534 名前:癒されたい名無しさん[] 投稿日:2006/02/26(日) 22:07:56 ID:YQ7GefbE [1/6]
私の話を聞いてください。
2年前父方の祖母が亡くなりました。
祖母には5人の息子と3人の娘がいました。そのうちの長男が私の父です。
父は温和で争いごとを嫌い外見は弱弱しい感じです。年々歳をとり、今では孫もでき立派なおじいちゃんです。

祖母は年々弱っていて入退院を繰り返すほどでした。
退院したとしても家の中で寝ているばかりで一緒に暮らしているのに祖父が面倒を見るわけでもなく大抵の時間を一人
ですごしていたそうです。

私は昔から祖父、祖母ともに会う機会がありませんでした。
というのは祖父が気難しい人で息子、娘との仲が悪く家に行くこともなく育てられていたからです。
祖父は頑固で孤独な人でした。祖母が亡くなるまで2回しか会ったことがありませんでした。
ただ覚えているのは仕事一筋のおじいちゃんということだけです。顔もすぐに思い出せないくらししか記憶にないのです。






535 名前:癒されたい名無しさん[] 投稿日:2006/02/26(日) 22:09:06 ID:YQ7GefbE [2/6]
祖母の体調は思わしくなく入院をするたび「長男の嫁だから・・・」と母が看護にあたっていました。
私は何回かそれに付き添い、祖母の変わりように毎回愕然とするものでした。
お見舞いに行くと必ず「大きくなったねぇ」と、か細い声でつぶやくのです。
祖母なりの配慮だったのでしょうか、行くたびに千円札を握り締め「少ないけどこれで何か買ってね」
と笑顔で渡すのです。私は毎回行くたびお金をもらうなんて悪いと思ってお見舞いに行く回数を
段々減らしていきました。それから次に会うまで3年の月日が流れました。
その間に祖母は入院生活を過ごしたり、家に戻ったりいつも一人でした。


536 名前:癒されたい名無しさん[] 投稿日:2006/02/26(日) 22:09:40 ID:YQ7GefbE [3/6]
祖母の体調はますます悪くなる一方で、もう家に戻れない状況になったとき私は長い間しなかったお見舞いに行きました。
ICUに入り変わり果てた祖母の姿は無惨でした。チューブが何本も体に入っていて酸素マスクや心電図が祖母のまわりを
取り巻いていたのです。祖母はやせ細り、腕には何本も打たれた注射や点滴の跡で青紫の斑点がいくつもありました。
もう自分では話す力もなく、医者からは峠が近いというのを聞かされました。
久しぶりに見た祖母をそばに私は何をすることもできませんでした。できたのは手を握るくらいですが反応もありませんでした。
あいかわらず祖父、兄弟は見舞いに来るわけでもなく看護は父、母が行っていました。
祖母はICUから出れるまで奇跡的に回復し、自分で話すことが少しできるようになりました。
その頃私は医療系の専門学校に入学してちょうど1年がたつ頃でした。
私の進学をその日に知った祖母は「学校・・・頑張ってね」と弱い声で言ってくれました。私は「うん、頑張る」と握手をして祖母に誓いました。



537 名前:癒されたい名無しさん[] 投稿日:2006/02/26(日) 22:10:19 ID:YQ7GefbE [4/6]
容態が急変したのは次の日の夜でした。
私は母とともに急いで病院に行きました。
目に飛び込んできたのは祖母の周りに今まで一度も現れなかった兄弟たちがいました。
「おじいさんより長生きするんちゃうのー?」と笑いながら耳元でささやいたり祖母のベッド端に
腰掛けたり財産分けの話が生死をさまよっている祖母の周りで飛び交っていました。
・・・愕然としました。よくこんなときに平気な顔で笑ったりなんかして・・・
私は怒りを覚えながらも祖母のそばに行き手を握り締め「おばあちゃん」と声をかけるのです。
声をかけるたび心電図の値がよくなるので何度も声をかけました。
祖父もようやくかけつけるも祖母のそばに行くわけでもなくただじっと遠くで見ているだけでした。
状態が一応安定したので次の日に学校がある私と仕事のある兄は帰るように促されました。
私も兄も帰りたくなかったのですが仕方なく帰るしかありませんでした。
ただただ、祖母が無事でありますように・・・と願うばかりでした。




538 名前:癒されたい名無しさん[] 投稿日:2006/02/26(日) 22:11:20 ID:YQ7GefbE [5/6]
家に帰ってすぐ電話がありました。
「亡くなったよ」という知らせ。
私たちが帰ってすぐ亡くなったそうです。あまりに悲しい最期でした。
葬儀では悲しくも財産の話や祖父に急に優しい態度をとる兄弟たち・・・全てが重くのしかかってきて
母は連日の疲労で倒れてしまいました。やはり長男の嫁という考えがあり、ずっと見守ってきたのは私の母だけでした。
棺おけで安らかに眠る祖母の顔は優しく、苦しいときのあの顔はありませんでした。
私はずっと泣いていました。あまり祖母との交流はなかったにもかかわらず会ったといえばお見舞いだけですが、行くたびの
祖母の嬉しそうな顔が忘れられなくて。祖母は小柄で笑顔がとてもかわいくて優しかった。大好きでした。

遺品の整理で家に行ったとき祖父は祖母の物を全て「ゴミ」としていました。
もう祖母の物はありません。高価なものや価値のあるものは全て女の兄弟が勝手に持って帰ったそうです。
私は祖母の存在がなくなってしまうのが怖くてゴミ袋の中からガラスのキレイな箸まめを見つけました。
祖母が使うはずだった箸まめを私は祖父に見つからないようこっそり持って帰ってきました。



539 名前:癒されたい名無しさん[] 投稿日:2006/02/26(日) 22:11:59 ID:YQ7GefbE [6/6]
祖母がなくなって1年、私は学校のことで悩んでいました。
毎日の実習が辛く辞めてしまいたいと思うようになりました。友達には相談しましたがやはり私は我慢できませんでした。
そんなときいつも思うのが祖母に声をかけてもらった言葉と箸まめ。祖母を裏切るようでなかなか決心がつきませんでした。
もうボロボロになり、私は結局学校を辞めてしまいました。
学校を辞めてからすっきりはしたものの祖母との約束を果たせなかった自分が情けないと感じるようになりました。
お墓に幾たび「ごめんね」と謝っている自分がいました。

現在、祖父が体調を崩しており、家で限られた人数の兄弟が交代で介護しています。
私は祖母に孫として何もできなかったことを後悔しています。
きっと何かできたはずです。
今介護職員として働いている私はちょくちょく顔を出し祖父の介護をしています。
頑固なため父の介護には拒否しますがやはり孫だからか私には素直に応じてくれるときがあります。
私の姉の娘、息子が家に来たときにはしゃべりっぱなしだったそうです。

老人は一人のときとてもさびしそうな顔をします。
そんなとき自分には何ができるのか考えてください。
少し話すことだけでも嬉しいのですから。きっと笑顔になります。


長文すみませんでした。
これを書いてるとき思い出して涙が止まりませんでした。
でも箸まめをみると元気になれます。
ありがとうおばあちゃん。

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