【バンドリ】短編【その2】
- 2019年07月24日 20:09
- SS、BanG Dream!
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【バンドリ】短編【その2】
風邪をひいた時の夢っていつにも増して支離滅裂でワケ分からないよね、という話でしたごめんなさい。
山吹沙綾「動物嫌われ」
――有咲の蔵――
山吹沙綾「……えぇと、なに?」
戸山香澄「だからね、巴ちゃんに聞いたんだ! さーや、動物に好かれたいって!」
沙綾「ああうん、この前そんなこと言ったね。で……その耳は?」
香澄「猫耳だよ!」ネコミミカスミーン
沙綾(いつもの髪型プラス猫耳……耳がいっぱいあるみたいに見えるなぁ)
香澄「さぁ、さーや!」
沙綾「いや、さぁ、って言われても……どうしたら?」
香澄「えっ、動物に好かれたいんだよね?」
沙綾「うん」
香澄「じゃあ、どうぞ!」
沙綾「……いや、なにが?」
香澄「えっ?」
沙綾「それ私のセリフなんだけど」
香澄「動物に好かれたいんだよね?」
沙綾「うん」
香澄「じゃあ、はい!」
沙綾「いや、えぇと……」
香澄「さーや、猫嫌いだっけ?」
沙綾「ううん、好きだけど」
香澄「なら問題ないよね?」
沙綾「…………」
沙綾(えーっと、これはアレかな……動物嫌われだから、猫耳付けた香澄で慣れるとかそういう感じの……)
香澄「にゃーん♪」
沙綾(ああやっぱりそれっぽいなぁ。いやでも……えぇ? 動物の耳付けた友達を可愛がるってどうなのそれ、絵的に?)
香澄「にゃーん?」
沙綾(うーん、でも純粋な厚意だし、無下に出来ない)
香澄「にゃーにゃー?」
沙綾「ああうん、分かったよ。ありがとね、香澄」
香澄「にゃ!」
沙綾「えーっと、じゃあ……おいで?」
香澄「にゃー♪」タッ
沙綾「うわーすぐ来た」
香澄「にゃん♪」スリスリ
沙綾「あーはいはい、いいこいいこ」ナデナデ
香澄「にゃ~……」ゴロゴロ
沙綾(……いや、懐いてくれるのは嬉しいけど、どう見ても香澄だしなぁ)
沙綾(猫じゃないし……そりゃ可愛いけど……これは猫じゃない)
香澄「にゃおん♪」
沙綾(膝に頭乗っけてるけど、香澄を膝枕ってよくやるし……)
香澄「にゃーにゃー?」
沙綾「はいはい、頭撫でればいいのかな?」ナデナデ
香澄「にゃーっ♪」ゴロゴロ
沙綾(……まぁいっか。可愛いし)
このあと滅茶苦茶にゃーにゃーした。
――後日 有咲の蔵――
沙綾「……え?」
花園たえ「香澄から聞いたよ」
沙綾「何を……って、聞くまでもないかぁ」
たえ「?」ウサミミオタエー
沙綾(首を傾げた拍子にうさ耳が揺れてる……)
たえ「さぁどうぞ、沙綾」
沙綾(……おたえも100%優しさだもんなぁ。断りづらい)
沙綾「えぇと、それじゃあ……おいで?」
たえ「ぴょんぴょん」ピョンピョン
沙綾(本当にうさぎっぽくジャンプしてる……)
たえ「あ、間違えた。ぷーぷー」
沙綾「え、うさぎってそういう風に鳴くの?」
たえ「ぷー」
沙綾「……まぁ、うさぎのことだし、おたえがそう鳴くならそうなんだろうなぁ」
たえ「ぷー?」
沙綾「おたえはうさぎに詳しいなーって」ナデナデ
たえ「ぷぅぷぅ♪」スリスリ
沙綾(……なんか、おたえがこうやって甘えてくるのって珍しいから……ちょっと変な気持ちになりそう)
たえ「?」キョトン
沙綾「ううん、なんでもないよ」
たえ「ぷー」
沙綾「……おやつ食べる?」
たえ「ぷー!」ピョンピョン
沙綾「うわーすっごい嬉しそう。えぇと……じゃあこれ、巴がくれたジャーキー。はい、あーん」
たえ「ぷー♪」モグモグ
沙綾(友達が床に跪いて、自分の手から差し出されたジャーキーを頬張ってる……)
沙綾「これアウトな絵面じゃないかな?」
たえ「ぷー?」
沙綾「……なんでもない」
沙綾(まぁ……可愛いからいいのかな)
このあと滅茶苦茶ぴょんぴょんした。
――後日 有咲の蔵――
沙綾「…………」
牛込りみ「え、えっとね? 香澄ちゃんとおたえちゃんに聞いて……」
沙綾「いや、なんていうかもう慣れたよ……」
りみ「そ、そう?」
沙綾「りみりんは……牛、かなぁ?」
りみ「うん。牛さんの耳とツノ、ひまりちゃんが貸してくれたんだ。あと、この鈴付きの首輪も」ウシミミリミリンクビワツキ
沙綾「なんでひまりはそんなものを持ってるんだろうなー」
沙綾(それに牛込だから牛って……安直過ぎないかなぁ)
りみ「えへへ、牛込だから牛がいいよって、素敵なアイデアだよね」
沙綾「……そう言われちゃったら何も言えないよ」
りみ「それじゃあどうぞ、沙綾ちゃん」
沙綾「どうぞって言われてもね」
りみ「牛、嫌い?」
沙綾「なんだろう、動物がどうこうじゃなくて食べ物の話されてる気分だよ」
りみ「え、私、沙綾ちゃんに食べられちゃうの……?」
沙綾「食べないよ」
りみ「よかったぁ。沙綾ちゃんが満足できるように頑張るね?」
沙綾「あーうん、ありがと?」
りみ「それじゃあ……あ、そっか。動物が人間の言葉喋ったらダメだよね」
沙綾「別にそこまで拘らなくても」
りみ「も、もーもー?」チラ
沙綾「…………」
沙綾(マズイ、上目遣いで少し照れながらもーもー言うりみりんが思った以上にかわいい)
りみ「もーもー」
沙綾「えぇっと、その厚意をフイには出来ないし……こっちおいで?」
りみ「もーっ」トテトテ
沙綾「…………」
沙綾(うわー嬉しそうにこっち来た。かわいいなぁ)
りみ「もー?」キョトン
沙綾「あ、ううん。牛ってどうやって撫でるんだろって思って」
りみ「もー……もー!」グイ
沙綾「え、私の肩に頭を押し付けて……頭でいいのかな」
りみ「もー」
沙綾「それじゃあ……いいこいいこ?」ナデナデ
りみ「もー♪」
沙綾「……かわいい」
沙綾(あーなんだろうこれ。牛とか動物とか関係なくすごく癒される……)
このあと滅茶苦茶もーもーした。
――後日 有咲の蔵――
沙綾「いや……まぁ次は有咲なんじゃないかなーとは思ってたよ」
市ヶ谷有咲「……なんだよ。私じゃ不満かよ」
沙綾「あ、ううん、不満とかそういうのじゃなくて……」チラ
有咲「なんだよさっきから意味深にチラチラ見てきて」ワンダフルイヤーアリサー
沙綾(まさか去年の戌年の衣装着てくるとは思わなかったなー……)
沙綾「えーっと、気合入ってるね?」
有咲「べっ、別に気合とか入れてねーし。ただ、どうせ去年着たやつだしこれなら恥ずかしくないかって思っただけで……」
沙綾「そっかそっか」
有咲「ったく、別に沙綾に撫でてほしいとか遊んでほしいとかこれっぽっちも思ってねーからな」
沙綾(そんなこと聞いてないんだけどなぁ。でも、なんか犬の格好した有咲見てると……なんだろう、この……)
有咲「それじゃあ、ほら」
沙綾「ほらって?」
有咲「そりゃ、アレだよアレ……」
沙綾「ハッキリ言わないと分かんないよ?」
有咲「うー……」
沙綾(唸ってる……本当に犬みたい。あーマズイ、なんかもう……)
沙綾「イジワルしたくなるなー」ボソ
有咲「……は?」
沙綾「あ、聞こえてた?」
有咲「え、いや」
沙綾「なんだろうねー、なんでだろうねー。有咲がワンちゃんのカッコしてると……ねぇ?」ジリジリ
有咲「な、なんでそんなジリジリ近付いてくんだよ!?」
沙綾「こら。ワンちゃんは人の言葉をしゃべらないよ?」
有咲「う……」
沙綾「香澄もおたえもりみりんもみんな動物になりきってたよ?」
有咲「わ、分かったよ……わん」
沙綾「よーしよーし、いい子だね。それじゃあこっちに……」
有咲「わ、わんわん!」ジリジリ
沙綾「どうして後ずさるのかな?」
有咲「うー……わん!」
沙綾「でも……なんだかその反応、本当に動物を相手にしてるみたいで……ふふ」
有咲「わぅ!?」
沙綾「大丈夫だよー、怖くないよー……ふふふ」
有咲「わうわう……」フルフル
沙綾「どうしたのかな、そんなに首を横に振って?」
有咲「わぅー……」チラ
沙綾「今日は香澄たち、商店街に用があって遅くなるって言ってたよ? だから蔵の入り口を見ても仕方ないと思うな」
有咲「……!」ダッ
沙綾「逃がさないよ?」ガシ
有咲「きゃうん!?」
沙綾「ふふ、どうして逃げるのかな? 大丈夫だよ、怖くないよ? ちょっと可愛がるだけだからねー?」ナデクリナデクリ
有咲「わぅっ」ビクン
沙綾「アリサちゃんはどこをどうされるのがいいのかなー? ここかなぁ、それともこっちかなぁー?」ワシャワシャ
有咲「!? わんわんわん!?」ジタバタ
沙綾「こらこら、暴れないの。でもこれくらいやんちゃな方が可愛いなぁ……ふふ、ふふふふ……」
有咲「きゃう――んっ!!」
―2時間後―
香澄「遅くなってごめーん!」
りみ「思ったより商店街の人と話が長くなっちゃって……」
たえ「ごめんね」
沙綾「ううん、大丈夫だよ」
たえ「そっか、よかった」
香澄「あれ、有咲?」
有咲「うぅ……」グッタリ
りみ「ど、どうしたの、隅っこの方で……?」
たえ「あ、去年着た犬の衣装だ」
有咲「もう……お嫁にいけない……」
沙綾「いやー、ちょっと可愛がりすぎちゃったかな?」
有咲「ちょっとじゃねーよ!! 2時間撫でくり回され続けてちょっとってどんな判断だよ!!」
沙綾「あーごめんごめん」
有咲「ごめんで済めば警察はいらねーんだよ! つーか沙綾、お前が動物に嫌われる理由はぜってーそれだからな!!」
沙綾「え、それって?」
有咲「無自覚かよ!? お前、動物目線から見たら相当怖いからな!? そういうの絶対動物は分かってるからな!?」
沙綾「そうかなぁ……」
香澄「え、でもさーや、私の時は膝枕とかしてくれてすっごく優しくしてくれたよ」
たえ「私もジャーキー食べさせてくれた。沙綾、優しい」
りみ「わ、私も膝の上で甘えさせてくれたよ?」
有咲「はぁ? じゃあなんで私だけ……あんな……」
沙綾「いや、なんていうか……可愛くてつい」
有咲「かっ、可愛いって……!?」
沙綾「どうしてかな。やんちゃというかわんぱくというか……そっけないほど可愛がりたくなっちゃうんだよね」
たえ「有咲にどんな風にしたの?」
沙綾「えーっとね、こうやって抱き寄せて」グイッ
有咲「ちょっ」
沙綾「こう、色んなところをわしゃわしゃーって」ナデクリナデクリ
有咲「も、もうやめてくれ!」
沙綾「こーら。ワンちゃんが喋る時はどうするんだっけ?」
有咲「わ、わんわん!!」
沙綾「よしよし、いいこだねー」ワシャワシャワシャ
りみ「か、過激すぎないかな……?」
香澄「有咲ってすごいなぁ。さーやにあんなに撫でくり回されてる」
たえ「もうすっかり調教済みだね」
有咲「お前ら見てないで助け……!」
沙綾「アリサちゃーん?」
有咲「わ、わお――んっ!!」
このあと滅茶苦茶わんわんさせられた。
おわり
いつもイベストを読むのが遅くなります。今回は早く読もうとか思っているうちに一週間近くが過ぎていて、読んだら読んだでさーやちゃん可愛すぎてこんなことになりました。ごめんなさい。
北沢はぐみ「オペレーション・コロッケ」
北沢はぐみは頭を悩ませていた。
彼女は勉強が苦手であり、考えることも苦手だ。それだというのに、ふと気が付けば同じバンドに所属している奥沢美咲のことを考えてしまっている。
これはどうしたことだろうか。
どうして登下校の時と授業中とソフトボールしてる時と部活してる時とご飯食べている時とお風呂入ってる時とお布団でおさるを抱っこしてる時にみーくんのことを考えちゃうんだろう。
彼女はここ三日間そのことに頭を悩ませ続けていた。それでも答えが出そうにもなかった。繰り返すが、はぐみは考えることが苦手だったからだ。
なので、彼女はこう思った。呟いた。
「そうだ、みーくんに聞いてみよう」
言葉にしてみれば簡単なことだった。美咲のことを考えて悩むのだから美咲に話を聞いてみればいい。実に単純なことだ。
こんなことで悩むなんて、やっぱりはぐみは考えるの苦手だなぁ。
そんなことを思いながら、彼女は授業の合間の休み時間に二つ隣のクラスまで足を運び、扉から元気よく声をかけた。
「おーい、みーくーん!!」
その声に教室中から視線が集まるけれど、はぐみはまったく意に介さなかった。どちらかというと呼ばれた美咲の方が意に介した。
羊毛フェルトをなんとなく弄っていた彼女は、「はぁー」とはぐみの耳まで届きそうなくらい大きなため息を吐き出して、面倒そうに扉の方へ顔を動かす。
「どしたのーはぐみ」
それからこれまた面倒そうにはぐみを手招き、面倒そうに言葉を口を開く。その姿がはぐみの中のよく分からない琴線に触れて少し嬉しくなった。
「えっとね……あれ、なんだっけ?」
「あたしにそう言われても分かんないってば」
呆れたような言葉。それにまたなんだか嬉しくなるはぐみ。しかし嬉しがってる場合じゃないのは流石に彼女にも分かっていた。首を傾げて「うーん」と考えを巡らせて、ここに来た用件を思い出した。
「そうだ! あのねあのね、みーくん!」
「はいはい、どうしたのさ」
元気いっぱいに尋ねるはぐみを手でたしなめつつ、美咲は彼女の声に耳を傾ける。
身振り手振りで修飾したはぐみの話はあっちへこっちへ寄り道をした。しかしそれでも急かすこともなく美咲はただ話に耳を傾けてくれる。はぐみはますます嬉しくなって、どんどん話が脱線していった。
そんなことをやっているうちに休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。
「あれ、もうこんな時間?」
「あーうん、そうみたいだね」
「そっかー。楽しいと時間ってあっという間に過ぎるね。話聞いてくれてありがと、みーくん! それじゃあね!」
「え、あの、はぐみさーん……?」
美咲の何か言いたげな顔が目に映ったけれど、はぐみは手をぶんぶん振って1-Cの教室を後にする。残された美咲は「……結局、何の話だったんだろ」と呟いたが、当のはぐみも元々するはずだった話の内容をすっかり忘れていた。
(やっぱりみーくんとお話するの、楽しいなぁ~)
めんどくさそうにしつつも絶対に自分の相手をしてくれる美咲の姿が嬉しくて、はぐみは花マル笑顔で自分の教室へスキップしていくのだった。
◆
「あ、そうだ!」とはぐみが美咲にするはずだった話の内容を思い出したのは、家に帰って店番を終えて晩御飯を食べ終えて自室でベースを弾いている時だった。
どうしてすっかり忘れていたのだろうか。
そうだ、はぐみはみーくんと楽しくお喋りするためじゃなくて、はぐみの悩みを聞いてもらうためにお喋りをしにいったんだった。
今さらそう思うけれど、それでも彼女は「まぁいっか」と呟いた。美咲とはいつでも会えるし、次に会った時に話を聞いてもらえばいい……そう決めた。
「……あれ?」
しかしそう決めたものの、よくよく考えてみると、はぐみはいつも美咲にいろんなものを貰ってばかりのような気がしてしまった。
ベッドに腰かけてベースを膝に抱えたまま、美咲にしてもらったことを数えてみる。
まずハロハピでこころんたちと曲を作ってくれること、それからいつもライブの段取りをしてくれること、ミッシェルに伝えたいことをいつも聞いてくれること、運動会で一番にはぐみのことを励ましに来てくれたこと、普段もそうだしスキーの時とかも話を聞いてくれるし一緒に遊んでくれること……
記憶を思い起こしては指を折っていると、気付いたら両手両足の指では足りなくなってしまった。
はぐみは戦慄した。気付かないうちにみーくんからこんなにいっぱい貰っていたなんて、と。
父がよく口にしている言葉が脳裏に思い浮かぶ。人生は持ちつ持たれつ、困ったときはお互い様。優しく在れ、義理堅く、恩は返せ、借りは作るな……などなど。
「このままじゃダメだよ!」
はぐみはギュっと握りこぶしを作って立ち上がった。
気付かないうちに貰ってばかりだったのに今日ここで気付けた、それなら今度は自分が美咲にいろんなものをあげる番だ。そう意気込んだ。
でも何をあげればみーくんは喜んでくれるかな。
しばらくそう考えていたらだんだん眠くなってきた。チラリと時計を見やると午後十時過ぎで、良い子はもう眠る時間だった。
「よし、とりあえず寝よー!」
ベースを片付けてから部屋の明かりをおとし、おさるを抱っこしてベッドに潜り込む。すぐに心地の良い睡魔がやってきた。
最近はすっごく頭を使ってるから、なんだかよく眠れるなぁ。
そう思いながら、意識はすぐに夢の世界に飛び込む。今晩の夢は美咲がなんだか楽しそうに笑っている夢で、はぐみも嬉しくなって笑った。
◆
翌日の放課後。
昨晩自室で決心してから美咲に何をあげればいいかをずっと考えていたけれど、その答えは一向に出なかった。
(はぐみ、考えるの苦手だからなぁ……)
にわかに騒がしくなる教室でなおもうんうん唸っていたけれど、やっぱり答えは出そうにない。少しだけ心がモヤモヤしてきた。
だからとりあえず身体を動かそうと決めた。考えても分からないのはしょうがないからとりあえず運動しよう、という精神だった。
そうと決めたら一直線、早速はぐみは教室を飛び出し、勢いに任せて校門も駆け抜ける。その時ふと名案が頭に思い浮かんだ。
(そうだ、こういう時は物知りな薫くんに相談してみよう)
羽丘女子学園まで走れば、身体も動かせて、もしかしたら自分の悩みも解決できるかもしれない。まさに一石二鳥だ。
ものすごく効率のいい名案にはぐみは嬉しくなって、軽い足取りで見慣れた街を駆けていく。するとすぐに目的の羽丘女子学園に到着して、今日は校門にある雲梯で遊ぶのは我慢して、勝手知ったる他校の演劇部の部室を目指した。
「ああはぐみ……その小さな胸の中に儚い悩みを抱えていたんだね……」
そして部室に到着してすぐに目に付いた瀬田薫に悩み事を打ち明けると、彼女はいつもの芝居がかった身振りを交えながらはぐみの手を取った。
「そうなんだ。みーくんには……ううん、みーくんだけじゃなくて、薫くんにもこころんにもかのちゃん先輩にもたくさん貰ってばっかりだから、何かお返しがしたいんだ。でも何を返せばいいのかなって考えちゃうと全然分かんなくて……」
「そうか……」
健気なはぐみの言葉から発せられる儚さに全身を強く射抜かれてどうにかなってしまいそうな薫だが、今は自分を頼る子猫ちゃんを案ずるのが先だった。
儚さに震える手をそっとはぐみから離し、自分の顎に当てて、彼女は考える。
私もハローハッピーワールドのみんなには貰ってばかりで、はぐみにだって特別なものをあげた覚えはないが……いや、そうか。私の罪な美しさが、ただそこに存在するというだけでみんなに光を与えてしまっているのだ。ああ、なんということだ……つまりそういうことだね……。
「分かったよ、はぐみ。君が何をお返しすべきかが」
考えた末に辿り着いた答えを迷子の子猫ちゃんに伝えるべく、薫はいつもよりも柔らかい口調で言葉を紡ぎだす。
「ほんと!?」
「ああ。考えてみれば実に簡単な話さ」
ふふ、とキザな笑みを浮かべた薫の姿を見て、はぐみは『簡単に分かるなんてやっぱり薫くんはすごいなー!』とウキウキしながら言葉の続きを待つ。
「いいかい、はぐみ。特別なものなんて何もいらないんだ」
「いらない?」
「そう。例えば、私は自分から何か特別なものをみんなにあげようと思ったことはあまりないんだ。けれど、はぐみは私からもたくさん貰ってばかりだと言ったろう?」
「うん! 困った時も楽しい時も、薫くんからはいろんなものを貰ってるよ!」
「ふふ、つまりそういうことだよ。私は何も特別なことをしていない。そう思っていても、はぐみは私からいろんなものを貰ったと言ってくれる。なら、それでいいのさ」
「うーん……?」
「少し分かりづらかったかい? では……そうだね。はぐみは今、美咲だけじゃなく私にもお返しをしたいと言ってくれたね?」
「うん」
「私からすれば、はぐみのその気持ちこそが特別なお返しなんだ。君が私のことを想って、何かをしたいと考えていてくれる。その儚い気持ちこそが私にとっての特別なんだ」
「な、なるほど……!」
「分かったかい?」
「うん、なんとなく!」
「それならよかった。ニーチェもこう言っているからね。『樹木にとって最も大切なものは何かと問うたら、それは果実だと誰もが答えるだろう。しかし実際には種なのだ』と。つまり……そういうことさ」
「そういうことだね!」
「ああ、そういうことさ」
うんうんと頷き合うはぐみと薫。
遠巻きに見ていた演劇部員から「流石薫様……」「儚なすぎます……」という感嘆の声があがる。それに紛れて舞台衣装の整理をしていた大和麻弥は『本当に分かったのだろうか……』と一人悶々と心配を抱えることになるのだった。
◆
はぐみの悩みも薫の助言によって解決された。
斜陽の影が伸びる商店街。その一角で、今朝に比べたらずっとすっきりした頭で、彼女は北沢精肉店の店番を行っていた。
お客さんの注文通りにお肉を売り、はたまた常連さんと世間話をしたりなんかしつつ、頭の片隅で美咲のことを思う。
薫から助言してもらった『特別なものは何もいらない』という言葉。それはつまりいつものように美咲に接していればいいということで、それでいいならそうするけれど、それでももう少し何か出来ないだろうか。
自分が美咲に与えられるものを挙げていくと、一番最初に揚げたてのコロッケが脳裏に思い浮かんだ。
コロッケ。
そうだ、これだ! と、はぐみは両手をポンと打った。
はぐみ=北沢精肉店=コロッケ。つまりはぐみはコロッケで、コロッケははぐみ。これをみーくんにあげればもっともっと喜んでもらえるハズだ。
そう思うとはぐみはワクワクしてきた。いつも通り+はぐみの化身であるコロッケをあげて、美咲が喜ぶ顔を思い浮かべると、とてもテンションが上がった。
「はぐみにはコロッケしかない!」
「……何を店先で叫んでいるんですか、北沢さん」
その情動の赴くままに声をあげたはぐみに、ちょうど店の前を通りかかった氷川紗夜がどこか微妙な表情を浮かべて声をかけた。
「あ、紗夜先輩! こんにちは!」
「ええ、こんにちは」
元気よく挨拶をしたはぐみに、紗夜も丁寧に頭を下げる。その顔にはやっぱりなんとも言い難い表情が浮かんでいて、はぐみは少し心配になった。
「なんだか変な顔になってるけど、もしかしてお腹とか痛い?」
「いえ、なんというか……少し昔を思い出しただけよ」
「昔?」
「こちらの話だから気にしないでください。それよりも、いい匂いがするわね」
「あ、ちょうどさっきコロッケが揚がったんだよ! 紗夜先輩もどう? 美味しいよ!」
はぐみはニカッと明るい笑顔を浮かべて、ショーケースに並ぶコロッケを指さす。紗夜は少し悩むような仕草を見せて、
「いえ、これから羽沢珈琲店に行くので……」
「つぐちんもうちのコロッケ大好きだよ!」
「……二つ、貰っていきましょうか」
結局その言葉に流された。
「まいどあり!」
はぐみは手際よくコロッケを包み、袋に入れて紗夜に手渡す。
「……意外と商売上手なのね、北沢さんは」
紗夜は何かに負けたような気持ちになりながら代金をはぐみに渡した。
「そうかな?」
「ええ。いつも元気で、見ていて気持ちがいいわ。だから私も思わずコロッケを買ったのよ。それ以外の理由は何もないわ」
「えへへ、ありがと!」
「ただ、学校の廊下を走るのは感心しませんね」
「うっ……ごめんなさい、つい……」
「これから気をつけてくれればそれでいいのよ。私も少し口うるさくなってしまったわね。ごめんなさい」
「ううん! はぐみ、これから気をつけるね!」
「はい。それでは」
しゅんとした表情から一転、明るい表情になるはぐみ。それを見て、紗夜は少し優しげな顔をして手を振る。
はぐみの胸中には『やっぱり紗夜先輩って優しいしすっごく大人だなぁ』という思いがあった。
紗夜の胸中には『将来子供が出来たら、北沢さんや宇田川さんのように純粋な人間になって欲しいわね』という思いと、無邪気な笑顔を浮かべた小さな子供を囲む自分と羽沢つぐみという情景が浮かんでいた。
◆
薫に助言を貰った翌日から、はぐみによる対美咲用作戦『オペレーション・コロッケ』が始まった。作戦の発案者はちょうどロボットアニメの再放送を見ていたはぐみの兄である。
作戦概要はこれから毎日三食、北沢精肉店の絶品コロッケを美咲に食べさせるというものだった。
はぐみはそれを絶賛した。兄はエレガントな作戦だと自画自賛した。蛙の子は蛙である。血は争えないのだ。
という訳で、
「おはよーみーくん!」
「おはようはぐみ。朝から元気だね」
「うん! はぐみはいつでも元気だよ! それと、はいこれ!」
「……コロッケ?」
「みーくんのために作ってきたんだ!」
「あーうん、ありがと?」
はぐみは登校してからすぐに美咲のクラスに足を運び、お手製のコロッケを彼女に手渡した。
「それじゃあね!」
「はーい……って、コロッケ渡しに来ただけ?」
そして手を振って教室を後にした。
お昼休みも、
「はいみーくん、コロッケ!」
「あーうん、どうも」
放課後も、
「はいみーくん、一回家に帰って作ってきたコロッケ!」
「まさかの出来立て!? あー、ありがとね」
ハロハピの練習中も、
「コロッケ持ってきたよ~! はい、これみーくんとミッシェルの分!」
「あ、ああうん、ミッシェルにも渡しとくね」
翌日も、
「今日はさといもコロッケだよ!」
「へぇー、そんなコロッケがあるんだ」
その翌日も、
「今日はジャガイモの代わりに挽肉と玉ねぎを使ってみたよ!」
「それってメンチカツだよね?」
「あっ!!」
そのまた翌日も、
「やっぱり普通のコロッケが一番だよね!」
「……まぁ、うん、そうだね」
そんなことが一週間続いた。
はぐみは美咲が毎日コロッケを食べてくれるのが嬉しかった。
美咲は三日連続でコロッケの海に溺れる夢を見てうなされた。
だというのにも関わらず、またはぐみがコロッケを自分の元へ持ってくるものだから、流石に美咲も辛抱堪らなくなってしまった。
「ねぇ、はぐみさん?」
「どしたの、みーくん?」
茜に染まる放課後の教室にコロッケの香りがふわりと広がる。はぐみの手にある包みからただようものだった。最近のこのクラスの流行りはコロッケの買い食いである、という噂が立つ程度に1-Cでおなじみになった匂いだった。
「最近毎日コロッケくれるけど……どうかしたの?」
「あれ、もしかしてみーくん、コロッケ嫌いだった?」
「嫌いじゃないけど……限度があるなってあたしは思うよ」
美咲は胃の辺りに手を置きながら困ったように言う。
美味しいは美味しいけれど、うら若き乙女の胃腸に毎日の油ものは正直キツかったのだ。星のカリスマ戸山香澄とて毎日三食フライドポテトはキツイ。おかずに白米を用意してくれれば話は別だけど。
それはともかくとして。
「そっか……ごめんね、みーくん」
みーくんの為にって思ってたけど、やり過ぎちゃったかな……。そう思いながらしゅんと落ち込んだ顔を見せるはぐみ。
「あーいや、責めてる訳じゃないんだよ? 怒ってもいないからね?」
ああもう、そういう顔をされると弱いんだよなぁ……。そう思いながら努めて柔らかい口調になる美咲。
「毎日コロッケくれるのは嬉しいけど流石に毎食は飽きるっていうか……いや、あたしが言いたいのはそうじゃなくて、どうしたの? はぐみがコロッケを差し入れに持ってきてくれることはよくあるけど、毎日毎食なんてことはなかったからさ」
「…………」
その言葉にはぐみは頭をフル回転させる。考えるのが苦手だけどいつも以上に頑張って考える。
はぐみの頭には薫からの言葉があった。曰く、相手に気を遣わせるお礼はかえって迷惑になる。だからここで「みーくんにお返しがしたかったんだ」と言ってしまっては、優しい美咲は気を遣ってしまうだろう。
(だけどみーくんには隠し事なんてしたくないし……でも……うーん……)
どうすればいいのだろうか。一向に出ない答えを考えすぎて頭から煙が出そうだった。
「あーはぐみ? 言い辛いことならいいんだけどさ……」
そんなはぐみを見兼ねて、美咲は少し困ったように口を開いた。それを見て、『やっぱり隠し事はダメだ』とはぐみはとうとう観念した。
「ううん、言うよ。あのね?」
「うん」
「みーくんはいつもね、はぐみにいろんなものをくれるから……だから、はぐみからもみーくんにお返しがしたかったんだ」
「お返し?」
「うん」
「……そんな言うほど、あたし、はぐみに何かしたっけ?」
「いっぱいしてくれたよ! まずね……」
思案顔になる美咲に、はぐみは指を折りながら彼女にもらったものを挙げていく。
正々堂々真剣勝負が大事だって言ってくれたこと、はぐみの伝言をいつもミッシェルに伝えてくれること、マリーとしてミッシェルと対決することになってもはぐみを応援してくれたこと、普段からいっぱい遊んでくれるし麻弥さんのソフトボールの挑戦にもずっと付き合ってくれたこと……
「それとね、それとね!」
「あ、いや、もう分かったから……」
両手の指を折りきって、二週目に入ろうかというところで流石に美咲は止めに入った。いくら相手がはぐみといえども、目の前でこんなことを言われるのは非常に照れくさかった。
「まだたくさんあるのに……」
「もう十分だって……えぇと、それではぐみは、あたしにコロッケをくれたんだ?」
「うん。はぐみ、貰ってばっかりで全然みーくんにお返しできてないし、それがなんだかすっごくモヤモヤしちゃって、だからお返ししようって思って……」
「なるほどね」
はぐみの言葉を聞いて、美咲はやれやれといつものため息を吐き出す。それからなんと言おうか少し迷ってから口を開く。
「えっとさ、はぐみはあたしに何も返せてないって言うけどさ、そんなことないからね?」
「え?」
「まぁ、ほら……流石に事細かに何を貰ったーっていうのはちょっと照れくさいからアレだけど……はぐみがあたしからたくさん貰ったって言うように、あたしもはぐみから、もうホント、数えきれないくらいいろんなものを貰ってるんだよ。きっとハロハピのみんなだってそう思ってるよ」
「うん……薫くんも同じこと言ってた」
「でしょ?」
「でも、でもね? 薫くんもそう言ってくれて、はぐみが薫くんに何かお返ししたいって思ってくれてるだけで十分だって言ってくれたんだけど、それでもやっぱり特別にお返ししたいって思っちゃうんだ」
「……そっかぁ」
はぐみは少しだけ顔を伏せて、チラリと美咲を窺う。彼女の顔には困ったような嬉しいような、曖昧な表情が浮かんでいた。それを見て『自分勝手にコロッケを押し付けちゃダメだったな』と思った。
「ごめんね、みーくん」
「え、なにが?」
「みーくんに喜んでもらいたくてお返ししようって思ってたんだけど、それでみーくんが困ってるんじゃダメだよね。だから、ごめんね?」
「あー……」
その謝罪の言葉を受けて、美咲はなんて返したものかと思案する。
正直な話、はぐみが自分からの些細な言葉や行動なんかを大切に思っていてくれたのが嬉しい。コロッケだって――流石に毎日は勘弁してほしいけど――美味しいし、なによりはぐみの感謝の気持ちが詰まってると思うととても嬉しい。いやほんと毎日毎食だと胸やけするんだけど。
対するはぐみは美咲の微妙な反応を見て、先走った自分の行動を悔いていた。
きっとみーくんは喜んでくれるって自分勝手に考えて、みーくんのことをちゃんと考えてなかったな……。みーくんは優しいからきっと許してくれるだろうけど、でもそうしたらまたたくさんお返ししたくなっちゃうし……どうすればいいんだろう。
しばらく無言のまま向かい合っていた。
このままじゃ埒が明かないな、と美咲は思い、フッと息を吐き出してから、はぐみの肩にポンと手を置いた。そして少しだけビクリと震えたはぐみを怖がらせないよう、ゆっくりとした口調で言葉を紡ぐ。
「はぐみ。別にあたしは全然、これっぽっちも困ってないからね」
「でも……」
「でももヘチマもないよ。あたしはどうしてはぐみがコロッケをくれるのかが気になってただけで、はぐみのそういう気持ちは嬉しいからさ」
「…………」
はにかむような照れ笑いを浮かべる美咲。その顔を見て、やっぱり気を遣わせちゃったかな、とはぐみは思う。
「気を遣って言ってるワケじゃないからね?」
「え!? どうしてはぐみの考えてることが分かったの!?」
それを見透かした言葉にはぐみは驚愕した。『まさかみーくんってエスパー!?』とさえ思った。
対する美咲は『やっぱり……』と少しだけ呆れたように胸中で呟いた。
「そりゃ、もうそこそこ長い付き合いだし……はぐみは分かりやすいからね」
「そっか……」
「あ、これも別にはぐみのことを責めてるとかそういうのじゃないよ? なんていうか……言葉にするのはちょっと照れるけど、はぐみのそういうまっすぐなところって、あたしはすごく好きだからさ」
「好き?」
オウム返しの言葉に美咲は照れた。好き……いや、好きか嫌いかで言えばそりゃ好きだけど、ちょっとストレート過ぎたなぁ……。
指で軽く頬を掻きながら、言葉を続ける。
「あー……うん。あたしは捻くれ者だし、そういうとこはホント見習いたいって思うし、実はちょっと憧れてるんだよね」
「みーくんは捻くれてなんかないよ!」
「うん、ありがと。あのね……そういうところだと思うよ」
「え?」
「はぐみの良いところ。いつも一生懸命で、相手のことを考えて、まっすぐに言葉をくれるじゃん? そういうところに、あたしもいろんなものを貰ってるんだ」
「…………」
はぐみからすれば何でもないものだったけれど、美咲がくれた言葉がしんとはぐみの胸の中に染み入る。薫に言われた『特別なものは何もいらない』という言葉が本当の意味で理解できたような気がして嬉しくなった。
「だからさ、おあいこだよ。あたしもはぐみからいつも貰ってるのに、更に毎日コロッケまで貰ってたら……ね? あたしも何かしなきゃって思っちゃうからさ」
「うん……うん! 分かったよ、みーくん!」
「分かってくれて良かったよ」
いつものやや遠慮がちな笑みを浮かべて肩をすくめる美咲。その姿がやっぱり大好きで、いろんなものを自分から貰ってるという美咲の言葉を実感できたのが嬉しくて、はぐみは「わーい!」と喜びながら美咲に抱き着く。
対する美咲はそれを苦笑しながら受け止めつつ、これで今日からコロッケに溺れる夢を見ないで済みそうだなぁ、なんてしらばっくれたように考えるのだった。
◆
後日の話である。
「商店街を盛り上げるためのダンスをやろうって思うんだ! それでね、ミッシェルとマリーで一緒に踊ろうって思うから、今度一緒に練習しようってミッシェルに伝えてくれないかな?」
というはぐみからの言葉に「あーうん。分かった。練習するのは今度の日曜日でいい?」と美咲が返して、ミッシェルとマリーがダンスの練習をすることになった。
練習場所は弦巻邸の一室を借りることとなった。
「マリーとミッシェルがダンス? それはとっても素敵ね! お父様にお願いしてダンスの練習が出来る部屋を作ってもらうわね!」
という弦巻こころの言葉は話半分に美咲は聞くことにした。物陰に隠れていた黒服たちが誰かに連絡をしていたのも見ない振りをした。
そしてくだんの日曜日、明らかに新築しました、という風な弦巻邸の一室には姿鏡が一面に取り付けられていて、まるでアイドルのレッスン場みたいだなぁとミッシェルに入った美咲は他人事みたいに思った。マリーに入ったはぐみは「やっぱりこころんってすごいなぁ」と素直に感心していた。
「で、ダンスってどんなことをやるの?」
「んっとね、ぴょんってしてぐわ~ってなる感じ!」
「あーうん。分からないけど分かったよ」
鏡の中に並ぶふわキャラ二人を見つめながら、ミッシェルは「いつも通りかぁ」とため息交じりに呟いた。
そんなミッシェルにお手本を示そうと、マリーは早速考えてきたダンスを披露する。
左右にステップを踏んで、上半身をやたらコミカルに動かして、それで最後にバク転……バク転!?
「っと、こんな感じ! さぁミッシェル、やってみて!」
「む、無理無理! バク転は流石に無理だって!」
「やってみれば意外と出来るよ?」
「それはこころとかはぐ――マリーだけでしょ!?」
「大丈夫! さぁ、手を繋いでてあげるから、一緒にがんばろー!」
「いや、ちょ……」
尻込みするミッシェルの手を取って、マリーは踊りだす。ミッシェルはそれに引きずられるように身体を動かし続ける。
そんなこんなで三十分が過ぎた。踊っているうちにミッシェルは息も絶え絶えになって、流石に休憩を要請した。
それにマリーが頷いて、鏡に背をもたれさせながら二人は並んで座る。
「ちょっと飛ばしすぎちゃったかな?」
「はぁ……はぁ……いや、まぁ少しだけ……ね?」
「そっか……ごめんね、ミッシェル」
着ぐるみだから顔が窺えないけど、少しだけ落ち込んだような調子の言葉を聞いて、ミッシェルは疲れとは違うため息を吐き出す。そしてマリーの肩にポンと手を置いた。
「謝らないで平気だよ。むしろ、いつも助けてくれてありがとね、マリー」
「マリー、そんなにミッシェルのこと助けてるかな?」
「助けてるよ。ほら、マラソンの時だってマリーが励ましてくれたから、ミッシェルはちゃんとゴール出来たんだから」
「それはミッシェルが頑張ったからだよ」
「そんなことないよ。マリーが応援してくれたから、ミッシェルも頑張ろうって思えたんだ。だから、いつもありがとね、マリー」
くりくりとした丸い瞳がマリーをまっすぐに見つめる。そうして紡がれた言葉がはぐみの琴線を大いにかき鳴らした。
「ううん! こっちこそ、いつもありがとうミッシェル! はぐみね、ミッシェルのこと大好きだよ!」
「はは……またはぐみって言っちゃってる……」
小さな呟き声ははぐみの耳にはしっかり届かなかったけれど、それでも彼女は嬉しくなった。まるでみーくんがいつも呟くみたいな声だなぁ、と思った。
そこでハタと気付く。そういえばミッシェルとみーくんって少し似てるな、なんて。
どこがどう似てるのか、と言われてしまうとハッキリと答えられないけれど、空気というか雰囲気というか匂いというか、とにかくどこか二人が似ているような気がした。
そう考えるとはぐみはますます嬉しくなった。いつかマリーとミッシェルみたいに、みーくんともこうやって一緒にダンスがしたいな、と思う。
自分と美咲が一緒にダンスする姿を脳裏に描いてみる。はぐみはそれだけでものすごく楽しくなって、居ても立っても居られなくなってしまった。
「よーし! 続きしよっか、ミッシェル!」
だから、マリーの肩に置かれた手を取って立ち上がる。
「え、えっ、もう!?」
まだ五分も休憩してないのに、と思いながら、されるがままに立ち上がらざるを得ないミッシェル。
「あはははは!」
マリーの下で満面の笑みを浮かべて、朗らかな笑い声をあげて、鋭くステップを踏むはぐみ。事の発端の『ついみーくんのことを考えてしまうのはどうしてなのか』という悩みはとっくのとうに忘れていた。
「ああもうっ……もう少し手加減してってば……!」
ミッシェルはそんな言葉を恨めし気に呟く。けれどその下の素顔は、はぐみと同じく楽しそうに笑っているのだった。
おわり
持ちつ持たれつで生涯の親友になりそうなはぐみとみーくんが好きです。そんな話でした。
話は変わりますが、今日から武道館ライブですね。
自分はLV、武道館、LVの三日間です。
RAISE A SUILEN、演奏がマジカッコいいのでとても楽しみです。
有咲と沙綾の勘違い
恋とは勘違いの積み重ねである……みたいな言葉が世の中には往々にして存在している。
恋。いわゆるラヴ。
甘酸っぱかったり、時にはほろ苦かったりして、もどかしい緩急で人の心を掴んで離さない感情の類。
思春期の少年少女も、いい年こいた青年淑女も、あるいは現代社会に揉まれたおじさん、子育てや家事に疲れたマダムも、時には創作物の中で、もしくは実体験として、そういうものに突き動かされることがある。
それはここ花咲川女子学園でも例外ではなくて、特に花盛りの乙女たちにとって、恋とご飯は生活から切っても切り離せない重大事項なのである。
彼女たちの出会いは些細な偶然だった。
星のカリスマ、あるいはヘンタイである戸山香澄に、ランダムスターを目に付けられた少女・市ヶ谷有咲。
彼女は根っからのインドア気質で、人と関わるより自分の世界に閉じこもっている方が楽しいし楽だしいいや、というタイプの人間だった。
けれど香澄のせいで強引に外へ連れ出されて人と関わっているうちに、世の中そんな捨てたもんじゃない、いやむしろいいんじゃね? とまで思うようになっていた。
ただ、彼女はいわゆるツンデレだった。素直じゃない年頃の女の子なのである。見た目より複雑な子(自称)なのである。本当に本当は大大好きでも「ちげー!」とか「うるせー!」とか言ってしまう困ったちゃんなのである。
そんな有咲と同じように、星のカリスマ、もしくはヤベーやつである戸山香澄に導かれた少女がもう一人いた。名前を山吹沙綾という。
歳の離れた弟と妹が一人ずつ、実家はパン屋を経営している、母親は病弱で倒れがち……そんな家の環境がそうさせるのか、彼女の優しさや面倒見の良さは一般的な思春期の女の子に比べて通常の三倍の早さで成長していった。
そのせいで、いつの間にか誰かを優先させては自分のワガママは飲み込み、人の面倒をみることが習慣として身についてしまっていた。
そんな彼女の手を取って強引に走り始めたのもまた香澄だった。けれどそのおかげで、沙綾は諦めかけた夢をまた見ることが出来るようになった。
有咲と沙綾にとって、香澄は言わば青春の恩人である。
このまま何もなく淡々と日々を塗りつぶしていくところを無理矢理連れ出して、そしてキラキラドキドキする青春を与えてくれた人物である。
例えばの話だが、これがよくあるボーイ・ミーツ・ガールと呼ばれるものであれば恋の一つや二つも芽生えていただろうし、恩人である香澄を奪い合う血で血を洗う女の争いが起こっていたかもしれない。
けれどこれはガール・ミーツ・ガール。そこに花が芽吹くとするなら、それはローズでもチューリップでもなく恐らくリリーだ。
有咲と沙綾は香澄が好きには好きだけど、それは親友としての好き、つまりライクである。もちろん他のバンドメンバーに対しても同じだ。
ただ、有咲は沙綾をその例外だと感じていた。
そして沙綾も有咲はその例外だと感じていた。
何でもない、けれどとても特別で大切で素敵な日常を送る中で、いつしか二人はこんなことを互いに思っていた。
有咲は「いっつも優しく笑いかけてくるしたまに楽しそうにイジワルしてくるしいい匂いするし、沙綾って私のこと好きなのかな」と。
沙綾は「いつもつっけんどんな態度してるけど優しくされたらすごく嬉しそうだしちょっとからかうだけですごい照れるし、有咲って私のこと好きなのかな」と。
とある夢を打ち抜くガールズバンドの物語の中で、『この世でもっとも愚かな生き物』と称されていた男子中学生のような思考である。優しくされたら胸が震えた、それだけのために死んでもいいやとかそういうのに似た思考である。
頭の片隅ではバカな考えだと思っていても少し意識しだすと止まらなくなるのが男子中学生という愚かな生き物の特徴だ。彼女たちは女子高生であったけれど、こと恋愛においてはその愚かな生き物によく似ていた。
だからといって同性に対してそんな意識を抱くものかと聞かれれば、この世界の女子高生の半数は「ノー」と答えるだろう。
しかし彼女たちはちょっと特殊だった。
有咲は引きこもりで、世捨て人のように、あるいは定年退職した老人のように、部屋に籠っては好きなことをして、人と関わることが少なかった。
沙綾は世話焼きで、何よりもまず優先するのが家族とやまぶきベーカリーのことで、愛だ恋だなんて話はテレビや本の中でしか知らなかった。
青い実を成したばかりの彼女たちの純情な心は、恋やラヴという言葉に非常に敏感だったのだ。
変わらぬ日々を重ねるうちに、いつしか有咲は「絶対沙綾私のこと好きだよ」と思うようになった。
沙綾も同じように「絶対有咲私のこと好きだよなぁ」と思うようになった。
それは端から見れば自意識過剰とか勘違いとかそういう風に呼ばれる現象である。しかも同性愛に分類されるこれは世間の半分くらいからしか認められないだろう。
けれど当人たちにとっては一世一代の気持ちだった。
『でもなぁ、沙綾に好意寄せられたって……同性だし……いやでも確かに沙綾は綺麗だしいい匂いするし優しいし、そりゃあ私だって悪い気はしないけど』
『有咲に好きだって思われててもなぁ……同性だし……いやでも確かに有咲は可愛いしツンツンしてるとつい優しくしてあげたくなるし、私も悪い気はしないけど』
と、だんだん友愛と恋慕の境界が曖昧になっていくのだった。
これは、そんな思春期を抱えた二人の勘違いの話である。
◆
ある日のお昼休み。
ポッピンパーティーの五人は、花咲川女子学園の中庭でいつものようにお弁当を広げて、紗夜先輩とポテト談義しただとかオッちゃんモッフモフだとかチョココロ寝袋の寝心地がいいだとか、話に花を咲かせていた。
そんな中、有咲はふと沙綾をチラリと見やる。するとバッチリ目が合った。そしてニコリと笑いかけられた。
『どういう意味の表情だよそれ』と思いながら、有咲は慌てて視線を逸らす。
『わー、顔赤いなぁ有咲』と思いながら、沙綾はくすくすと笑った。
端から見れば別になんともない、仲の良い友達同士の些細な一幕である。
だがやっぱり彼女たちは普通とはちょっと違った。
(チラッて見ただけで目が合うってことはずっと私のこと見てたってことだよな……やっぱり沙綾って……)
(偶然ちょっと目が合っただけなのにあんなに照れくさそうに顔を背けるなんて……やっぱり有咲って……)
と各々が思い、有咲と沙綾は互い互いをけん制するように、チラチラと視線を交わし合った。
そんな付き合いたての恋人同士みたいなやり取りをしていたら、普通であれば周囲の人間に訝しい目で見られるだろう。だが他の三人も他の三人でやっぱり普通とはちょっと違っていた。
『お肉美味しそう』と友達のお弁当箱に入っている肉類に目を光らせる花園たえ。
『有咲ちゃんと沙綾ちゃんって仲良しだなぁ』と思ってなんだか嬉しくなる牛込りみ。
『フライドポテトとおにぎりだけで人は生きていける……確かにそうだなぁ』と氷川紗夜と交わしたポテト談義を脳裏に思い起こしている戸山香澄。
類は友を呼ぶ。大なり小なりあれど、どこか普通とはズレているポッピンパーティーなのであった。
ともあれ、有咲と沙綾の邪魔をする人間がこの空間には誰もいないということである。
なので、
(わっ、また目が合ったよ……これで十三回目だ……)
(有咲ってば私の方ばっかり見てるのかな?)
(やっぱコレそうだよ)
(もうほぼほぼ間違いないよ)
(沙綾、絶対私のこと好きだよな)
(有咲、絶対私のこと好きだよね)
という風に、なんの変哲もない日常の中で勘違いがどんどん進んでいくのであった。
そんなある日のこと。
その日は香澄は妹と用事があって、りみも姉と予定があって、たえはバイトでスタコラサッサとライブハウスに向かい、有咲と沙綾だけが何も予定のない放課後だった。
二人とも学園には歩いて登校しているし、色々な意味で仲が良いし予定もないのだから、彼女たちが肩を並べて一緒に下校するのはなんの不自然もないことである。
という訳で、有咲と沙綾は何でもない会話を交わしながら、歩き慣れた道を歩いていた。
そこでふと有咲は思った。
(そういえばこうして二人っきりになることなんて久しぶりだな)
ポピパの五人は仲良しこよし、誰かしら予定があっても大体三人以上で肩を並べることが非常に多く、誰かと……ましてや自分に確実に憎からぬ想いを寄せているだろう沙綾と二人っきりになることなんてひと月振りくらいのことだった。
そう思うと途端に沙綾のことを意識してしまってソワソワしだす有咲。
そんな姿を見て、隣を歩く沙綾は頭に疑問符が浮かぶ。
(有咲、なんで急にソワソワしだしたんだろ? んー……あっ、そっか)
思い返してみれば、私と有咲が二人っきりになるのなんて三十七日振りだったっけ。そっかそっか、それでちょっと変な意識しちゃってるのかな。
そう思うと途端に有咲が可愛く見えてしまって、沙綾の顔には優し気な笑みが浮かんだ。
(だからなんなんだよ、いつものその優しい笑顔は……そんなに私と一緒に帰るのが嬉しいのかよ。ったく、しょうがねーなー沙綾も)
(ふふ、こっちのことチラチラ窺ってる。私と一緒に帰れるのが嬉しくて、でもそれを悟って欲しくないんだろうなぁ。しょうがないなぁ有咲も)
そしてまたそれぞれにすれ違ってるんだか噛み合ってるんだか判断に迷う思考が浮かぶ。
「ねぇ、有咲」
「……なんだよ」
その思考に従って先に仕掛けたのは沙綾だった。有咲はいつものようにぶっきらぼうに応える。
「このまま蔵に行ってもいい?」
「……私も特に用事ないし、別にいいけど?」
「ん、ありがと。それじゃあ行こっか」
慈しみに満ちた微笑みを浮かべる沙綾を見て、有咲は頬を朱に染めてそっぽを向く。
(急に私ん家に来たいだなんて……本当に沙綾はしょうがねぇなぁ)
(あんなに赤くなってそっぽ向いて……本当に有咲はしょうがないなぁ)
それからそんなことを考えつつ、二人は蔵へ足を向けた。
勘違いガールズin the蔵。
自分のことが好きな女の子(勘違い)と密室で二人きり、何も起きない訳がなく……ということも今のところはなくて、いつものように有咲と沙綾はのんびり駄弁っていた。
最初こそ沙綾を意識してはソワソワしていた有咲だけれど、蔵は彼女のホームグラウンド。つまり地の利は圧倒的に市ヶ谷軍にあるのだ。
そう思うと鼻歌を歌うくらい余裕が出てきた。沙綾がどうしてもって言うなら何でも言うこと聞いてやってもいいけど? くらいの気持ちだった。
だが有咲は知らない。甲子園駅から歩いてちょっとの球場、もしくは仙台駅から歩いてニ十分の球場を本拠地に抱えるプロ野球チームのように、時にホームはこれ以上ないくらいのアウェーになることもあると(2018年シーズン成績参考)。ホーム球場の爆破が最大の補強だとファンに毎年言われる球団もあるのだと。
(やっぱり自分の家だとのびのびしてるなぁ有咲。ふふ、可愛い)
沙綾の頭にある思惑はそんなもの。つまり有咲は泳がされているだけ。外ではツンツン、家ではのびのびというギャップを愛でられているだけなのだ。
兵法三十六計の第四計、以逸待労である。
ここは愛すべき我が空間だからと主導権を取ったつもりになって隙を見せるように仕向けられているだけである。実際の主導権は沙綾の手中にあった。
「はー、やっぱドラムって私には絶対無理だわ」
そうとは知らず絶対的優位に立っているつもりの有咲は、沙綾に勧められるまま見様見真似でドラムを叩いていた。ツッタンタタタン……なんて呑気にハイハットとスネアドラムをぺシペシしていた。
「みんなそう言うんだよね。でもやってればすぐに叩けるようになるよ」
「いやいや、手だけで精一杯だよ。これでバスドラムにハイハットの操作まで足でやるんだろ? 無理無理」
「慣れだよ慣れ。慣れちゃえば簡単だって」
そう言って笑う沙綾の顔を見て、『一回聞いただけっつってぶっつけ本番でスタービート叩ける沙綾が言っても説得力ねぇよ』と有咲は思う。至極真っ当な感想だった。慣れでそれが出来る人間はきっと変態と呼ばれる人種だろう。
(それにライブの時はドラムとキーボードは大抵後ろで隣同士に並ぶし……そん時だって余裕そうに私に笑いかけてくるし……)
ステージライトに照らされてキラキラした沙綾の笑顔を脳裏に思い浮かべて、有咲は少しだけドギマギした。
「有咲? ボーっとしてるけど、どうかした?」
それを沙綾は逃さなかった。仕掛けるならここだ、と脳内の諸葛孔明が羽扇を掲げた。その指示に従ってさらに言葉を重ねる。
「べっ、別に、なんでもねぇよ」
「本当に? 顔赤いけど……熱とかは?」
「大丈夫だって、ホント、全然そういうんじゃねーからっ」
「そっか。でも心配だから……」
沙綾はそっと有咲の額に右手を伸ばす。有咲は少しだけビクリとしたけれど、ゆったりとしたその手の動きと自分の部屋にいるという安心感から、特に抵抗はせずにそれを受け入れることにした。
「んー……」
思惑通りに動き続ける有咲の額に手を置いたまま、沙綾は掌で彼女の熱を感じ続ける。
「……も、もういいだろ」
「だーめ」
流石に照れくさくなってきた有咲は沙綾の右手から逃れようとするけれど、優しさ八割イジワル二割の言葉に動きが止まった。そして愛しさ半分イジワル半分の沙綾の左手を後頭部に回されて、とうとう自分の意思で身動きが出来なくなってしまった。
「…………」
「…………」
それから二人して黙り込む。脳内には色々な考えが浮かぶ。
有咲の頭を抱きかかえるような形になった沙綾は、すぐ思い通りに掌の上で踊ってしまう彼女がおかしくて可愛くて仕方なかった。
(いい様にされてまったく抵抗がないあたり相当私のこと好きだよねこれ)
そして勘違いに拍車がかかった。
逆に抱きかかえられた有咲は、間近で感じる沙綾のいい匂いと、額に当てられた手の感触の気持ちよさと後頭部をやわく撫でられる心地よさに気が気じゃなかった。
(私の部屋に来たいって言いだしてこんなことするなんて相当私のこと好きだなこれ)
だけど勘違いには拍車がかかった。
(有咲、全然動こうとしないな。もっとこうしてて欲しいのかな? しょうがないなぁ)
(沙綾、全然離れようとしねぇな。もっとこうしてたいのか? まったく仕方ねぇなぁ)
だから二人してそんな思考になって、どちらも離れるタイミングを逸するのだった。
そうしてどれくらい時間が経ったろうか。有咲も沙綾も「悪くないなこれ」と思い始めたころで、机の上に置かれた二人のスマートフォンが通知音を鳴らした。
ハッと我に返る二人。
サッと手を放した沙綾は、今まで自分が抱えていた温もりの心地よさを強く実感してちょっと寂しくなる。
サッと身体を離された有咲は、今まで自分を包んでいた温もりがなくなったことにとても寂しくなる。
けれどそんなことを顔に出すのは照れくさかったりするワケで、有咲はそれを誤魔化すように勢いに任せてスマホを手に取って画面をのぞき込む。するとメッセージアプリの通知が表示されていた。
『オッちゃんゼロ式』
通知をタップすると、そんなたえの一言と、何か草のようなものを食べているオッちゃんの写真が画面に広がる。何がゼロ式なんだ、と心の中でツッコミを入れていると、新しいメッセージがディスプレイに現れる。
『アタック・オブ・ザ・キラー・チョココロネ』
それはりみからメッセージで、その一言は自体は別によかった。りみ、ホラー映画好きだもんな……と有咲も水に流せた。
だけど一緒に送られてきた、チョココロ寝袋に下半身を埋めて苦悶の表情で倒れている制服姿の牛込ゆりの画像はダメだ。どう見ても撮影場所が花女の生徒会室だし何やってんだ生徒会長……と、そうツッコミを入れずにはいられない。
「ぷっ、ふ、ふ……くくっ……!」
沙綾は沙綾でカタツムリみたいなゆりの画像がツボに入ってしまい、プルプル震えながら笑いを堪えていた。お世話になってる人だし尊敬してるし大切な親友の姉だから笑ってはいけないと思っているのだろう。
だけどお世話になってる人だし尊敬してるし大切な親友の姉だからこそ、生徒会室でチョココロネに襲われているという下らない画像がそんなにツボに入ってしまうのだと沙綾は気付いていなかった。
ともあれ、先ほどまでのかなりアレな空気もその和やかなグループトークによって中和された。
沙綾は笑いを堪えながら返信をして、有咲はそんな沙綾を写真に収めてグループトークに送信して、それをりみのスマホで見たらしいゆりから沙綾宛に個人的なメッセージが飛んできて、トークを開くとチョココロ寝袋に入って満面の笑みでダブルピースする牛込生徒会長とかいう画像があってまた沙綾がプルプル震えだして……と、そんな感じで時間が過ぎていった。
いつの間にか時計の短針は七の数字を指していて、変な熱の入ったグループトークもすっかり落ち着いて、有咲と沙綾の間には「そろそろお開きかな」という空気が流れる。
けれどそういう時間になってから我が物顔で胸中に鎮座し始めるのが寂しさというやつで、さっきまでは鳴りを潜めていたくせにここぞという場面で別れを名残惜しくさせてくるのだから有咲はいつも困ってしまう。
「あー……なんだ」
だから彼女は、特に何を言おうと決めたワケじゃないけど、とりあえず口を開いた。
「…………」
しかし考えなしに口を開いて話を広げられるほど有咲はコミュニケーション能力が高くなかった。二の句を告げられずに呻くような声にならない声を吐き出す。
「……なんだかお腹空いたね」
その様子を見兼ねて沙綾も口を開く。三十七日振りの二人っきりの時間をあっさり終わらせるのはちょっともったいないな、という思いもあった。
「そ、そうだな。……そうだ。折角だし、たまには晩飯でも食べてくか?」
同じ気持ちな有咲も沙綾の言葉を聞いて、自宅での夕ご飯に誘ってみる。けれどなんだかその言葉が急に照れくさくなって、「ばーちゃん、最近すげーたくさんご飯作るんだよ。私一人じゃ食いきれねーくらいさ」と取ってつけた言い訳を早口で続けた。
「そっか。それじゃあ、今日はご馳走になっちゃおうかな」
沙綾はその言葉に頷く。有咲の顔が少し華やいだ。それを見て沙綾の顔も綻ぶ。
「そんじゃ、ちょっとばーちゃんに言ってくるな」
「ん、了解。私も家に電話しとく」
有咲はパタパタと軽い足取りで階段を昇って行った。ぴょんぴょん跳ねるツインテールを見送ってから、沙綾も自宅へ電話をかけて、今日は晩御飯はいらない旨を母親に伝えた。
そうして過ごした有咲と沙綾と有咲のおばあちゃんの三人での晩御飯もあっという間に終わって、有咲は特に用事もないけど「途中のコンビニまで……用があるんだよ」と言って家路を辿る沙綾の隣に並ぶ。そのコンビニに着くと、沙綾も沙綾で特に用事もないけど「私もちょっと買い物してこ」と有咲と並んで店内に入ることにした。
二人の間にはまだまだ勘違いがあった。
『口実つけてまで一緒にいたいだなんて有咲は本当に私のこと好きだなぁ』と、『用事もないだろうに一緒にコンビニに入るなんて沙綾は本当に私のこと好きだな』と。
『しょうがないから付き合ってあげるか』と、『しょうがねーから付き合ってやるか』と。
それらが勘違いだったと気付くのは、二週間後の休日のこととなる。
その土曜日は朝から快晴だった。
真っ白いふわふわな雲が青い空を悠々自適に泳ぎ、大空こそ開闢以来の安全な我が家であるかのように小鳥たちが羽を広げる。実に平和な休日の蒼穹だった。
そんな空の下、有咲は駅前広場でひとりソワソワしていた。その原因はつい昨日のことである。
昨日も昨日で、有咲の蔵には沙綾が遊びに来ていた。そして、沙綾が本格的に有咲にドラムの指導を行った。
その際、沙綾の身体がめちゃくちゃ近かったこととか「こうやって叩くんだよ」と優しく手を握られたこととかそういう色々と単純明快複雑怪奇な代物が絡まり合って、ついつい思いっきりハイハットを叩いた拍子にドラムスティックが折れてしまったのだった。
有咲はこの世の終わりのような顔をして沙綾に謝った。沙綾は「スティックなんて折れるもんだし、気にしないでいいよ」といつもの笑顔で言った。
確かにドラムスティックは消耗品だとは知っている。けれど、それでも親友の、ましてや自分にただならぬ想いを寄せている人の物を壊してしまったことに間違いはなかった。有咲は罪悪感に擦りつぶされて、キラーチョココロネに食べられてしまいたい気持ちになってしまった。
そんな様子の有咲を見ていられないのが根っからのお姉ちゃん肌な沙綾だった。
スティックを折ってしまうことなんて珍しくもない。けれど、それでも親友の、ましてや自分にただならぬ想いを寄せている人が気にしてしまうというのなら、それをどうにかしたいという思いがあった。
「うーん……じゃあさ、明日一緒に代わりのスティック買いに行ってくれない?」
だから沙綾はそう言って、有咲はそれに食い気味に頷いた。以上がきっかけの顛末である。
なので、待ち合わせ場所である駅前で、集合時間の三十分前から有咲はソワソワしながら沙綾の到着を待っているのだった。
今回の件で悪いのは私だし、沙綾を待たせる訳にはいかない……そういう思いからの三十分前行動だったけれど、流石に早く来すぎたという思いがなくもない。
チラリとロータリーに設けられた時計を見る。時刻は十時三十七分。まだあとニ十分ほど沙綾を待つことになる。やっぱり早すぎたな、と思いながら俯いた。
「はぁ……」
「どうしたの? そんなため息吐いて」
「え……うわぁ!?」
ふと聞き慣れた声が聞こえて、そちらへ視線を巡らす。するといつの間にか沙綾が隣に立っていて、有咲は驚いて変な声を上げてしまった。
「え、な、沙綾……?」
「おはよー。ごめんね、待たせちゃってたみたいで」
「あ、う、ううん……おはよ」
沙綾に首を振ってからもう一度時計を見る。時刻は十時三十七分のままだった。
「沙綾……早くね?」
だから有咲はそう尋ねた。
「それを言うなら有咲だってそうでしょ」
「いや、私はほら……沙綾のスティック折っちゃったの私だし、待たせる訳にもいかねーからさ……」
「だからこんなに早くから待ってた……と」
「ん、まぁ……」
「やっぱりね。早く来ておいてよかったよ」
どうやらそんな有咲の気持ちと行動は沙綾に筒抜けだったらしい。呆れたような、でも優しさに満ちた表情で紡ぎだされた言葉と、自分のことを分かっていてくれているということに胸がくすぐられた。沙綾に身も心もあずけたくなるような衝動に襲われた。
「ちょっと早くなっちゃったけど、行こっか」
「う、うん……」
胸中に湧き出たその気持ちをどうにか押し止めつつ、有咲は頷いて、先導した沙綾の隣に並んだ。
それから二人は江戸川楽器店に足を運んで、一通り店内をぐるっと見て回り、ちょうどアルバイト中だった鵜沢リィとゆりの奇行について少し話をしてから、目的であるドラムスティックの置かれたコーナーに足を踏み入れた。
「りみりんのお願いはほぼ100%聞くゆり先輩……ね」
「りみの様子からして妹想いな人だとは思ってたけど……」
スティックを物色しつつ、最初に交わした言葉は普段は凛々しい生徒会長様のこと。この前りみから送られてきた例の画像も妹にお願いされて仕方なくやったことらしい……と先ほどリィから聞いたから、必然的に話題にあがってしまう。
「……いやぜってー仕方なくじゃないだろ、あの迫真の表情と満面の笑みは……」
「ふ、ふふ……そうだね……」
呆れたように呟く有咲の隣で沙綾は思い出し笑いを堪えていた。一度ツボにハマるとなかなか抜けられない沙綾だった。
「まぁそれは今はいいか。ほら、沙綾。流石に私がここは出すから好きなの選べよ」
「え? いいよ、自分で払うって」
「い、一応、折っちゃったのは私だからな。それにそんな高いもんじゃないって言ったのは沙綾だろ? これくらいは弁償させてくれ」
「別にいいって」
「私が気にすんだよ」
「いやいや、買って貰っちゃったら逆に私が気にするよ」
「遠慮されると私が気にする」
「でも消耗品で安いって言ってもそこそこするやつだし」
「そう言われたら尚更折っちまった私が悪いだろ」
そこまで言葉を交わして『ああ、これ埒が明かなくなるやつだな……』と沙綾は悟る。
沙綾が普段使うスティックは、メーカー希望小売り価格¥1,300(税抜き)。ここでは多少安くなっているとは言えども、おおよそ千円するものだ。
金額にすれば確かに大したことはない。けれどもそれを親友に……それも他でもない有咲に出してもらうというのはどことなく居心地が悪くてきまりが悪い。ならば折衷案を出すのが最善だろう。
そう思って、沙綾は「じゃあ、」と小さく前置きしてから言葉を続ける。
「もうすぐお昼だし、お昼ご飯おごってくれないかな?」
「ん、ああ……そうだな、そうしよう」
有咲も有咲で『沙綾は絶対折れないだろうなぁ。どうやって説得しよう』と思っていたので、その提案は渡りに船だった。
「決まりだね。それじゃあ私、これ買ってくるから少し待っててね」
「りょーかい」
頷いた有咲に見送られてスティックを手にした沙綾はレジへ向かう。内心には『まったく、有咲はこういう時ばっかり頑固でしょうがないなぁ』と嬉しさ十割の言葉が浮かぶ。
「それに有咲に買って貰ったスティックなんて……絶対に消耗品として扱えないよ」
と、口から漏れた呟きが胸中のどこかに引っかかったような気がして、沙綾は首を傾げるのだった。
スティックを買い終わってから、二人はファーストフード店で早めの昼食をとることにした。
肩を並べて歩き慣れた道を往く。時折沙綾は商店街の顔見知りの人とニ、三言世間話を交わし、そういう時の有咲はどことない居心地の悪さと何かモヤッとした感情が胸中に渦巻いた。
そんな往路を辿りファーストフード店へ到着すると、レジカウンターで注文をして、店内の空いている席にサッと腰かけた。
「混む前でよかったね」
「そうだなー」
沙綾の言葉に気の抜けた相づちを返しつつ、注文したハンバーガーやポテトをつまむ。
その際、有咲はポテトを一本持って目の前に持ってきて、それをジッと凝視した。あまりに唐突な謎の行動に沙綾は首を傾げる。
「……何やってるの?」
「ん、いやほら……この前さ、香澄の奴、本当にフライドポテトで白米食ってたなって」
「ああ……」
言われて、四日前のお昼休みのことを彼女も思い出す。
いつも通りに五人でお弁当を広げた中庭で、フライドポテトを白いご飯の上に乗せて「ポテト丼!」と何故かドヤ顔をしていた香澄。そこへ偶然通りかかった紗夜が「ポテト丼……そういうのもあるのね」と呟く……なんてことがあったのだった。
「ポテトをおかずに白飯ってぜってー胸焼けするよな……」
「そこはほら、香澄だし」
「……まぁそうか。香澄だもんな」
「うん」
『香澄だから』で大抵のことを納得されるのは彼女たちの友情の篤さの成せる業か、はたまた香澄の日頃の行いのせいか、もしくはその両方か。余談ではあるが香澄の今日の予定は紗夜と一緒にポテト探訪の旅である。
それはともかくとして、今日も今日とて有咲と沙綾は他愛のない会話を交わしながら、その合間に勘違いを重ねる。けれど今日は少しだけいつもと違って、その勘違いが胸のどこかに引っかかるような感覚を双方が覚えていた。
どこがどう引っかかるのか、と聞かれれば二人とも首を傾げてしまうのだが、『沙綾ってもう確実に私のこと好きだよなぁ』とか『有咲ってもう絶対に私のこと好きだよね』とか思うと、胸がキュッとするとか、少し落ち着かなくなるとか、もっとくっついたりからかったり笑いかけたり笑わせたりしたくなるとか、そんな感じのものだ。
ファーストフード店で昼ご飯を食べている最中も、そのあと特に目的もなくぶらぶらウィンドウショッピングしている時も、それからカラオケで仲良くデュエットしたりゲームセンターでお互い微妙に不慣れなプリクラを撮ったりした時も、やっぱり彼女たちは自分で思ったことに、正体の分からない何かが胸にひっかかり続けた。
その得体のしれない、けれども決して悪くはないものの正体に気付いたのは、今日も今日とて沙綾がお邪魔した有咲の蔵でのことだった。
「今日はたくさん遊んだねぇ」
「ああ。一日中歩き回ってたからちょっと疲れたよ」
いつもの席に座ってのんびりまったりとお茶をすする二人。時刻は午後六時を回ったところだった。
昨日に引き続いての連日の蔵。彼女たちがここで二人っきりになるのは、ここ二週間で七回目だ。
内緒にしているが、有咲はスマートフォンのカレンダーに、沙綾と自分の部屋で二人になった日になんとなく『さ』と打ち込んでいた。
沙綾も内緒にしているが、自分の部屋のカレンダーに、有咲と二人になった日付になんとなく丸印を付けていた。
そのカレンダーを見て各々が思うのは、『こんなに二人っきりになるだなんて、本当に自分は好かれてるんだなぁ』というようなこと。今まで重ね続けてきた勘違いの延長線上にある気持ちだった。
今日で七回目の逢瀬。二日に一回のペースで二人っきりになって、今日は一日中一緒に遊んでいたが、それでもまだ彼女たちには話したいことがそれなりにあった。
「…………」
「…………」
だけど有咲も沙綾も特に何も喋らない。静まり返った部屋の空気に、二人はただ身を任せていた。蔵に誰かと一緒にいてシンとすることが珍しくてちょっと不思議な気持ちだったけれど、それ以上にこの沈黙が心地よかった。
一日遊びまわって疲れた身体に静寂が染み入る。夢と現をたゆたうように、彼女たちはそれぞれぼんやりと物思いにふける。
有咲の心中にあったのは、まず安堵だった。
昨日ドラムスティックを折っちまった時はどうなることかと思ったけど、無事に丸く収まってよかった。やっぱり沙綾は優しい。私が気にするだろうことも分かって、常に先回りしてくれた。普段だったらそれに「余計なお世話だっ」みたいに反発するけど……でも、沙綾にそうされるのは悪くないっていうか、むしろ嬉しい。今回は私が悪かったからっていうのを抜きにしても、沙綾になら私のことを見透かされても全然気にしないな。
対する沙綾の心中にあったのは、幸福だった。
昨日ドラムスティックを折った時はどうなることかと思ったけど、無事に収まってよかった。やっぱり有咲って優しいししっかりしてるから、こういう時はすごい頑なに筋を通そうとするんだよね。……スティック代どころか、お昼代だって払わなくてもいいのに。ただ一緒に買い物に行って、遊びに行くだけで十分すぎるのに。でも有咲がそうしたいなら望むようにしてあげたいし、それで有咲が笑っててくれるなら幸せだな。
二人はそんな風に今日一日を振り返る。改めて自分の気持ちを見つめ直す。
何ともない休日だった。最初はお詫びのための買い物だった。だけどすぐに楽しい遊びに変わった。お昼を食べ始めるころにはお詫びとかそういうのはすっかり抜け落ちていた。どこへ行くのも、何をするのもただただ純粋に楽しかった。何故ならそれは……
と、そこまで思って、有咲は沙綾に顔を向けた。同時に沙綾も有咲へ顔を向けた。
バッチリと目が合う。
これで何百回目のことだろうか、と思って、本当に……、とまで考えて、有咲は沙綾へ微笑みかけた。沙綾は有咲の微笑みに心臓が跳ねた。
そこでようやく二人は理解した。『ああ、勘違いだったんだな』と。
(何度も何度も目が合うのは、)
(目が合って笑いかけるのは、)
(二人っきりになって嬉しがってるのは、)
(少しでも一緒にいたいと思ってるのは、)
(相手の為に何かをしたいって考えるのは、)
(何でもないことが嬉しいって感じるのは、)
(私が沙綾のことを好きだからだ)
(私が有咲のことを好きだからだ)
それは勘違いに勘違いを重ね、そこに最後の勘違いを一つ重ね、徹頭徹尾勘違いだったのにどうしてかたどり着いた正解だった。紛れもない本心だった。ただ純粋な「好き」の気持ちだった。
恋は勘違いの積み重ね。世の中には往々にしてそんな言葉がまかり通ったりしている。勘違いが由来の恋であれば、もしかしたらこの「好き」はまやかしなのかもしれない。
けれど世界には“嘘から出たまこと”という言葉もあるのだ。
それならば、経緯はどうあれ彼女たちの間に生まれた「好き」だって紛れもない真実であるし、それは何ものにも侵されない、侵されてはいけない尊いものなのである。例えこの世界の半分に「ノー」と言われてもそんなの知ったこっちゃないのである。
「……沙綾」
「有咲……」
だから、やっと二人が自覚した恋心とかそういう類の感情は彼女たちの間だけで共有されるべきものであって、やおら熱っぽい目で見つめ合い、徐々に近づいていく有咲と沙綾の間に語り手の存在する余地などない。ある訳がない。
このあと二人が筆舌に尽くしがたいほどイチャつくのも、その関係をポピパのみんなに祝福されるのも、妹大好きゆり先輩がりみりん離れにとても苦労するのも、香澄と紗夜がポテト探訪の旅に幾度となく出立するのも、たえが花園ランドに帰国子女なちびっこ音楽プロデューサーを連れ去って常時つけてるイヤホンをウサミミ仕様に変えるのも、それはまた別のお話なのだ。
彼女たちの勘違いの話はここで終わりだ。最後に書き記せるのは、
(まったく……相変わらず沙綾は私のことが大好きだな)
(もう……本当に有咲は私のことが大好きなんだから)
「まぁ私もそんな沙綾が大好きなんだけどな」
「まぁ私もそんな有咲が大好きなんだけどね」
と、このバカップルは末永く嘘から出たまことを積み重ね続けるということだけである。
おわり
ラブコメが書きたかったんです。全体的にすいませんでした。
書き終わってから今回のイベストを読んだらめちゃくちゃいい話で何だか切なくなりました。
氷川日菜&羽沢つぐみ「小競り合い」
※キャラ崩壊してます
――氷川家 紗夜の部屋――
氷川日菜「…………」
羽沢つぐみ「…………」
日菜「おねーちゃん、なかなか帰ってこないね」
つぐみ「そうですね。ロゼリアの練習が長引いてるんでしょうか」
日菜「かもねー。……そういえば、つぐちゃん」
つぐみ「はい、なんですか?」
日菜「すっごく自然だったから何も言わなかったけど……どうしておねーちゃんの部屋にいるの?」
つぐみ「え、紗夜さんのお誕生日だからですけど……」
日菜「そっかー、じゃあ仕方ないね。部屋の中につぐちゃんいた時はちょっとびっくりしちゃったけど」
つぐみ「あ、日菜先輩もお誕生日おめでとうございます」
日菜「ん、ありがと」
つぐみ「誕生日繋がりですけど……日菜先輩、パスパレの方はいいんですか?」
日菜「何が?」
つぐみ「イヴちゃん、今年もたくさんお祝いするんだーって気合入れてましたよ。お誕生日会開いてくれるんじゃないですか?」
日菜「あー、それなら明日やるからヘーキだよ。今日はおねーちゃんの誕生日をお祝いさせてほしいってみんなに言ってあるから」
つぐみ「なるほど」
日菜「うん」
つぐみ「…………」
日菜「…………」
つぐみ「紗夜さんって」
日菜「うん」
つぐみ「私のこと好きですよね」
日菜「どうしたの? 頭の中に花粉でも入っちゃった?」
つぐみ「いえ、なんとなく思っただけです」
日菜「そっか。まーつぐちゃんがどう思おうと勝手だけど、おねーちゃんはあたしの方が大好きだからね」
つぐみ「誕生日だからって言って良いことと悪いことがあると思いますよ」
日菜「宣戦布告はつぐちゃんからだよね?」
つぐみ「せ、宣戦布告なんてしてないですよ。事実を話しただけですから」
日菜「やっぱり戦争するしかないみたいだね」
つぐみ「そういうのは良くないと思います」
日菜「つぐちゃんがそれ言うの?」
つぐみ「いえ、紗夜さんが私のことを好きなのは疑いようない事実ですから」
日菜「もうヤル気満々だよね? あたしは受けて立つよ?」
つぐみ「勝敗は決まってますし、戦う気はありませんよ」
日菜「そうなんだ」
つぐみ「はい」
日菜「…………」
つぐみ「…………」
日菜「話変わるけどさ」
つぐみ「はい」
日菜「おねーちゃんってさ、優しいんだ」
つぐみ「はい」
日菜「今年……あ、もう去年か。花女と一緒に天体観測したよね?」
つぐみ「ええ。みんな楽しそうで私も嬉しかったですし、天文部が続けられてよかったですね」
日菜「ありがと。でね? その時にこんな話したんだ。ふたご座はふたごだけど、それぞれに輝き方が違うって。だからあたしとおねーちゃんはそれぞれ自分らしく輝けばいいって」
つぐみ「はい」
日菜「だからそれぞれが違うからこそ助け合える……これって半分愛の告白だよね」
つぐみ「違うんじゃないですか?」
日菜「なんで?」
つぐみ「多分ですけど、紗夜さんはそんなつもりで言ったんじゃないと思います」
日菜「そうかなぁ。あれは照れ隠しだと思うけど」
つぐみ「それは勘違いですね。間違いないです」
日菜「つぐちゃんがイジワルする~……」
つぐみ「すいません、そこは譲っちゃいけないって思ったので……」
日菜「そっかぁ、じゃあ仕方ないね」
つぐみ「…………」
日菜「…………」
つぐみ「紗夜さんって」
日菜「うん」
つぐみ「珈琲、好きですよね」
日菜「うん」
つぐみ「去年の話ですけど、紗夜さんがどれくらいウチに珈琲を飲みに来てくれたか知ってますか?」
日菜「43回でしょ?」
つぐみ「57回です」
日菜「おねーちゃん、あたしの知らないとこでそんなに通ってたんだ」
つぐみ「はい、たくさん来てくれました」
日菜「それで、それがどうかしたの?」
つぐみ「年に57回ってことは、最低でも毎週1回以上は珈琲を飲みに来てくれてるってことですよね?」
日菜「そうだね」
つぐみ「足しげく、習慣のように私のもとへ来てくれる……これって半分愛の告白ですよね」
日菜「それは違うんじゃないかな?」
つぐみ「どうしてですか?」
日菜「おねーちゃんが好きなのは珈琲で、つぐちゃんが目的でつぐちゃん家のお店に行ってる訳じゃないよ」
つぐみ「そうですかね。紗夜さんの照れ隠しだと思いますけど」
日菜「それはただの勘違いだね。間違いなく」
つぐみ「……そう、ですか……」
日菜「ごめんね、ここはあたしも譲れないから」
つぐみ「いえいえ、仕方ないことですから」
日菜(……やっぱりおねーちゃんが絡むとつぐちゃんは強敵だ)
つぐみ(流石日菜先輩……紗夜さんが絡むことにはすごく強い……)
日菜「…………」
つぐみ「…………」
日菜「そういえばさ」
つぐみ「はい」
日菜「おねーちゃんになに用意したの?」
つぐみ「誕生日プレゼントですか?」
日菜「うん。ちなみにあたしはパスパレのみんながくれたプラネタリウムのチケットと、都内で有名な美味しいケーキ屋さんのケーキだよ」
つぐみ「私はわんニャン王国の年間ペアパスポートと手作りケーキです」
日菜「そうなんだ。でもおねーちゃん、去年……去年だっけ? あれ……?」
つぐみ「去年でいいと思いますよ」
日菜「そっか。それじゃあ去年、友希那ちゃんに同じようなの貰ってたよ」
つぐみ「はい。日菜先輩と行ってとても楽しかったって言ってました」
日菜「でしょ? それと同じものをあげるのってどうなのかなぁ?」
つぐみ「違いますよ、日菜先輩。これは一度きりのチケットじゃなくて、今日から一年間使い放題のペアチケットです」
日菜「へぇ~」
つぐみ「こういうところは季節で催し物が変わりますし、何度行っても楽しいはずです。だから紗夜さん、きっと喜んでくれると思います」
日菜「そっかぁ」
つぐみ「それに義理堅い紗夜さんは、きっと私を一度目のフリーパスに誘ってくれると信じてます」
日菜「つぐちゃん、もしかして羨ましかったの?」
つぐみ「…………」フイ
日菜「誰にも言わないよ?」
つぐみ「……はい、実はちょっと……いえ、かなり……じゃなくて、すごく……」
日菜「そっか」
日菜(乙女だなぁつぐちゃんは)
つぐみ「わ、私のことは置いておいて、日菜先輩はどうなんですか?」
日菜「なにが?」
つぐみ「パスパレのみなさんから貰ったプラネタリウムのチケットって言ってましたよね?」
日菜「うん。みんながおねーちゃんと行ってきてって、さっきくれたんだ」
つぐみ「…………」
日菜「つぐちゃん?」
つぐみ「いえ……なんでもないです……」
日菜「ふーん?」
つぐみ(貰いものをプレゼントするのは、なんて言おうとしたけど……パスパレのみなさんの気持ちも入ってるものだからやっぱりそんなこと言えないよ……)
日菜(よく分かんないけど何かすごく真面目なこと考えてそう)
つぐみ「……ケーキ、美味しそうですね。すごく豪華な箱に入ってますし」
日菜「なんかすっごく有名なお店のやつで、朝から並ばないと買えないんだって。ウチのスタッフさんが事務所の伝手で話つけて用意してくれたんだ」
つぐみ「そうなんですね……はぁ……」
日菜「どしたの、急にため息吐いて?」
つぐみ「その、なんだか自信がなくなってきて……。そうですよね、赤の他人の私なんかよりたった一人の大切な妹の日菜先輩からの豪華なプレゼントの方が嬉しいに決まってますよね……って思っちゃいまして……」
日菜「そんなことないよー。おねーちゃん、基本的に物を貰うのは嫌がるっていうか、あんまり嬉しがらないんだ」
つぐみ「…………」
日菜「つぐちゃんのケーキ、手作りでしょ? そういう気持ちが入ってる物はおねーちゃんだって嬉しいって思うだろーし」
つぐみ「そう……ですか……?」
日菜「そーだよ、きっと! だから元気出して、つぐちゃん。つぐちゃんが元気ないと、あたしもおねーちゃんのことで張り合いがなくなっちゃうよ」
つぐみ「……そう、ですね。やる前から諦めてたらダメですよね!」
日菜「そーそー! 薫くんも言ってたよ。何もしなければ何も始まらないって!」
つぐみ「分かりました! ありがとうございます、日菜先輩!」
日菜「それでこそおねーちゃんのことが大好きなつぐちゃんだよ」
つぐみ「はい! 大好きです!」
――氷川家 廊下――
氷川紗夜「…………」
<ダイスキナツグチャンダヨ
<ハイ! ダイスキデス!
紗夜(ロゼリアの練習から帰ってきたら、妹と、親しい友人が私の部屋に勝手に入って何かをしていた)
紗夜(私のプライバシーはどこへ行ってしまったのだろうか)
<マケマセンヨ、ヒナセンパイ!
<アタシダッテマケナイヨ!
紗夜(……だけどなんだかとても仲良さそうにしているし、あの2人に見られて困るようなものも置いていないし……いいのかしらね)
紗夜「けど、入るタイミングを完全に逃したわね……」
<ア、コノボードニカザッテアルノッテ...
<シャシン、デスネ
紗夜(日菜と羽沢さんがあんなに親しくしているとは知らなかったし、急に入っても邪魔になるだけよね)
<...エ、コレッテ...
<ソ、ソンナ...サヨサン...
紗夜(だけど流石にギターは部屋に置きたい……どうすればいいのかしら)
<...
<...
紗夜「あら? 急に静かになったわ。……入るなら今がいいわね。それから一応注意もしておかないと」
――ガチャ
紗夜「ただいま。日菜、勝手に私の部屋に入らな……」
日菜「っ!」キッ
つぐみ「っ!」キッ
紗夜「……えっ」
紗夜(どうして私は2人にいきなり睨まれているのかしら……?)
日菜「おねーちゃん……これ、どういうこと……?」
紗夜「何の話? それよりも、私の部屋に勝手に……」
つぐみ「紗夜さん……これ、嘘ですよね……?」
紗夜「……はい? 羽沢さんもどうしたんですか?」
日菜「とぼけないでよ! このボードに貼ってある写真……っていうか、正確にはプリクラ!」
つぐみ「ロゼリアのみなさんとのツーショット写真もありますけど、これに関してだけはちゃんと話をして欲しいです……」
紗夜「プリクラ……ああ、今井さんと撮った」
日菜「っ!!」
つぐみ「そ、そんな……紗夜さん、本当に……?」
紗夜「どうしてそんなショックを受けた顔をしているの、あなたたちは?」
日菜「どうして!? おねーちゃん、こーいうの絶対に撮らないじゃん!?」
つぐみ「そ、そうですよ。何かの間違いですよね?」
紗夜「どうしても何も、それは私から今井さんにお願いして撮ってもらったものよ」
日菜「なっ……!?」
つぐみ「そんな……!」
紗夜「だからどうしてそんな衝撃的な告白をされたような顔を……」
日菜「あたしたちにとっては十分衝撃的だよ!!」
つぐみ「そうですよ! 少しは私たちの気持ちを考えてください!!」
紗夜(何故私が怒られる立場なのかしら……)
日菜「これ、どうしておねーちゃんの方からリサちーに頼んだの!?」
つぐみ「返答次第ではいくら紗夜さんといえど……!」
紗夜「別に深い理由はないわよ。というか、私に何をするつもりなんですか羽沢さんは」
日菜「深い理由もなく!? じゃあ、リサちーの隣にある燐子ちゃんとのプリクラは!?」
紗夜「それは……ええと、まず白金さんから相談されたのよ。人の多い場所に慣れたいから、少し付き合ってくれないかって」
つぐみ「それとこれとにどういう関係が……はっ、まさか付き合ってってそういう……!?」
紗夜「そのまさかが何のまさかは計り知れないけど、羽沢さんが考えていることではないと断言できるわ」
紗夜「白金さんにはプリクラというものに付き合ってほしいと言われたのよ。そういうところに行ってみれば少しは人混みが苦手なのも克服できるかもしれないから……と」
紗夜「仲間の相談は無下には出来ないわ。だから私は頷いたんだけど、私だってそういう場所には縁がなかったから、白金さんと一緒に行く前に今井さんに手ほどきを受けた。それが今井さんとのプリクラね」
日菜「じゃ、じゃあ、おねーちゃんとリサちーと燐子ちゃんの3人で行けばよかったじゃん!? どうして両方ともツーショットなの!?」
紗夜「今井さんと白金さんの予定が合わなかったのよ。幸い、私は2人の都合に合わせられたからそれぞれと行ったというだけ」
つぐみ「そんな……こんなことって……」
日菜「こんなの……あんまりだよ……」
紗夜「……2人がそこまで落ち込んでいる理由が分からないんだけど……というか、そもそも私の部屋に勝手に――」
日菜「だってだって!」
紗夜(……話を最後まで聞きなさい、と言いたい。けれどこういう時は日菜に思うだけ喋らせた方が早いかしらね……)
日菜「おねーちゃんの初めてがリサちーに盗られちゃったんだよ!?」
紗夜「やっぱり全部喋らせるべきじゃなかったわ」
つぐみ「紗夜さんの初めてが……うぅ……」
紗夜「羽沢さんも何を言っているんですか? 私は日菜の相手だけで手一杯ですよ?」
日菜「ああぁ……これであたしとプリクラを撮りに行ってもおねーちゃんに思われるんだ……」
紗夜『へぇ、日菜はこうするのね。今井さんはもっと上手だったけれど……まぁ、人それぞれよね』
日菜「って……」
紗夜「…………」
つぐみ「かといって……ちょっと拙くリードされる展開を期待しても……」
紗夜『羽沢さんはこういうのに慣れていないのね。でも白金さんよりは教えやすいかしら……少し物足りないわね』
つぐみ「って比較されて……」
紗夜「…………」
日菜「あたしはどうすればいいの、おねーちゃん!?」
つぐみ「私はどうしたらいいんでしょうか、紗夜さん!?」
紗夜「そっくりそのまま2人にその言葉を返すわよ」
日菜「その言葉を……」
つぐみ「返す……」
紗夜「……ええ」
日菜「…………」
つぐみ「…………」
紗夜「…………」
紗夜(そんなに難しい顔をして考えるようなことだったかしら)
日菜(『どうすればいいの』を返すってことは……?)
つぐみ(『あなたのためなら何でもしてあげるわよ』ってこと……!?)
日菜「……あは」
つぐみ「……えへ」
紗夜(……なんだろうか、何故だかとても嫌な予感がする)
日菜「おねーちゃんの気持ちは分かったよ! ね、つぐちゃん!」
つぐみ「はい! 順番なんて気にしてた私たちが間違ってました!」
紗夜「…………」
紗夜(どうしてだろうか、2人の言葉が私の中の何かにひっかかる)
日菜「とりあえずおねーちゃん、今度プラネタリウム行こ!」
紗夜「……まぁ、いいけど」
つぐみ「紗夜さん、一緒にわんニャン王国に行きましょう!」
紗夜「……ええ、いいですけど」
日菜「まったくもー、おねーちゃんってば恥ずかしがりの言葉足らずなんだから~!」
つぐみ「でもそういう優しくて照れ屋さんなところ、すごく素敵だと思います!」
紗夜(……安易に頷かない方がよかったような気がしてならない)
日菜「あ、そうだ!」
つぐみ「そういえばすっかり言い忘れてましたね」
紗夜「今度はどうしたのよ……」
日菜「おねーちゃん、お誕生日おめでとう!」
つぐみ「おめでとうございます、紗夜さん!」
紗夜「……ええ、そうだったわね。ありがとう、日菜、羽沢さん。それと……日菜もおめでとう」
日菜「ありがと!」
つぐみ「これ、私たちからのプレゼントです!」
紗夜(プラネタリウムのチケットとわんニャン王国の年間ペアチケット……)
紗夜(特に何の変哲もない物だけど、どうしてこんなにも嫌な予感がするのだろうか)
紗夜「ええと、ありがとう?」
日菜(おねーちゃんとプラネタリウム行って、スマイル遊園地にも行って、プリクラであたし色にして……えへへ、楽しみだなぁ~!)
つぐみ(紗夜さんと月一回わんニャン王国デート……ふれあいコーナーでわんわんしてニャンニャンして……犬耳とか付けたら私もたくさん撫でてくれて……ふふ、楽しみだなぁ)
紗夜(どうしてだろうか。何でもない言葉のはずなのに、何故かこう……身の危険を感じるというか、何か見えない欲望が私を取り巻いているような気が……)
日菜「ケーキもあるよ! はい、あたしとつぐちゃんからのバースデーケーキ!」
つぐみ「あ、私お茶淹れますね! こんなこともあろうかと色々家から持ってきてるので!」
紗夜「……ええ」
日菜「今年もよろしくね、おねーちゃん!」
つぐみ「今年もよろしくお願いしますね、紗夜さん!」
紗夜「そう、ね……よろしくお願いします」
日菜「あはは!」
つぐみ「えへへっ」
紗夜(……まぁ、気にしたら負け……なのかしらね……?)
後日、日菜ちゃんとつぐちゃんに色々と振り回されまくって、軽々しく頷いたことを後悔する紗夜さんでしたとさ。
おわり
今朝のおはガチャで紗夜さんの限定☆4が出て、「あ、誕生日にこれって紗夜さん俺のこと好きだな」とかなり気持ち悪いことを思いました。
そんな衝動で書いた話でしたすいませんでした。
お誕生日おめでとうございます、紗夜さん、日菜ちゃん。
白金燐子「夜光虫」
スマートフォンの時計には午前二時の表示。それを確認してから車の運転席に乗り込んで、バッグとスマホを助手席に放る。クラッチを踏み込んで、プッシュスタートを押し込んだ。
セルの回る音が二度してから、エンジンに火が灯る。遠慮がちな排気音が夜半の冷たい空気を震わせた。
『1』の数字の辺りで微かに揺れるタコメーターを見つめながら、やっぱり寒いのは嫌いだ、とわたしは思う。
季節は晩冬、二月の終わり。足元から身体の熱を奪っていく鋭い寒さも幾分和らいだとは言えども、夜中から明け方にかけては吐く息が真っ白に染め上げられる。手がかじかんでキーボードも思うように叩けないし、本当に寒いのは嫌いだ。
それに、わたしにとって冬は別れの季節だ。
一年前の今頃を思うと、今でもわたしの胸の中は色んな形がぐちゃぐちゃに混ざり合った気持ちで一杯になる。特に、温かな思い出が色濃く残る、この淡い青をしたスポーツハッチバックを運転している時は。
それでもこの車に乗り続けているのだから、わたしもわたしでいつまでも未練がましい女だと思う。
憂色のため息を吐き出す。それからシートベルトをして、わたしは家の車庫から車を出した。
◆
車の免許を取ったのは、二年前……大学一年生の春だった。
いつか免許は取るだろうけど車を運転することは多分ないだろう。最初こそはそんな風に思っていた。その気持ちが変わったのは、あこちゃんと行ったゲームセンターでのことだった。
「りんりん、NFOのアーケードバージョンが出るんだって! やりに行こ!」
そんな誘い文句に頷いて、二人で一緒にそれをプレイした。それから「一度やってみたかったんだ」とあこちゃんが言っていた、レースゲームで一緒に遊んだ。
それは群馬最速のお豆腐屋さんが主人公のゲームで、出てくる車の名前も全然分からなかったけど、それでもハンドルを握ってアクセルを踏み込むのが楽しかった。
その時に初めて実際の車を動かしてみたいと思って、それからすぐに車の免許を取った。そして、「新しく車買うから、今あるやつは燐子の好きに使っていいぞ」と、お父さんが今まで乗っていた車を譲り受けることになった。
淡い青色をしたスポーツハッチバック。かつて日本で一番売れていた車の名前を冠しているそれは、スリーペダル……いわゆるMT、マニュアルトランスミッションだった。
教習所では一応マニュアルで免許を取っていたから、道路交通法上は乗れる車。だけど流石に最初は怖かった。
「大丈夫だよ、今の技術はすごいから。この車はな、電子制御で発進のサポートとシフトチェンジ時の回転数を合わせてくれて……いやでもやっぱりそういうのは自分でやりたいっていうのもあるんだけどな? だけどやっぱりこういうのがあると楽だよ。だから大丈夫大丈夫」
そんなことをお父さんは言っていたけど、免許を取りたてで、車の種類も未だによく分からないわたしには何を言っているのか理解できるはずもない。
だから最初はお父さんに助手席に乗ってもらって運転していた。そうしてひと月も経つと、車の操作には慣れた。でもやっぱり公道はまだ少し怖かった。
そんな時にわたしのドライブに付き合ってくれたのが、紗夜さん――今は氷川さんと呼ぶべきか――だった。
「い、命の保証は出来ないけど……付き合ってください……」
「そんなものに私を巻き込むのね……」
氷川さんはそう言って呆れたような顔をしていたけれど、わたしが頼めばいつだって助手席に乗ってくれた。
わたしは運転席から眺める氷川さんのその横顔が好きだった。
ありがとうございます、やっぱり優しいですね。そう言うと、いつも照れたように「別に」と助手席の窓へ顔を向ける仕草が愛おしかった。
けれど、彼女がこの車に乗ることはきっともうないのだろう。
◆
わたしは夜中の道路が好きだった。人も車も少ないそこをマイペースに走るのが好きだった。今日も今日とて、習慣になっている午前二時過ぎのドライブだ。
国道を適当に北にのぼる。無心にクラッチを踏んでシフトを動かし、アクセルを踏み込む。窓の外を流れていく街灯や微かな家々の明かりを横目に、どこへ行くともなく、ただただ走り続ける。
けれども赤信号に引っかかって手持ち無沙汰になると、どうしてもわたしの視線はがらんどうの助手席へ向いてしまう。
そこにいるハズなんかないのに、それでももしかしたら、なんて愚かな期待を持ちながら、わたしの視線は左隣へたゆたう。だけどやっぱりそこには誰もいなくて、瞳には少し遠い助手席の窓の風景が映り込むだけ。
かぶりを振って、努めてドライブのことだけを考えるようにする。
いい加減今日の行き先を決めよう。そう思って、ナビのディスプレイをタッチした。
その途端、いつかの冬の一日が脳裏に蘇る。
あれは海に向かって鳥居が立つ神社に朝日を見に行った時のことだ。
あの日もいつものように氷川さんをわたしが迎えに行って、今日みたいに夜中の二時に出発して、茨城の大洗を目指した。
氷川さんは「こんな夜更けに出かけるなんて、あまり良いことだとは言えないわね」なんて言っていた。だけど助手席の横顔は少し楽しそうで、それがすごく可愛いと思った。
夜中の道路は空いていたから、わたしたちは午前五時前に目的地に着いてしまって、空が明るみ始めるまで駐車場でなんともない会話を交わした。エンジンは切っていたからどんどん車内の気温は下がるけど、家から持ってきておいた毛布にくるまって日の出を待っていた。
……あのまま時間が止まってくれていたならどんなに幸せだったろうか。
寒い寒いと震えながら笑っていたことも、海に向かう鳥居にかかる鮮やかな朝日も、車に戻るとフロントガラスが凍っていたことも、その氷が溶けるまで肩を寄せ合っていたことも、今でも手を伸ばせば届く距離にあったならどれだけ幸せだったろうか。
ナビやシフトの操作。そのために忙しなく動くわたしの左手は、助手席の氷川さんの一番近くにあった。
二人でナビと睨めっこしてはディスプレイに触れ、あるいは氷川さんがドリンクホルダーに手を伸ばした時にわたしがシフトを操作して、偶然重なる手と手。その時に感じられた、氷川さんの冷たかった右手の温もりが蘇ってしまう。
だけど今のわたしは一人きり。寂れた冷たい街灯の下、夜の空気を震わせる車の中にそんな温もりなんてない。何度助手席を見たってそこはからっぽだ。
考えないようにしていたのにまた氷川さんのことを考えてしまっている自分に自嘲とも落胆ともつかないため息を吐き出す。それから「今日は朝日でも見に行こう」と誰に聞かせるでもなく言葉にして、わたしは千葉に向かうことにした。
◆
北にのぼり続けた国道を、荒川を超えた先の交差点で右に曲がり環状七号線に入る。それからしばらく道沿いに走り続け、国道14号線、船橋という青看板が見える側道に入り、東京湾を沿って千葉を目指した。
東京を抜けるまではトラックやタクシーもそれなりに走っていたけど、千葉駅を超えて16号線へ入るころにはほとんどわたし以外の車は見当たらなくなった。
そのまま内房に沿って南下し続けて、木更津金田ICから東京湾アクアラインに乗る。
ETCレーンを通り抜け、3速でアクセルを踏み込み、HUDの速度表示が時速80㎞になったところで6速にシフトを入れる。右足の力を緩め、ほとんど惰性で走るように速度を維持した。
ナビのデジタル時計は午前五時だった。まだまだ朝日は遠くて、眼前に広がる西の空の低い場所には、少し欠けた丸い月が見える。
今日は朝日を見ようなんて思い立ったけど、わたしは朝が嫌いだ。習慣になっている夜中のドライブでは特にそう思う。
東から明るみ始める空。徐々に増えていく交通量。
夜が追い立てられて、わたしから離れていく。それを必死に追いかけようとしたところで、増えていく車のせいで思うように走れない。夜がどんどん遠くへ行ってしまう。どんなに手を伸ばしたって、懸命に走ったって、届かない場所へ行ってしまう。
だから朝が嫌いだ。わたしはきっといつまでも夜が好きなんだ。ずっとずっと、あの冷たい温もりに浸されていたんだ。
そんな子供みたいなわがままと未練を引きずって、わたしが操る車は海上道路を走る。
時おり助手席に目をやると、誰もいない窓の向こうには真っ暗な海が彼方まで広がっていて、少しだけ怖くなった。
それを誤魔化すようにオーディオの音量を少し上げる。なんとはなしにつけていたFMラジオから、昔映画にされたらしい曲が流れてくる。意識してそれに耳を傾けて、歌詞を頭の中で咀嚼する。
繰り返されていくゲーム。流れ落ちる赤い鼓動。心無きライオンがテレビの向こうで笑う。あんな風に子供のまんまで世界を動かせられるのなら、僕はどうして大人になりたいんだろう。
そうしているうちに、道路の両脇に灯された光たちが次々と過ぎていく。明らかに速度違反を取られるスピードで走るトラックが、右車線を駆け抜けていった。
遠くなるそのナンバーを見送りながら、わたしもあれくらい急げば、もがけば、いつかまた届くのだろうか……と少しだけ考えた。
◆
午前五時半前のパーキングエリアに人気は少なかった。二年くらい前に始まった改修工事も去年の春ごろにようやく終わって、東京湾のど真ん中に鎮座する五階建てのここには静寂が我が物顔でふんぞり返っている。
わたしは車を降りると、パーキングエリアの中に入っているコンビニでカップのホットカフェラテを買った。それから四階の屋内休憩所の椅子に座って、東の方角をぼんやりと眺める。
千葉方面に伸びる道路には白い灯りが煌々とさんざめいて、昔に遊んだ機械生命体とアンドロイドのゲームを思わせる。その仰々しさと機械的な外観が少し好きだった。
そんな話を氷川さんに振ったら、彼女はなんと答えるだろうか。
「何事にも限度があるし、好きなのは知ってるけどやりすぎはよくないわ」と、少し呆れたような口調でわたしのゲーム好きを咎めるだろうか。
「白金さんが好きなゲームですか。少し興味があるわね」と、乗り気で話に付き合ってくれるだろうか。
「私はここより、川崎の工場夜景の方がそれに近いと思うわよ」と、まさかの既プレイ済みでそんなことを言ってくるだろうか。
「ねぇ、どうですか……紗夜さん……」
小さく呟いて、また左へ顔を向けた。静まり返った、誰もいない空間が瞳に映る。海を一望できるこの休憩所にはわたしひとりしかいなくて、返事なんてある訳がなかった。
その現実を目の当たりにして、自分の心の中にあったのは諦観や寂寥、自嘲ともつかない曖昧な気持ちだった。
もうわたしの左隣には、愛おしい彼女の姿はない。一年前の冬に他でもないあの人から別れを告げられた瞬間から、ずっとそうだった。
始まりはわたしから。終わりはあの人から。言葉にすれば簡潔明瞭で、一方通行の恋路が行き止まりにぶつかって途絶えたというだけのお話。世界中のそこかしこに溢れかえっている、ごく平凡なお話だ。
そしてこのお話の中でのわたしは、さぞかし重たくて痛い女だろう。
別れを告げられて、泣くでも縋るでもなくそれを受け入れて、一年経った今でも温かな思い出を捨てられずにいる。ただ彼女との日々を忘れないように何度も何度も繰り返しなぞり続けている。
わたしは夜が好きだ。夜は見たくないものを包み隠してくれる。
痛みも後悔も、鏡に映る醜いわたしも、素知らぬ顔で隠してくれる。そして綺麗な光と温もりを持った思い出だけを際立たせてくれるから、より鮮明になった紗夜さんの残滓をわたしに感じさせてくれる。
こんなことをしていたって何も変わらない。今じゃ疎遠な最愛の人に再び相見えることもない。そんな現実を忘れさせてくれて、仄暗い灯りをわたしに与えてくれる。
だけどその灯りは朝日を前にするとあっという間に溶けていってしまうのだ。
朝は嫌いだ。夜の残滓がくれた幻を余すことなく照らし上げては蹴散らして、わたしがひとりぼっちなことをこれ以上ないくらいに思い知らせてくる。
いつまでも朝がやって来なければいいのに。そうすれば……わたしはずっと夜と寄り添い合って生きいけるのにな。
◆
気が付いたら東の空が明るみ始めていた。
知らぬうちにウトウトとしていたようだ。傍らに置いたカフェラテのカップに手をやると、半分ほど残っていた中身が随分冷えていた。
少しため息を吐き出して、カップを持って立ち上がる。そして近くの水道に中身を捨てて、空になった容器もゴミ箱に捨てた。少し申し訳ない気分になったけれど、今は冷たいものを飲む気力がなかった。
わたしは屋内休憩所を出て、エスカレーターで五階へ向かう。
五階は展望デッキと直に繋がっていて、エスカレーターを上りきると、早朝の海風が身を切った。首を竦めて小さく独りごちる。ああ、やっぱり寒いのは大嫌いだ。
微かに白くなる息を吐き出しながら展望デッキに出て、右手側の東の海に面している方へ歩いて行く。
何ものにも邪魔されない視界の先の彼方には、太陽が僅かに顔を出していた。
眩しいな、と呟きながら、展望デッキの最前列の手すりへと向かった。
板張りの床には露が降りていた。手すりのすぐ後ろにはベンチがあったけど、恐らくそこも濡れているだろうから、わたしは手すりに寄りかかる。
瞳を強く射してくる朝焼け。それを正面からただジッと見つめる。
徐々に太陽がその姿を現す。海の向こうの半円がだんだん大きくなっていって、やがて円形に近付いていく。そしていつしか水平線と切り離され、ぷっくりとした橙色の陽光が揺れる海面を強く照らしだした。
今日も夜が追い立てられた。そしてわたしが拒んだ朝がやってきた。
燃える日輪の光に写るわたしはどんな色をしているんだろうか。きっと仄暗い灯りなんてとうに霞んで、影みたいな暗い色をしているんだろう。
「……ああ、綺麗だなぁ」
朝が嫌いだ。でも、やっぱりあの朝焼けは好きだ。綺麗で、キラキラしていて、温かいから。
わたしもいつかはあんな光になれるだろうか。不意によぎったその問いに対して、きっと無理だろうな、と思った。
朝焼けを眺めたあと、わたしは駐車場に戻って車に乗り込む。
がらんどうの助手席が一番に目について、手にしていたスマートフォンとバッグを後部座席に放り込んだ。
クラッチを踏み込んで、プッシュスタートを押し込む。すぐにエンジンがかかり、暖房が足元から噴き出してくる。
車のフロントガラスは凍ってなんかいなくて、少しだけ曇っていた。エアコンの吹き出し口をデフロスターに切り替えると、すぐにそれもとれていった。
「……帰ろう」
わたしは呟いて、シートベルトを締める。サイドブレーキを下ろして、クラッチを踏んでシフトレバーを手にする。1速に入れてクラッチを繋ぐと、電子制御されたエンジンが少し回転数を上げた。
FMラジオではパーソナリティが天気の話をしている。木曜の夜を超えたら今年も冬が終わるらしい。
それくらいなら寒がりのわたしでもきっと我慢できそうだな。そう思いながら、朝焼けに照らされた二月の帰り道をひとりで辿った。
◆
冬が過ぎると、あっという間に桜の季節になっていた。
冬は寒くて大嫌いだけど、春は暖かいから好きだった。特に桜の木を見ると、氷川さんとの始まりのことを思い出して少しだけ胸が温かかくなる。
わたしたちの始まりもちょうど三月の終わり、桜の蕾が開きだしたころだ。
花咲川に沿った道にある少し大きな公園。そこの小高い丘のようになっている場所に、一本だけあるちょっと背の低い桜の木。そこでわたしは、氷川さんに募る思いの丈を打ち明けた。
それになんて思われるか、なんて返されるかが怖くてしょうがなかったけど、高校卒業という一つの節目を前に、わたしはなけなしの勇気を振り絞ったのだった。
その答えは嬉しいものだったし、それからの一年間は幸せな日々が続いた。……だからこそ、去年の冬に別れてからのわたしは暗澹たる気持ちを影のように引きずって歩き続けているのだけど。
けれど、もういい加減それも終わりにするべきだろう。
いつまでもいつまでも、彼女の影を探して俯いたまま歩いているんじゃ、いつかきっと転んでしまう。もうわたしも前を見て進むべきなんだ。
だから、始まりになったあの場所で、わたしは自分にケジメをつけようと思っていた。
家を出て、今ではもう懐かしい花咲川女子学園に続く道を歩く。
花咲川沿いの道にも桜がたくさん植えられていて、開きだした花弁を道行く人たちが見上げる。わたしはその中に紛れ、ただ目的の場所だけを目指して歩を進め続ける。
やがて目的の公園に辿り着いた。
この近辺では比較的大きな広場と滑り台が一番に目に付く。その脇を通り抜けて、小高い丘のようになっている場所を目指す。
普段の運動不足が祟って少し息が上がりそうだったけど、新緑と桃色の花びらを鮮やかに照らすうらうらとした陽射しが気持ちよかった。
やっぱり春は好きだ。温かくて、陽射しが気持ちよくて、またもう一度、新しくわたしを始められそうな予感を覚えさせてくれる。
その新しいわたしの隣にはもう氷川さんの影も形もないのかもしれない。けれどそれでいいのかもしれない。前を向くということはきっとそういうことなんだと思う。
でも、と少しだけ胸中で呟く。
(それでも、またどこかで紗夜さんと出会えたなら……素敵だな)
もしもそうなったら、その時は笑おう。疎遠になったこともとても近くなったことも関係なく笑おう。何の後腐れもなかったように、無邪気に笑おう。今日つけにきたケジメは、多分そういう類のケジメだ。
そんな決心を抱いたところで、丘を登りきる。
そこには二年前の今日と同じように背の低い桜の木があって、色づき始めた枝を春の風がそよそよと揺らしていた。
参考にしました
アンダーグラフ
『君の日、二月、帰り道』
『ユビサキから世界を』
https://youtu.be/3HKT-LyK0ts
りんりんの車
トヨタ カローラスポーツ
氷川紗夜「燐光」
私には恋人がいた。その相手はかつて同じバンドでキーボードを担当していた白金燐子という女性で、高校を卒業する時に彼女から愛の告白をされた。
目を瞑れば、今でもあの春の一幕を瞼の裏に鮮明に思い描ける。
花咲川沿いの少し大きな公園の、小高い丘の上の、ちょっと背の低い桜の木の下。
そこで、うつむき加減の顔を赤くさせた彼女から、静かな声をいつもより大きく震わせて、思いの丈を打ち明けられた。
その告白を受けて、私に迷いがなかったと言えば嘘になるだろう。私と白金さんは女性同士だ。世間一般において、同性愛というのはまだまだ理解が及ばないものだという認識がある。
けれど、白金さんの懸命な言葉を受けて、私はネガティブな印象を抱くことがなかったのも事実だった。
生徒会長と風紀委員長という関係。白金さんと私は、花咲川女子学園では大抵一緒にいたし、学校が終わっても同じバンドのメンバーとして共に行動することが多かった。
その時間は私にとってとても心地のいいものであったし、そんな彼女ともっと深い関係になるということを想像すると、温かな想いが胸中に広がった。
だから私は一生懸命な白金さんの言葉に頷いた。こんな私で良ければ、と。そうして私と白金さんはいわゆる恋人同士と呼ばれる関係になったのだった。
その温かな関係は、去年の冬に終わりを告げた。
◆
「寒いわね……」
大学の講義が終わって、駅へと向かう道すがら、私は巻いているマフラーに首をすぼめて小さく呟く。
今日はこの冬一番の寒さだと朝のニュースで言っていた。それを聞いて、私は今でも彼女のことを考えてしまうのだからどうしようもないと思ったことを思い出す。
別れを告げたのは私からなのに、事あるごとに、私は白金さんのことを脳裏に思い浮かべてしまう。今日みたいに冷たいビル風が吹き抜ける日なんかには、それが顕著だ。
「寒いの……本当に嫌いなんです……」と、静かな声が何をしていても頭によぎる。街中で見慣れた色と形の車を見かけるたびにそれを目で追って、そしていつまでも忘れられないナンバーとは違う数字をつけていることに気付いてため息を吐き出してしまう。
こんなに面影を探してしまうなら別れ話なんてしなければよかったのに。追い出せそうにない思考を頭に浮かべたまま、私は雑踏に紛れて足を動かす。
◆
私の脳裏に今でも特に強く根を張っている記憶があった。それは白金さんが乗っている淡い青色の車のことだとか、彼女と見た朝焼けだとか、そういう温かい記憶なんかじゃなく、私から別れを告げた日の記憶だ。
「もう、終わりにしませんか」
そっけない私の言葉を聞いた白金さんは、一瞬でくしゃりと顔を歪ませて、それからまた何ともないような顔を必死に作ろうとしていた。そんな様子を見ていられずに、私は目を逸らした。
「……はい、分かり……ました」
震えた声が私の鼓膜を揺らす。大好きな彼女の小さな声が、その時だけは絶対に聞きたくない音となって私を襲った。
けれど、放ってしまった言葉は取り消せない。冗談です、とも言える訳がない。私とて、それなりの覚悟を持って彼女に別れを切り出したのだから。
私が二十歳になるひと月前にした別れ話は、さんざん悩んだ割にあっさりと終わった。私と彼女の関係も、ただの知人というものにあっけなく戻った。それだけの話。
そう、ただそれだけの話のはずなのだ。それなのに、いつまでもいつまでも私の脳裏には白金さんの悲壮な表情と震えた声が張り付いている。
自分の胸の深い場所まで潜れば、私の本当の気持ちというものが見えてくる。けれど、私はそれに蓋をして見て見ぬ振りを貫くことにした。
何故ならこれは、この別れは、私たちに必要なものだったからだ。成人式を終えて、一つの節目として大人になった私たちには必要な別れだったんだ。
私たちはいつまでも子供のままじゃいられない。好きなものを好きだと言うのはいいことだと思うけれど、それにだって限度がある。特に、世間様から認められないようなことは。
だから白金さんをばっさりと振って、後腐れないように関係をなくす。彼女の傷付いた顔が私の胸を激しく切りつけたけど、これは必要な痛みなんだと自分に言い聞かせた。
これでいいんだ、これが私たちのあるべき姿なんだ。
……じゃあ、それからの私の行動はなんだろう。
寒いという言葉、冬という言葉を聞く度に、静かな声が脳裏をかすめる。
淡い青色の車を見かける度に、それを目で追い続ける。
誕生日でもないのに彼女からもらったペンダントを、ほこりの一つも付かないよう後生大事に部屋に飾ってある。
考えれば考えるほどに自分が愚かしくなるから、その行動の原理にも蓋をしておくことにした。
私たちがあの頃描いていた未来。いつかの冬の日に、朝日を待って彼女の車の中でずっと喋っていたこと。毛布に包まりながら、大学を卒業したら、就職したら、二人でああしようこうしよう。
そんなものは、もう二度と訪れることはないのだ。
◆
季節は気付いたら移ろっているもので、三月初めの木曜日を超えてから、日ごとに気温は高くなっていった。
私は寒いのも嫌いだけど、春もそこそこに苦手だった。
春は始まりの季節、とはよく言うもので、忘れたくても忘れられないことが始まったこの季節を迎えると、自分の感情が上手に整理できなくなる。
特に桜を見てしまうとダメだ。
麗らかで柔らかい陽射しに映えるソメイヨシノは、かつての私たちの関係を如実にあらわす徒桜だ。せっかく綺麗に咲き誇ったのにすぐに散ってしまうその姿を自分に重ねると、胸がキュッとして泣きそうになる。私が見えないように蓋をしたものを、これでもかと目の前に突き付けてくる。
……かつてはとても親しかった彼女。
けれど、私は彼女の名前を一度だって呼んだことはなかった。
いつでも名字に「さん」付け。私は名前で呼ばれているのに、どうしても私から同じように呼び返すことが出来なかった。
それには照れも含まれていたけれど、結局のところ、私は彼女へ踏み込むのが怖かっただけなんだろう。
約一年間の交際の中で、意図的に手を繋いだこともない。寒い季節は肩と肩が触れるくらい身を寄せ合ったこともあったけれど、それ以上身体的に接触したことはなかった。
偶然の接触ならあった。彼女の運転する車の助手席に乗っている時、私がナビに触れたりドリンクホルダーの飲み物を取ろうとして、ちょうど白金さんの左手と私の右手がぶつかるというようなことだ。
その時の手の温かさだとか柔らかさだとか、照れたようにはにかむ白金さんの横顔だとか、妙に熱を持ってしまう私の頬だとか、そういうことを思い出すと何とも言えない気持ちが心中に去来する。
いや、何とも言えないというのは私の臆病のせいか。
私はきっと嬉しかったんだろう。けれど、それを認めてしまうと自分に歯止めが効かなくなるような気がした。
これは世間一般では認められない関係だから、あまり踏み込んではいけない関係だから、と何重にも自制かけていたのだ。
そもそもの話、そんな風に思うのなら最初から告白を断ればよかったのだ。そうすればよかったのだ。それならきっと白金さんだってそんなに傷付かなかったかもしれないし、私だってこんなに彼女のことを――
「はぁ……」
行き過ぎた思考をため息で無理矢理止める。それから思うのは、やっぱり春は苦手だ、ということ。
今日は三月の終わり。二年前に、私が白金さんに告白をされた日だった。
今日も今日とて空は快晴で、春の温かな陽射しが容赦なく私の部屋に差し込んできていた。その窓からの光に心全部を暴かれそうになるのだから嫌になる。
もういっそ、全て白日の下に晒してしまおうか。
ふと思い立ったその考えが妙にしっくりと自分の腑に落ちた。もしかしたらの話だけど、目を逸らし続けるから気になるのであって、いっそ思い出もかつて言えなかった言葉たちも太陽の光に晒してみれば、それですっきり忘れられるのかもしれない。
そう思って、思索に耽っていた椅子から立ち上がり、私は部屋を出た。
◆
特に行き場所は決めていなかった。
朗らかな陽光を一身に受けて、まだ若干の冷たさが残るそよ風に吹かれながら、私は花咲川に沿って歩を進める。
川沿いに植えられた桜たちも徐々に蕾をほころばせていて、それを見上げる人たちがそこそこいたけど、私は桜には目もくれずに歩き続ける。
そうしながら、私の中で燻る記憶たちを開き直りにも近い形で取り出して、胸の中でじっくりと眺めてみる。
ある一つの記憶は桜色をしていた。
花咲川沿いの少し大きな公園の、小高い丘の上の、ちょっと背の低い桜の木の下での思い出。あの時に私の胸中に一番に浮かんだ感情の名前は、喜びだった。
ある一つの記憶は淡い青色をしていた。
「い、命の保証は出来ないけど……付き合ってください……」と、私の大好きな静かな声が揺れる。免許を取って、父親に車を譲ってもらったけど、まだ一人で運転するのは怖いから……という言葉に続いた誘い文句だった。
それに返した私の言葉は捻くれていたけど、その裏にあった気持ちは「彼女に信頼されているんだ」という嬉しさだった。
ある一つの記憶は橙色をしていた。
真冬の真夜中に淡い青色の車が迎えに来てくれて、もはや私だけの指定席になっている助手席に身を置いて、茨城の大洗に日の出を見に行ったこと。早く着きすぎて、二人で未来の話をしたこと。肩を寄せ合って、鳥居にかかる綺麗な橙色の朝焼けを見たこと。
その時の私は幸せで、ものすごく怖くなった。
ある一つの記憶は透き通った青色をしていた。
まだ誕生日には早いですけど、去年の分です。そんな前置きとともに渡された、青水晶のペンダント。私は照れてしまって、とても優しく微笑む彼女の顔を直視することが出来なかった。
そのペンダントは一度も身に着けることなく、今でも特別に大切な宝物として私の部屋に飾ってある。
ある一つの記憶は灰色をしていた。
別れを切り出した建て前は、世間では認められないことだから。けれど私の奥底にあった本当の気持ちはなんだったろうか。
そうだ、私はただ怖かったのだ。
白金さんとの日々はとても温かくて幸せで、ずっとこんな日々が続けばいいと、本当は心の底から願っていた。
だけど、物事にはいつだって終わりがつきものだ。諸行無常、盛者必衰。どれだけ美しい花が咲けど、それはいつか枯れてしまうし、知らぬ間に踏みにじられてしまうかもしれない。
それが怖くて怖くて仕方なかった。いつこの温もりが消えるとも分からないのが恐ろしかった。
白金さんに愛想を尽かされたら、世間から誹りを受けたら、この関係はきっとすぐに霧散する。それは元々の関係に戻るというだけのことだけど、私はもう幸せを知ってしまっていた。この幸せが奪われることでどれだけ自分が傷付くのか、寒い思いをするのか知ってしまっていた。
だから私は私自身の手で、その関係に終止符を打ったのだ。せめて傷が深くならないように、不意を打たれて死ぬほど惨めな思いをしないように、と。
ああ、と小さく口から漏れた呟き。自分を貶すための言葉が種々様々に混ざり合っていた呟きだから、その色は工業廃水を垂れ流したドブ川の色に似ていた。
なんてことはない。結局、私は自分が傷付きたくなかったのだ。その為に世界で一番大好きな人をみだりに傷付けたんだ。
一枚ずつ剥がしていった建て前。蓋を外した本当の気持ち。それを今さら直視して思うことは、なんて嫌な人間だという自己嫌悪。
一見筋の通ったような理由を重ねて、最愛の彼女を傷付けてでも守りたかったのは、私自身だったんだ。
そのくせ白金さんの面影を探し続けているんだから、本当にどうしようもない。
少し涙が浮かんできたのは花粉のせいにして、私は目元を一度拭う。それから始まりの公園に足を向けた。
目的の公園に辿り着くと、この近辺では比較的大きな広場と滑り台が一番に目に付く。その脇を通り抜けて、小高い丘のようになっている場所を目指す。
ここへ来た理由は、私自身に勇気と覚悟を持たせるため。今になってこんなことを思ったって遅すぎるのは分かっているけれど、それでも私は彼女に……今でも大好きなままの白金さんに、面と向かって謝りたかった。
今まで自分本位な気持ちでいてごめんなさい。傷付くことを恐れて、あなたを傷付けてごめんなさい。
これもただの自己満足だと思う。今では疎遠な関係の女に、今さらそんなことを言われたってきっと彼女は迷惑するだろう。だけど、これは私が白金さんに対してつけなければいけないケジメだ。
そんな決心を抱いて、坂を登りきる。
小高い丘には誰の姿もなくて、辺り一面新緑の木々に囲まれた中に、ポツンと一本だけ桜の木があった。あそこが始まりの場所だ。
私はその傍に歩み寄って行って、幹に手を置く。桜はまだ半分ほどしか咲いていなかった。
三月の終わり。かつて、白金さんに想いを告白された日と同じ日付。あの日もまだ桜は満開ではなかったことを思い出す。
「…………」
黙ったままその花弁を見上げる。そして、あの時に白金さんがどれだけ勇気を振り絞っていたかを想像する。
彼女は引っ込み思案で、いつも遠慮をする。生徒会長になって初めてやった全校集会の挨拶は散々な出来で、それでもそんな自分を変えようとひたむきに努力をしていた。そんな白金さんがここで告白に臨んだ覚悟や勇気というのは、私では到底及ばないほどに強く大きいものだったろう。
私も彼女のようになれるだろうか。名前の通り、夜のように暗く惨めな私でも、彼女のように凛とした光を持つことが出来るだろうか。
いや、そうならないとダメだ。ここに来て、彼女の大きな勇気に触れたのはそのためだ。どんなに惨めな思いをしようと、詰られようと、一生癒えない傷を負おうと、今度は私が白金さんに告白をするんだ。
建て前を全部脱ぎ捨てた気持ちで、今までのことの謝罪と感謝を伝えるんだ。
そして、もしも彼女がまだ僅かな慈悲を私に抱いてくれているのなら、その時は……
(……燐子さん。今でも私は、あなたのことが大好きです)
……ようやく掴んで吐き出した自分の弱さの底の底にあるこの言葉を、いつかあなたに伝えられますように。
春の風が吹き抜けた。五分咲きの桜の枝がそよそよと揺れる。それに紛れて、後ろから控えめな足音が聞こえた。きっと桜の見物客だろう。
ケジメはもうつけた。この先のことは私の覚悟次第だ。
木の幹から手を離す。見物の妨げになるだろうから、邪魔者はもう帰ろう。帰って、一年と少し振りに白金さんにメッセージを送ろう。
そう思い、桜に背を向けて、私は一歩を踏み出した。
おわり
参考にしました
アンダーグラフ
『君の声』
https://youtu.be/uSPIuZiXFC8
まったく関係ありませんが、バンドリ2期最終回良かったです。新曲の発売日が待ち遠しいです。
市ヶ谷有咲「いい加減にしろ」
※ >>29と同じ世界の話です
――有咲の蔵――
山吹沙綾「…………」
戸山香澄「…………」
沙綾「……香澄、いい加減折れたら?」
香澄「やだ。そっちこそ折れてよ」
沙綾「それは無理」
香澄「さーやの分からず屋」
沙綾「香澄だけには言われたくない」
香澄「ふん、知らないもん」
沙綾「なんでこんなに頑固なのかなぁ」
香澄「それこそさーやにだけは言われたくないよ」
沙綾「はいはいそうですか」
香澄「さーやのバカ」
沙綾「言うに事欠いてバカ? バカって言う方がバカなんだよ?」
香澄「知らないっ」
沙綾「はぁー……」
香澄「……なに、そのわざとらしいため息は?」
沙綾「いいえ、別に?」
香澄「別にじゃないでしょ」
沙綾「はぁー、そう。そんなに気になるんだ。はぁー……」
香澄「なんでそんなイジワルするの?」
沙綾「別に? 私はイジワルしてるつもりなんてないよ?」
香澄「イジワルだよ。どう考えても嫌がらせみたいな感じだもん」
沙綾「香澄がそう思うならそうなんじゃない?」
香澄「ほら! そう言うってことはやっぱりイジワルなんじゃん!!」
沙綾「知らないよ。香澄がそう思うならって私は言っただけだし」
香澄「うぅぅっ……!」
沙綾「……ふんだ」
香澄「ああもう、分かった!! それじゃあ白黒ハッキリさせようよ!!」
沙綾「いいよ。こっちもいい加減、純みたいに拗ねた香澄の相手なんてしてられないし」
香澄「またそうやって子供扱いする!!」
沙綾「事実だし。私間違ったこと言ってないし」
香澄「さーやの方が子供っぽいじゃん!」
沙綾「そんなことありませーん」
香澄「ちょっと妹と弟がいてお姉ちゃんオーラバリバリだからって調子に乗らないでよ!!」
沙綾「香澄こそ、妹がいるくせに甘えたがりの妹オーラバリバリのくせに変なこと言わないで」
香澄「あーもう怒った! 私、完全に怒ったからね!」
沙綾「私はもうとっくに怒ってるけどね。香澄よりも断然早く怒ってるからね」
香澄「でも怒りレベルはこっちの方が上だから!」
沙綾「いやこっちの方が怒ってる時間長いから。私の方がレベル上だから。それなのに香澄に付き合ってあげてたからね?」
香澄「さーやいつも何も言わないじゃん! 言ってくれなきゃ分かんないもんそんなの! そんなこと言うならちゃんと怒ってよ! 一緒に怒らせてよ!!」
沙綾「言ってること無茶苦茶だからね。今回は香澄だって何も聞いてこなかったじゃん」
香澄「だって当たり前のことだもん!!」
沙綾「当たり前? はぁ、当たり前。へぇ、香澄は自分が当たり前だって思うことを平気で私に『当たり前』として押し付けるんだ? へぇ?」
香澄「だからどうしてそんなイジワルな言い方するの!?」
沙綾「事実を言っただけだし。イジワルじゃないし」
香澄「もう本当の本当に怒ったからね!? 知らないよ!?」
沙綾「私も知らない。朝ご飯はパンじゃなくて白米派の香澄なんて知らないよ」
香澄「何言ってるの、さーや!? 白いご飯は日本の特産だよ!? 日本のソウルフードなんだよ!? それなのにさーやが『朝は断然パンだよね』なんて言うからこうなったんじゃん!!」
沙綾「だって当たり前のことだし。時代は移ろうんだよ? 朝ご飯は白米なんていう固定観念に囚われてたら時間の流れに置いてかれるよ?」
香澄「そんなことないもん!!」
沙綾「そんなことありますからねー? 統計でも出てるからね? 今はパン派の方が多いんだよ? ほらほら、ここにそう書いてあるでしょ?」つスマホ
香澄「そのデータ古いじゃん! 2012年のやつって書いてある!! そんなこと言うなら……ほらこれ!! ご飯派は『絶対にご飯がいい』っていう固定ファンが多い統計もあるから!!」つスマホ
沙綾「やっぱり朝に白いご飯を食べる人は頑固な人が多いんだね。香澄みたいに」
香澄「さーやも十分頑固だからね!!」
沙綾「知らなーい」
香澄「分かった分かりました!! さーやがそう言うならこっちにだって考えがあるもん!!」
沙綾「つーん」
香澄「そんなそっぽを向いてられるのも今のうちだからね!! ちょっと待ってて、絶対に逃げないでよ!?」
沙綾「はいはい、絶対的な勝者のパン派は逃げるなんて臆病なことはしないから、早く行ってきたら?」
香澄「ふんっ、そんなことすぐに言えなくさせるから!!」
―しばらくして―
香澄「ただいまっ!!!」
沙綾「おかえり。遅かったね、そのまま逃げ帰ったのかと思ったよ」
香澄「さーや置いてひとりで帰るワケないじゃん!!」
沙綾「知ってる」
香澄「じゃあいちいちイジワルな言い方しないで! とにかく、コレ!!」つオニギリ
沙綾「はぁ、そのおにぎりがどうかしたの?」
香澄「食べて!」
沙綾「はー、そういう強硬手段に出るんだ? 言葉じゃ勝てないから実力行使に出るんだ? そんな手にいちいち」
香澄「今っ、有咲のおばあちゃんにご飯炊いてもらって、私が握ったやつだから!! 食べられないなら私が食べさせるよ!!」
沙綾「背中の傷はパン派の恥だからね。正々堂々受けて立つよ」
香澄「じゃあどうぞ! あーん!!」
沙綾「はぁー、仕方ないなぁホント。はむっ……」
香澄「どう!? 分かったでしょ!?」
沙綾「……いや、こんなおにぎり1個で分かれば苦労はしないからね? きのことたけのこは戦争しないからね? 香澄が直に手で握ってくれたっていう温もりは感じるけど、それとこれとは話が別だからね?」
香澄「そう言うと思ってまだあと3個用意してきてあるから!!」
沙綾「はー、出た出た。まーたそういうことするんだね? はぁー本当にもう、はぁー……」
香澄「さぁ食べて!!」
沙綾「はいはい、言われなくても食べるから。はぁ……食べやすいようにひとつひとつが小さく握られててちゃんと海苔も巻いてあって私の好みの塩加減になってるとか、白米派はやることがいやらしいなぁホント。はむはむ……」
香澄「お茶! ここに置いておくからね!!」
沙綾「それはどーも。はむはむはむ……」
香澄「どう!? これで分かったでしょう!?」
沙綾「いいや、分からないよ。白米の良さなんてこれから毎日香澄がおにぎり作ってくれなきゃ絶対に理解できないね」
香澄「いーよ、受けて立つよ!!」
沙綾「はぁー、ホント好戦的で困るなぁ。ここまでされたら私も黙ってるワケにはいかないじゃん」
香澄「なに!? まだ何か言いたいことがあるの!?」
沙綾「別に? 目には目をってことだけど? ちょっと待っててもらえる? まぁ、負けるのが怖いなら逃げてもいいけど」
香澄「さーやが待ってって言うなら死ぬまで待つに決まってるじゃん!!」
沙綾「その言葉、後悔しないといいね。それじゃあちょっと行ってくるから」
―しばらくして―
沙綾「ハァハァ……ちゃ、ちゃんと逃げないで……ハァ、待ってたね……」
香澄「当たり前だよ! そっちこそ、あんまり遅いから事故にでもあったんじゃないかってちょっと不安になってたからね!!」
沙綾「ハー、敵に塩を送ったつもりかな? 本当に卑怯だよね、香澄って……ハー、ハー」
香澄「そんな息も絶え絶えに言われたって心配しかしないんだから!! お茶飲んでさーや!!」
沙綾「言われなくたって……」ゴクゴク
香澄「それで!? はっ、その手に持ってるのはまさか……!」
沙綾「ぷは……そう、やまぶきベーカリーのパンだよ。それも私の手作りで焼きたての」
香澄「うっわぁ、さーやって本当にそういうズルい手ばっかりいつも使ってくるよね!? どうせ息を切らせてたのだってパンが冷めないようにって全力疾走してきたんでしょ!?」
沙綾「さぁ? 香澄がそう思うならそうなんじゃない?」
香澄「出た出たお決まりのセリフ!! ホントさーやズルい!!」
沙綾「いやいや、香澄には負けますからねー?」
香澄「どーいう意味!?」
沙綾「別に? それより、これを食べればいかにパンが白米より優れてるかって分かるから、覚悟が出来たらさっさと食べてもらっていいかな?」
香澄「ふん、そんなこと言う人のパンなんて」
沙綾「ああそうだ。私は香澄に強引に食べさせられたのに、香澄はそういう辱めを受けないのは不公平だよね。仕方ないから私が直々に食べさせてあげるよ」つパン
香澄「覚悟とは! 暗闇の荒野に進むべき道を切り開くこと! 受けて立つよさーや!!」
沙綾「威勢だけはいいね。それじゃあさっさと食べてくれるかな? はい、あーん」
香澄「あーん!! もぐ……!」
沙綾「分かったでしょ?」
香澄「……全然、ぜーんぜん分からないからね! こんなことで分かるならイヌ派とネコ派も戦争しないからね! いつもさーやからフワッて香る甘くていい匂いがギュッと詰まってるけど、それとこれとは全然関係ないからね!!」
沙綾「本当に香澄は分からず屋の頑固者だねー。まぁ、往生際が悪いのも想定内だし、まだまだたくさんパンはあるんだけど」
香澄「出たっ、さーやお得意の私のことはなんでも分かってますよーってやつ!! そういうところがズルいよね! パンだって食べやすいサイズに切り分けられてるし、甘いものから塩っぽいやつまで飽きないようにバリエーションが無駄に豊富で食べる人のことをちゃんと考えてあるし!! 本当にズルい!! もぐもぐ……!」
沙綾「牛乳はここに置いとくから。飲みたければ飲めば?」
香澄「またそうやって! 私がパンと一緒に牛乳飲むのにハマってることまで把握してるし!! もぐもぐもぐ……!」
沙綾「これで流石に香澄も分かったよね?」
香澄「何にも分かんないよ! これから毎日さーやの手作りパン食べなきゃ何にも分かんないもんね!!」
沙綾「いいよ。仕方ないから頑固で分からず屋の香澄が理解できるまで生涯付き合ってあげる」
香澄「聞いたからね! その言葉絶対忘れないからね!!」
沙綾「どうぞご自由に。私だってさっき香澄が言ったセリフ、何があっても絶対に忘れないから」
香澄「あーもう!」
沙綾「あーホント」
香澄「さーや大好き!!」
沙綾「香澄大好き」
……………………
――有咲の蔵 階段前――
市ヶ谷有咲「…………」
有咲「…………」
有咲「……いや、なんだよこれ。あいつら本当にいい加減しろよ」
有咲「はぁー……本当にもう……はぁぁぁぁ~……」
有咲「……りみんとこ行こ……」
おわり
なんだかんだポピパが一番好きで、その中でも特に沙綾ちゃんが好きです。
エイプリールフールの沙綾ちゃんの「元村娘の聖女」とかいう設定はとても妄想が捗ります。
でも白米派の自分とは相容れないだろうなーと思いました。そんな話でした。
大和麻弥「なんだろう、これ……」
※『パスパレのデートシミュレーション』と同じ世界の話です
――花音との同棲部屋――
――ガチャ
松原花音「あ、おかえりなさい」
花音「今日も1日お疲れ様。もうすぐご飯できるけど、お風呂とどっち先にする?」
花音「……うん? ど、どうかしたの? すごく暗い顔になってるよ……?」
花音「え? ……そっか。お仕事で辛いことがあったんだね……」
花音「ううん、謝らないで。いいんだよ、私の前でくらい謝ることなんかしなくても」
花音「……また謝って……大丈夫だよ。あなたのことを心配するのも、気を遣うのも、私は好きだから」
花音「ほら、先にお風呂に入ってさっぱりしてきちゃお? ね?」
花音「うん、いい子いい子……あ、ごめんね? 急に頭撫でたりして」
花音「あ、あはは……昔の話なんだけど、バンドの中で先生の役をやったことがあって……」
花音「なんだろうね。好きな人をね、子供みたいにあやすの……なんだか心が温かくなるから好きなんだ」
花音「……あやしてほしいの?」
花音「ううん、そんなに取り繕わなくて平気だよ。だって、嬉しいから」
花音「うん、嬉しい。あなたが私を頼ってくれるのが嬉しいんだ」
花音「えへへ、今夜はたくさん甘えていいからね?」
花音「うん、うん……いい子いい子。大丈夫だよ、私に寄りかかっても。まっすぐ歩けるように支えてあげるから」
花音「さ、それじゃあお風呂に行こっか?」
――浴室――
花音「はーい、それじゃあシャワーかけるよ~?」
花音「うん? どうかしたの?」
花音「……恥ずかしい? ふふっ、今さら恥ずかしがっちゃダメですよ~?」
花音「大丈夫だよ。私は服着てるし、ただあなたの頭と背中を洗うだけなんだから」
花音「……そうそう。ちゃんと言うことが聞けるいい子ですね~」
花音「お湯の温度は……うん、ちょうどいいかな。それじゃあ、いくよ~?」
花音「まずは頭を流すからね? 目に入らないようにちゃんと瞑ってるんだよ? 大丈夫? 瞑れてる?」
花音「……はーい、分かりました。流すよ~」
――シャァァ……
花音「お湯加減は大丈夫? 熱かったり冷たかったりしないかな?」
花音「ちょうどいい? うん、分かった。それじゃあこのまま続けるね」
花音「まずはてっぺんから前髪の方を……っと。よいしょ……」
花音「次は横の方……あ、耳に入らないように、ちゃんと耳も塞がなくちゃ」
花音「え? ああ、あなたはそのままで大丈夫だよ。私が片手で塞いでシャワーしてあげるから」
花音「はい、じゃあまず左耳から……ちょっと触るよ? 痛かったらすぐ言ってね?」
花音「あんまり力を込めないで……そーっと……よし……よし……っと」
花音「大丈夫? 水、耳に入らなかった?」
花音「……そっか。良かった。それじゃあ次は反対側だね」
花音「右耳もちょっとごめんね? うんしょっ……と……」
花音「……はい、それじゃあ最後は後ろの方まで流して……よし、こんな感じで大丈夫かな」キュッ
花音「それじゃあ、シャンプーしていくよ」
花音「髪を傷めないように優しくしないとね。まずは髪の毛全体に馴染ませるように泡を立てて」シュワシュワ
花音「……ん、こんな感じ、かな。じゃあ、しっかり洗っていくからね? 痛かったりしたらちゃんと言うんだよ?」
花音「……うん、しっかりお返事が出来るいい子ですね~、えらいえらい。はーい、それじゃあゴシゴシしますよ~?」
花音「え? 子供扱いしすぎ?」ゴシゴシ
花音「ふふ、ごめんね。なんだか今日のあなたがすごく可愛くて……」ゴシゴシ
花音「……別に嫌じゃないからいい? ふふ、そっか。ふふふ……」
花音「……ううん、何でもないよ。やっぱり可愛いなぁって思って。あ、ごめんね? 手が止まってたね」
花音「大丈夫。あなたは目を瞑って、何にも考えないでいいんだよ。私がちゃんと洗ってあげるからね。大丈夫だよー、そのままでいいんだよー……」ゴシゴシ
花音「ごしごし、ごしごし……」ゴシゴシ
花音「よいしょ……よいしょ……っと」ゴシゴシ
花音「どこか痒いところはありませんか~?」
花音「……耳の後ろ辺り? うん、分かったよ」
花音「耳に泡が入らないようにして……優しく優しく……」コシュコシュ
花音「撫でるように……よいしょ、よいしょ……」コシュコシュ
花音「……もう大丈夫? うん、分かったよ。それじゃあ、シャンプーも流していくね?」キュッ、シャァァ……
花音「ちゃんと目を瞑ってるんだよ~? お目々に泡が入ったら痛いからね~?」
花音「また頭の上の方から……下の方に優しく流して……」
花音「耳、また塞ぐね? うん、いい子いい子」
花音「ふんふんふーん……♪」
花音「あ、ごめんね? 鼻歌、気になっちゃった?」
花音「うん、なんかちょっと楽しくて……つい……」
花音「……もっと聴いてたい? そっか。うん、分かったよ」
花音「ふんふんふーん……♪」シャァァ……
花音「……よし、っと。流し終わったから、軽く拭いていくね?」
花音「だーめ。髪を拭くまでがシャンプーなんだから、大人しく言うことを聞かなきゃだよ?」
花音「……そう。ちゃんと言うことを聞けるいい子だね。大丈夫だよ、任せてね」
花音「あんまり強くやり過ぎちゃうと髪が痛むから……優しく、優しく」コシコシ
花音「髪、巻き込んだりしてない? 痛くない?」
花音「……平気? そっか、よかった。それじゃあ、頭全体を撫でる様にして……」コシコシ
花音「なでなで……なでなで~……」コシコシ
花音「……こんな感じ、かな。うん」
花音「どう? 少しはさっぱり出来た?」
花音「……ん、そっか。それならよかった。えへへ」
花音「それじゃあ次は背中だね。……あ、こーら。遠慮なんてしちゃダメですよ~?」
花音「大丈夫。私に全部任せてね。痛いことなんて何もないよ。辛いことなんて何もないよ。だから……ね?」
花音「……そうそう。素直ないい子だね。いい子いい子……」
花音「さぁ、背中も流すよー?」シャァァ……
……………………
――ダイニング――
――ガチャ
花音「あ、お風呂あがったんだね。さっぱり出来た?」
花音「……そっか。よかった。さ、そうしたら一緒にご飯食べよ?」
花音「ご飯を食べないと、頑張るための元気が出てこないからね。たくさん食べなきゃダメだよ?」
花音「ほら、私の隣に座って?」
花音「……え? どうして、って……あなたに食べさせるためだけど?」
花音「照れくさいからそれはちょっと? もぅ、そんな遠慮をしちゃいけませんよー?」
花音「はい、いい子だから……おいで?」
花音「……そう。ちゃんと言うことが聞けたね。えらいえらい」
花音「それじゃあ、何が食べたいかな?」
花音「すごく疲れてそうだったから、今日はさっぱりしたものをたくさん用意したよ」
花音「好きだもんね、さっぱりした食べ物。大丈夫、あなたのことなら私はなんでも知ってるからね?」
花音「私の前では何にも気にしないでいいんだよ。あなたが望むことだって分かっちゃうんだから、遠慮する必要もないし、気を張る必要もないんだよ?」
花音「……うん、それじゃあまずお豆腐だね」
花音「もみじおろし、ちょっとかけるよね? うん、大丈夫。ちゃーんと分かってるからね~?」
花音「それじゃ、はい。あーん」
花音「……どうしたのかなぁ? お口あーん出来ないのかな? まだちょっと恥ずかしがり屋さんなのかな?」
花音「大丈夫だよ。ここでなら誰もあなたのことを責めないんだよ。誰もあなたのことを傷付けないんだよ」
花音「だから、ほら……あーん、出来るかな? 出来るよね? ……ね?」
花音「……そう。いい子いい子」
花音「はい、あーん……」
花音「……おいしい? そっか、よかった。ふふっ」
花音「ううん、何でもないよ。それじゃあ次は何がいいかな? お豆腐のハンバーグ? それとも大根の和風サラダ? それよりも身体が温まる卵としいたけのスープの方がいいかな?」
花音「あ、急かしちゃってごめんね? ううん、今のは私が悪かったよ。ごめんね?」
花音「ゆっくりでいいよ。あなたが食べたいもの、あなたがして欲しいこと、ちゃんと言えるまでずっと待っててあげるから」
花音「時間とか、そういうのは何も気にしないでいいんだよ。私と一緒にいる時は、あなたの好きなペースでいていいんだよ。私はいつだってちゃんと隣にいるからね?」
花音「…………」
花音「……うん、スープだね。分かったよ。熱いから火傷しないように……」
花音「ふー、ふー……」
花音「……はい、あーん」
花音「大丈夫? 熱くなかった?」
花音「……ちょうどいい? そっか、ふふ。それじゃあ次は……しいたけとネギ、卵もしっかり掬って……」
花音「ふー、ふー……」
花音「はい、あーん」
花音「……上手にあーんできたね。えらいえらい」
花音「……次はハンバーグ? うん、分かったよ」
花音「ううん、気にしないでいいんだよ。私が好きでやってることだから」
花音「ここでなら、私になら、どんどんワガママを言っていいんだから。……ね?」
……………………
――寝室――
花音「疲れた時は早く寝るのが一番だよね。温かいお風呂に入って、温かいご飯を食べて、温かいお布団に入って……」ゴソゴソ
花音「……うん? どうかしたの?」
花音「え? 何をって……添い寝、だけど?」
花音「……こーら。さっきも言ったよね? 私には遠慮なんかしないでいいし、ワガママを言っていいんだよ?」
花音「辛い時はね、疲れた時はね、人肌に触れるのが一番効果的だってテレビで言ってたよ」
花音「だから添い寝だよ。嫌なことも辛いことも、今晩はぜーんぶ忘れちゃお?」
花音「……それとも、私とじゃ……イヤ、かな?」
花音「……そっか、心臓がどきどきして眠れなくなるくらい、嬉しいんだ。ふふ、そっかそっか。えへへ……」
花音「ううん、何でもないよ。それじゃあ、お邪魔しまーす」ゴソゴソゴソ
花音「……えへへ、温かいね」
花音「今年の春はまだ朝と夜が冷え込むもんね。あなたはどう? 寒くない?」
花音「……そっか、ちょうどいい温かさなんだ。よかった」
花音「でも……もっとこっちに来ていいんだよ? 私に背を向けないで、ぎゅーって抱き着いてきてもいいんだよ?」
花音「……そうすると本当に眠れなくなる? ふふ……大丈夫だよー。そうしたら、あなたが眠れるまで、眠くなるまで、ずっと背中をポンポンしたり、頭をなでなでしててあげるから」
花音「ね? だから……こっちにおいで?」
花音「……そうそう、いい子だね。ちゃんとこっちに向けたね。えらいえらい」ナデナデ
花音「あれ? お顔がちょっと赤いね? ……それは熱いせい? そっか。あなたがそう言うならきっとそうなんだろうね」
花音「ふふ、ごめんね? あなたがすごく可愛いからちょっとからかいたくなっちゃった」
花音「うん、ごめんごめん。大丈夫だよ、あなたが嫌がることなんて何もしないから」ギュッ
花音「大人しくギュってされたね。ちゃんと素直になれたね。いい子、いい子……」ナデナデ
花音「毎日毎日、お疲れ様。大変だよね。色んなことがあるもんね。でも、あなたはとっても頑張ってるんだよね」
花音「辛いことがあっても、嫌なことがあっても、ちゃんと頑張ってきたもんね。えらいえらい。大丈夫だよ。私はちゃんと、あなたがすっごく頑張ってること知ってるよ」
花音「誰にも理解されないなんてことはないんだよ。私はちゃーんと知ってるんだよ。だから安心してね? あなたのことをちゃんと分かってる人はいるんだから」ナデナデ
花音「んっ……急にギュってしてきたね?」
花音「ううん、責めてなんかいないよ。謝らないで? ここにはあなたの嫌いなものはないんだから。好きなだけ私の胸の中で甘えていいんだよ」
花音「……うん。大丈夫。大丈夫だよ。あなたが幸せな夢を見れるまで、私はずーっとずーっと、あなたのことをぎゅーってしてるからね」
花音「それだけじゃ足りないなら髪も撫でるし……」ナデナデ
花音「あなたが安心できるまで、背中をぽんぽんしててあげるから」ポンポン
花音「どっちをしてて欲しい? ……どっちもしてて欲しいの? ふふ、甘えん坊さんですねー?」
花音「ううん、いいんだよ。私は甘えん坊さんなあなたも、いつもすっごく頑張ってるあなたも、私を気遣ってくれる優しいあなたも、全部全部大好きなんだから」ナデナデ
花音「何があったって、あなたを嫌いになるなんてことはないからね?」ポンポン
花音「だから、私の前ではいいんだよ。無理をしないでいいんだ。カッコつけなくたっていいの。素直に甘えちゃっていいんだよ」ナデナデ
花音「大丈夫だよ。いいんだよ。あなたは毎日とっても頑張ってるんだから。えらいえらい」ポンポン
花音「もっともっとぎゅーってくっついていいんだよ。泣いたっていいんだよ。弱音を吐いたっていいんだよ」ナデナデ
花音「嫌なことは全部、忘れちゃおうね。大丈夫だよ。私の前でなら、子供みたいにワガママを言ったっていいんだよ」ポンポン
花音「大丈夫、大丈夫……」ナデナデ
花音「いい子、いい子……」ポンポン
花音「……もうおねむかな? いいよ、おねむなら寝ちゃおう」ナデナデ
花音「大丈夫だよ。眠っても、私は傍にいるよ」ポンポン
花音「大丈夫。ずっと、ずっと隣にいるから」ナデナデ
花音「今晩は目いっぱい休んで、また明日から頑張ろ? ね?」ポンポン
花音「また辛くなったら、疲れちゃったら、私がいるからね?」ナデナデ
花音「うん。いい子いい子。えらいえらい」ポンポン
花音「……うん、それじゃあ……おやすみなさい」ナデナデ
花音「幸せな夢を見て、たくさん癒されてね」ポンポン
花音「私はいつだってここにいるから……ね?」
――――――――――
―――――――
――――
……
――芸能事務所 倉庫――
大和麻弥(始まりはなんでもないことでした)
麻弥(予定されていたジブンの仕事が急遽延期になって、事務所にいてもやることがなかったんです)
麻弥(パスパレのみなさんは他の仕事ですし、手持無沙汰だったんです)
麻弥(だから、慌ただしく事務所の掃除をしていたスタッフさんに、軽い気持ちで言ったんです)
麻弥「ジブン、やることないんで何か手伝いましょうか?」
麻弥(……と)
麻弥(最初こそ「アイドルにそんなことをさせる訳には……」と言っていたスタッフさんですが、猫の手も借りたいような状況だったらしく、一番簡単に終わる、事務所の倉庫の整理をお願いされました)
麻弥(倉庫には昔使った舞台衣装や台本なんかが乱雑に置かれていて、それを種類別に整理整頓することがジブンのミッションでした)
麻弥(こういうことは学校の演劇部でもやり慣れていますし、別に大した苦労もなく作業は終わりました)
麻弥(けど、乱雑に積まれた台本の中に1冊だけ、やけに埃を被っていないものを見つけてしまったのが……多分、運の尽きだったんだと思います)
麻弥「なんだろう、これ……」
麻弥(表紙も背表紙にも何も書かれていない水色の台本。ジブンはなんとはなしに、それを開き、そして言葉を失いました)
麻弥(そこには、ある特定の人物とデートしたりだとか、姉妹になったりだとか、とことん甘やかされたりだとか……そんなシチュエーションが非常に多岐に渡って書き込まれていました)
麻弥(効果音の指定や演技指導まで事細かに但し書きがされていました)
麻弥(……そして、この台本の主役となるだろう人物や、書き込まれた字、脇に書かれたおどろおどろしいウサギやハートの絵に、どこか見覚えや心当たりがありました)
麻弥「まさか、そんな……」
麻弥(これ以上見てはダメだ。そう理性がジブンに語りかけますが、しかし、怖いもの見たさという本能は本当に恐ろしいものです)
麻弥(……何故なら、背後で倉庫の扉が開いた音にも、ジブンに忍び寄る足音にも気付かないくらい、その本を覗き込んでしまっていたのですから)
???「麻弥、ちゃん?」
麻弥「ヒッ……!?」
麻弥(氷のような温度の言葉が背中に突き刺さりました)
麻弥(マズイ、逃げなければ。そう思ったけれど、ジブンの身体は先ほどの言葉によって身動きが出来ないほど固まってしまって、それが出来ませんでした)
???「その手にあるのは……そう。それを見てしまったのね。ふふ、仕方ない麻弥ちゃんね……ふふ、ふふふ……」
麻弥(聞き覚えのある声でした。けど、脳が理解することを、推測することを拒みました。本能が、それ以上考えたら死ぬぞと警鐘を打ち鳴らしていました)
???「知られてしまった以上、ただで帰す訳にはいかないわね。……さぁ、こっちへいらっしゃい?」
麻弥「ひっ、ひっ……!!」
麻弥(ジブンの肩に手が置かれて、振り返るとそこには、悪魔の笑みがあって――)
麻弥(――次に気が付いた時には、いつもの会議室の椅子に座っていました)
麻弥(辺りを見回すと、千聖さんが何かの雑誌を読んでいる姿が目に入りました)
白鷺千聖「あら? おはよう麻弥ちゃん」
麻弥「え、あ、は、はい……おはようございます……?」
麻弥(千聖さんはジブンの視線に気付くと、雑誌を閉じて穏やかな微笑みをこちらへ向けてきました。それに曖昧な挨拶を返します)
千聖「麻弥ちゃん、さっきから椅子に座ったまま眠っていたわよ?」
麻弥「えっ、そ、そうだったんですか?」
千聖「ええ。私が来てから15分くらいしか経ってないけど……でも、うなされていたわ。もしかして疲れてるんじゃないかしら?」
麻弥「あ……えーっと……」
千聖「……それとも」
麻弥(なんてことない千聖さんの言葉と笑顔。それが何故だか急にスッと熱を失って、ジブンの喉元に突き付けられた気がしました)
千聖「なにか、怖い夢でも見ていたのかしらね……麻弥ちゃん?」
麻弥「い、い、いえ! た、多分昨日遅くまでライブの動画を見てたせいで疲れてたんだと思います!!」
麻弥(理性と本能が同じことを伝えてきます。『何も思い出すな。何も考えるな』と。だからジブンは迷わずそれに従いました)
千聖「……そう。駄目よ、麻弥ちゃん。好きなのは分かるけど、体調管理も仕事の一環なんだから」
麻弥「は、はい、以後気をつけます!!」
千聖「そんなに畏まらなくてもいいのに。おかしな麻弥ちゃんね、ふふ……」
麻弥(千聖さんはそう言って笑いました。それは、いつもの笑顔と言葉でした)
麻弥(だからジブンはジブンに言い聞かせました)
麻弥(今日は事務所の倉庫の整理なんてしていない)
麻弥(千聖さんの言う通り、仕事が延期になって手持無沙汰のジブンは、疲れから会議室でうたた寝してしまっていたんだ)
麻弥(それ以上もそれ以下もないんだ……と)
千聖「ふふふ……うふふふ……」
おわり
バックステージパス2のかのちゃん先生が自分の中の何かに火をともしました。
そんな話でした。全体的にごめんなさい。
氷川紗夜「ある夏の日の話」
高校三年生の夏は想像以上の忙しさだった。
蝉の大合唱をBGMに照り付けられたアスファルトを踏みしめながら、私は人生で十八回目のこの夏の記憶を掘り起こす。
まず第一に、受験勉強。
私には明確な将来の目標がなかった。双子の妹である日菜のように、アイドルとして天下を取るだなんていう崇高な、ともすれば酔狂とも表現される夢というものがなかった。頭の内にあるのは、人並みの仕事に就いて人並みに幸せでいること。それだけだった。
だから、担任の先生から勧められた国立大学を目指すことにして、日々勉学に勤しんでいる。
次に、ロゼリアのこと。
私たちの音楽に言い訳はない。ある程度の考慮はするけれど、やるからには徹底的にやりきるのが私たちのやり方だ。ロゼリアというバンドが頂点を目指すと決めた以上、妥協は許さず、私たちの音をとことん追求している。
高校最後の夏休みだってそれに変わりはない。気の置けない親友たちと共に、日々練習やライブに精力的に取り組んでいる。
それから、風紀委員の仕事。
学年も一番上になって、私は風紀委員長になった。当然それだけ責任も仕事も増す。それと、生徒会長になった白金さんが困っていればそれを放ってはおけないから、生徒会の仕事も少し手伝うようになった。
ただ、今は八月の半ば。夏休み期間中は特にやることもないので、現状ではこれに割く時間は少ない。
この三つが交互に入れ替わり、時には一緒になってやってくる夏の日々。確かに忙しいは忙しいけれど、それでも私は毎日が充実していると感じていた。この日常を楽しいと思っていた。
けれど、往々にしてそういう時こそ自分自身の体調を気にするべきだという思いがある。
弓の弦と一緒で、常に張りつめていたのであれば、いずれ緩みきって矢を放てなくなってしまう。もしくは引きちぎれて、使い物にならなくなってしまうかもしれない。
大切なのはメリハリだ。やる時は全力で物事に取り組む。そして、休む時はしっかり休む。何事もそういう緩急が大切なのだと私は常日頃から思っている。
ここ一週間は塾やスタジオに入り詰めで、ずっと肩に力を入れてきた。だから今日一日はしっかりと休み、また明日からの英気を養う日だと決めてある。であれば徹底的に気を休めるのが今日という日の正しい在り方だし、そのためにはまず落ち着ける場所に行くことが大切なのだ。
そんな言い訳じみたことを頭に浮かべながら、私は茹だる炎天下の中、商店街に足を運んでいた。
◆
もう目を瞑っていてもたどり着けるのではないか、というほどに歩き慣れた道を往き、商店街のアーチをくぐる。通りにはいつもよりも人が多く、左右の軒先を見渡してみると、お店の人や街行く人も、どこか活気に溢れているような気がした。
それらの人々を横目にまっすぐ歩き、北沢精肉店のある十字路を超えるとすぐに目当ての場所が目に付いた。私は迷わずにそこへ向かいお店のドアを開く。
カランコロン、とドアに付けられた鈴の音。それから、いつもの明るい「いらっしゃいませ」の声に出迎えられる。
「あっ、紗夜さん。こんにちはっ」
「ええ。こんにちは、羽沢さん」
続いた挨拶がどことなく嬉しそうに聞こえたのは、きっと自分の自惚れと勉強疲れのせいだろう。そう思いながら、朗らかな笑顔を浮かべて出迎えてくれた羽沢さんに、私は会釈と挨拶を返した。
「ご案内しますね」
「はい」
エプロンをつけた羽沢さんは、私を先導してぱたぱたと軽い足取りで空いている席へ向かう。その姿をぼんやり眺めながら後に着いていくと、言葉にするのが少し難しい気持ちが胸中に訪れる。
それは意識的に無視しつつ、「こちらへどうぞ」と案内された席へ腰を下ろす。そんな私を見て、羽沢さんはまたニコリと微笑んだ。
「今日は塾もバンドもお休みなんですか?」
「ええ。先週は毎日どちらかの予定が入っていましたけど、今日はお休みです」
「そうなんですね。いつもお疲れさまです、紗夜さん」
「いえ、羽沢さんこそ」
軽く手を振って言葉を返すと、羽沢さんはどこか照れたようにはにかんだ。その表情を見て、肩に入っていた余計な力や身体の奥底に溜まっていた疲れというものがスッと抜けるような感覚がした。
(……私はここへ何をしに来ているのかしらね)
そんな軽い自嘲で自分の本心には目をやらないようにしつつ、メニューを手に取る。
「お決まりですか?」
「そうね……」
頼むものは実はもう決まっていた。けれど私は迷うような素振りをして、メニューの上に目を滑らせる。どうしてそんなことをするのか、という自問がまた頭をもたげるけれど、「ふむ……」なんてわざとらしい呟きでそれも押し殺すことにした。
「すいませーん」
と、そうしているうちに、二つ隣のテーブルから羽沢さんに声がかけられる。
「あっ、はい。少々お待ちください。……ごめんなさい、他のお客さんに呼ばれちゃったので……」
「私のことは気にしないで。ゆっくり考えていますから」
「すいません。……お伺いしまーす!」
ぺこりと頭を下げて、羽沢さんはパタパタと呼ばれた席へ向かう。その後ろ姿を見送りながら、本当に私は何をしているんだろうか、と呆れたように苦笑した。
◆
「はい、ご注文の紅茶とチーズケーキ、お持ちしました」
「ええ、ありがとう」
私の元へ戻ってきた羽沢さんに注文を伝えて、それからフロアを忙しなく動き回る彼女の姿を目で追っていると、思ったよりもすぐに頼んだものが運ばれてきた。恭しくテーブルにカップの乗ったソーサーとお皿を置く羽沢さんにお礼を言ってから、私は改めて店内を見回す。
お店の壁にかけられた時計は午後二時を少し回ったところ。この時間なら空いているだろうと思って来たのだが、どうやら今日はお客さんが多いようだ。
「すいません、忙しい時間に」
「い、いえいえ! いつもこの時間はそんなに忙しくないんですけど、その、偶然お客さんが重なっただけなので!」
慌てたように手を振りながら、羽沢さんは言葉を続ける。
「それに、ちょうど紗夜さんと入れ替わりでほとんどの方が帰ったので……今はもう暇ですから」
「そうですか」
それは良かった、と返そうとして、その返答は色々な意味でどうかと思い口を閉ざす。けれどこれだけだと何か羽沢さんを邪険にしているようにも聞こえる気がしたので、私は急いで頭の中で続く言葉を探した。すぐに当たり障りのない話題を見つけたから、それを手早く言葉にする。
「そういえば、今日はなんだか商店街が活気づいていますね」
「あ、そうなんです。実は明後日にお祭りがあるんですよ」
「お祭り……ああ、そういえば日菜が何か言っていたわね」
商店街にほど近い、花咲川のとある神社で行われるお祭り。あたしはパスパレの仕事で行けないんだ~、というようなことをさして残念とも思っていないような様子で話していた、先月の日菜の姿を思い出す。
「花火が綺麗……らしいわね」
「はい。私も去年はアフターグロウのみんなと行ったんですけど、本当にすごく綺麗で……」
羽沢さんは私の注文の品を乗せていた丸いトレーを胸に抱いて、どこかうっとりした様子で目を閉じる。きっとそのとても綺麗だった花火を脳裏に呼び起こしているのだろう。
そんな彼女の様子を眺めながら、私も頭の中に色とりどりの鮮やかな花火を思い描いてみる。
人のあまりいない神社の境内の隅で、夜空に目を向ける。しばらくシンとした夏の夜の空気が漂うけれど、すぐに遠くから明るい光が打ちあがり、やがて轟音とともに大きな火の花が咲く。それをしみじみ眺めている私。そしてその隣には、目を輝かせた羽沢さんがいて――
と、そこまで考えて気恥しくなったから、私は小さく咳ばらいをした。
どうして花火を見上げるところを想像したのに羽沢さんのことまで鮮明に思い描いたのか。まったく、やっぱり私は勉強疲れでどうにかしているのかもしれない。
「羽沢さんは今年もアフターグロウのみなさんと行くんですか?」
誤魔化すように羽沢さんに言葉をかける。
「……いえ、今年はみんな予定が入っちゃってるみたいで……私は何にもないんですけどね。でも一人で見に行くのもなぁって感じです」
彼女は残念そうに肩を落としながら言葉を返してくれる。その顔には寂しげな表情が浮かんでいて、そういう顔を見てしまうと、私はどうしようもないくらいにどうしようもないことを考えてしまう癖があるのを最近少しだけ自覚した。
「それなら」
そのどうしようもない思考は私の口をさっさと開かせてしまう。いけない、と思ってすぐに口を閉ざしたけど、言いかけた言葉はあまりにもはっきりと響きすぎてしまっていて、羽沢さんにはしっかり届いてしまっているようだった。きょとんと首を傾げられ、私は観念したように――あるいは赤裸々な望みを誤魔化すように、わざとらしく大きく息を吸って続きの言葉を吐き出す。
「羽沢さんさえ良かったら、一緒に行きませんか?」
「一緒にって……お祭りに、ですか?」
「ええ。羽沢さんが嫌なら――」
「い、いえ! そんなことないですっ!」
やはり私とでは嫌だったろうか。不安になりながら続けた言葉が、大きな声に遮られる。
羽沢さんは「あっ」と片手で口を押えて、その頬を少し赤くさせた。それは思ったよりも大きな声が出たことを恥ずかしがっているのか、それとも何か別の理由で頬に朱がさしたのか……と、私はまたどうしようもないことを考えてしまった。
「え、えっと、紗夜さんが一緒に行ってくれるなら……はい。私もお祭りに行きたいです」
続けて放たれた言葉の真意を探ろうとして、すぐに止めた。それを考えたって仕方のないことだろう。
「それでは、一緒に行きましょうか」
「は、はいっ」
私の言葉に羽沢さんは大きく頷く。まだその頬には朱の色が淡く残っていた。
◆
お祭りの当日は、午後六時に羽沢珈琲店で待ち合わせだった。羽沢さんは夕方くらいまでお店の手伝いがあるし、私だって遊びに行く分いつも以上に勉強をしなければいけなかったから、ちょうどいい時間だと思っていた。そう、思っていた。
「……思っていたのだけど……ね」
しかし今の私の心境はどうだろうか。
朝、目が覚めてからはよかった。羽沢さんとお祭りに行けるということが私にやる気を与えてくれて、いつも以上に集中して机に向かえていたと思う。けれど、時計の針が中天を指し、そこから段々右回りに落ちていくと、どんどん私は落ち着かなくなってしまっていた。
今の時刻は午後三時前。数式を解く際も、英文を訳す際も、どうにも頭の中に何かがチラついてしまい、集中が出来なくなっている。
私はため息を吐き出して、持っていたシャープペンシルを勉強机の上に放る。そしてもういっそ開き直ってしまおうと、広げていた参考書を片付けた。
(集中できない時に無理をしても効率が悪いわ。今日はもう辞めにしよう)
そんな言い訳じみたことを頭の中で呟いて、部屋に用意しておいた浴衣へ目をやる。羽沢さんは浴衣を着ていくと言っていたから、私も急いで準備したものだ。
ゆっくりとその深い紺色をした浴衣に近づいて手を触れる。綿麻生地の触り心地が妙にくすぐったくて、私は余計に落ち着かなくなってしまった。
今の時刻は午後三時を少し過ぎたころ。羽沢珈琲店までは歩いてニ十分ほどだから、まだまだ準備をするには早すぎる。
だというのに、気付けば私は浴衣を手に持って、洗面所へ向かっていた。
午後六時の商店街はいつもとまったく違う様相を呈している。
至るところに提灯が下げられ、行き交う人々はほとんどが和を装い、夏の斜陽に長い影を作る。設けられたスピーカーからは賑やかなお囃子が流されて、それに合わせてご機嫌な足音を奏でる子供たちが駆けていった。
その中を、紺色の浴衣を纏った私は、目的地へ向けて下駄をカランコロンと転がしながら歩く。
やっぱり落ち着かない気分だった。それは普段は着ない浴衣を纏っているせいなのか、履き慣れない下駄を履いているせいなのか、珍しく頭の後ろで髪をお団子に結んだせいなのか、その全部のせいなのか。
そよ風が吹き、私のうなじを撫でていく。ほどよく温い、夏の風だ。
それにますます落ち着かない気分になる。そうしてそわそわしながら歩いていると、すぐに羽沢珈琲店が見えてきた。そして、その軒先に立つ浴衣の少女が目についた。
淡い水色の浴衣。両手で持った白を基調とした花柄の巾着袋。そして、やや俯きがちで、どこかそわそわしているような表情。
ああ、羽沢さんも私と同じなのかもしれないな。
そう思うと私の胸中は喜びによく似た感情の色で塗りたくられる。けれどそれが正確には何色なのかということは気にしないようにして、私は足早に彼女へ歩み寄っていく。
「すいません。お待たせしました、羽沢さん」
「あ、紗夜さん! いえいえ、こちらこそわざわざウチにまで来てもらっちゃって……」
声をかけると、淡い水色の上に艶やかな笑顔がパッと花開く。それを見て、多分私も同じように笑った。
それからお互いの浴衣姿を褒め合い、それに気恥しさとこそばゆさが混じった気持ちになりながら、私と羽沢さんは神社を目指す。
日暮れて連れあう街に、蝉時雨が降りそそいでいた。
ひぐらしの寂しげな声も、街ゆく人々の笑顔も、拳三つ分ほど離れて並ぶ羽沢さんも、全部がとても綺麗だな、なんて思いながら、私は羽沢さんと肩を並べて歩き続ける。
◆
神社の参道は多くの人で混雑していた。
境内へと続く参道の両脇には色々な屋台が幟を立てていて、それらから威勢のいい声が上がる。それが行き交う人々の喧騒と混ざり合う。なるほど、こういったことにあまり興味がない私ですら「花火が綺麗」だと知っているのだから、それほどこの花火大会は有名なんだろう。
羽沢さんとはぐれないようにしなくては、と思い、すぐに浮かんだ選択肢が『手を繋ぐ』というものだった。私は慌てて頭を振る。
「ど、どうかしたんですか?」
「いいえ、なにも。予想以上に人が多くて少し驚いただけですよ」
何を考えているんだ、と思いながら、私は羽沢さんに言葉を返す。
「そうですね……ここの花火って結構有名みたいですから。去年も人がたくさんいて、みんなとはぐれないようにするのが大変でした」
「私たちも気を付けましょう」
「はいっ」
そう言って、羽沢さんが拳一つ分、私との距離を縮める。それがまた私の中のおかしな感情を刺激してくるけど、努めて気にしないようにする。
「まずは……どうしましょう、紗夜さん」
「そうね。色々な屋台が出ているし、少し見て回りましょうか」
「分かりました」
こくんと頷き、羽沢さんは笑顔を浮かべる。それを見て私も笑った。
人混みをかき分けて、私たちは参道に連なる屋台を覗いて回る。
屋台は食べ物を出しているところが多かった。かき氷に綿菓子、焼きそばにお好み焼き……それぞれの屋台に近付く度に、夕風に乗って、夏の匂いと種々様々の食べ物の匂いが運ばれてくる。
少しお腹が減ってきたな、と思ったところで、「くぅ」という可愛らしい音が隣から聞こえてきた。羽沢さんを見ると、彼女は顔を赤らめながら、照れ笑いを浮かべていた。
「あ、あはは……その、お祭りで食べるかなって思って、お昼あんまり食べなかったので……」
「……ええ、その気持ちは分かるわ。私もあまりお昼は食べなかったから。何か食べましょうか」
「はい……」
お腹の音が相当恥ずかしかったのか、赤い顔と肩を落とす羽沢さん。その様子を見て、胸中には若干の申し訳なさと大きな慈しみが混ざったような感情が沸き起こった。私はこみ上げてくる穏やかな笑い声を喉の奥に押し止めながら、「何か食べたいものはありますか?」と尋ねる。
「えっと、その……たこ焼き、ですかね……」
羽沢さんは近くの屋台をチラリと見やる。そこには「たこ焼き」と書かれた赤い幟が立っていた。確かにそこからはソースのいい匂いがふわりと漂ってきていて、それのせいで羽沢さんのお腹の虫は元気よく鳴いてしまったのだろう。
「分かりました。……ふふっ」
なんだか今日の羽沢さんは一段と幼げだな……なんてことを考えていたら、とうとう押し殺しておいた笑い声が口から漏れてしまう。羽沢さんはそれを聞いて、勢いよく私の方へ赤くなった顔を向けてきた。
「さ、紗夜さんっ」
「ご、ごめんなさい……でも……ふふふ……」
謝るけれど、一度口から出してしまうと止まらなかった。申し訳なさと慈しみ、それと何か自分自身では計り難い気持ちのこもった笑い声が喧騒に溶けていく。「もう……」と羽沢さんはちょっとだけ拗ねたように口を尖らせて、それがやっぱりとても可愛らしく思えてしまう。
「ふぅ……。すいません、羽沢さん。思わず笑ってしまって」
そのいろんな感情が織り交ざった笑いもどうにか収まったころ、私は改めて羽沢さんに謝罪をする。
「……別にいいですよ? 紗夜さんが楽しそうで私も嬉しいですから?」
「……ふ、ふっ……」
けれど、また拗ねたような口ぶりでそんなことを言われてしまい、私の口からはやっぱり先ほどと同じものが漏れてしまった。
「紗夜さんっ!」
「ごめんなさい……一度ツボに入るとどうしても……ふふふ……」
「もう……くすっ」
「羽沢さんだって笑ってるじゃないですか」
「それは紗夜さんのせいですっ」
「ふふ……確かにそうね。それでは、お詫びと言ってはなんですが、たこ焼きは奢りますよ」
いつもよりもずっと子供っぽい羽沢さんの様子を見て、私は気付けばそんなことを言っていた。普段の姿とのギャップというものもあるのだろうけど、そういう姿を見ると、どうしても私は彼女を甘やかしたくなってしまうらしい。
「そ、それはちょっと悪いですよ」
「いえ、笑ってしまったのは私ですから」
「…………」
羽沢さん