傘を忘れた金曜日には【その2】
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◇
とにかく時間は差し迫っていた。
俺たちは駅前広場を離れ、南側のビルが立ち並ぶ通りを抜ける。
木々に囲われた大きな公園の傍には住宅街がある。そのあたりに瀬尾の家があるらしかった。
俺は家々のガレージや駐車場に止められた車をひとつひとつ眺めた。
アウディ、レクサス、BMW、ベンツ、フォルクスワーゲン、ポルシェ……。
「真中、今日はなんで遅れた?」
いささか緊張を覚えて真中に声をかけると、彼女は平然としていた。
「ごめん。寝過ごした」
「寝過ごしたって、あのな」
……午後二時に約束したのだが。
「一時半に起きたの」
「どういう生活してるんだよ」
真中は、申し訳無さそうな、いたたまれないような顔をした。
「金曜の夜は好きなの。わたし、金曜の夜に思い切り夜更かしするのが好きなの。ああ、明日も休みだなって」
「……ふむ」
「それで、土曜の朝に寝過ごして、ああでも、明日も休みなんだな、午後はなにしようかなって思うのが好きなの」
「……それはわからんでもないけど、約束があっただろ」
「あの、せんぱい、言い訳させて。べつにね、忘れてたわけじゃないの。ただ、ベッドに入っても眠れなくて」
「ふむ」
「それでね、寝付けないとスマホいじったりしちゃうでしょ」
「はあ」
「動画とか見ちゃうでしょ」
「はあ」
「後味の悪いゲームのエンディング集みたいなのとか見ちゃうでしょ」
「いや、知らんが」
そういう趣味だったのか。
「ゲーム、好きなの?」
「……わりかし?」
首をかしげるそのときの仕草は、以前の、何を考えているかわからないときの真中と同じだった。
そこになんとなく安心する。
言いはしないが、以前と違う表情の起伏にくわえて、私服姿でいるせいで、真中が真中じゃなくなったみたいな気分でいたのだ。
「あの。隼さん……青葉さんの家って」
「あ、悪い」
少しだけ気が紛れたところでちせに言われて、俺はもう一度住所を見直す。
スマホのナビで入力してあるので、間違いがないかぎり瀬尾の家につくはずだ。
居心地でも悪いみたいに、ちせは俺たちから少し離れて歩いた。
……まあ、このままっていうのもよくないだろう。
共通の話題なんて、ふたつしかないわけだけど。
「ちせ、ましろ先輩は元気なの?」
「あ、ましろ姉さんは、元気ですよ」
まあ、あの人が元気じゃない様子というのも、あんまり想像できない。
「最近は日本のお城のプラモデルに凝ってます」
「……そう」
それは"最近の調子"という話題で出てくるべき情報なのだろうか。
「姉さん的には、岐阜城がアツいらしいです」
「あ、そうなんだ」
……そういうこと言うんだ、あの人。
「ていうか、さっき、お姉ちゃんって呼んでなかった?」
「……あ、えっと」
ちせは視線を泳がせて、戸惑った様子だった。
「……すみません」
「あ、や。謝らなくていいっていうか、べつに悪いことじゃないから」
「せんぱい、女の子いじめちゃだめだよ」
「いや、いじめてない、いじめてない」
「……ふうん」
「……なんだよ」
「せんぱいがそんなふうにうろたえてるの、初めて見たかも」
「……うろたえてない」
「うろたえてるもん。ふうん。そうなんだ」
いかにも何か言いたげに、真中はそっぽを向いた。
「うろたえてない。……そんなことはどうでもよろしい」
わざとらしい咳払いをして、俺はちせに向き直る。
「悪いとかじゃなくて。……なんか、変に気を張ってるのかと思って。べつに普段どおりで平気だよ」
「あ……はい」
ちせは恥ずかしがるみたいに肩を縮める。
最初に会ったときの雰囲気が嘘みたいに、普通の女の子みたいだ。
「あの。わたし、子供っぽいから。喋り方まで幼いと……なんだか」
「……そう?」
「はい。他の人は、気にしないのかもしれないですけど……」
ひょっとしたら、思った以上に自尊心の強い子なのかもしれない。
身勝手に、そんな印象を覚える。
「ふうん。なるほど」
続ける言葉に迷っているうちに、真中がちせを見ながら口を挟んだ。
「あの、えっと……」
「はい。……あ、ちせで、いいですよ」
「ちせさん」
「ちせでいいです」
真中は照れたみたいに唇をもごもごさせた。
「なにやってんの?」
「ううん、べつに。えっと、ちせ」
「はい」
「……そっちも敬語じゃなくていいよ。同い年だし」
「あ、うん……」
「ちせは……なんでせんぱいのこと、隼さんって呼ぶの?」
「……あ」
なぜか真中は俺の方をもの言いたげにみる。
「あの、わたしの姉が、隼さんのこと、隼くんって、いつも呼んでたので、それでわたしも、隼さんのことは、つい」
「ふうん……」
「何だよ。呼び方なんてなんでもよくないか?」
「……べつに、いいけど。仲良かったの?」
「誰と?」
「その、ましろ先輩? と」
「……さほど?」
「ふうん……」
ちせはさっきよりずっと居心地悪そうだった。
「……着いたな」
歩きながら、ナビを頼りに表札を眺めていたのが功を奏した。
瀬尾という表札が見つかった。
◇
時刻はちょうど二時三十分を回ったところだった。
場所を調べた上で余裕を持って待ち合わせをしたのが結果的にはよかった。
インターフォンを鳴らすと、はい、とすぐに返事があった。
玄関の扉が開かれ、小奇麗な格好をした痩せた女性が中から顔を出す。
「こんにちは」と彼女は笑いもせずに言う。
「こんにちは。はじめまして」と俺も言う。後ろの二人もそれに倣った。
「突然すみません。お電話した三枝という者です」
「とりあえず中にどうぞ」と彼女はさして興味もなさそうに背を向けた。
少し躊躇したが、家主の行動に従い、玄関の中へと踏み入る。
広めの玄関のすぐ向こうが廊下になっている。すぐ傍に客間が見える。
客間の壁は大きな窓になっていて、外からは見えなかったが中庭につながっている。
それを差し引いても大きな客間だった。
俺たち三人はそこに通されて、ソファに腰掛けるように勧められる。
俺たちはそれに従う。
家財は上品な焦茶色の木目のもので統一されている。全体的に落ち着いた雰囲気だ。
「ごめんなさいね、散らかってて」と彼女は言うが、散らかっているのはせいぜいテーブルの上の新聞くらいだった。
「お茶がいい? コーヒーにする?」
「あ、おかまいなく……」
「コーヒーは嫌い?」
「いえ……」
二人はどうなのだろう、と思いつつ見るが、特に何も言わないようだった。
緊張しているのかもしれない。
「……すみません、突然電話して、訪ねたりして」
「別に。問題があったら断ってるから」
言いながら彼女はカウンターの向こうに入り、コーヒーの準備を始めた。
「迷惑じゃありませんでしたか?」
「言ったわ。問題があったら断ってる」
怜悧な人だという印象を受けた。こう言ってはなんだが、瀬尾の母親とは思えないくらいに。
準備を終えると、彼女は俺たち三人の前に氷の入ったコーヒーを並べてくれた。
「ありがとうございます」と頭を下げる。どうやら俺が代表して話をする流れになっているらしい。
「いいえ。……青葉の、同級生って話だったけど」
「ええと、はい。クラスは違うんですけど、文芸部で一緒でした。俺が副部長で、青葉さんが部長を」
「文芸部?」
「……ご存知なかったですか?」
「あの子、あんまり話さないから、そういうこと。それも、部長」
「はい」
本当に?
それはなんだか……意外だ。瀬尾がそういうやつだと、俺は考えたこともなかった。
「……あの、青葉さん、ご自宅も帰ってないって聞いたんですが、本当なんですか?」
「うん。そう。帰ってきてない」
俺はそれ以上どう質問を続けたものか迷った。
何か伝えられていないか? それを聞きたいのはむしろ向こうのほうかもしれない。
捜索願が出されたって話だ。
両親に聞いてどうなる?
俺たちは何を聞くためにここに来たんだ?
「……率直に言います。俺は、青葉さんがいなくなった日に、彼女と口論をしたんです」
「……口論?」
「はい。というと、正確じゃないかもしれない。俺の行為……悪意があったわけじゃない。でも、それに彼女は憤った様子だった。
すごく、傷ついた様子でした。それで彼女はいなくなってしまって、家にも帰ってないという噂が流れてきた」
「……」
「彼女は自分の意思で、どこかに行ってしまったんだと、俺は思っています」
「ふうん。根拠は?」
俺は、ポケットの中に入れておいた、瀬尾からの手紙を取り出した。
彼女のメモの、最初の一枚だ。
「青葉さんがいなくなったあとに、ボルヘスの『伝奇集』が俺の家のポストに入っていました」
図書室にあった本に挟まっていた、と言ってしまうと、不都合が生じるので言い換えた。
事実としては似たようなものだ。
「そこに挟まっていたのがこのメモです。……彼女は、少なくとも、自分の意思でどこかにとどまっているはずです」
「そのメモを信じるならね」
「字でわかりませんか」
彼女は返事をしなかった。
「……湖畔、ね」
「……心当たり、ありませんか。ご親戚のところとか」
「ないわ」と彼女は言う。
「あの子に親戚なんていないもの」
「……」
その言葉の意味がわからずに、俺はただ戸惑うしかなかった。
「と、言うと」
「……」
彼女はテーブルの上の灰皿を引き寄せると、煙草の箱から一本取り出してライターで火をつ