正月の珍事
昭和12年1月8日付の朝日新聞夕刊に
『無残 名古屋城の金鯱 鱗58枚剥奪される』という記事が掲載されている。
この年の1月6日未明、
「名古屋城天守閣の頂上にある金鯱が盗難にあった」と名古屋城の管理室から警察署へ連絡があった。
この話を聞いた
警察関係者は「そんな馬鹿なことあるか」と嘲笑したという。なぜなら、名古屋城は50m近くもある大きな城で、
金鯱自体も2mもある巨大なもので盗めるはずがなかったからだ。
しかし、この時名古屋城は名古屋城下賜記念の事業を行っており(政府管轄だった名古屋城が名古屋市に返還された)、愛知県は名古屋城の秘密を探るべく実測調査中で観測に使われた
ハシゴやヤグラがそのまま残されていたため、泥棒がハシゴを利用して金鯱に近づくことができたのだ。
特に1月6日は年末年始の作業休みの日だったため、警備が手薄で泥棒の侵入を許してしまったのである。
泥棒は無人のヤグラに登り、金網を外し金鯱のウロコ部分をペンチのようなもので剥がしてしまったのだ。奪われた
ウロコは110枚のうち、58枚と半分近くが盗まれ(741匁分)ており、国宝である金鯱の金が盗まれた事件は全国の警察関係者の耳に広まった。
そして、正月事納めを待たずして捜査員が名古屋・大阪・東京・神奈川の都市へ飛んだという。
きっかけは名古屋刑務所の帰り道
懸命な捜査の末、容疑者のひとりとして
「佐々木」という大阪の男の名前が浮かんだ。
この佐々木、
窃盗の前科2犯の泥棒であり、昭和11年11月に名古屋刑務所から出てきたばかりだった。
佐々木は迎えに来た母親と一緒に帰るまでに名古屋見物を行い、名古屋城にも立ち寄った。佐々木は天守閣の上に輝く金鯱を観て「あの金は高く売れる」ことを確信。佐々木はその日のうちに母と大阪へ帰ったが、その晩から金鯱を盗む計画を立てはじめ出所から2か月後の1月4日の昼頃、再び名古屋へと帰ってきた。
そして、観光客で賑わう名古屋城へと忍び込み、
無人になる夜を待ち好機を狙ったという。
深夜、佐々木は金網(当時の金鯱には光沢を守るため網をかけていた)を壊しペンチを使い金鯱のウロコを奪い、午前2時ごろ発の夜行電車に乗り、大阪へと帰って行ったのだ。
懲役10年
あまりに堂々した犯行ゆえ、佐々木の身柄は事件発覚から20日後の1月27日に拘束された。
金のウロコは既に延棒にされ売却済みだったが、なんとか全てを回収することに成功した。
この騒動は当時の名古屋市長が責任をとって辞任する大騒動になっており、佐々木は再犯ということもあり懲役10年が言い渡された。
なお、佐々木以前にも金鯱を盗もうとした人物には
江戸時代の盗賊・柿木金助(大凧を使って金鯱を盗もうとした。朝日新聞にも「大凧の金助以来」と記述がある)のほか、東京へ輸送中に警備にあたっていた兵隊らがいる。
この
2名は犯行発覚後、死刑にされていることから重罪であったようだ。
なお、多くの泥棒が狙っていた金鯱は昭和20年の名古屋空襲の際、爆撃によりドロドロに溶かされ消失。一部は名古屋市役所の旗の冠頭および茶釜(丸八文様鯱環付真形釜)となって、今も名古屋市内を見守っているという。
参考文献:朝日新聞縮刷版、愛知県警察史
文:
穂積昭雪(昭和ロマンライター /
山口敏太郎タートルカンパニー /
Atlas編集部)
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