渋谷暴動事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%8B%E8%B0%B7%E6%9A%B4%E5%8B%95%E4%BA%8B%E4%BB%B61971年11月10日、沖縄返還協定批准阻止のゼネラル・ストライキが沖縄県で行われ、琉球警察の巡査部長が焼死するなど激しい闘争に発展した(『11.10ゼネスト』または『沖縄ゼネスト』)。これに呼応して、渋谷・四谷などで行なわれた「沖縄返還協定批准阻止闘争」の中で、革命的共産主義者同盟全国委員会(中核派)は「渋谷に大暴動を」と武装蜂起を呼びかけていた[1]。
11月14日、渋谷では全国から応援派遣された機動隊員が大盾を構えて厳戒態勢をとっていたが、中核派の学生らはスーツ姿で群衆に紛れこんでこれをかわし[1]、突如白ヘルメットを被って機動隊や渋谷駅前派出所を火炎瓶などで襲撃した。
神山派出所周辺では関東管区機動隊新潟中央小隊(新潟中央警察署)27人が警備に当たっていたが、中核派の学生ら約150人が一斉に火炎瓶を投げてこれに襲いかかった。襲撃を受けた小隊は火炎瓶の炎を浴びた隊員が転げまわり、その火を同僚が消火器でようやく消し止めるという状態であり、一時後退を余儀なくされた。ガス筒発射器(ガス銃)を装備した隊員2人が小隊の最後尾に留まり、後退を支援しようとした。うち1人は所持していた3発のガス弾を撃ち尽くしてから脇道を走って逃れることができたが、もう1人のA巡査(21歳)は「殺せ! 殺せ!」と叫ぶ中核派に取り囲まれ、鉄パイプで乱打されて失神状態に陥った。中核派はさらにA巡査にガソリンをかけた上で、「投げろ!」という号令を合図に火炎瓶を次々と投擲した。立ち上がった火柱の高さは、5メートルにもなったという[1]。
体勢を立て直した隊員らが戻ると、A巡査は真っ黒になってうずくまっていた。顔の識別が難しいほどの全身火傷を負ったA巡査は、新潟県から父と兄が駆け付けてきた数時間後の翌15日21時25分、死亡が確認された[1]。他に新潟県警の警官3人が重傷を負った[2]。
事件後、中核派は機関紙で「遂にやった! 憎むべきガス銃の射手をせん滅したのだ!」と誇示した[1][3]。
やりきれない思いを抱くA巡査の兄は、弔問に訪れた後藤田正晴警察庁長官に対し「誰が悪かったのでしょう」「弟を虫けらのように扱った学生は許せない。でも、学生の暴徒化は予想できたはず。どこかで折り合いをつけられなかったのか」とたずねた[1]。A巡査は殉職後、2階級特進し警部補となった(以降、A警部補と表記)。
死刑囚ならそうだが無期懲役なら労働の義務はあるぞ、ジジイだからしょぼいかも知れんが