとさんは叫ぶような声で言う。
「でも、じゃあプロデューサーさんは、どうしてはぁとさんのお仕事の書類を見て、あんな表情を……?」
私が疑問を言うと、マキノちゃんは頷く。
「はぁとさん、そのお仕事の書類、まだあるかしら」
「えっ? うん、コピーなら」
はぁとさんはバッグから書類をもう一部取り出す。マキノちゃんはそれを受け取ると、時間をかけて真剣な目でそれを読んだ。
「……特に、問題のある内容には思えないわね。ユニット活動の面でも、プラスにこそなれ、マイナスにはならないと思うけれど」
マキノちゃんは書類を長机に戻す。私と美穂ちゃんもそれを読んだけれど、特におかしなところはないように思えた。
「あのぉ、おはようございましゅ……」
くるみちゃんが部屋に入ってくる。
「あ、おはよう、くるみちゃん!」
言いながら、私は立ち上がり――流し台のほうを見て、思い出す。
「いっけない、お茶!」
私はくるみちゃんに椅子を勧めてから、流し台に置いたままの急須の蓋をあける。急須の中のお茶は、時間が経ちすぎて渋そうな深緑色になってしまっていた。棄てたほうがいいか悩みながら、私はひとまずひと口だけ味見してみようと、自分の分の湯のみを取る。せっかくお湯で温めた湯のみは、すっかり冷えてしまっていた。
出過ぎたお茶は、やっぱりとっても渋くて、飲めないほどじゃないけれど、いつもプロデューサーさんが淹れてくれる美味しいお茶を知ってしまっては、飲もうとは思えなかった。
やがて扉が開き、プロデューサーさんが戻って来た。表情は険しいままで、額には汗がにじみ、後ろにはちひろさんを連れていた。
「戻りました。皆さん、お呼び立てしたのにお待たせして申しわけない」
「プロデューサーさん、あの、お茶、出過ぎてしまって……勿体ないけれど、処分しました」
私が言うと、プロデューサーさんは何を言われたのかわからなかったらしく、一瞬だけ固まって、それからはっとしたような表情をした。
「失念していました……。この分は、また今度に」
プロデューサーさんはいつもの自分の席の前まで来ると、スーツのジャケットを脱いで椅子にかけた。落ち着いた印象のベージュのベストの襟元を引っ張って、手で首元を仰いでいる。
ちひろさんは、黙って入口のところに立っていた。
「あの、プロデューサーさん、一体何が……」
美穂ちゃんが心配そうに尋ねる。
「ご心配をおかけしました」プロデューサーさんは深く息をつき、それからはぁとさんのほうを見る。「佐藤さん。申し訳ない。緊急事態と判断して順番が前後してしまいましたが、先ほど見せていただいたお仕事は、プロダクションとして、先方に丁重にお断りの連絡をいたしました」
「は……?」
はぁとさんが低い、小さな声をあげた。眉間にしわが寄っている。
「ちょっ、ちょっと待て、こら!」
はぁとさんは音を立てて椅子から立ち上がった。驚いたのか、私と美穂ちゃんの間に座っているくるみちゃんが怯えて「ひっ」と短い声をあげる。私はくるみちゃんを落ち着かせるため、机の下でくるみちゃんの手をそっと握った。
「佐藤さん」
「なんでっ!」はぁとさんはプロデューサーさんの声を無視して叫んだ。「そんなにはぁとが仕事するのが気に入らないのかよっ!? はぁとはただ、アイドルがしたいだけなんだよ! いつもいつもOLみたいな事務仕事と、いやがらせみたいな個人レッスンばっかりでっ!」
「佐藤さん」
はぁとさんは止まらない。
「皆には仕事振ってるのにはぁとに仕事振らないのは、はぁとを辞めさせたいからだろ!? プロダクションのお荷物だってんならそうだってはっきり言えよ! イジメみたいなやり方で追い詰めるほうが、やり方が汚いだろっ!?」
最後の方は泣き叫ぶみたいな声になって、はぁとさんはまくし立てた。
そのとき、事務室の扉の方でざり、と靴が擦れる音がした。瞬間、プロデューサーさんがきっと扉の方に強い目を向ける。扉の前にはちひろさんが立っている。プロデューサーさんに制されたちひろさんは唇を結んで、なにかを言いたそうな顔で、胸の前でプロダクションの封筒を強く強く抱きしめていた。
「もう、はぁとには後がないんだよ……止まってなんて、いられないんだよ……」
はぁとさんは絞り出すような声で言い、拳を握り締めてうつむいた。
「佐藤さん」プロデューサーさんは普段よりゆっくりした口調ではぁとさんを呼んだ。「佐藤さんと、このユニットの他の四人の皆さんには、ひとつ、大きな違いがあります」
「年齢だろ、そんなの」
はぁとさんは拗ねるみたいな声で言った。
プロデューサーさんは頷く。
「その通りです」
「それがっ……!」
はぁとさんは目尻に涙を溜めてプロデューサーさんを睨みつけた。
「……このお話は、機が熟してからするつもりでしたが……仕方ありません。佐藤さん。ユニットの中であなただけが大人だということは、あなただけが完全を求められているということです……わかりますか」
プロデューサーさんは両手を机の上について、ふーっと息をついた。
「人はみんな、無意識に美しいものとそうでないものを見分けています。だが決して『あなたは美しくなかった』とは教えてくれない。人々自身も、どうしてそれを美しく感じたのか、あるいはそうでなかったのかを説明できません。それでも選別の結果は如実に表れる。優れたものには注目が集まり、そうでないものは静かに、穏やかに、置いて行かれるのです」
プロデューサーさんの淡々とした言葉を、はぁとさんも私たちも、じっと聞いていた。
「佐藤さん以外の四人はまだ未成年です。人々は未成年の身体は成長過程にあることを理解している。立ち居振る舞いも未熟であることが許されているのです。しかし佐藤さん、あなたは大人です。二十五歳を超えて、人は大きく変化しない。そう見られます。……自分で気づいていらっしゃらないでしょうし、周りの人も指摘してはくれなかったと思いますが……、佐藤さん。あなたは、私と顔合わせをしたとき、体幹が崩れていたのです」
「……はっ?」
はぁとさんが、震えた声で訊き返した。
「美城プロダクションは多数のアイドルを抱えている。それが個々のアイドルにとって有利に働く面もありますが、不利に働く面もあります。加速していく芸能界で、体幹が崩れている程度のことでも無意識のうちに起用の候補から外れる。気づいているならなおさら、矯正の必要のない別のアイドルを起用する。芸能界全体で考えればその傾向はより顕著になります。そのため、私は佐藤さんを一時的に社内も含めた業界の人々の目から隠し、これまでの印象を薄めるとともに、体幹を鍛えなおしていただくことにしたのです。佐藤さんの矯正が完了したときには、順次お仕事をお願いする予定でした」
私は思い出し、はっとした。
出会ったころいつも、はぁとさんはプロデューサーさんから、座っているときの姿勢を注意されていた。
プロデューサーさんは首を横に振った。
「佐藤さんが実績を積むことに焦っているとわかっていました。その状態で体幹の崩れを伝え、私やトレーナーの前だけで良いように見せられてしまっては、意味がない」
はぁとさんは押し黙った。反論できなかったのかもしれない。
「トレーナーからは、佐藤さんの完成は見えてきたと伺っています。……ここまで、佐藤さんは本当によく頑張ってくださいました。そして、あともう少しです」
そこまでプロデューサーさんが話したとき、マキノちゃんが静かに右手を挙げた。
「……でも、そこまで完成しているなら、仕事をキャンセルする必要はなかったんじゃないかしら?」
「そう!」はぁとさんはマキノちゃんの意見に乗る。「せっかく取った仕事だったのに、無理やりキャンセルなんて、そこまですること――」
そこまで言ったとき、プロデューサーさんが手のひらを佐藤さんに向けて制した。
「芸能界は広く、それゆえに残念ながら、悪意を持った者も居ます。広く知られてはいませんが……この番組のディレクターと書かれている男……平気で人を使い潰し、己の欲望のためなら道を外れたこともする。もし関わっていれば佐藤さんだけでなく、プロダクションにも影響を及ぼしかねない。そのため、強引でも迅速に行動しなくてはなりませんでした。そうでなくては、それこそ佐藤さんとの契約を見直す事態になりかねない」
言って、プロデューサーさんは机の上に置かれた資料に書かれた名前を睨むように目を細めた。
「なるほど。そういうこと。調査不足だったわ」
マキノちゃんは言ったけれど、まだ納得していないことがあるのか、口元に手をあてて何かを考えていた。
「そんな……そんな、でも、だって、はぁとは……」
はぁとさんは口の中で何かつぶやきながら、覇気を失った様子でゆっくりと椅子に座った。
「佐藤さん」プロデューサーさんは再び、穏やかな顔に戻ってはぁとさんに語りかける。「気にしないでください。説明できない事情が多かっただけのことで――」
そこまで言って、プロデューサーさんの身体が突然、ぐらりと揺れた。
「う、むっ」
プロデューサーさんはその顔を苦痛に歪ませて、両手で机を掴んで自分の身体を支えようとする。けれど、膝から崩れ落ちてしまった。そのまま、事務室の床に倒れる。パイプ椅子が倒れる乱暴な音が響いた。
「プロデューサーさんっ!」
私と美穂ちゃんが駆け寄る。
「いけないっ!」ちひろさんが入ってくる。「誰か、救急車を呼んでください!」
「あ、はいっ!」
私は机に置いたバッグの中のスマートフォンを取ろうとする、けれど、すでに自分のスマートフォンをその手に持っていたマキノちゃんのほうが早かった。
「私が呼んでおくわ。――救急。はい、急病人です。急に倒れて、はい、場所は美城プロダクション、はい、その住所で間違いありません。男性、年齢は七十歳前後だと思います。意識は……あるようです、呼吸も」
マキノちゃんは冷静に話す。けれど、唇がほんの少しだけ震えていた。
私は電話をマキノちゃんに任せ、プロデューサーのところに駆け寄る。ちひろさんが脈を取っている。
「しっかり、安静にしてください! 頭は打っていませんか!?」
ちひろさんはプロデューサーさんの耳元に声をかけ続けていた。
「プロデューサーさん、いま、マキノちゃんが救急車を呼んでくれています!」
私が言うと、プロデューサーさんは苦しそうにうめいて、荒く、短く数回呼吸したあと、ふーっと長く息を吐いた。
「千川、さん……!」
プロデューサーさんはちひろさんに何かを伝えようとする。
「喋らないでください、安静に、お願いです」
ちひろさんは泣き出しそうな声をあげてプロデューサーさんの姿勢を整える。
「わかりました!」
美穂ちゃんは言われた通りにすると、マキノちゃんと一緒に外に飛び出していく。
くるみちゃんは泣きながらおろおろしていた。
はぁとさんは、茫然自失とした様子で、椅子に座ったままプロデューサーさんのことを見て、小さく、早く呼吸を繰り返している。
「くるみちゃん、大丈夫。落ち着いて、座っていて」
ちひろさんは優しく、くるみちゃんに話しかける。
「あうぅ、でも、くるみ、くるみ……ぷろでゅーしゃー……」
「くるみちゃんが落ち着いてくれるのが、一番プロデューサーさんも安心できると思うな」
私が言うと、くるみちゃんは頷いて、持っていたティッシュで鼻をかみ、椅子に座った。
「……心さんも、落ち着くことに専念してください。いまあなたにまで倒れられたら、さすがに対応しきれません」
ちひろさんが言うと、はぁとさんは真っ青な顔で小さく頷いた。
やがて、救急車のサイレンの音が近づき、事務室の前で止まった。がちゃがちゃと音がして、救急隊員の人が担架を持って入ってくる。隊員の人はプロデューサーさんの容態を確かめてから、丁寧に担架に載せた。ちひろさんと私は、担架の後を追って事務室を出る。
「何があったんですか」
外に出ると、プロダクションの社員の男の人が心配そうな顔で出てきていた。春、私とユニットのみんなの顔合わせについて教えてくれた人だ。担架に横たわるプロデューサーさんを見て、はっとした表情をする。
「そんな……!」
「このまま、私が病院に随伴します」
ちひろさんが言うと、苦しそうな声を上げてプロデューサーさんが目を開けた。
「いや……時期がきたようです。千川さんには、私よりも皆さんへの説明を……お願いします」
「そんな、やめてください! それに、誰かが随伴しないと」
「お願いします」
プロデューサーさんは苦しそうに、でも強い意思を含んだ声で言った。
「では、病院への随伴は私が、それでいかがですか」
社員の男の人がちひろさんに言う。
「……」ちひろさんはプロデューサーさんの顔をじっと見て、やがて頷いた。「すいません、お願いします」
プロデューサーさんを乗せた救急車がサイレンとともに走り去って、私たちはちひろさんに促されて事務室へと戻った。
事務室の中でははぁとさんが、私達が事務室を出たときと同じ姿勢で、椅子に座ったまま机の何もないところを見つめていた。その背中を、くるみちゃんがゆっくりとさすってくれている。
私たちはそれぞれがもとの場所に座り直す。ちひろさんは事務室の床に置いていた社用の封筒を拾い上げ、プロデューサーさんの席に立った。
「……病院からの連絡があれば、皆さんにもお伝えします。……ごめんなさい、まだ混乱していて、何から伝えればいいか……」
「あの、プロデューサーさんは、もしかして……前からお身体が悪かったんでしょうか」
私はちひろさんに尋ねた。私はこの前のくるみちゃんとのお仕事のときも、プロデューサーさんが急に苦しそうな表情を見せたことを思い出していた。
ちひろさんは頷く。
「……その通りです。医者からは、既に予後の宣告も」
「そんな状態で、お仕事を……」
美穂ちゃんが言うと、ちひろさんは再び頷き、それから封筒を開いて、中から書類を取り出した。
「今日、皆さんにお伝えする予定だったことを、代理で私から説明させていただきます」
ちひろさんは私達のそれぞれに、書類を配る。
「……これ……!」
私の驚きは思わず声に出ていた。書類を持っていないほうの指で、紙面をなぞる。指の先が震えた。
「新曲、ね。……私達の」
マキノちゃんが言う。言って、すぐに深いため息をついた。
「は? なんだよ」はぁとさんが震える声でつぶやく。「なんだよ、これ……はぁとの名前も、あるじゃん……なんだよ……」
それは、私たちのユニットのために書かれた歌だった。
苦しい夏を越え、秋を経て冬を耐え、次の春に咲く、花たちの歌。
「このおうた、くるみたちが、歌うの……?」
「そうだよ」美穂ちゃんがくるみちゃんの肩を抱く。「プロデューサーさんが、くれたの」
「プロデューサーさん……」
私は、たくさんの気持ちを抱えたまま、声に出した。後れて、涙が零れる。
「……ねえ」マキノちゃんが言った。「おかしいわ」
全員がマキノちゃんに注目する。
「スタッフ欄の、プロデューサーの名前を見て」
私たちは言われた通り、資料の端に書かれたスタッフ欄からプロデューサーの項を探す。
そこには、プロデューサーさんのものではない、全く知らない名前が記載されていた。
「これ、誰ですか? 私たちのプロデューサーさんは……?」
美穂ちゃんがちひろさんに尋ねる。
「……そこに書かれている名前は、美城プロダクションの共同名義です」
「きょうどうめいぎ?」
くるみちゃんが首をかしげる。
「個人ではなく、会社全体がプロデュースしていたり、または何らかの理由で本来の名前が使えない、そういうときの代理の名前よ」
マキノちゃんが解説する。ちひろさんは肯定するように頷いた。
「今まで黙っていてごめんなさい。あの人は、皆さんの『プロデューサー』という立場ではなかったんです」
沈黙が流れた。私たちの誰も、ちひろさんの言っている意味が理解できなかった。
でも、その一方で私は思い出す。
プロデューサーさんは、一度も自分のことをプロデューサーだとは名乗らなかった。
ちひろさんも一度も、プロデューサーさんと呼ばなかった。
「なんでだよ……」最初に口を開いたのははぁとさんだった。「あの人、ずっとはぁとたちをプロデュースしてたじゃんか……」
私たちは全員、頷いた。はぁとさんの言う通りだった。プロデューサーさんの名前がここに書かれていないのは、おかしい。
マキノちゃんが続く。
「ちひろさんに、教えてもらいたいことがあるの。あの人――私たちのプロデューサーは、一体何者なの? どう考えてもおかしいわ。駐車場の警備員にしては、芸能の仕事が板につきすぎている。今回のはぁとさんの件だって、調べたって出てこないディレクターの経歴を知っていた。事態の収拾も早すぎるわ」
ちひろさんは私たちの視線を受けて、姿勢を正した。
「皆さんのプロデュースをしていたのは、まだ小さかった美城プロダクションをここまで成長させた最大の立役者。そして、ずっとずっと前に一線を退いた、芸能界では伝説となった人物です」
ちひろさんは天井を仰ぐ。
「前世紀にメディアで活躍した有名なアイドルを何人もプロデュースし続け、芸能界にその名を知らぬ人の居なくなったあの人は、敏腕だからこその壁にぶつかりました。あの人が関われば、担当した、というだけでアイドルの実力に関わらずメディアがこぞって取り上げ、分不相応なほどに盛り立てられる。担当アイドルもそれを自分の実力と誤解し、増長する。社内の他のプロデューサーも、状況に甘え危機感を抱かなくなる。あの人は純粋に、実力のあるアイドルを育てたかったのに、自身が知られ過ぎたために、あの人が目指す『芸能』の実現が遠ざかって行ったのです。このままではいずれ、知名度だけで実力の伴わないアイドルが増え、美城のブランドすら危うくなると判断したあの人は、自らその立場を棄て、人前から姿を隠しました」
「それで、駐車場の警備員に?」
私が言うと、ちひろさんが頷いた。
「数年経ってほとぼりが冷めてから、現在まで。今では前のお名前と素性を知る一部の役員の、臨時の相談役として、ここに来ていただいています。警備員のお仕事をされているのは、社に出入りする人々の顔を観たいと仰っていたあの人の希望です。皆さんの仕事に同行しなかったのも、素性を知る業界人から身を隠すのが理由でした。あの人は、みなさんをきちんとした実力のあるアイドルに育てようとしていました」
「そんな人が、私たちのプロデュースをしてくれていたなんて……」美穂ちゃんが言って、祈るようにぎゅっと目をつむった。「私たちのプロデューサーさんは、あの人しかいません」
そう。美穂ちゃんの言う通り、肩書がなんであれ、私たちのプロデューサーさんは、私たちのプロデューサーさん以外ではありえないんだ。
「あの人の言葉を伝えます。万が一の時には伝えるようにと言われていました」ちひろさんは私たち全員を見渡す。「この歌を、ユニット全員で完成させてほしいと」
ちひろさんの口を借りたプロデューサーさんの言葉は、重い塊のように私の心にぶつかり、そして溶けこんでいった。
私以外の皆も、それぞれにプロデューサーさんの言葉を受け止めているようだった。
それは連続して、不規則に。音の出所を探す。
はぁとさんだった。はぁとさんの歯が、震えでかちかちと鳴っていた。
はぁとさんは自分の両肩を抱えて、凍えるみたいにぎゅっと身を小さくして震えていた。
「はぁとさん!」
美穂ちゃんがかけ寄ると、はぁとさんはますます身を小さくした。
「だめだ、ムリだろ……」はぁとさんは消えそうな声で言う。「はぁとが、はぁとが余計な事をして、それでプロデューサーが無理して、だからはぁとが、はぁとが悪いんだぞ……? そんなのが、皆と並んで、新曲……? そんなの、そんなの……」
はぁとさんのジーンズの腿の辺りに、はぁとさんの流した涙がぽたぽたと黒い色を落とした。
「はぁとさん、プロデューサーさんだって、気にするなって言ってくれてました!」
私ははぁとさんに言ったけれど、はぁとさんは小さく首を横に振るだけだった。
私も、ほかの皆も立ち尽くしていた。
このままでは、はぁとさんの心が折れてしまう。けれど、どうしたらいいかわからなかった。
「一番スウィーティーじゃねえの、どう考えてもはぁとじゃんか。ダメ、ダメだわこれ、はぁとには……」
そこまではぁとさんが言ったとき、長机の反対側で大きな音が鳴った。
はぁとさんを含めた全員がそちらを注目する。ちひろさんが、今まで見たこともないような真剣な顔で、平手で長机を叩いた音だった。
ちひろさんはずんずんと歩き、はぁとさんの前に立つ。はぁとさんの両肩を掴んで、はぁとさんを見据えた。
「心さん、私は、心さんがここで折れたりしたら、絶対に許しません。もしそんなことになったら、心さんのことを、一生だって恨んで軽蔑し続けますから」
それは、いつも私たちが見ている穏やかなちひろさんとはまるで別人のようだった。
けれど、その顔に、怒りは感じられなかった。きっと、ちひろさんは、はぁとさんに立ち上がってほしいと、真剣に思っているんだ。
はぁとさんは、涙を流してちひろさんを見ている。
ちひろさんは、もう一度はぁとさんの両肩を強く握った。ちひろさんの目にも、涙が光る。
「心さん! あなたは! 私たちの希望なんです! 大人になっても夢は叶う、アイドルになれるって、羽ばたけるって、咲けるって! 見せてください、私に、あなたのプロデューサーさんに、プロダクションの皆に、この世界の皆に!」
ちひろさんははぁとさんの耳元に顔を近づける。
それこそ、ほとんど口づけするみたいに
「あなたは、誰よりスウィーティーな、しゅがーはーと、でしょう……!?」
囁くように、ちひろさんはそう言った。
沈黙が流れた。
誰も、一言も発さなかった。
「ふっ」
やがて、笑い声が漏れた。はぁとさんの口からだった。
「ふ、ふふっ……くくっ……は、あはは……そうだよ……メンゴ、ちひろさん……はー……」はぁとさんは身体から力を抜いて、リラックスした表情で微笑んだ。「あー、目ぇ覚めたぞー、完っ全に」
ちひろさんはゆっくりと、はぁとさんから離れる。
「そうだよなーそうだよなー、誰よりもはぁとが、はぁとを信じてやらなきゃウソだろー。あぶねーあぶねー、危うく夢落っことすところだったっつーの☆」
はぁとさんは目を閉じて、ゆっくりと呼吸する。
「……しゅがしゅが、すっうぃーと、佐藤心、こと、しゅがーはぁと、だぞ」
唱えるみたいに言って、はぁとさんは立ち上がった。
「しゅがーはーとぉっ!! よしっ! もう大丈夫! メンゴ、マジのマジでメンゴメンゴ、みんな、おっまたせー☆ みんなのはぁとだぞー☆ 待ってないとかいうな♪ もう大丈夫、はぁと、絶対折れねー☆ マジだぞ、こっからさきのはぁとのアイドル人生、一度たりとも折れねーかんなー、あ、でも物理的に骨折とかは抜きで☆」
私にはなんだか、はぁとさんが今までで一番輝いているように見えた。
両の足でまっすぐ立つはぁとさんは、今までに見たどんなはぁとさんよりも、美しかった。
「新曲上等だっつーの! あのプロデューサーの言う通り、全員であの曲スウィーティーに完成させて、フェスでファンの皆のドギモ抜いてやんよ☆」
私たちははぁとさんに大きく頷く。
「よかった、はぁとさん!」
美穂ちゃんが嬉しそうに笑う。
「うんっ! 冬に向けて、がんばろうっ!」
「くるみ……不安だけど、みんなとだから、ぷろでゅーしゃーのくれたうた、頑張る」
「調査の必要もないわね……この五人なら、問題ないもの」
私たちは誰ともなく手を前に出して、五人の手を重ねる。重ねた手が、ぐっと沈んだ。
「絶っ対! 曲完成させて、プロデューサーに届けるぞ!」
はぁとさんの声が響く。
「おおーっ!!」
高く手を掲げた私は、ううん、私たちはみんな、プロデューサーさんに届けるつもりで、大きな声をあげた。
ちひろさんが、私たちのことを、いつもの穏やかな笑顔で見守ってくれていた。
---
そのあと、プロデューサーさんが無事に病院に搬送され、今は安静にしていることが伝えられた。プロデューサーさんはもう、お仕事に戻れる状態ではなかったけれど、プロデューサーさんはずっと、こういう事態が起こったときの準備をしていたんだろう。すでに、冬のフェスまでのスケジュールを完璧に用意してくれていた。
私たちは冬に向かって、走り出す。
私たちの夢を叶えるために。
プロデューサーさんの希望を叶えるために。
5.佐藤心 Gloriosa グロリオーサ(栄光) ・・・END
時は流れ、十二月、ある水曜日の午後。
私は長い廊下を歩く。廊下のいちばん奥の扉の前には、ちひろさんが立っていた。
「夕美ちゃん、どうもありがとう」
「お疲れ様です、ちひろさん」
部屋の扉には私たちを導いてくれた人の名前が書かれた札が下がっている。
「今は、お休みになっています」
ちひろさんの言葉に私は頷いて、大きな音をたてないよう、そっと扉を開けて部屋の中に入った。
小さな個室の中に、白いベッドがひとつ。
消毒液か何かをイメージさせる、病院独特の匂い。定期的に電子音を発している機材。
これまでにも数回経験のある、この世とあの世の間みたいな、生活感の断ち切られた非日常的な景色。
プロデューサーさんが運び込まれた病室は、そういう空気に満ちていた。
花瓶に挿されたお花さんが、この部屋の借主をじっと見つめている。
ベッドの中央で、私たちのプロデューサーさんは、目を閉じて、ゆっくりと呼吸を繰り返していた。
私は荷物を置いて、お布団のあちこちからたくさんの管が伸びるベッドのとなり、お見舞にきた人のために置かれた椅子に座り、レースカーテンのかかった窓の外を観る。
空は薄明るい灰色で覆われていて、今年初めての雪がちらついていた。
もう一度、プロデューサーさんの顔を見る。
ほんの数十日前は元気に私たちを導いてくれていたのに、今ではずっと痩せて小さくなってしまっていて、肌の色は深く沈んでいて。
――誰が見ても、もう、長くはないんだとわかってしまう。
誰にでも訪れる瞬間ではあるけれど、私は、胸が詰まる思いだった。
「プロデューサーさん」
私は声に出す。プロデューサーさんは、目を閉じたままゆっくり呼吸して、胸を上下させている。
「もうすぐ、今年もおしまいです。私はまだ自分の部屋の大掃除も終わってないし、年賀状の準備もこれからで、なんだかばたばたした年末になっちゃいそうです」
あの日、プロデューサーさんは事務室で倒れてから、搬送された病院で治療を受け、命を取り留めた。けれど、それから先、意識は安定しなくなってしまった。
今では眠ったり目覚めたりを不定期に繰り返していて、起きていても意識は濁って、しっかり受け答えができないことが多いらしい。
私たちユニットのメンバーは代わる代わる、プロデューサーさんのお見舞いに訪れていた。ちひろさんのお話では、プロデューサーさんに奥さんやお子さんはなく、親族もみんな既にこの世を去っていて、この部屋を訪れるのはプロデューサーさんの信頼できるお友達と、プロダクションの一部の人、そして私たちユニットのメンバーくらいらしい。
それでも、プロデューサーさんの部屋にはたくさんの花が飾られ、お見舞いの品が溢れ、プロデューサーさんが、ここまでずっと誠実に生きてきたんだっていうことが、とてもよく分かった。
「事務室は、先週大掃除をしたんですよ。マキノちゃんが、これからどんどん忙しくなるんだから、先にやっておくべきだって……美穂ちゃんとくるみちゃんが、すっごく頑張って綺麗にしてくれて……あれ、このお話、もしかしたら一昨日にマキノちゃんがしちゃってたかなぁ……」
私はひとりでちょっと笑う。
「でも、これから話すことは、プロデューサーさんはご存じじゃないと思います。今日、私たちのユニット名が決まりました。もう、プロデューサーさん、私たちに残していった資料に、ユニット名は自分たちで決めなさい、なんて書くんだから……決まるまで、とっても時間がかかったんですよ。でも、最後はみんなが納得する名前に決まりました。はぁとさんが出してくれたアイディアなんです」
私はプロデューサーさんの手をとる。筋肉が衰えて骨ばっているけれど、しっかりと温かい。その手のひらに、私は一文字ずつ、指で字を書いていく。
「G、R、A、C、E、F、U、L、T、E、A、R、S。グレイスフルティアーズ。優雅な滴っていう意味です。マキノちゃんがすぐに、イニシャルはG・TでGreen Tea、緑茶と同じね、って言ったら、はぁとさん頬を膨らませて恥ずかしがっちゃって。ふふっ。そのあと美穂ちゃんが、つづりの中にTeaも入ってますねって言ったら、はぁとさん、そっちは気づいてなかったみたい。でも、いい名前だと思いませんか」
私はプロデューサーさんの手を握った。
「この名前で、プロデューサーさんがくれた歌で、私たちみんなでフェスに出ます。あと、もうすこしです。みんな成長したんですよ。美穂ちゃんもマキノちゃんも、歌もダンスもすっごくレベルアップしてて、私はみんなに置いて行かれないように必死で。くるみちゃんはお仕事にも慣れてきて、最近は前より涙が流れるまでの時間が長くなったって言ってました。苦手だって言ってたダンスも、一歩一歩、進んでます。はぁとさんは、トレーナーさんから矯正完了のお墨付きをもらって、今はどんどんお仕事を入れて、ユニットの宣伝をしてくれています。私は……私も、みんなほどじゃないかもしれないけど、頑張ってるつもりです。だから――」
私は、希望を唱える。
「プロデューサーさんも、きっと元気になって、私たちのステージを見に来てくださいね」
私はもう一度、プロデューサーさんの手をぎゅっと握ってから、椅子から立ち上がる。
コートを着て、マフラーを巻こうとしたときだった。
背後のベッドから、衣擦れの音がしたような気がして、私ははっとして振り返る――
プロデューサーさんが目を開いていた。
眩しそうに眉間にしわを寄せて、それから首と眼球を少し動かして、私の方を見る。
黒目に光が、ううん、炎が灯っているように、私には見えた。
「……ごに……っ」うまく声が出せなかったのか、プロデューサーさんは詰まったような音を漏らした。「そこに、居るのは……? 相葉さん、ですか……?」
「はい、相葉、夕美です、プロデューサーさん!」
私はもう一度コートを脱ぎ、プロデューサーさんに近寄った。
「今日は、えっと、水曜日です、今日の午後、ちょうど、みんなで打ち合わせをして、そのあと私が代表でお見舞いに」
「そうでしたか。……水曜日……」
プロデューサーさんはすーっと深く息を吸って、吐く。意識はしっかりしているみたい。
「水曜日ですか……ふふ、では、お茶を、と言いたいところですが……緑茶では、医者が許してはくれないでしょうね」
言って、プロデューサーさんはちょっと笑った。私もちょっと笑う。
こんな時にもお茶だなんて、プロデューサーさんらしい。
「それでも、雰囲気だけでも味わいたいものです。相葉さん、お時間が許すなら、お茶を……淹れていただけませんか。本当は私が淹れて差し上げたいのですが、すぐには満足に身体が動きそうにない」
「あっ、はいっ! ちょっと、待っていてくださいね!」
私は病室を出ると、ちひろさんにプロデューサーさんが目を覚ましていることと、お茶の希望を告げた。
ちひろさんは快諾してくれ、お医者さんへの報告と、お茶のセットの手配をしてくれるという。
私もそれを手伝おうかと思ったけれど、プロデューサーさんが私と話をしたいと言ったので、プロデューサーさんと一緒に、病室でお茶を淹れる準備が整うのを待つことになった。
再び二人になった個室の中で、プロデューサーさんはゆっくりと首を動かして窓の方を見る。
「もう、冬ですか。相葉さんたちを担当する事になってから、あっという間でしたね」
「はい。いろんなことがありました」
プロデューサーさんは私の方に顔を向ける。
「……相葉さん。長い、本当に長いあいだ、お待たせして申し訳ありませんでした。あの時のお話の続きをしましょう」
「……はい」
春に中断してから、ずっとそのままになってしまっていた、プロデューサーさんと私の面接。
「間に合って、よかった」
プロデューサーさんの言葉の意味するところを考え、私は沈黙で答える。
あのとき――プロデューサーさんからあまり時間は残されていないと告げられた時は、時間が残されていないのは私だと思っていた。でも、時間が残されていないのはプロデューサーさんのほうだったんだ。
「もう一度、あの時のことをお訊ねします。相葉さんは、どういうアイドルになりたいと思っていますか。どうして、アイドルをやりたいと思っているのですか。……あれから、迷いは、晴れましたか?」
プロデューサーさんの質問を受けて、私は、目を閉じて、鼻からゆっくり息を吸う。
春からずっと、私は私がどうしてアイドルになりたいのかを考え続けていた。
そうして、ユニットの皆と出会った。
美穂ちゃんは、とてもまっすぐで、一生懸命だった。
マキノちゃんは、未解明のものに突き進み、その魅力に挑戦し続けた。
くるみちゃんは、変わりたい強い気持ちを持って前に進んだ。
はぁとさんは、絶対に折れない強い誓いを抱いた。
じゃあ、私は。
ゆっくりと目を開いて、プロデューサーさんの目を見つめた。
「私は、誰かを元気にするために、頑張りたいと思っています」
はっきりと口にする。プロデューサーさんは黙って私を見ていた。
私の心の中で、とげのある声がする。『じゃあまず、あたしを元気にしてよ。あんたがアイドルをやめたら、あたし元気になれるよ』――
私自身が私の中に作った、私を試す声だ。
でも、もう私は、迷わないんだ。
「他の誰でもない、私自身が、誰かを元気にしたいんです。それが私の希望。だから、私はアイドルをやりたい。誰かを……ううん、誰よりも皆を元気にできるアイドルになりたいと思っています」
言い終えた瞬間に、胸の中のもやがすっと晴れていくような気がした。
プロデューサーさんは天井を見て、ゆっくりとひとつ、呼吸する。
「迷いは、消えたみたいですね」
「はい」
「それでいい。花には咲くべき時があります。咲くべき時には、思い切り咲いていい。誰かに遠慮する必要などありません。相葉さんなら、きっとなれると思います。……誰もを元気にすることができる、アイドルに」
「はいっ!」
私は、笑顔でプロデューサーさんに答えた。
その時、病室の扉をノックする音がして、すぐに扉が開く。
「ありがとうございます」
プロデューサーさんは嬉しそうな声をあげる。
私はケトルでお湯を沸かし、急須にお茶の葉を入れた。
「お湯はまず湯のみに注いで少し冷まします。お茶の種類にもよりますが、湯気が少し落ち着くくらいまで待ってください。……もう少し……そろそろでしょう。急須の中にお湯を注いでください。そのまま、動かさずに待ちます。お茶の葉が開くまで、焦らずに」
私はプロデューサーさんの指示の通りに動いた。
プロデューサーさんは感慨深そうな表情で、私がお茶を淹れる様子を見つめていた。
急須から、お茶のいい匂いが立ち上ってくる。
私の視界が潤んだ。
「そろそろよさそうです。いい香りだ」
「はいっ」
私は涙を拭った。隣でちひろさんも目元を押さえていた。
「急須をゆっくり回してください。濃さを均等にします。湯のみに少しずつ、何度かに分けて回し、注いでください。最後の一滴まで……」
私は言われた通りにする。
「ありがとうございます。さあ、どうぞ、と言うのは少し変ですね。淹れてくださったのは相葉さんだ」
「ふふっ。おいしくできているといいなぁ。いただきます」
「いただきます」
プロデューサーさんの湯のみは、プロデューサーさんに香りが届くように、枕の近くに置いた。私とちひろさんは、お茶を頂く。
「おいしいです」
ちひろさんはしみじみと言う。
「うん。おいしいです。でも、やっぱりプロデューサーさんが淹れてくれたお茶が忘れられません」
私が言うと、プロデューサーさんはちょっと笑った。
それから、私たちは少しのあいだお茶を楽しみ、ゆっくりした時間を過ごした。
ちひろさんが借りた道具を返すために病室を出たので、私は再び、プロデューサーさんと二人きりになった。
プロデューサーさんの顔は、私が最初に部屋に入ったときよりも少し血色がよくなっているように見えた。
「……プロダクションの駐車場は、様々な人が通り過ぎていきます」
プロデューサーさんが窓の外を見て呟く。
私は少し姿勢を正して、プロデューサーさんのお話を聞くことにした。
「皆さんのような所属のアイドルや芸能のほかの部門の人々、社員や業者、取引先……人々が通り過ぎる中で、すこし珍しい人が居ました。駐車場の花を嬉しそうに眺めて、時にはなにやら話しかけているお嬢さんです」
窓越しに、プロデューサーさんが私に微笑みかける。
私は恥ずかしくなった。やっぱり、プロデューサーさんに見られてたんだ。
「社内の知人に、そのお嬢さんが美城プロダクション所属のアイドルだと教えてもらいました。それから少し経って、今年の春です。アイドル部門で倒れた社員が出たことで、社内は大騒ぎになりましたね。そのとき、スケジュールの都合で、どうしてもプロデューサーをつけられそうにないアイドルが四人、出てしまったと聞きました。それが、貴方たちです」
私の声は少し暗くなった。やっぱり、私たちは、あぶれてしまったお荷物だったんだろうか。
「落ち込む必要はありません。オーディションやスカウトで見いだされたなら、貴方たちは確実に輝くための才を持っているということです。たまたま、巡り合わせがよくなかっただけのことですよ。……ですので、そういう事情なら、その四人を一時的に任せてくれないか、と無理を言って、私は皆さんと共に歩むことにしたのですよ」
「ありがとうございます」
「こちらこそ、ありがとうございます。駐車場の花は趣味で育てていたものでしたが、あそこまでしっかりと愛でてくれたのは相葉さんだけです。出来れば、これからも世話をお願いしたい」
そんな、と私は言いかけて、飲みこんだ。
「……花は咲けば、やがて必ず枯れます」プロデューサーさんは自分の手のひらに視線を向ける。「私という人間が咲いていた時期は、もうはるか過去に過ぎているんです。誰にでも訪れる老いがやってきて、最後は土に還ります。その土を糧として、今を咲くべき人が咲く。そうあるべきです。相葉さん、今はあなたたちの時代です。顔をあげて、前に進んでください」
「はい、でも、でも……」
私は両手で顔を覆った。
もっとたくさん時間があったなら。
もっとたくさんお話ができていれば。
もっとたくさん学ぶことができていれば。
そう思ってしまうことを、今くらいは許してほしい。
「見舞いは非常にありがたいが、大事な時期に私に時間を使うことはありません。あなたたちの晴れ舞台のために、全力を尽くしてください。私はそうしてもらえるのが一番嬉しい」
私はしばらくうつむいて、それから、笑顔で顔をあげた。
「はいっ! 最高のイベントにできるように、頑張ります! それで、フェスが終わったら……! っ、皆で、もう一度、かならず伺いますっ……!」
私が言うと、プロデューサーさんは穏やかにもう一度、ありがとうございますと言って、ゆっくりと目を閉じ、そのまま穏やかに寝息を立てはじめた。
私は立ち上がり、コートを着てマフラーを巻くと、病室の扉を静かに開けて、入口の前に立っていたちひろさんに挨拶をして、その場を後にした。
病院の外に出る。濡れた頬に冬の風はとても冷たかった。
それでも私は、顔をあげて、笑顔で前へと歩いた。
---
「……みんな、今までで一番綺麗に咲こうね」
私たちの出番の直前、私の言葉にみんなが頷いてくれる。
「前の曲終わります、スタンバイしてください!」
スタッフさんが私たちを呼ぶ。私たちは入場口の前に立った。
くるみちゃんが不安そうな顔をする。当然だよね。こんなに大きなステージに立つんだから。
くるみちゃんだけではなく、私も、きっとほかの三人も、皆不安を持っている。
だから、私たちはごく自然に、それぞれがそれぞれの手を取った。
それぞれの不安と緊張は、お互いの期待と感謝に包まれて、集中に変わった。
大きな拍手と歓声が起こる。前のステージが終わったんだ。ステージライトが全部消える。スタッフさんが手で入場の合図を出した。
私たちはステージへと進みだす。
暗転したステージ上で前の演目のアイドルたちと交代し、ステージの床に貼られたビニールテープを目印に、それぞれの立ち位置に立った。
振付の最初のポーズを取る。
ステージのスピーカーと、左耳のイヤホンモニターから同時に曲のイントロが聞こえてくる。
シーリングライトの光が降り注ぐ。
背中から二階席に向かってレーザーの光が飛んでいく。
私たちはゆっくりとマイクを持ちあげ、丁寧に最初の詩を音に乗せた――
届きますように。
大切な人達からもらったものを受けて咲く私たちが、誰かに大切なものを届ける。
そうやって繰り返して、人も花も、ううん、この世界はすべて、続いていく。
そして私たちのステージは、大成功に終わった。
すべてを出し切った五人全員が、笑顔でファンの人たちに手を振って、次のユニットに交代するために退場した。
袖から舞台裏に出てすぐ、私たちはお互いにハイタッチをして、抱きしめあって、感無量で泣きだしちゃったくるみちゃんにもらい泣きをして、それから楽屋へと戻る。
楽屋に戻った私たちは目を疑った。
楽屋では、プロデューサーさんが私たちを待ってくれていた。
社員の男の人に身体を支えられてはいるけど、自分の足で立って、いつものグレーのスーツの上下を来て、同じ色のハットをかぶって、穏やかな笑顔で私たちを迎えてくれた。
「プロデューサーさん!」
私たちはプロデューサーさんにかけ寄る。
「グレイスフルティアーズのみなさん、お疲れ様でした。素晴らしいステージでした。相葉さん、リーダーとしてユニットのまとめ、ありがとうございました」
「ううん、皆が頑張ってくれたおかげです」
私はみんなの顔を見る。みんな、充実した顔をしていた。
「八神さんも、さらに上達しましたね」
「……ありがとう。でもまだ、これで満足するつもりはないわ」
謙遜しながらも、マキノちゃんの頬はちょっと紅くなっている。
「小日向さん、メンバーをよく気遣ってくれていたと聞いています。お疲れ様でした」
「そんな、私なんて、夕美さんに比べたら……でも、ありがとうございますっ!」
「大沼さん、驚くほどの成長です。あの日、大沼さんに出会えてよかった」
「ふぇ、ぷろでゅーしゃー、あう、あの……くるみ、ことばが、でなくて……ふぇ、えええ」
くるみちゃんが泣きだしてしまったので、私と美穂ちゃんが慌てて楽屋のティッシュの箱を取り、くるみちゃんに渡す。
「佐藤さん。長いあいだ、不安な思いをさせて申し訳ありませんでした。しかし、今のあなたは誰より輝いています」プロデューサーさんは目を細める。「これからも、期待していますよ。……『しゅがーはーと』さん」
「っ! ちょ、ちょっ、プロデューサー、そんなシュガシュガな不意打ちはめっ☆ だぞ、いつもの佐藤じゃ……っ、おいおい☆ ……そんなの、さすがに反則ぅ、だろっ、う、うぅぅ、うっ、うええええぇぇぇぇえ」
はぁとさんも声をあげて泣き出してしまう。くるみちゃんが鼻をすすりながらティッシュの箱をはぁとさんに差し出し、はぁとさんはそれでマンガみたいな音を立てて鼻をかんだ。
プロデューサーさんは、私たちを感慨深そうに見回してから、ひとつ息をつく。
「さて、申し訳ありません、もうすこしお話していたいところですが、医者から早く戻るようにと言われています。このまま、退散させていただくことにします。みなさん、本当にお疲れ様でした。私も面目躍如というものです。素敵なステージをありがとうございました」
そう言ってプロデューサーさんはハットをとり、丁寧に礼をすると、社員の男の人に助けられて車椅子に座り、部屋から出ていこうとする。
「プロデューサー!」去り行く背中に最初に声をかけたのは、はぁとさんだった。「今まで、本っ当おぉに!」
「ありがとうございました!」
深く頭を下げた私たち五人の声が揃い、プロデューサーは私たちに背を向けたまま、ハットを持ちあげて応えてくれた。
---
そうして、プロダクションの冬のフェスから二週間ほど経って、年が明けてまだ間もないころ、私たちのプロデューサーさんは、お友達に看取られながら、穏やかにこの世を去った。
私達ユニットのメンバーはお通夜とお葬式に出席し、それから先は、ちひろさんから納骨や、そのほか様々のことが終わったことを教えてもらった。プロデューサーさんともう会えないという実感が現実味を帯び、そしてそのことが当たり前の日常と同化したころ、次の春がやってきた。
木々は新しい葉をつけ、花を咲かせる。別れがあり出会いがあり、新しいことが始まる季節。慌ただしいけれど、うきうきすることも多い季節。
私たちは、次のイベントに向けたユニット活動に加えて、個々人の活動も活発になり、忙しい日々を送っていた。
それでも、水曜日の午後には、集まれるメンバーが集まって、お茶を飲みながら、打ち合わせやおしゃべりをする時間を取るようにしていた。
ある水曜日の午後。今日はあまりメンバーの都合が合わなくて、私とはぁとさんだけの参加だった。プロダクションのビルの上階、給湯室に近い休憩スペースの一角で、私ははぁとさんと二人分のお茶を淹れて、テーブルまで運んでくる。
「きゃるーん♪ サンキュー、夕美ちゃん☆」
「どういたしまして。まだ熱いですから、気を付けてくださいね」はぁとさんに湯のみを渡す。「これで、私のぶんも、空っぽになっちゃいました」
「そっか」
はぁとさんはちょっとだけ目を細める。
「あとはくるみちゃんのだけかー。まったく、遺品として茶葉ってなぁ、しかも缶じゃなくて袋詰め、完全に消耗品だっつーの☆」
言ってから、はぁとさんはお茶をひと口。
「ふふっ、でも、プロデューサーさんらしいと思うなぁ」
私もひと口。上品な甘みが口の中に広がっていく。うん。今日はいつもより上手に淹れられたかな。
亡くなったプロデューサーさんは、私たちに一人一袋の緑茶の茶葉を残してくれていた。逆にそれ以外のもの、たとえばいつまでも形に残るようなものは、何も残してはくれなかった。
構わず先に進め、というプロデューサーさんの遺志の形なんだろうと、私たちは受け取ることにした。
一方で、このお茶を飲むために水曜日の午後に集まることが、個々の活動でなかなか一緒に居られない私たちを繋ぎ続けてくれてもいた。これも、プロデューサーさんのプロデュースなのかと思うと、頭が下がる思いだった。
「はぁあ、あの駐車場もすっかり綺麗になっちゃったよなー……」
はぁとさんは窓からプロダクションの駐車場を見下ろす。私たちが去年一年を過ごした社外の事務室は、その主が居なくなったことで取り壊しになり、警備員室は社屋内に設けられたスペースに統一された。
窓から駐車場を見下ろすはぁとさんの横顔は、ちょっとだけ寂しそうだった。
「ほんとに、私たちだけになっちゃいましたね」
「そーだなー」
二人で湯のみの水面を見つめる。
私たちとプロデューサーさんが居た場所も、もうない。
私たちのユニットの活動のどこにも、プロデューサーさんの名前は残っていない。プロデューサーさんが私たちをプロデュースしてくれたことを知っているのは、私たちしかいない。
プロデュースの証として残っているのは、私たちというアイドルそのものだけ。
「でも、だからこそ、頑張らなくちゃ、って思えます」
私たちが胸を張って進み続けることだけが、プロデューサーさんの存在した証に私たちが敬意を表す手段なんだ。
「まったくぅ、マキノちゃんがこの前言ってた通り、最期にとんでもないプロデュースしてってくれたな☆」
はぁとさんの言葉に、二人で笑う。
「あら、はぁとに夕美ちゃんじゃない」
私たちのテーブルに、女性が近づいてきた。美城プロダクションのアイドル、沢田麻理菜さんだった。片手に売店のコーヒーのカップを持っている。
「あれ、何飲んでんの……緑茶? へぇー、はぁと、それは? ノースウィーティーなんじゃないの?」
麻理菜さんは笑ったけれど、はぁとさんは得意顔で言った。
「なに言ってんだ、これは最ッ高にスウィーティーだろぉ☆」
「そうなの? ほんとわかんないわ、その基準」
二人のやりとりを聞きながら、私はおかしくって、一人で笑っていた。
それからは、三人でゆっくりとおしゃべりしながら過ごした。
「……さてと、はぁとさん、私、そろそろ行きます」
お茶を飲み終えてからもしばらくおしゃべりに花を咲かせてから、私は立ち上がる。
「雑誌のインタビューだっけ? ガンバ☆ シュガシュガパワー、普段より多めに夕美ちゃんに分けとくぞ♪」
「頑張ってね」
「はい、ありがとうございます」
私ははぁとさんと麻理菜さんに挨拶をして、湯のみを片付けてからエレベーターで地上階まで降り、エントランスを抜けてプロダクションのビルを出た。
「……っと」
正面から出ようとして、足を止める。
さっき話をしていたせいか、ちょっとだけ気になって、私はビルの前で方向転換をして、駐車場に向かった。駐車場の花壇は今年もアマリリスやナデシコ、ほかにもたくさんのお花さんたちが元気に咲いている。
「……うん。みんな、きれいに咲いてるね」
そうか。私たプロデューサーさんが残したものは、ここにもあった。
私は思わず笑顔になっていた。
「今日も、頑張ろうねっ!」
お日さまの光を浴びて、誇らしげに咲くお花さんたちに声をかける。
私も、みんなも、大切な人たちのくれた誇りを胸に、前を向いて咲き続けるんだ。
私は空に向かって大きく伸びをして、歩き出した。
6.プロデューサー Camellia sinensis チャノキ(追憶)
『水曜日の午後には、温かいお茶を淹れて』 ・・・END
楽しんでいただけたならば幸いです。
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コメント一覧 (1)
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- 2018年12月19日 23:03
- 冒頭の倒れたPって、以前の倒れた「先輩プロデューサー」だったのか