【バンドリ】白鷺千聖「フィクション」
- 2019年03月19日 21:40
- SS、BanG Dream!
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この物語はフィクションであり、実在する事件、団体、人物とはいかなる関係もありません。
また、人によって嫌悪感を抱いたり、既存のイメージを著しく損なう可能性のある表現が含まれています。
――――――――――――
白鷺千聖という人間の価値は一体どれほどのものだろうか。
新宿の一等地にあるホテルの一室で、ベッドサイドの仄暗い明かりをぼんやり眺めながら、私はそんなことを考えていた。
時刻は日付が変わる三十分前。今日という、パステルパレットにとって、あるいは私にとって、何かの節目になるはずの一日ももう間もなく終わろうとしていた。
そう思うと、浮ついた現実というものが実体をもって、やたら馴れ馴れしい態度で私の身体を余すことなく這いまわっているような気がしてしまう。
(……いえ。気がしてしまう、ではもう済まない話ね)
天井の染みを数えていれば終わる、とはよく聞く言葉だった。身体の中に残る不快感とも異物感ともとれない奇妙な感覚から目を逸らすように、私は目を瞑って、「これでよかったんだ」と胸中で呟いた。
◆
事の発端は、パステルパレットの当て振り騒動のあとのことだった。
事務所のスタッフの手違いで例の騒動があったあと、彩ちゃんをはじめ、みんなが頑張ってその評判を覆そうとしていた。
最初こそ無駄なことだと私は考えていたけれど、ただ愚直に、不器用に……だけど一生懸命に頑張り続ける彩ちゃんの姿を見て、考えを改めた。
このバンドで、パステルパレットで、私ももう少し頑張ってみよう……と。
けれど努力が全て報われるのならきっとこの世界に不幸な人間はいないだろう。夢やおとぎ話みたいな優しさを現実は持ち合わせていない。
彩ちゃんたちの頑張りも一定の人たちには届いたけれど、世間に染み付いた“当て振りの口パクバンド”というイメージは到底覆せるものではなかった。
所詮バンドごっこをしているグループ、客を騙してお金を巻き上げる事務所……そんな風評がネットのそこかしこに転がっていた。ネットが大きな発言力を持つ現代社会において、それはパステルパレットにとって致命的なダメージだった。
挽回のためのライブで、やれることは精一杯やった。けれど、私たちの全部はそこにいたお客さんに届かなかった。
以前の私ならどうしていただろうか。
きっと一瞬の躊躇いもなくパステルパレットを切って捨てて、違う道を選んだだろう。だけど今の私にはそれが出来なかった。
報われてほしかった。
彩ちゃんたちの努力が報われなかった時、一番に頭に浮かんだのはそれだった。
私一人ならいつだってこのミスを挽回できる。それだけの場数をこなしているのだから、時間は少しだけかかっても、それくらいは造作もないだろう。
けれど走り始めたばかりの彩ちゃんたちにはその手立てがない。パステルパレットで失敗すれば、それでもう全部終わりなのだ。
だから報われてほしかった。だけどあの場所では報われなかった。まばらな拍手を思い起こすたびに、私の胸に鈍い痛みが走る。
どうにかしたいと思った。自分でもどうかと思うくらい、私は彼女たちが輝けるようにしてあげたいと願った。
それからもパステルパレットとして地道に活動を続けていたけれど、一度ついたイメージは払拭できそうもなく、鳴かず飛ばずの日々が続いた。
それでもいつか分かってくれる。そう信じて、愚直に頑張り続ける仲間たちを見ていられなかった。
私に出来ることは何かあるだろうか。白鷺千聖という女優についたイメージを利用してでも、もう一度あの子たちに――パステルパレットにチャンスは訪れないだろうか。
……その機会が訪れたのは、そう考えながら芸能活動を続けていたある日のことだった。
事務所の廊下を歩いていると、会議室からやたらと大きな声が聞こえてきた。お世辞にも有能とは言えないスタッフが多いこの事務所にしては珍しく、熱の入った会議だと思った。
だから私は会議室の扉に近付いて、漏れ聞こえる怒号にも似た声に耳を傾けることにした。
「……ということで、白鷺千聖を……」
「そんなことに頷ける訳ないだろ!」
「分かってますよ!! こちらからも……」
「当たり前だ、こんなくだらないことは議題にする必要も……」
途切れ途切れの声たちを拾い、断片的な情報を継ぎ合わせていく。それが一つに繋がった時、「ああ」と私は頷いた。
それは白鷺千聖という女優についたイメージを利用するのに一番効率的な、そして非道な手段だった。
漏れてくる声を聞く限り、これはある大手傘下の広告代理店のお偉いさんが仕掛けてきた話のようだ。この話に頷くのならパステルパレットを悪いようにはしないらしい。
そして、満場一致でこの『営業』は反対だ、ふざけるのもいい加減にしろ、というのがウチのスタッフたちの論調だった。
パステルパレットが失敗したのは事務所の方針のせいであるから、自分たちで挽回する。そんな汚い手なんかいらない。万が一にでもそれが漏れれば白鷺千聖のイメージに大きな傷がつく。
続けて聞こえてきた声たちを繋ぐと、概ねそんな内容だった。
私はそれを聞いて、頭に血が上っていくのを実感した。
パステルパレットが失敗した?
どうしてあなたたちはそう決めつけるのか。確かにスタートダッシュは出来なかったけれど、順調な走り出しではなかったけれど、あの子たちはまだまだ失敗の烙印を押されるには早すぎる。
そんな汚い手はいらない?
そんな汚い手を持ちかけられるほど舐められている役立たずは誰だ。あの子たちを追い詰めたのは誰だ。もう一度鏡を見てからそういうセリフを吐いて頂戴。
白鷺千聖のイメージに大きな傷がつく?
あなたがたに心配されるほど、私は安い芸歴を背負って立っていない。あなたがたが恐れているのは、事務所の顔に傷つくことだけだ。結局自分たちの保身しか考えていないんだ。
頭の中で沸々と煮立った思考が身体を突き動かす。気が付いた時には、私は会議室の扉を開いていた。
闖入してきた渦中の人物である私に、スタッフたちは目を丸くしていた。それからすぐに媚びへつらうような色の表情を顔に浮かべ、この話は忘れてください、なんてことを言ってきた。
私はそれを一蹴した。
その『営業』がどういうものかは分かっているつもりだ。端的に言えば『身体を差し出せ』ということだ。
舐められている、と思った。事務所にも、こんな話を持ちかけてきた人間にも、世間にも、何もかもに。だから見返してやりたかった。
芸能人であることのプライドと、自身の女としての尊厳。秤にかけるものではないことは重々承知だ。
けれどこの話を飲めば、私が私自身を穢してやれば、それであの子たちは世間を見返してやれる。これは絶好のチャンスじゃないか。当然白鷺千聖という女優にだって――それなりのリスクはあるけれど――箔がつくんだ。ならここでやらないでどうするんだ。いつ挽回のチャンスがやってくるんだ。
冷静なつもりだったけれど、思い返してみればまったく冷静ではなかった。
暗い影に追い立てられるように、そしてそれに飲み込まれないように、私は焦っていたのかもしれない。
だけどそう思った時にはもう私は見栄を切ったあとだった。だから覚悟を決めた。
絶対にパステルパレットを終わらせない。みんなの努力を、努力だけで終わらせてたまるものか。みんなで成功して、私たちを見限った世間を、見下した人たちを、昔の冷めた自分を、全部を見返してやる。
強がりともとれるそんな決心を抱いて、私は一人、事務所を後にした。
◆
ハッと目を覚ますと、見慣れない天井があった。自分の家のものよりもずっと高くて、落ち着いた色の天井だった。少しぼんやりしてから、ここがどこかを思い出す。
いつの間にか眠っていたらしい。
ベッドサイドテーブルの時計に目をやると、午前三時のデジタル表記があった。
みんなは今ごろ何をしているのかな、と少し考えてから、眠っているに決まってるかと思う。
力の入らない身体を無理矢理起こす。さぞお高い素材で作られているだろうバスローブが肌を撫でる。くすぐったさを感じて、寒気が走った。
よろよろとベッドから降り立ち、力ない足取りで私はシャワールームに向かった。
設けられた小奇麗な脱衣所でバスローブを脱ぎ捨て、浴室へ入って蛇口をひねる。適温の水流がシャワーヘッドから噴き出て、頭の先から足先まで余すことなく流れていく。
「…………」
貧血に似た眩暈を感じた。
気分が悪い。気持ち悪い。頭の中を無数の羽虫が飛び回ってるような気がした。
俯いたまま、ただシャワーを浴び続けた。
シャワーが頭に当たる音。滴るお湯の音。跳ねる水の音。
身体が嫌な熱さを持っていた。とりわけ、どうしてか顔が熱い。特に目元が熱かった。俯いているのに、シャワーが当たっていないのに、おかしなものだと他人事のように思った。
水滴が滴る。髪を伝って、身体を伝って、頬を伝って、床に落ちて跳ねる。
これでよかったんだ。
今日何度目かの言葉を胸中で呟いた。声には出せなかったけれど、何度も胸中で呟いた。
これでよかったんだ。
これで白鷺千聖という女優に箔がついた。
これでよかったんだ。
これでパステルパレットというバンドはきっと救われた。
これでよかったんだ。
これでみんなの努力もきっと実を結ぶんだ。
これでよかったんだ。
これでよかったんだ。
これで……私の中の何かが、汚れたんだ。
◆
結果として、パステルパレットは救われた。
徐々に私たちに肯定的な広告が打たれていき、ネットに根付いた風評を否定するような論調が増えていった。仕事も増えていったし、ファンも段々と増えていった。
だからこれでよかったんだ。
あとは私が何でもないように笑っていれば、女優の仮面を被って、それから幾度となく求められている『営業』をこなしていれば、それで一つの禍根も残さずに全部が丸く納まる。
私に穢れが蓄積されていくことなんて些細なことだ。元から私は汚れているようなものだから、今さら気にすることもない。私の中の踏みにじられた何かも、拭っても拭っても消えない染みも、気にすることはない。
増えていった仕事に、小さなステージに、笑顔が煌めく。
彩ちゃんが、日菜ちゃんが、イヴちゃんが、麻弥ちゃんが、楽しそうに、嬉しそうに笑っていた。私も少しだけ笑った。
だからこれよかったんだ。これで正しかったんだ。これしかなかったんだ。
私はそう思った。
◆
女優の仕事、パステルパレットの仕事、秘密の仕事。その三つをこなす日々。
最初こそ大したことない、これくらい平気だと思っていたけれど、日に日にパスパレの仕事が増えていくと、無理をすることが多くなった。
完全な休日なんて月にニ回か三回、朝は学校へ行き、夕方と夜は仕事をする。そんな生活がふた月ほど続いていた。
だからだろうか。ある日のみんなでのレッスン中にぼんやりしていると、イヴちゃんの心配そうな顔が目の前にスッと現れた。
「チサトさん、最近なんだかお疲れみたいです。大丈夫ですか?」
不安そうな声色が私の耳をくすぐる。それはとても心地のいい響きで、けれど私の中に入ってきてはいけない綺麗なものに感じた。
「大丈夫よ、イヴちゃん」
だから私は笑顔を浮かべて、無垢なイヴちゃんに応える。そういえば久しぶりに笑ったような気がしたけど、多分気のせいだろう。
「そう……ですか……」
しかしイヴちゃんは私の返答に納得してない様子だった。心配そうな顔で、なおも私の顔を見つめてきた。少しでも私のことを思うのなら、そんな顔じゃなくて笑顔を見せて頂戴。その為に私は……と、喉元までせり上がってきた言葉を飲み込む。
「心配してくれてありがとう」
代わりに私の口からはお礼が吐き出された。イヴちゃんはやっぱり不安そうな表情だったけど、「はい……」と頷いて私からサッと身を離す。
「確かに千聖ちゃん、最近はお疲れ気味だよね」
それと入れ替わりで、今度は彩ちゃんが私に声をかけてくる。
「最近、女優さんの仕事も増えて大変でしょ? 無理はしないでね?」
「……そう、ね」
その彩ちゃんの声が身体のどこかに引っかかった。
『女優さんの仕事も増えて大変でしょ?』
そうだ。パスパレの仕事ももちろん増えたけれど、私の女優としての仕事も日に日に増えていた。現場の人たちやドラマの感想にも「演技の幅が広がった」とか「前よりも深みのある顔をするようになった」だとか、そういう言葉をもらうことも多くなった。
これはきっと喜ばしいことのはずだ。それなのにいつまで経っても、何をしていても気分が晴れないのは……そう、やっぱり疲れているからだ。そうに違いない。
「しっかり休むようにするわね。心配させてごめんなさい」
だから私は頷いて、それから「けど、彩ちゃんは私の心配よりも自分の心配をした方がいいんじゃないかしら?」とだけ言っておく。
「確かにそうだねー。彩ちゃん、まーたサビの前で音外してたし、歌詞間違えてたし」
鏡張りの壁と睨めっこをしていた日菜ちゃんが、私の言葉を聞いて、彩ちゃんに悪意のない純粋な笑顔を向けた。
「うっ……そう言われると……」
「だ、大丈夫ですよ、彩さん。曲を貰った当初よりはずっと上手になってますから」
「最初は聞けたもんじゃなかったもんね、麻弥ちゃん」
「えっ、いや、ジブンはそんなつもりで言った訳じゃ……!」
「ううん、いいんだよ麻弥ちゃん……苦手な曲だって私が一番分かってるから……はぁ……」
「元気出してください、アヤさん。一緒に精進いたしましょう!」
みんなはいつも通り、彩ちゃんを中心にして彩り豊かな顔を見せている。パステルパレットが軌道に乗りはじめて、自分たちが少しずつ認められていくことが嬉しいし楽しいのだろう。
私はその輪から一歩、身を引いていた。あの中に、あの綺麗な場所に、私の身体の置き場はないように思えた。
けど、これでいいんだ。
みんなの顔を眺めながら、これで何十回目かの言葉を私は胸中でひとりごちた。
◆
日々は過ぎていく。行こうか戻ろうか……そんな些細な悩みも下らない迷いも置き去りにして、ただただ前に進んでいく。ただただ加速していく。そして速度が増していくほど、向かい風が強くなる。
国道沿いのラブホテル。トワイライトの純潔。言葉足らずに明けた夜の先には吃音的な世の果て。
被虐的なヒロイズムに浸り、加速するスピードと摩擦に身を爛らせる。居た堪れない思考全部が焼け落ちて、ただ走るだけの塊になっていく。
置いて行かれないようにと。着いて行けるようにと。
気が付けば冬になっていた。
パステルパレットが世間から注目されるようになってから、彩ちゃんたちにレッスンルームで心配された日から、また二ヵ月が過ぎた。
仕事の方は順風満帆だ。女優の仕事も次から次へと舞い込んでくるし、パステルパレットもみんなの努力が実を結び始めているし、それを裏で後押しすることもまだまだ続けている。
問題があるとするなら、きっと私個人の問題だろう。
ここ二ヵ月、寝覚めが悪い。
深く眠ったつもりでも夜が長い。そのくせ朝日が上るのはあっという間で、重たい身体をベッドから起こすのが毎日億劫で仕方なかった。
それでもやっぱり時間は流れるし、やらなければならないことは私を待ってくれない。
女優としてドラマの撮影、映画の撮影、コマーシャルの撮影、雑誌の取材、インタビュー。
パステルパレットとして練習、宣伝、ミニライブ、バラエティの収録。
身体が悲鳴を上げているような気がしたけど、それはきっと嬉しい悲鳴というものだろう。
これでいいんだ。これでよかったんだ。
言葉を繰り返し続ける。それに意味があるのかは知らないけど、私は繰り返し続けている。
そんな日々の中で、パステルパレットに大きな仕事がやってきた。正確に言うと、私がもぎ取ってきた。
都内の比較的大きなハコでのライブ。私たちにとって、初の単独ライブだ。
事務所のスタッフからその話を聞かされて、みんなは喜んでいた。その姿を見れて、私も嬉しかった。
けれど翌日からは以前にもまして身を削るような毎日が始まった。
女優の仕事は減らない。増えていく。パステルパレットとしてのメディア露出も増えていく。演奏する曲目も増えていく。
メンバーの中で一番忙しいのは恐らく私だろう。みんなと合同で練習する時間も少なくて、個人練習に励む日々が続く。
ベースをぶら下げて、譜面をなぞって指を動かして、歌を歌いながら、ステージ上でのパフォーマンスを決めなければならない。
辛くないと、大変じゃないと言えば嘘になる。だけどみんなには出来るだけ弱みを見せたくなかった。ただの虚勢やハリボテかもしれないけれど、いつだって前に立ってパステルパレットを引っ張るような存在でありたかった。
だから個人練習が多かったのは不幸中の幸いだろう。
ベースを抱えながら流れた雫は誰にも見られることはなかった。楽譜のふやけた後は練習の時にかいた汗だと誤魔化せた。
これでいいんだ。
そう思って、言い聞かせ続けて練習を重ねる。だけどどうしたって私一人じゃ上手く出来ない部分があった。
楽器に触れて演奏をするようになってからまだまだ日が浅い。どういう風に弾けばいいのか、どうお客さんに魅せればいいのか悩むこともあった。
そんな時に一番頼りになったのが麻弥ちゃんだった。
スタジオミュージシャンの経歴は伊達じゃない。演奏のことなら、麻弥ちゃんはいつだって親身に的確なアドバイスをくれた。
「ジブンと千聖さんはリズム隊ですからね。こういうことならいつだって頼ってください」
そう言って笑顔を浮かべる姿に何度となく救われたのだと思う。限界ギリギリの場所で何度も踏みとどまれたのだと思う。
だから麻弥ちゃんにもいつでも笑っていてほしかった。だけど、日に日に彼女の顔にも心配の色が浮かんでいった。
「大丈夫ですか? 顔色が悪いですし、今日の練習は早めにあがった方がいいのでは……」
ある日の合同レッスン前にも、レッスンルームに一番乗りで来ていた麻弥ちゃんにそんな提案をされた。他のみんなが来ないうちにそういうことを言うのは麻弥ちゃんの気遣いだと分かっているけれど、私はそれに重たい頭を緩く振って応える。
「……大丈夫よ、麻弥ちゃん。貴重なみんなとの音合わせだもの、この時間を無駄に出来ないわ」
確かに鏡に映る私の顔は少し疲れているようにも見えた。このままではみんなにいらない心配をかけさせてしまうだろうことは火を見るよりも明らかだった。
だから私は笑顔を浮かべる。それが剥がれないように、強く意識して顔に貼り付ける。売れっ子女優が本気の笑顔で作った特製の仮面だ。
「その、余計なお世話かもしれませんが……無理だけはしないでくださいね?」
「ええ、ありがとう」
不安そうな顔で麻弥ちゃんに言われる。
心配してくれるよりも、どうか笑顔をみせてほしい。
言葉にしないでそう願いながら、私はお礼の言葉を吐き出した。
「……何かあったら、なんでも相談してくださいね? 音楽以外だと力になれるか分かりませんけど、愚痴の捌け口くらいにならジブンでもなれますから」
麻弥ちゃんは他にもまだまだ何か言いたげだったけれど、それだけ口にして、少し暗い顔を俯かせた。
◆
人間は慣れる生き物だとよく聞く。辛いことも楽しいことも、ずっとその状況に身を置いていればいずれ慣れていって、何の感動も感慨もなくなるのだろう。
それならば私の慣れは一体いつになったら訪れてくれるのだろうか。
忙しい、と口にする暇さえないことなんて今までだってあった。今回のこともそれと同じことのはずなのに、私の身体と頭は日に日に重くなっていった。
それでも弱音を吐いてなんていられない。
レッスン中や顔を合わせた事務所で、麻弥ちゃんの心配そうな眼差しが刺さる。正直に言えば、それに甘えてしまいたい気持ちがあった。
だけど、私が仲間の誰かへ身を寄せれば、パステルパレットというバンドに一生消えない染みが出来てしまうような気がしたから、私はそれに甘えることはしなかった。
これくらいなんともない。大丈夫。まだまだ私は前へ進める。歩いていける。
効き目の薄い呪文を心の中で繰り返し続けているうちに、気が付いたら単独ライブの当日になっていた。
足元が少し覚束ないくらいに私は一杯一杯だったような気がしたけれど、ステージライトを受けてキラキラと煌めくみんなと、観客席に咲いた色とりどりのサイリウムの光に見て、まだ頑張れると思った。その光たちは、私が繰り返し続けてきた暗示なんかよりもよっぽど力をくれた。
身体が自然と動く。歌声が意識せずとも大きく響く。忙しい日々の合間に練習したことは無駄ではなかった。綺麗な光と気力を奮い立たせる熱にあてられて、ただ楽しかった。
アンコールまで終えて、お客さんの歓声や拍手が嵐のように私たちへ降り注ぐ。
みんな笑顔だった。彩ちゃんは笑いながら泣いていた。それはきっとこの世界で一番綺麗な雫なんだろう。
だから、それは私が生涯触れてはいけないものなんだと思った。身体の奥底に滾っていた熱がスッと冷えた気がした。
楽屋に引き返しても、みんなはまだステージの熱が身体中に残っているようで、思い思いにあの場所で得た感動を言葉にしていた。
私はやっぱりそれを一歩引いた場所で見ていた。あそこに近付けば、きっと光に影が差してしまうから。
まだ泣いている彩ちゃんを日菜ちゃんがからかって、イヴちゃんが慰めるつもりなのかじゃれているつもりなのか判断に迷うテンションで抱き着いて、麻弥ちゃんもなんだかもらい泣きしそうな顔をしていた。
そんな麻弥ちゃんにイヴちゃんが抱き着く。麻弥ちゃんが笑う。
次は日菜ちゃんにも抱き着く。日菜ちゃんはずっと笑顔でいて、大きな笑い声をあげながらイヴちゃんを受け止める。
そしてイヴちゃんが私を見た。
来ないで。そう思った。
お願いだから、こっちへ来ないで。
けれどイヴちゃんは、キラキラした笑顔で、両手を広げて私の方へ駆け寄ってくる。
身を退くべきか、どうするべきなのか。判断がつかなくて、ボーっと突っ立ったままの私にイヴちゃんが抱き着いた。
温かかった。心地のいい温もりが私を包んで、だからこそ私は怖くなった。
「っ!」
この温もりが、心地よさが、つまらないもので汚れてしまう。そう思って、反射的にイヴちゃんを突き飛ばしてしまった。
「えっ……」
イヴちゃんはポカンとしていた。何をされたか理解が追い付いていないらしい。
その顔を見て、私はどうしたらいいのか分からなくなってしまう。
イヴちゃんを突き放したのは彼女のため。綺麗なこの子たちには私の醜さが、汚さが移らないように、ずっと笑顔でいられるように……そう願っての行動だった。
けれどそれを分かって欲しいとは思わないし、そんなことを話せば余計に彼女たちを心配させて、暗い気持ちにさせることは痛いほど分かっている。
じゃあ、私はどうすればいいの?
「……ごめんなさい、たくさん汗をかいたでしょう? イヴちゃん、嫌かなって思ったのよ」
分からなかったから、それだけ言って、私はみんなに背を向けた。
きっとイヴちゃんは傷付いた顔をしている。そんな顔は見たくない。視界がやたら滲んでぼやけているから見えないかもしれないけれど、きっとそんな顔を見たら私は泣いてしまう。
だから私は足早に楽屋の扉へ寄って、ドアノブに手をかける。
「ち、千聖さんっ」
後ろ髪を引くような麻弥ちゃんの声が聞こえたけれど、それを振り切って楽屋を飛び出した。
◆
私は何がしたかったのだろうか。私はどうしたかったのだろうか。
単独ライブを無事に成功させて、ひと月が経った。
パステルパレットの名前はどんどん売れていった。今ではバンドとしての仕事だけでなくメンバー個人に対しての仕事まで回ってくるようになった。みんなの努力は世間に認められて、報われたのだろう。
これが私の望んでいたことだった。
パステルパレットを見限った世間を、見下した人たちを見返してやれた。あなたたちが蔑んだアイドルたちはここまで出来るアイドルなんだと思い知らせてやれた。
だけど、昔の冷めた自分を見返せた気はしなかった。
むしろ以前よりも醜い嘲笑を顔に張り付けて、言葉もなく私のことを罵っているようにさえ思えた。
その理由が分からない。
私が望んだことはもうほとんど達成させられたのに、一向に満たされたような気がしない。
私は何がしたかったのだろうか。私はどうしたかったのだろうか。そう考えて、気分が落ち込むことが最近は多くなった。
それでも時計の針は止まりはしない。私個人の憂鬱なんかには目もくれず、ただ正確に時を刻み続ける。
そして、現実はいつも私の望まない方向に転がっていく。
「今日は千聖さんとジブンだけですね」
「ええ、そうね」
ある日のレッスンルーム。
新しいCDをリリースすることになって、今日は麻弥ちゃんと二人きりでの新曲の練習だった。
ドラムスティックを握る麻弥ちゃんの姿を見て、イヴちゃんとのレッスンじゃなくてよかったと思う。
あのライブの日から、私はイヴちゃんと少し距離を置くようになった。イヴちゃんはそんな私をいつも寂しそうな顔で見てきて、それに胸が張り裂けそうな痛みを覚えるけれど、これも彼女の、ひいてはパステルパレットのためだ。私が我慢するべき痛みなんだ。
同じ理由で彩ちゃんとも微妙に距離を置くようにしていた。あの子はいつも不器用に心配してくれて、どうにか私とイヴちゃんの距離を前のように戻そうとする。気遣いは嬉しいけれど、それは今の私には必要のない気遣いだ。
その点、日菜ちゃんはいつも通りすぎるくらいにいつも通りだし、麻弥ちゃんも適切な距離をしっかり保ってくれるから、一緒にいて少しだけ気が楽だった。
だけど、今日は少し様子が違った。
「……千聖さん。この前のライブの件なんですけど」
二人で音を合わせ終わり、休憩をしている時だった。麻弥ちゃんは何か意を決したようにその話題を口にして、私は表情が少し引きつるのを自覚した。
この話題は空気を読まない日菜ちゃんがたまに口にするくらいだった。彩ちゃんがうっかり口にするくらいだった。まさか麻弥ちゃんからそれを言われると思っていなかったから、女優の仮面を被るのに少しだけ時間がかかる。
「ああ、ライブの話ね。なにかしら? 演奏のこと?」
大丈夫だ。いつもの笑顔を浮かべられた。そう思って、麻弥ちゃんへ顔を向ける。
「……お願いです、千聖さん。その顔は……やめてください」
けれど、麻弥ちゃんから返って来たのは、沈痛な面持ちからだされた脈絡のない言葉だった。
「な、なにを言っているのかしら?」
「お願いです。やめてください」
「え……?」
とぼけようとしたけれど、今度はきっぱりと言い切られてしまった。いつもと様子が大分違って、私は少し心配になる。
「ど、どうしたの? もし体調が悪いならもう練習はやめにして……」
「……!」
言い切る前に、麻弥ちゃんが泣きそうな顔で、キッと私を睨むような視線を送ってくる。それを見て、私はますます心配になってしまう。
どこか痛いのかしら。どこか調子が悪いのかしら。もしもそうなら言葉にして欲しい。私でどうにか出来ることなら、何でもしてあげたかった。
「……知ってるんです」
そんな私の思いをよそに、今度は俯いた麻弥ちゃんは、風に吹かれて消えそうな震えた声を吐き出した。
「何を?」
「偶然……聞いてしまったんです」
「…………」
嫌な予感がした。こういう時の第六感は大抵正しくて、こういう時ばっかり予感が現実になるのは不公平だ、と現実から目を逸らすように私は考えた。
「千聖さんが……ジブンたちのためにどうしてるか……って」
「っ!!」
けれどどれだけ目を逸らしたって現実はそこにあるし、だから私は、その死刑宣告と同義の告白から逃げることなんて出来ない。
私は、その『営業』をパステルパレットのメンバーに知られることを最も恐れていた。
それを知られたら私は軽蔑されて当然だし、みんなの重荷になってしまうだろうことは十分に理解していた。もしもこれを知られたら、きっとみんなはもう二度と私に笑顔を見せてくれないだろうことは分かりきっていた。
だから事務所のスタッフにも絶対にこのことは話さないように口止めしていたし、私自身も決して悟られないように努力をしてきたつもりだった。
だけど麻弥ちゃんに知られてしまった。
足元が崩れ落ちる。底の見えない暗闇の中に真っ逆さまに落ちていく。どうしたら、どうすれば? ああダメだ、もう……終わりだ。
麻弥ちゃんが顔を上げる。泣きそうな、悔しそうな顔をしていた。
「だから……お願いです。そんな顔は……無理なことかもしれませんけど、せめてジブンの前では……そんなに辛い顔で、無理矢理笑わないでください」
まっすぐな言葉が心に響く。純粋な心配の言葉だったけれど、それは私の心にヒビをいれるのに十分すぎる威力を持っていた。
首を振って、いやいやする子供のように、私は麻弥ちゃんから後ずさる。
麻弥ちゃんはそんな私に一歩近づいてくる。
この場所から逃げ出したかった。でも怖くて、怖くて怖くて仕方なくて、足が竦んで動けない。貼り付けた仮面がボロボロと崩れていく。視界が滲む。歯が上手くかみ合わなくてガチガチと音を立てている。
気が付いたら麻弥ちゃんが目の前にいた。
離れて。お願い、離れて。
そう思ったけれど、麻弥ちゃんはもう一歩私に近付いて、両手を私の背に回した。そこで身体が反射的に動いた。
「は、離れてっ!!」
ダメ。ダメだ。私に近付かないで。お願い。お願いだから。あなたたちは綺麗なままでいてほしいの、お願い。汚いから、汚れてしまうから、だから近づかないで。お願い。お願い。おねがいだから離れて。
がむしゃらに身体を動かす。振り回した手が麻弥ちゃんの頬を打った。眼鏡がレッスンルームの床に放り出される。
「ぜ、絶対に離れないです……!」
だけど麻弥ちゃんは頑なに私から離れなかった。
どうして、やめて、おねがい。おねがい。おねがいだから、はなれて。わたしにふれないで、さわらないで。
精一杯暴れて、言葉にならない言葉を吐き出した。でも逃れられなかった。そうしているうちに身体中から力が抜けて、とうとう私は身じろぎも出来なくなってしまった。
私の心の中にあったのは絶望だった。
もう終わりだ。
何もかも、終わってしまった。
死にたい。
消えたい。
どこか遠くへ行って、そのまま誰にも知られずに世界からいなくなってしまいたい。
「お願いです、千聖さん……一人で抱え込まないでください……」
憔悴した心と身体を麻弥ちゃんの声が通り抜ける。震えていて、まるで泣いているような声だな、と他人事のように思う。
「ジブンたちは千聖さんに比べたら……全然ひよっこです。右も左も分かりません。だから何にも出来ないかもしれませんけど、でも……仲間じゃないですか。友達じゃないですか」
通り抜ける。まるで空洞になった私の中に、震えた声が通り抜けていくだけだった。
私はどうすればいいか分からなくて、でもこの場はどうにか切り抜けなくちゃいけないから、心にもない言葉を吐き出す。
「そう……ね。本当に困ったら……助けてってお願いするわね……」
空虚な声だと思った。だって、私の本心はそんなものじゃない。
こんな薄汚れた私でもいいなら、これからもみんなの傍にいさせてください。それだけでいいんです。そして、みんなで幸せそうに、楽しそうに、嬉しそうに笑っていてください。どうか、お願いします。
これが私の本心だ。きっとみんなは優しいからすんなり受け入れてくれるかもしれない。
だけどこれを言葉にする勇気が私にはない。言葉にすれば容易いけれど、分かってもらうことは難しいし、分かってもらえたところできっと私の存在はただの足かせにしかならない。
「ありがとう、麻弥ちゃん」
だから私は空っぽのお礼を、泣いている麻弥ちゃんに投げかけた。
◆
その日から、白鷺千聖という人間の価値は希薄になってしまったのだと思う。
麻弥ちゃんはこのことを誰にも言わないだろうことは分かっているけれど、人の口には戸が立てられないのはこの世の常識だ。どれだけ緘口令を敷いたところで、言葉は何ものにも囚われることなくすり抜けてしまう。
私は常に銃口を背中に突き付けられているのだ。
その引き金はなんの拍子に引かれるかは分からない。いつ引かれるかなんて分からない。だから私一人ではもうどうしようもないのだ。
私自身の浅はかで醜くて汚い部分は、いつみんなに知れ渡ってもおかしくない。
もしもそうなったら。
麻弥ちゃんが口を滑らせたら、事務所の無能なスタッフが話していたら……それだけで白鷺千聖という人間は終わってしまう。
怖かった。怖くて怖くて仕方なかった。
みんなと顔を合わせるのが怖い。
いつ導火線に火がつくとも知れない爆弾を抱えながらの芸能活動は、これ以上ないくらいに私の心をすり減らした。
もう笑えないけど、それでも無理矢理笑って、みんなには何ともないように接する。
けれどやっぱり私の仮面にはもう修復不能なヒビが入ってしまっているらしい。
顔を合わせる度に、彩ちゃんとイヴちゃんの綺麗な瞳が私を射抜く。自分の本当の姿を覗き込まれているような気がして、私は逃げ出したくなる。そんな私を麻弥ちゃんは悲痛な顔で見つめてくる。
やめて。大丈夫だから。お願い。そんな顔をしないで。まだ大丈夫だから。平気だから。お願い。心配しないで。まだ私は笑えるから、まだ綺麗なフリが出来るから、だからお願い。そんな泣きそうな顔して、みんなに心配をかけないで。お願い。お願いだから。
そう願って無理矢理笑顔を作るほど、麻弥ちゃんは辛そうな顔になる。
もうどうしたらいいのか分からなかった。
私が引きずり続ける醜い影が、日に日に大きくなっていく。その影に飲み込まれていく。
夜が長い。朝が早い。新宿の高級ホテルの夜景も、始発電車に差し込む朝日も、何もかもが私を責め立ててくる。どこまで行っても、何をしていても、私は私を責め立てるものたちから逃げられない。
……そんな日々を送っていたからだろうか。事務所から、正式に私に休養命令が下された。
女優の白鷺千聖に舞い込んだ仕事も、パステルパレットの白鷺千聖に与えられた仕事も、全てが白紙になった。学校も大事をとってしばらく休むようになった。
体調不良による芸能活動の休止。週刊誌やワイドショーを見れば、月に一度は見るだろう珍しくもないことだった。
けれど、私にとっては一大事だった。
女優としての、パステルパレットとしての白鷺千聖は休養した。じゃあ、今ここに立っている白鷺千聖には何が残っているんだろうか。
なんの肩書もない白鷺千聖という人間の価値。それはいかほどのものだろうか。
そう考え始めると、夜はどんどん長くなった。いつまでもいつまでも朝は訪れない。一人の部屋で膝を抱えて、夜通しぼんやりしていることが多くなった。
午前三時のデジタル表記。みんなは今ごろ何をしているのかな、と少し考えてから、眠っているに決まってるかと思う。
私も安らかに眠りたかった。
せめて夢の中でくらい、綺麗なものだけ見させて欲しかった。
◆
目を覚ますと、もうお昼前だった。見慣れた自室の天井が目の前にあった。
いつ眠りについたのか覚えていないけれど、明るくなった空をカーテン越しに見上げていたような覚えがある。
鈍い頭痛がやまない。身体中に気怠さが蔓延していて、指先を動かすのでさえ億劫に思える。
けれど私はのろのろとベッドから降り立ち、洗面所に向かう。身だしなみを整えなければ外へ行けない。外へ行かなくては、私がやるべきことが見つからない。やるべきことが見つからないなら、私が存在する意義がない。
何を探しているのか、どこへ行こうとしているのか、自分でも分からなかった。
だけど何もしなければ何も見つからない。私が生きている意味が見つからない。だから何かを探しに行かなくちゃいけない。
私は見えない大きな影に追い立てられながら、今日も暗夜行路を往く。
休日の街は賑わっていた。
パステルパレットの事務所からほど近い繁華街の駅前には、私くらいの年代の少年少女が忙しなく行き交う。
みんなそれぞれに目的地があるんだろう。迷いのない足取りで、前に進んでいる。
私の目的地はどこだろう。
黙っていればいずれ腐っていく身体をサーベルみたいにぶら下げて歩く。頼りない足取りで、あちらこちらへフラフラと彷徨う。
どれくらいそうしていただろうか。時間の感覚が曖昧だから分からないけれど、同じ道を歩き続けて駅の周りを三周くらいしたところで、見慣れた顔に出会った。
「あれ、千聖ちゃん? どしたの、お休み中でしょ?」
「……日菜ちゃん」
いつもと――出会った時とまったく変わらない様子で、日菜ちゃんが首を傾げる。その様子を見て、私の心が少しだけ軽くなった気がした。
日菜ちゃんは私の顔をまじまじ見つめてから、何ともないように言葉を続ける。
「んー、まぁいっか。ねぇねぇ千聖ちゃん、どうせお休み中でヒマでしょ?」
「……まぁ」
「それじゃーさ、一緒にお昼しよーよ! お腹減ったからなんとなくこの辺来たんだけど、一人で食べるより二人の方がいいし!」
「そう、ね……」
その言葉で、今がお昼時ということと、私が起きてから何も食べていないことに気付いた。私はこくんと頷く。
「決まりだね! ハンバーガーでいい? あたし、いまジャンクの気分なんだよね」
「……日菜ちゃんの好きなものでいいわよ」
「ん、おっけー! そんじゃ、行こっか!」
日菜ちゃんはずんずん進んでいく。私はそれにただ着いていった。
親鳥を追うひな鳥のように歩き続けてたどり着いたファストフード店で、私は日菜ちゃんと同じものを頼んで、空いていた席に着く。
「そういえば珍しいね、千聖ちゃんが変装もしてないのって」
日菜ちゃんも私の対面に座って、それを皮切りに、ポテトを食みながら次々と言葉を投げてくる。
私はそれにただ頷いたり、首を振ったりしていた。ただそれだけのことだったけど、少しだけ元気が出た。
日菜ちゃんの話すことは、日菜ちゃんのお姉さんのこと、パスパレのこと、それからまたお姉さんのこと、学校のこと、もう一度お姉さんのこと……という風に、いつもと何ら変わりのないものだったから、私も何も変わらず白鷺千聖でいていいんだと錯覚できた。
食欲はあまりなかったけれど、日菜ちゃんの声に釣られるようにして、少しだけ私もポテトを口に含む。妙に塩辛かった。作った人が下手だったのか、私のポテトには目に見えるくらいの量の塩がポテトに付いていた。
だけど、そのくらいの方が今の私にちょうどいいのかもしれない。ほんの僅かだけど、身体に熱が戻ったような気になれた。
日菜ちゃんはまだまだ一方的にしゃべり続けている。楽しかったことや嬉しかったことを吐き出し続けている。
それを聞きながら、私はちょっとした決心をした。
日菜ちゃんがハンバーガーを口にして、話の途切れたタイミングを見計らって、私も言葉を放つ。
「ねぇ、日菜ちゃん」
「ん~?」
「例えばの話……だけど」
「んー」
「……私が今までみんなを騙していた、って言ったら……日菜ちゃんはどう思う、かしら」
それを聞いて、日菜ちゃんは首を傾げる。
「なにそれ?」
「別に……ただの例え話よ」
「ふーん。んー……千聖ちゃんがあたしたちを騙してたら、かぁ」
ハンバーガーをトレイの上のテーブルナプキンに置き、代わりにポテトを一つくわえて、日菜ちゃんは天井へ視線を彷徨わせる。私は少し緊張しながら答えを待つ。
「千聖ちゃんがいいならいいんじゃない?」
「私がいいなら?」
「うん。何の話か全然分かんないし」
くわえたポテトを咀嚼して飲み込んでから、言葉を続ける。
「あたしはみんなが面白いパスパレが好きだし、千聖ちゃんがあたしたちを騙してたおかげで面白かったっていうなら、あたしはそれでいいし?」
「…………」
その言葉をどう受け止めるべきか。少し考えてみたけど分からなかったから、私は次の言葉を放つ。
「じゃあ……もし、もしもの話だけど」
「うん」
「……私がパスパレを辞めるって言ったら?」
そう言ってから、私は日菜ちゃんになんて答えて欲しいのだろうかと思う。
引き留めて欲しいのか、それとも後腐れなくバッサリ切り捨てて欲しいのか。
「なんであたしにそんなこと聞くの?」
ストローをくわえていた日菜ちゃんがきょとんとする。それは責めるとかそういう口振りではなく、ただ純粋にどうしてそんな質問をされているのかが分からないといった様子だった。
「なんで、って言われても……これも例え話みたいなもの、かしらね」
「例え話ねー……うーん、そう言われても、千聖ちゃんがそう決めたならしょーがないかなって感じ? あたしは今のパスパレが面白くて楽しいからちょっと残念だけど」
「……そう」
「あ、もしかして引き留めて欲しかった感じの話だった?」
「いえ……どうなのかしらね」
ただ漠然と胸に抱いている気持ちを無理矢理言葉にした質問だったから、私自身も何を求めてこんなことを口にしたのかが分からなかった。
「そっか。んーでも、千聖ちゃんが辞めるならあたしも辞めよっかな」
「えっ、ど、どうして?」
予想外の言葉に私は慌てて日菜ちゃんに尋ね返す。こんな自分でも何が言いたいか分からない質問で、パステルパレットがバラバラになってしまうのは嫌だった。
日菜ちゃんはそんな私の気持ちを知らず、何でもないように答える。
「だって、あたしがるんっ♪ てするのは今のパスパレだもん。千聖ちゃんが抜けて、それでるんっ♪ てしなくなったら、あたしは他のことやるよ。別にみんなともう二度と会えなくなるわけじゃないしね」
パスパレ辞めたらおねーちゃんと一緒にギターデュオでデビューとか……あ、これいいかも! ……なんて目を輝かせ始めた日菜ちゃんを前に、私はその強さに打ちひしがれていた。
日菜ちゃんには確固たる自分がある。行動原理はすべてそれに基づいていて揺らがない。自分が楽しめること、好きなこと……彼女の言うところで「るんっ♪」とすることをひたむきに求めて行動しているのだ。
じゃあ私はどうなのだろう。
私は今まで何を思って、何が欲しくて、何をするために今までこうしてきたのだろうか。
自分のため? パステルパレットのため? みんなのため?
それを探そうとしたけれど、何を考えても何を見つけても、その理由の後ろには「でも」と「だけど」が続いて、全てが相殺される。純然たる自分の願いが分からなかった。
頭の中に深い霧が立ち込める。
それはいつまで経っても晴れそうになくて、私は何も手にすることが出来なかった。
◆
誰がために、なんのために今まで何をやっていたのか。
今日までの行動の積み重ねの結果、事務所から休養を与えられた。そしてひとり部屋に籠って、ただ私は悩み続けている。
最初は自分のためだけの行動だった。芸能界でもっと上へ行くために、パステルパレットはただの踏み台にしか思っていなかった。
それが変わったのはいつからだったろうか。気が付けば、私はみんなを……仲間を後押ししたい、応援したいという気持ちが大きくなっていた。
しかしこの気持ちだって、日菜ちゃんのような純粋な気持ちからの行動ではなかったはずだ。私の中に常にあったのは打算的な思考。パステルパレットが有名になれば、私という人間の価値も上がる。そう考えていたはずだ。
それなら今のこの状況はなんだろうか。
私という人間の価値なんてこれっぽっちも上がっていない。むしろどんどん希薄になって、取るに足らない下らない人間だと思い知らされている。
私は何のためにここまで進んできたのだろうか。それが分からない。どれだけ考えても分からなかった。
……こうやって同じ場所で足踏みを続けていても、時間は私を置き去りにして進み続ける。加速し続けた日々はいつの間にか減速していって、今では一日が長いけれど、それでも私はそれに着いていけない。
仕事も学校も休養中ではあるけれど、『営業』に関してはそんなものはなかった。
私自身が何をどうしたいのか分からないまま、ただその穢れを身に蓄積させている。日を重ねるごとに、時計の針が進むほどに、私はみんなと相容れない存在に堕ちていくだけだった。
今日も今日とて『営業』の終わりに、新宿からの始発電車の長椅子に身を沈める。愚鈍な朝日が差し込む休日早朝の車内には人が少なかった。
やがて走り始めた電車は、規則的に目的地を目指して走り続ける。朝の光に照らされた街並みが同じ速さで流れていく。
私の目的地はどこだろうか。
私はどこへ行けばいいのだろうか。
私は何をすればいいのだろうか。
私は何がしたかったのだろうか。
私は何を望んでいたのだろうか。
答えの出ない問いを頭の中で燻らせ続ける。長椅子に座らせた身体はどうしようもなく重たくて、それなのに真っ白な朝日が急かしてくるものだから、ただもどかしさだけが募っていく。
気付くと、まったく知らない駅に電車が滑り込んだ。
車内アナウンスでここが終点だと知る。運べるのはここまでだ、と、私はホームに追いやられる。
レトロチックな装いをした駅だった。人が全然いないのにやけに線路の数が多い。
私はがらんどうのホームに設けられたベンチに力なく腰かける。気怠い身体で重たい頭を支えるのが苦しい。それに加えて、朝日が鬱陶しいほど眩しいからうなだれた。
この光から逃げたかった。
この光は私の醜い部分を浮き彫りにする光だ。あなたはこんなにも醜くて汚い矮小な存在なのだと、耳元でがなり立ててくるんだ。
だけど私はもう一歩も歩けそうにない。
この光に照らされて、打ち消しようのない事実をこの身に思い知らされることしか出来ない。
もういっそのこと、この場で誰にも知られずに死んでしまおうか。
ふと頭によぎった思考に自虐的な笑みが浮かんだ。それが散々悩んだことへの最適解な気がして、視界が滲む。
そんな時、微かな歌が聞こえた。どこかで聞いた歌だな、と思って、それがパステルパレットの歌だと気付く。発信源は私の小さなポーチだった。
そよ風の吹く音にかき消されそうな歌はすぐに鳴り止んだ。ポーチの中にはスマートフォンを入れてあるから、きっと誰かからメッセージでも届いたのだろう。
そう思って、しばらくしてから気付く。
メッセージの通知であれば普段はシンプルな鈴の音だし、電話の着信であれば無機質なデフォルトのベルだ。私のスマートフォンから歌が流れるものは、何があっただろうか。
少し気になったから、もたもたと手を動かして、ポーチからスマートフォンを取り出す。画面にはメールの着信通知があった。
そういえば半年くらい前にメールの着信音を変えたような記憶があった。どうせそんなに使わないものだからと、私たちの歌に設定したんだった。
いつ振りかも分からないほど久しぶりに、メールアプリを起動させる。ほとんど空っぽの受信ボックスに一件の新着メールが来ていて、それをタップする。
『寝てたらごめんね?』というタイトルと、丸山彩という差出人が目に付いた。続けてそのメールを開く。画面にはずらっと言葉が並んだ。うなだれたまま、それに目を通す。
『その、長くなっちゃうと思ったからメールで送りました。久しぶりにメールアプリ使ったから少し操作方法迷っちゃった。えへへ……って、それはどうでもいいんだけどさ』
彩ちゃんが実際に声に出している姿が目に浮かぶ。必死な顔で、身振り手振りを交えて何かを伝えようとして頑張る彩ちゃんの眩しい姿が鮮明に思い浮かぶ。
私はメールを読み進めていく。
『千聖ちゃん、最近元気? って、元気じゃないからお休み貰ってるんだよね。えっとね、こっちは頑張ってやってるよ。だから千聖ちゃんは心配しないでゆっくり休んでてね……って言いたいところなんだけどさ、やっぱり千聖ちゃんがいないと大変だよ。
この前もね、バラエティーの収録中に何回もトチっちゃって、それを日菜ちゃんにからかわれてさ、そのままどんどん話が脱線していっちゃうんだよね。イヴちゃんも麻弥ちゃんも日菜ちゃんの暴走……暴走って言うのかな? まぁうん、とにかく日菜ちゃんはなかなか止められないからさ……。あー、こういう時に千聖ちゃんがいてくれれば、場をまとめてくれるのになーってすごく思ったんだ。
えーっと、ごめん、お休みしてるのにこんなこと言われたら余計な心配させちゃうよね。
けど、その、千聖ちゃんの様子が気になるっていうか……本当はね? 事務所のスタッフさんたちから千聖ちゃんに連絡するの、NGって言われてるんだ。負担になる可能性があるからって。
でもどうしても伝えたいことがあって……確かにここまでメール書いてて、私たちって千聖ちゃんにずっと甘えっぱなしだったんだなってすごく思った。きっと負担になってたんだなって気付いた。
だから、ごめんね……と、いつもありがとう。
私たちは私たちなりに頑張ってたけど、きっと千聖ちゃんの頑張りの足元にもおよばないんだなぁって、最近すごく思ったんだ。
私たちよりずっと忙しいのに、私たちよりずっとパスパレのことを考えてくれてて、それに何度も何度も助けてもらって……それで、千聖ちゃんが少し疲れちゃったんだなって思うと、どうしても謝って、お礼が言いたくて……。
それとね、努力だけで夢が叶うわけがないって、前に千聖ちゃんに言われたこと、ちょっと思い出した。
確かにそうだよね。努力はしてて当たり前のことだし、千聖ちゃんくらい頑張らなくっちゃ、胸を張って「頑張りました!」って言えないかなってちょっと思うようになった、かな。
あと、えっと、日菜ちゃんからね? その、言っていいのか分かんないけど、でも、聞いて、聞いちゃってね?
千聖ちゃんがどんな気持ちでいるかって、私、真面目に考えたことなかったなって思って、もう遅いかもって思うんだけどね?
私は、千聖ちゃんとまだまだ一緒にパスパレがしたい……です。
謝っても謝ってもどうするかは千聖ちゃん次第だし、どれくらいお礼を言ったらいいかも分からないくらいありがとうっていう気持ちがあったけど、でも、言わなくちゃ分かんない……よね。
だからね、いつも本当にありがとう、千聖ちゃん。
千聖ちゃんがいなかったら、頑張ってくれなかったら、私たちはきっともうアイドルじゃなかった。
これからは千聖ちゃんだけじゃなくて私も頑張るし、とにかくもっと頑張るから、だからね、私はまだ千聖ちゃんと一緒にパスパレがやりたい。
日菜ちゃんが言ってたことだからもしかしたら本当は全然違うことだったかもしれないけど、でも、本当に千聖ちゃんがパスパレを辞めたいって思うなら、私なんかじゃ止められないけど、でも、本当にずっとずっと一緒にアイドルがやりたいんだ。
千聖ちゃんにどんな事情があるっていうのは私なんかじゃ全然察せないけど、だけどこれからはもっと頑張って、みんなで負担を分け合って、千聖ちゃんがひとりだけ大変な思いをしないようにする。絶対にするから、だから考え直してくれると、私は、ううん、私だけじゃなくてみんな嬉しい、です。
ごめんね、本当にすっごく長くなっちゃった。
その、このメールが重荷になっちゃったら本当にごめんね? 気にしないで……うーん、気にして欲しいけど気にしないでほしくて、えっと、つまりね?
みんな、千聖ちゃんのことを待ってるから、その、ゆっくりお休みして、また一緒にステージに立って、一緒に笑えたら嬉しいなって、思います。思いました。
なにが言いたいのか分かんなくなってきちゃった。
とにかくね、これからは千聖ちゃんにおんぶにだっこさせるんじゃなくて、むしろ私たちが千聖ちゃんをおんぶにだっこで楽させてあげる、くらいの気持ちでいるから!
千聖ちゃんが今までずっとずっとすっごく頑張っててくれた分、今度は私たちが頑張る!!
だから、ゆっくり休んで早く良くなってね!』
ところどころで話が繋がっているのかいないのか分からなかったのは、ところどころで何度も同じ言葉が並んでいたのは、きっと彩ちゃんが一生懸命打った文章だからだろう。
「っ、ぅっ……うぁ……!」
きっと私の瞳から零れる雫は関係ない。視界がぼやけて、ピントが合わなくて、どう頑張ったって女優の仮面なんて被れそうにないのは、彩ちゃんのせいだ。
頑張るって、何を頑張るのよ。具体的なことは何も書いていないじゃない。
トチるのはいつものことでしょ? 日菜ちゃんにそれをいじられるのはもう諦めなさい。
それにね、私が頑張ってるって彩ちゃんは言うけど、私よりもみんなの方がずっと頑張っているわよ。一番近くでみんなを見てきた私が言うんだから間違いなんてあるわけないわ。
私なんて、そんなに頑張っていない。頑張ってなんかいない。頑張ってなんていなかった。
「う、っぐ……ううぅ……っ」
でも、頑張ったねって、頑張ってるんだねって、その言葉が、認められたことが、こんなにも心に響く。こんなにも私を震わせる。
ポーチからハンカチを取り出して、涙をぬぐう。それでも次から次へと止めどなく涙は出てくるから、目元にハンカチを強く押し当てた。ああ、きっと今の私は酷い顔をしているだろうな。そう思って、少し笑った。
そして私はようやく理解する。
私の中の行動原理を。ありのままの、丸裸の心を。
私はただ、認められたかったんだ。昔の冷めた私がバカにして蔑ろにしていたひたむきな努力を、わき目も振らずに積み重ね続ける彩ちゃんたちや、世間の人間に。
私もみんなみたいになりたかった。まっすぐに、ひたむきに夢を目指す姿がとってもきれいで、キラキラしていて、私もそうなりたかったんだ。
私の価値観は彩ちゃんたちに変えられた。だから彼女たちが認められないことに腹が立った。見返してやると思った。私がこんなにも素晴らしいと思ったものを認めないものすべてを見返して、認めさせてやると。
ただそれだけだ。それだけだったんだ。
なんて下らない行動原理だ。なんて下らない自尊心だ。結局、私は私の為だけにここまでやってきたのだ。
私もきれいになりたくて、そのくせ身を汚して、パステルパレットの為だと言い続けて、そのくせ自分が認められたくて、いつまでも彩ちゃんたちには私がいないとダメだと思い続けて、そのくせこんな醜態を晒して迷惑をかけている。
なんてバカな人間だろうか。なんて下らない人間だろうか。
(でも……)
こんな愚かな白鷺千聖を、彩ちゃんは必要だと言ってくれた。私のやってきたことは無駄ではないと伝えてくれた。頑張ったんだねって、認めてくれた。
それなら下らない人間でいい。ちっぽけな自尊心を抱えた、自分本位の人間でいい。
こんな私を必要だと言ってくれる、心配してくれる、認めてくれる、大切な人たちがいる。生きる理由なんて、立ち上がる理由なんて、それだけで十分だ。
私は最後に強く目元を拭う。もう涙は止まった。私の手は、こんなすぐに止まるものを拭う為にあるわけじゃない。
そこで折り返しの電車がやってきたから、私はベンチから立ち上がる。
そういえば、とメールの着信音を思い出す。あれは、彩ちゃんと、みんなと歌った歌のカップリング曲だ。「大丈夫だよ」と私の背中をぬくもりが守ってくれる歌だった。
電車に反射する朝日が眩しい。だけど、もう逃げたいとは思わなかった。
◆
私がやるべきことは決まった。また少し迷うかもしれないけれど、でももう、きっと自分を見失うことはない。
だからまず私は、もう遅いかもしれないけれど、『営業』なんていう腐った関係を断ち切ることにした。
すんなり話が済むとは思っていない。先方は相当私のことを気に入って下さっているようであるから、圧力をかけてパステルパレットをどうにかする、ということも十分に考えられた。
だけど私はそれを打ち破ってみせる。たかが小娘と舐めた態度を、余裕に満ちた顔を、青くさせてやる。
備えあれば憂いなし、とはよく言ったものだ。私を見くびったものを、蔑んだものを、見放したものを、いつか絶対に見返してやるという気持ちは無駄ではなかった。
その気持ちがあったおかげで、私は『営業』の時に、スマートフォンの録音アプリをずっと起動させていたのだから。
その決意と武器を手に、私は呼び出された新宿の高級ホテルへ向かう。慣れたくも覚えたくもない道を歩き、いつもの部屋へ踏み込む。
「こんばんは」
「やぁ、こんばんは、千聖ちゃん」
そして女優の仮面を被って、偽りの気品をまとった挨拶をする。私のその態度が先方の琴線には触れるらしいから続けていたことだけど、それも今日で終わりだと思うと少しだけ胸がすく思いがした。
相手が嫌な笑みを浮かべてこちらへ寄って来たけど、私は一歩身を退いて、微笑みを浮かべる。
「お仕事の前に……一つ、よろしいでしょうか?」
「……なんだい」
訝しげな顔と声。もう見たくもない顔だしし聞きたくもない声だ。それが近くにあるというだけで寒気が走る。それに身を預けなければいけなかった過去に反吐が出る。
「私が通う学園の名前はご存じでいらっしゃいますか?」
その言葉を聞いて、先方は再び嫌な笑みを浮かべる。何を考えているのか知らないけれど、見当違いなことを考えているだろうことは分かった。
これからあの顔を豹変させられると思うと、暗い色をした愉悦が身体に迸る。
「当然知っているよ。キミのことだからね」
「……それは光栄です」
それが? と無言で尋ねられる。だから私はとびっきりの丁寧な口調で続ける。
「私の学校の友人の話をしましょう。音楽を始めてから知り合った友人なんですけど、この方がとても面白い方なんです」
「だから、それがどうしたと?」
急かされたから、私は簡潔に言ってあげた。その友達の名前を。
先方の顔が固まる。聞き覚えのある名前だったようだ。この名前すら知らないほど無能じゃなくてよかったと心から思う。
「確か、あなた様の会社が属している財閥も……同じ名前を冠していましたね?」
「そ、そうだが、別になんの関係も――」
「ええ、関係はないのかもしれませんね。それともう一つ」
相手の声を遮って、私は武器を取り出す。何の変哲もないスマートフォンだ。
愚かな私だけれど、下らない私だけれど、それでも白鷺千聖という人間にはまだ利用できる武器があった。それを銃弾として込めて、私は引き金を引く。
「一応これもお仕事ですから、私はあなた様とのやり取りを録音して残させていただいています。もちろん、バックアップもとってあります」
サッと、目の前にある顔が青ざめた。流石、無駄に出世を重ねているだけあって、『用件を飲まないのならあなたの地位を脅かす』ということをご理解くださったようだ。これ以上の詳細なんて語りたくないから、話が早くて助かる。
「……何が目的なのかね」
口いっぱいの苦虫を?み潰したような顔で、忌々しげな声をひねり出す。それに向けて、私はいつもの微笑みを浮かべた。
「別に、大したことじゃありません。私も事を大きくしようとは思っていませんので」
一応、この人間はパステルパレットに貢献してくれた。過程はどうあれ、結果としては。
それにあまりに事を大きくすれば私にも、みんなにも被害が及ぶ可能性があったし、この下らない『営業』の話はこのあたりが落としどころだろう。
「金輪際、私と関わらないで下さい。それだけで、あなたの今の地位を脅かすことはしません。ただ、ウチの事務所の謂れもない悪評が広まるようなことがあれば……」
「……分かった」
「ご理解いただけたようで何よりです。それでは、私はこれで」
一礼をして、最後の最後で女優の仮面を脱ぎ捨てる。
『たかが十いくつの小娘に、いいように使われた気分はどうかしら』
強がりを大いに含めたそんな嘲笑だけくれてやって、私は踵を返して部屋を後にした。
◆
終わってしまえばあっけのないことで、それからあっという間に一週間が経った。
気分はつい先日と比べればずっと良くて、たまに眠れない夜はあるけれど、それでも鉛のように重たい身体を無理矢理動かす、なんてことはなくなった。
もう汚れた私だけれど、これ以上汚れることはない。この汚れが落ちることはないかもしれないけれど、それでも彩ちゃんがこんな私を必要としてくれた。
そう思うだけで、いつまでも休んでばかりはいられないと気持ちが奮う。身体が軽くなる。
もう大丈夫だ。私はちゃんと自分を持って、もう一度歩きだせる。
ちょっとだけ無理をしているかもしれないけれど、今は気力が満ちていた。だから私は、今のうちに最後の懸念を片付けようと決心して事務所へ向かった。
久しぶりに足を踏み入れた事務所は何も変わっていなかった。
休んでいる間は日菜ちゃんに偶然会ったことと、彩ちゃんが黙ってメールを送ってきたこと以外、みんなと関りはなかった。
だからいつもの部屋にみんながいるか不安だったけれど、いないならいないでまた別の日に話せばいいか、くらいの軽い気持ちで、会議室の扉を開く。
「おはようございます」
そして挨拶をしながら室内に入ると、一斉に八つの瞳が私へ向いた。
彩ちゃん、日菜ちゃん、イヴちゃん、麻弥ちゃん。ちょうどパステルパレットの四人だけがここにいてくれた。
よかった、と安堵しながら扉を閉めて、いつも私が座る席へ、
「ち、千聖ちゃ~ん!!」
行こうとしたのだけど、瞳に大きな雫を貯めた彩ちゃんに飛びつかれた。私は慌ててそれを受け止める。
「ちょ、ちょっと彩ちゃん、どうしたの?」
「だって、だってぇ……日菜ちゃんが千聖ちゃん辞めちゃうかもって、それでメールして、でも全然返事来なくて、だからやっぱり千聖ちゃん、このままもう来ないのかなって思って……!」
言葉に詰まりながらそう話す彩ちゃんに、私は苦笑を浮かべた。
「メールの件はごめんなさい。ちょっと色々立て込んでて……それに、事務所に黙って連絡してきたんでしょ? 私からの返信があったら、そのことで彩ちゃんが注意されるかもしれないって思ったのよ」
「そうだけど、そうだけどぉ……!」
嗚咽交じりの声。私の肩を掴む掌。瞳から零れた雫。そのどれもが綺麗で温かい。私に触れてくれる全てがキラキラしていた。
「ありがとう、彩ちゃん」
だから自然と柔らかい声が出る。
「今日は、私の立て込んでたことも片付いたから……少しみんなと話をしに来たのよ」
「は、話? 話って、辞めるとかそういうのじゃないよね……?」
「違うわよ。私自身はパスパレを辞める気はないもの。だから彩ちゃん、そろそろ離れてくれるかしら?」
「あ、ご、ごめんねっ」
彩ちゃんは慌てたように私から身を離す。本当はもっとその温もりを感じていたかったけれど、それをみんなが許してくれるかを私はここへ聞きに来たのだ。
「千聖さん……」
麻弥ちゃんが心配そうな瞳を向けてくる。ああ、麻弥ちゃんには特に気苦労をかけてしまったわね。そう思って、彼女を安心させるように私は緩く微笑んだ。
「まずは……みんな、今までごめんなさい」
それからみんなの顔を見回して、私は頭を深々と下げる。
「えっ、ちょ、なんで!? なんで千聖ちゃんが謝ってるの!?」
「か、顔を上げてください、チサトさん!」
慌てたような彩ちゃんとイヴちゃんの声が頭の上から聞こえる。それがくすぐったくて少しだけ泣きそうになったけれど堪える。そして、浮かんできた涙が収まってから顔を上げた。
「私は……自分一人で勝手に色んなことを抱えて、それで勝手に潰れそうになって、お休みをいただくことになってしまった。そうやってパステルパレットにも、事務所にも迷惑をかけてしまったわ。だから、ごめんなさい」
「でも、そんな……」
「彩さん、千聖さんの話を最後まで聞きましょう」
「……うん」
彩ちゃんはなおも何か言いたげだったけれど、麻弥ちゃんに諭されて大人しく引き下がる。ありがとう、麻弥ちゃん、と、今は心の中でお礼を言う。
「今まで散々みんなに先輩風を吹かしておいて、それで自分がこうなってたら世話ないって思うわ。本当に、迷惑をかけてごめんなさい。……イヴちゃん」
「は、はいっ!?」
もう一度頭を下げてから、今度はイヴちゃんへ視線を送る。声をかけられたイヴちゃんはどうしてか直立不動になって返事をした。
「あの単独ライブの時は……その、楽屋で突き飛ばして、本当にごめんなさい。あの時は色んなことが重なってて、本当にいっぱいっぱいで……自分のことしか考えられなかった」
「い、いえ、そんなに謝らないでください! 私の方こそ、チサトさんが疲れてると知らずに抱き着いてしまって……すいませんでした」
「イヴちゃんこそ謝らないで。私はイヴちゃんに抱き着かれたり、仲良くすることが好きだもの。けどあの時は少し参ってて……それだけなの。だから……虫がいい話だって分かってるけど……また、もう一度、前みたいに私を受け入れてくれる……かしら?」
「そんなこと、聞くまでもないです! チサトさんがいないパスパレなんてパスパレじゃないですから! それよりも、私たちが至らないせいでチサトさんにはご迷惑ばかりかけていたんじゃないかと思って……」
イヴちゃんが泣きそうに顔をくしゃりとさせる。それを見て、この子たちから笑顔を奪っていたのは他でもない私だったんだと改めて実感した。
そのくせ笑ってる顔を見せて欲しいだなんて言ってるんだから……本当にどうしようもない人間ね、私は。
「イヴちゃんのことを迷惑だなんて思ったことは一度もないわ。今回のこの件に関しては私が悪かったの。だから、そんな顔はしないで? ね?」
「はい……」
「それと……こんな私でも、必要だって言ってくれてありがとう」
「チサトさん……っ」
「心配かけさせて、本当にごめんなさい」
「平気です……っ、また、ここに戻ってきてくれましたから……」
「ありがとう、イヴちゃん」
イヴちゃんに歩み寄って、少しだけ背伸びをして、彼女の柔らかい髪を撫でる。イヴちゃんは少しくすぐったそうな顔をしたあと、目の端に涙をつけたまま笑ってくれた。
「それと、日菜ちゃん」
「ん、あたしの番?」
イヴちゃんから手を離して日菜ちゃんの方へ身体を向けると、やっぱりいつもと何も変わらない様子で首を傾げられた。
「この前は変な質問をしちゃって、ごめんなさい」
「ハンバーガー食べながらのやつ? あー、いいっていいって! あれ、結局千聖ちゃんが何言いたかったのかこれっぽっちも分からなかったし!」
「……そう」
あっけらかんとした様子で明朗に笑うその顔を見て、やっぱりこの子は強いと思う。
何があっても揺らがない。自分が信じた道を進み続ける。もしかしたら私はその強さに憧れを抱いていたのかもしれない。
自分では芯を通したつもりでも、その実、ブレブレな心で行動を積み重ねてきた。その結果が今までのことだし、自分の弱さを痛感した。
「日菜ちゃんのそういうところに、私は少し救われたんだと思うわ。だから、ありがとう」
「どーいたしまして!」
「それと、この前の質問なんだけど……あれは聞かなかったことにしてくれるかしら?」
「パスパレ辞めるとか騙してるとかいうやつ?」
「そう」
「ん、りょーかいだよー」
何でもないように頷かれた。けれど、日菜ちゃんのことだから本当に何でもないことだと思っているんだろうと思った。
この子が私を許すか許さないかというのは、きっと言葉では得られない答えなんだろう。私を許さないのであれば……日菜ちゃんにとって「るんっ♪」としなくなるのなら、勝手にどこかへいなくなる。それがきっとこの子の答えだ。
「……ありがとう、日菜ちゃん」
「それは何に対してのお礼?」
「日菜ちゃんの行動に対してよ」
「なにそれ? ……まーいっか。千聖ちゃんが帰ってきて、また楽しくなりそうだし」
日菜ちゃんはそう言って、まだちょっと泣きそうな顔をしているイヴちゃんに絡みに行く。それを見送ってから、今度は彩ちゃんに視線を向けた。
「彩ちゃん」
「……うん」
「メール、本当にありがとう。あのメールがなかったら、もしかしたら私は二度とここに来ることはなかったかもしれなかったわ」
「ううん。千聖ちゃんが元気になってくれたならそれでいいよ」
「それで、その……」
緩く首を振った彩ちゃんに、私は歯切れ悪く言葉を吐き出す。
「……メールではああ言ってくれたけど、こんなことを聞くのは野暮だって思うけど……私はまだ、パステルパレットに必要……かしら?」
それを聞いて、彩ちゃんは口を尖らせた。
「千聖ちゃん、私だって怒る時は怒るんだからね?」
「……そう、よね。好きなだけ叱ってくれていいわ」
「……もー! 必要ないわけないよっ、分かるでしょ!!」
そして肩を怒らせて、勢いよく言葉を続けていく。
「聞いたよ! 千聖ちゃん、女優の仕事が大変なのに、そこでもパスパレの宣伝とかずっとしてくれてたって!!」
「……それは、誰から?」
「麻弥ちゃん! 麻弥ちゃん、すっごく心配してたんだよ!? ただでさえ千聖ちゃんは大変なのに、お世話になった人とかにパスパレのこと宣伝しに行ったり、それに単独ライブだって千聖ちゃんの人脈のおかげでとれたようなもんだって事務所のスタッフさんも言ってたし!!」
麻弥ちゃんにチラリと視線を送る。唇の前に指を立てて、ふるふると小さく首を振られた。どうやら二重にも三重にもオブラートに包んで、私がパステルパレットの売り込みをしていたと伝えたようだった。
事務所のスタッフに関しては……本当に仕事の出来ない人間だとしか思えなかった。どうしてそう簡単に口止めしたことを話してしまうのか、理解に苦しむ。
「ヤだよ、千聖ちゃんがいなくなるなんて私は絶対にヤだ! まだ何も千聖ちゃんにお返し出来てないのに……こんなに貰ってばっかりのままサヨナラなんて絶対にヤだよ……」
当の彩ちゃんは吐き出したいことを吐き出し終わって、また鼻をすすりながら声を震わせていた。その姿を見て、こうして言葉で確証を得られないとダメな私も相当出来ない人間だなと思う。
「……ごめんなさい……いいえ、ありがとう、彩ちゃん。私はみんなが必要としていてくれる限り、絶対にパスパレを辞めないわ」
「……うぇぇぇん、千聖ちゃぁぁんっ」
そこで堰が切れたのか、大粒の涙をボロボロこぼしながら、彩ちゃんは私に抱き着いてきた。それをしっかりと受け止める。
「今度は私たちが……絶対に千聖ちゃんをっ、助けるからね……絶対に、一人で何でも背負わせないから……」
「ありがとう。本当に……ありがとう、彩ちゃん」
「うん……今度は頼ってね……!」
「ええ」
頷きながら、震える彩ちゃんの頭に手をポンと置く。
そうやって私を頼りにしてくれることが、必要だと言ってくれることが、助けたいと手を差し伸べてくれることが、私にとってとても大きな糧になっている。私自身が計り知れないほど大きな助けになっている。
それを知らずに天然でこんなことを言うのだから、この子は本当にずるい。
彩ちゃんは私にないものをたくさん持っている。いつでも周りの人に朗らかな気持ちを振りまける天性の才能もその一つだ。そんな彩ちゃんがいて、それにあてられたからこそ、私はこうして変わったのだ。
それが良いことか悪いことかは知らない。けれど、当の私が良いことだと思っているのだからそれでいいだろう。
「彩ちゃん、そろそろいいかしら?」
「……うん」
おずおずと私から身を離す。すると、私の服が彩ちゃんの涙でびしょびしょになっていた。
「あ……その、ごめんね……?」
「いいえ。これくらい全然気にしてないわ。それより、少し顔を洗ってきた方がいいわよ」
「そ、そうだね。ちょっと行ってくる」
照れからか、顔を真っ赤にさせてパタパタと小走りで彩ちゃんは部屋を出て行った。それを見送ってから、私は麻弥ちゃんに顔を向けた。
「麻弥ちゃん」
「……はい」
「本当に、本当にごめんなさい!」
そして、地に頭をつける勢いで頭を下げる。
「えっ、えと、その、そんなに謝らないでくださいよ、千聖さん」
麻弥ちゃんは畏まってそんなことを言うけれど、正直なところ、彼女には何度土下座をしたって足りないくらいに申し訳がなかった。
「いいえ、こんな言葉だけの謝罪じゃ足りないわ。麻弥ちゃんにはあのこともバレてしまって、そのせいでいらない気苦労までかけさせて……それに、私のことをずっと心配してくれていたのに頬までぶってしまったし……」
「いいんですよ、もう過ぎたことですから。……それより、その、あの件は……」
麻弥ちゃんはやっぱりとても心配そうな顔を浮かべる。それを見て、私は自分の愚かさや意気地なさ、キャパシティの狭さを改めて理解する。
ああそうか、そうだった。
彼女は、私の『営業』のことも全て知った上でずっと心配してくれていたのだ。こんな私の裏のことも知って、「仲間」だと、「友達」だと言ってくれていたのだ。今さらそんなことに気付くのだから、本当に白鷺千聖は救いようのないバカな人間なんだと思う。
けれど、今そのことに気付けた。だから多分、きっと、まだ遅くはない。
「大丈夫よ。二度としないし、あちらからもさせないようにしてきたから。あんな仕事、もうごめんだわ」
「そうですか……」
ホッと息を吐き出しているけれど、麻弥ちゃんの顔はあまり浮かばれていない。恐らくだけど、私がその『営業』で受けたことを気にしているのだろう。
それこそ過ぎたこと……で済ましたいけれど、そう言って笑い話の種に出来るほど、まだ私はこのことを自分の中で処理しきれていないのは事実だ。
だけどそれもきっと時間の問題だと思う。
「そんな顔をしないで、麻弥ちゃん」
私は言葉を吐き出す。ずっと自分の中に抱えていて、ずっと願っていたくせに、一度も口にしたことがなかった言葉だ。
「私はね……みんなが笑顔でいてくれている時が一番好きなの。みんながひたむきに努力を重ねて、夢を追いかけている姿が大好きなの。それを後押ししたくて、私もそうなれたらいいなって、そう思ってちょっと無茶しちゃったのよ。……今でも私なんかがパスパレにいていいのかって悩むけど――」
「千聖さん。また彩さんに怒られますよ」
と、私の言葉を遮るように、穏やかな口調で麻弥ちゃんは言う。
「ジブンもあの時言ったじゃないですか。千聖さんは大切な仲間で、大切な友達ですから」
「……ええ、ありがとう。本当に……っ」
言葉にすれば容易いけれど、分かってもらうことは難しい。だけど、だからといって言葉にしないのなら伝わるわけがない。
どうせ無理だから、どうせダメだから……そんな諦めと、自分を少しでも良く見せたいというみっともない自尊心を抱いて、私は結局逃げ続けていただけだった。
なんて情けない人間だ。それなのにみんなはこんな私を必要だと言ってくれる。その気持ちが嬉しくて、温かな雫が瞳から零れ落ちる。
「ちょ、ち、千聖さん、泣かないでくださいよ」
「ご、ごめんなさい、ちょっと……無理、ね……」
「あー、麻弥ちゃんが千聖ちゃん泣かせてるー」
「ど、どうしたんですか、チサトさん!?」
絶対に泣かないと決めていたけど、一度零れてしまうともうどうしようもなかった。私の瞳からは涙がとめどなく溢れてくる。そんな私のところへ、日菜ちゃんとイヴちゃんもやってきた。
「あはは、千聖ちゃんを泣かせるなんて、麻弥ちゃんもやるねぇ~」
「え、いや、ジブンはそんなつもりじゃ……!」
「大丈夫ですか、チサトさん?」
「ええ、ええ……大丈夫よ……」
震えた声でそう言われても気にしてしまうだろうか。心配されてしまうだろうか。
……でも、それでいいのかもしれない。
パステルパレットのみんなは、私にとって大切な「仲間」であり、大事な「友達」だ。この温かい響きの存在に頼ることは、弱さを見せることは、決して悪いことじゃない。
「千聖ちゃん、珍しいから写真に撮ってもいい?」
「日菜さん、それは流石にマズいんじゃ……」
「別に……ぐすっ、いいわよ」
「ほんと? じゃあせっかくだしみんなで撮ろっか!」
日菜ちゃんはそう言って、イヴちゃんの手を引いて私と麻弥ちゃんの後ろに回る。その時、会議室の扉が開いた。
「……え? な、なにごと?」
そして先ほどよりもすっきりした顔の彩ちゃんが、私たちを見て呆然と立ち尽くす。状況が飲み込めず、どうしたらいいのか分からないようだ。
「彩ちゃーん、こっちこっちー」
「あ、うん」
けれど、日菜ちゃんに手招きされて、私たちのもとへ歩み寄ってきた。
「それで……えーと、どうしたの、これ?」
「記念撮影……でしょうか?」
「あ、千聖ちゃんが戻ってきてくれた記念の?」
「ううん、麻弥ちゃんが千聖ちゃんを泣かせた記念」
「えっ、千聖ちゃんを泣かせるって……麻弥ちゃん、何したの?」
「いえ、特には何も……してないはず、ですけど……」
みんながいつもと何も変わらない様子で言葉を交わし合う。その輪の中に私もいる。ただそれだけのこと。
この「それだけのこと」のために、私は払った代償は安いものではないと思う。
けれど、そんな後ろ暗い話はみんなにしないでおこう。麻弥ちゃんには申し訳ないけど、パステルパレットというアイドルバンドがなくなって、みんなに話せる日が来るまで一緒に秘密にしておいてもらおう。
どれだけ大切に思っていることでも、言葉にしなければ伝わらない。ならば大事なことは言葉にするべきだ。だけど、言葉にするべきじゃないことだって、その方がいいことだってこの世界にはある。
これはきっと後者のことだ。この先、もしも必要に駆られる時が来たのなら、その時に話せばいい。
今はただ、この温かな輪の中にいれることを――私が憧れた、私の大好きなみんなとともにいれることを、噛みしめていよう。
「それじゃあ撮るよー! はい、チーズ……っと!」
前へ伸ばされた日菜ちゃんの手にあるスマートフォン。
その画面の中には、まだ少し目の赤い彩ちゃんと、いつも通りに笑う日菜ちゃんと、楽しそうにみんなに抱き着くイヴちゃんと、少し照れたようにはにかむ麻弥ちゃんと……涙の跡を隠そうともしない、笑顔の私が映っていた。
※ ※ ※
フィクションだと冒頭で言えば何を書いてもいいと思っているのかしら。
自室で事務所から渡された台本を読み終わり、一番に思ったのはそれだった。
パタンと最後のページを閉じて、私はため息を吐き出す。それからこれを渡された時のことを脳裏に呼び起こす。
確か、パステルパレット結成一周年ちょっとの記念ドラマを事務所主体で撮るとのことで、その試作の台本だ……と言われた。そして、気になる点があれば遠慮なく言って欲しいとも言われた。
それを思い起こしてもう一度がため息が漏れる。いくら試作とはいえ、言わなければならないことが多すぎる。
私は少しうんざりした気持ちになりつつ、傍らに置いた学校用のバッグから、ペンとルーズリーフを取り出して机の上に広げる。ダメ出しのポイントが多すぎて、少しまとめないといけない。
「まず始めに……フィクションだからといって何を書いても良いわけではない……と」
何を差し置いたとしても、一番にこの件だ。
そもそも私たちはアイドルである。
アイドルにとって、いわゆる「枕営業の話」なんてタブー中のタブーだろう。少し考えれば分かりそうなものだけど、どういうつもりで事務所側はこの台本を用意したのか。
こんなドラマを収録して放送でもしようものなら、パステルパレットのイメージが悪くなるだろうことは想像に難くない。本当に何を根拠にこのテーマで大丈夫だと思ったのか。
「……ああ、多分これね……」
パラパラと台本を捲っていると、あるページが目に付いて、読んでいて気になっていた部分がもう一つあったことを思い出す。『登場人物は全員女性です』という但し書きだ。
つまり私はそういう人とそういうシーンを演じるということだ。だから大丈夫だろう、というのが事務所の判断……だと思うけれど、これにも「そういう問題じゃないでしょう」としか言えない。
ただでさえ最近はファンの方たちからそういう目で見られることが多いのに、何故それを煽るような演出にするのか。この事務所はパスパレをどういう方向で売り出したいのだろうか。甚だ謎である。
それと、多分偶然だと思うけれど、問題の解決に使った財閥のご令嬢と友達という設定もダメだ。
実際に友人と言って差し支えないご令嬢が花咲川女子学園にいるし、いくらフィクションとはいえ、世界を股に掛ける大財閥の傘下がそんなことをやっている……なんてイメージを万が一にでも視聴者に抱かせたらどうだろうか。
「間違いなく私たちの事務所は跡形もなく消える……わね。はぁ……」
ため息が止まらない。ペンも止まらない。
もう一度台本を流し読みして、おかしいと思う点をどんどん上げていく。
そんなことをしていたらルーズリーフの裏表を全段使い切った。スマートフォンの時計に目を落とすと、もう日付が変わろうかという時間だった。
気になる点や改良点を上げるよりも「これはボツですね。まったく違う話にしてください」とだけ言った方が早いことにそこで気付いて、徒労感に襲われる。
「……もう寝ましょう」
自分たちで全部やろうという試みは結構。しかし出来ないことは無理せず外注に頼んでほしい。というか、そもそも何度もドラマに出演しているからという理由だけで私にストーリーの手直しを頼む時点で色々おかしい。本当にウチの事務所は私たちをどういう方向に持っていきたいのかが分からない。
そんなことを考えてまたため息を吐き出しながら、私はベッドに潜り込んだ。
おかげで翌朝は寝不足だった。あの台本が尾を引いているのか変な夢を見た気がして、眠りが浅かった。
それでも時計は止まってくれないから、私は少し気だるい身体を起こして身支度をして、事務所に向かうために家を出た。
休日早朝の静かな街を歩き、人もまばらな駅の改札を抜ける。
プラットホームで電車を待ちながら、考えるのは台本のこと。
確かにあの台本はアイドルが演じるには色々とアウトな話ではあった。
けれど、その中に僅かばかりだけど頷ける部分がなくもなかった。それは昔の私のことだとか、みんなのおかげで良い方へ変われたとか、そういう部分の話だ。
昔の私はパステルパレットを踏み台にしか思っていなかったのは事実だ。努力は必ず報われる、夢はいつか叶うだなんて、何を寝ぼけたことを言っているのかと蔑んでいた。
それを変えたのは、やっぱり不器用で愚直でひたむきな彩ちゃんの言葉であり行動だった。
頑張り続けることしか出来ない、というようなことを彩ちゃんは言っていたけど、果たしてその「頑張り続けること」をどれほどの人間が言葉に出来るのか。ちゃんと行動に移せるのか。
口で言うだけならどうとでも言える。けれど、それを口にさえ出来ない人の方がきっと多いだろう。
私だってそんなバカなことは言えない。頑張ることなんて当たり前のことなんだから。
けど、その当たり前のことさえ口にしないのなら、実体を持たない。実体を持っていないのだから、いつだって「頑張ること」から逃げ出せるだろう。
だからやっぱり彩ちゃんはとても強いのだと思う。
辛い状況に泣いても、めげても、それでも何度だって立ち上がって、困難に向かっていって、言葉にした通り頑張り続けている。
それはあの子にしかない強さだ。
そんな彩ちゃんだからこそ、ファンのみなさんは応援してくれる。日菜ちゃんも、イヴちゃんも、麻耶ちゃんも……そして私も、あの子に引っ張られて、いつの間にか変わっていた。
私たちはそれぞれがそれぞれに、武器を持っている。時には人を傷つけるけど、時には誰かを助け、時には自分を奮い立たせる武器だ。
それが言葉というものなんだろう。
言葉は無力だと言われるかもしれないけれど、口にしなければ何も始まらない。「言葉にする」という行動がすべての始まりなんだと思う。
私たちを良い方向へと導いてくれたのは、彩ちゃんの言葉と行動だ。
ならばこの事務所主体のドラマも、焦点は私ではなく彩ちゃんに当てるべきだろう。私たちの――パステルパレットの物語の中心にはいつだって彼女がいるのだから。
そう思ったところで、電車がやってきた。私はそれに乗り込む。
車内には人が少ない。私は空いていた長椅子の角席に腰を下ろして、事務所のスタッフに伝えるべき言葉を頭の中でまとめる。
「……あら?」
その内容を大まかにまとめ終わったところで、窓の外の風景にいつもより緑が多いことに気付いた。おかしい、事務所の最寄り駅へ向かう車窓はこんなに緑豊かではなかったはずだけど……。
私はある可能性を思い浮かべつつ、長椅子から立ち上がり、乗降口の上部に設けられた行き先案内のディスプレイを見つめる。
「ああ、やっぱり……」
そこには帰りの電車の行き先でよく見る駅名が表示されていて、どうやら事務所の最寄り行きとは正反対の電車に乗っていたようだった。
「…………」
しばらくどうしようか考えて、まぁいいか、と軽く息を吐き出す。
不測の事態に備えて早めに家を出るのは当たり前だし、まだまだ時間に余裕はある。それに今日に限って言えば、おかしな台本を押しつけてきたウチの事務所が悪い。あれのせいで寝不足だし、色々と思索に耽ってしまって電車を乗り間違えたのだ。私は悪くない。
そう開き直って、扉の近くの手すりを掴む。目の前の扉の窓には、麗らかな朝日に照らされた街並みが流れていく。それが思っていたよりもずっと綺麗に見えて、なんだか得をした気持ちになった。
目的地へ一直線に進むことは最善だろうけど、世の中には急がば回れという言葉もある。
回り道や遠回りが時には最短ルートになるかもしれないし、時間が余分にかかったとしても、そこで得られたものはきっと無駄にはならない。
一年前の私が今の私の行動を見たらなんて言うだろうか、と考えて、きっと冷めた表情で叱るだろうとすぐに思い至る。
だから私は昔の私にイジワルするように、敢えてのんびりと事務所を目指すことにした。
(どこで折り返しの電車に乗ろうかしらね)
腕時計を見て、大体の電車の時間を頭の中で考える。けれど自分の電車の勘なんて一番あてにならないことにすぐ気付いて、適当に三つ先の駅で折り返そうと決める。
そうしているうちに、どんどん車窓の街並みが流れていく。
その景色から射しこんでくる心地の良い柔らかな光が私を照らして、もうすぐ春だな、なんて思った。
おわり
参考にしました
amazarashi 『それを言葉という』
https://youtu.be/YaR9gzJ8RUc
すいませんでした。
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コメント一覧 (1)
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- 2019年03月19日 23:59
- 衣装担当以外は無能なパスパレスタッフ(公式設定)
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