【モバマス】白雪千夜「足りすぎている」
箒を持ち直し、階段を上がろうとする私を、お嬢様はなおも引き留める。
「お戯れてなんかないよ、本気で言ってるの」
「本気であるなら、なおさらタチが悪いです」
知らず、ため息が出る。
お嬢様の悪い癖だ。どうやらまた始まったらしい。
「私にどうしろと仰るのですか」
「だから、さっきから言っているでしょう」
ウンザリとした態度を見せてしまう私を尻目に、お嬢様は愉快そうに胸を張ってみせる。
「すごく大手の芸能事務所らしいよ?
悪いことは言わないから、話だけでも聞いてみてあげたらどう? ね?」
「お言葉ですが、お嬢様はもう少し世間をお知りになるべきかと」
耳障りの良い口車に気を良くして、自らの素性だけでなく、私の事まで紹介してしまうなど――。
「そのような誘い文句は、男が女性をたぶらかすための常套句です。
お嬢様の魅力は確たるものとしてございますが、故に安売りすべきものではありません」
「あ、じゃあ私の方も、言わせてもらうけどね」
ぷくっと頬を少し膨らませて、お嬢様は私に顔を近づけてきた。
「千夜ちゃんはもっと自分を知るべきだよ」
「自分を、ですか」
「そう、千夜ちゃんは自分がいかに魅力的な人なのかを知らない。
一度きりの短い人生、それはすごく悲しいことなんだよ?」
「お戯れを」
首を振り、私は壁に掛かる時計を見上げた。
「その男は、何時にこちらに来るのですか?」
「そろそろ来るんじゃないかな。あっ、話聞いてくれる気になった?」
主の世話は従者の務め、とはいえ――余計な面倒ごとを嬉々として拾ってくるのは慎んでいただきたい。
まして、相手が男では何があるか知れない。御身は大事にしていただかなくては。
「それと、どんな男か、特徴を教えていただけると助かるのですが」
「あーっ! ちょっと千夜ちゃん!」
「自分のことは、自分が一番よく分かっています。お気遣いにはおよびません」
気まぐれを起こしたお嬢様を説き伏せることは難しい。
これ以上は不毛な議論になるため、私は階段を上がった。
「とにかく、すごく大きな人が来るから、ビックリして警察とか呼んじゃダメだよ。
それじゃあ、私出かけてくるね」
そうだった。
今日は麓の町へ出向き、4月から始まる学校の編入手続きをしに行くのだった。
本来であれば私と一緒に済ませるはずだったが、体調を崩されてしまい、お嬢様の分が先送りになってしまったのだ。
「行ってらっしゃいませ。どうかお気をつけて」
慌てて階下へ降り、お見送りをする。
おじさまの車に乗り込み、お嬢様が出て行かれると、途端に屋敷は静かになった。
少しの間だけでも空気の綺麗な所で静養された方が、お嬢様の身にも良いだろうという、おじさまと私の判断だった。
東京の住居の契約は、まだ行っていない。
いっそここから学校に通ったらどうかと、お嬢様を溺愛するおじさまのご提案もあったが、さすがに交通の難がある。
私はまだしも、お嬢様のお身体にはご負担になるだろう。
かといって、近ければどこでも良いという訳にもいかない。
おじさまと一緒に物件を探してみるが、私もおじさまの気がうつってしまったのか、どこにしても不安が残ってしまう。
まして奔放なお嬢様のことだ。危険がない所を探すことは難しい。
やはり、どこかで決断をするべきなのだろう――。
悩みから半ば目を背けるように家事に没頭するうちに、もう新年度が始まろうとしていた。
屋敷の部屋数は多く、床掃除には掃除機より箒の方が取り回しは利く。
一度、お嬢様がルンバを買ってきたことがあったが、物と段差が多いこの屋敷では限られた場所しか機能しない。精度も知れている。
黒埼家の従者となってしばらく経つ。
ブランクはあれど、この屋敷もルーマニアへ発つ頃と何も変わっていない。
私には、誰よりもこの屋敷の構造を理解しているという自負がある。
そう。私にはそれで十分だった。
人には分というものがあり、相応の役割がそれぞれにある。
華やかな夢に彩られた人生を送る人もいれば、それを支える人もいる。
何に価値を見出すのかは、自分が決めること。
だというのに、お嬢様の言動にはしばしば理解に苦しむものがある。困ったものだ。
第一、すごく大きな人が来るとか――何かとアバウトが過ぎる。
改めて嘆息しながら、お嬢様のベッドのシーツを直していた時、呼び鈴が鳴った。
招かれざる客が来たか――。
私は手短に最低限の身だしなみを調え、玄関に歩み寄ってドアスコープを覗き込んだ。
視界は真っ黒だった。
おそらく、その男のスーツだろう。ドアのすぐ傍に立っているとは、よほど勇んだ性格と見える。
お嬢様はああ言っていたが、いざという時は、その手合いを呼ぶことになるだろう。
私は覚悟を決めて、慎重にドアを開けた。
なるほど、お嬢様の言ったことは間違っていない。
私を待ち受けていたのは、まるで熊のように大きい男だった。
ドアスコープの視界が真っ黒だったのは、この男がドアのすぐ近くに立っていたのではなく、あまりに体が大きいために視界が塞がれていたからだと理解した。
「白雪千夜さん、ですね?」
私の名を確認しつつ、男は胸元から名刺を取り出し、その厳めしい体格とは不釣り合いなほど慇懃な姿勢で腰を折った。
「私は、こういうものです」
両手で丁寧に手渡された、その名刺に書かれた名前は――。
「……さんびゃく、よんじゅうろく、プロダクション?」
首を傾げる私に、男は注釈を加えた。
「弊社の代表が『美城』と申しますので、これを当てた数字となります」
――346プロダクション。
シンデレラプロジェクト、プロデューサー、か。
珍妙な名前からして、信用ならない会社だ。
シンデレラなどという調子の良い文句も、夢見る女子を釣り上げようという邪な意図を感じずにはいられない。
だが、お嬢様は話を聞くようにと仰った。
「どうぞ、中へ」
椅子の背にもたれることの無いまま、男は頭を下げた。まるで背中に大きな定規が刺さっているかのようだ。
「コーヒーの方が、よろしかったでしょうか」
「いえ、お気遣いなく……あの」
「何か?」
男は部屋を少し見渡して、不思議そうな表情を浮かべて私を見た。
「あなたは、お掛けにならないのですか?」
――お茶を出した後も、私が立ったままでいるのが気に掛かるらしい。
お嬢様からは、聞かされていないのだろうか。
「なぜ私が立っているのか、その理由は二つです。
一つは、私が黒埼に仕える従者であること。
主の命令を抜きに、私がこの屋敷にあるものを自由に扱うことなどありません」
まるで奇異なものに直面したかのように、男は目をしばたいている。
人に仕えるということに馴染みが無かった男なのだろう。
「そしてもう一つは、あなたと長話をする気など無いという意思表示です。
どうぞ、ご用件をお話しください」
男は、首の後ろを掻いて、その手を膝に置き直した。
「あなたには今、夢中になれるものはありますか?」
「えっ?」
私のような魅力の無い者に、どのような褒め言葉を繰り出してこれるものかと、高を括っていたのは認める。
しかし――少し意表を突かれたが、男の続く言葉にはある程度の予測はついた。
「……この家に仕えること。それが私の使命です」
私はかぶりを振った。
「夢中になるというのは、余裕のある者のみに許された行為です。
お嬢様をはじめ、黒埼の世話をすることは、私にとって夢中になるならない以前に、行わなければならないこと。
今の私が持て余しているものなどありません」
この男は、私を芸能界へスカウトしに来た。
鬱屈した、漠然とした不満感をくすぐって、これまでどれほどの夢見る思春期世代の女子を誘い込んだことだろう。
安いロジックに惑わされるほど、私は自分を見失ってなどいない。
「それで、今のあなたは幸せなのですか?」
しかし、なおも男は、真っ直ぐに私の目を見て問いかけてくる。
人の幸不幸を、この男は定義できるというのか。
「はい、幸せです。
他に何か、ご用件はありますか?」
「アイドルに興味は…」
「ありません。先ほど申したとおり、余裕も興味も、これっぽっちもありません。
他には何か?」
言葉に窮したらしい男は、もう一度首の後ろを掻いた。
困った時の癖なのだろうと推察される。
「また、お伺い致します」
頭を下げ、男が椅子を引いて立ち上がったのを見計らい、私は玄関へエスコートした。
「生憎ですが、もうお越しいただかなくとも結構です」
ブレずにキッパリと言い切る。ここで対応を誤っては、後々面倒だ。
「お嬢様ほどのお方であるならまだしも、アイドルなるものについて、私に務まる要素などありません。
あなたも、私のような者にいつまでも構うことなく、本来のお仕事をなされた方がよろしいかと」
だが、この男も好きでここに来たのだ。たとえ骨折り損で終わることに、まさか文句は言うまい。
「最後に、一つだけお伝えしたいことがあります」
ドアを開け、退出を促したところで、男は再び口を開いた。
「あなたがこの屋敷に仕える喜び、そこから得る幸せを、否定するつもりは毛頭ありません。
私は、あなたに可能性を提示したいのです。
一歩を踏み出し、広がった世界で出会うものの尊さもあるのだと知ってほしい」
「言わんとすることは、分からないでもありません」
そうやって新たな売り物を手に入れたいという意図は。
「ですが、それを私が求めるかどうかは別の話です。お引き取りを」
まったく――芸能界というのは極めて図々しい輩の集まりだな。
一体何様のつもりだろうか。
だが、自分の仏頂面に感謝する。
これだけ愛想の悪い態度を見せつければ、あの男も見当違いだったと納得したことだろう。
アイドル――と言ったな。
イメージが微塵も沸かない。
お嬢様は私に、一体何を期待したというのか――。
つくづく困ったものだ。
おじさまとお嬢様、遅いな――。
だが、そろそろ夕食の準備をしなくてはならない。
昨日は魚、今日は――挽肉があったから、ハンバーグにでもするか。
他のおかずは、サラダと、オニオンスープ――ほうれん草もソテーして、野菜室もさらえてしまおう。
明日は買い物に出る必要があるな。
――むっ。
冷蔵庫の余りものをまとめて片付けようとしたのが間違いだったか。
少々、量が多くなってしまった。
おじさまや私はともかく、お嬢様は小食だ。
今日の夕餉は、タッパーの出番が多くなることを覚悟する。
下ごしらえをして、おじさま達をお待ちする準備が整ったところで、呼び鈴が鳴った。
妙だな。おじさまもお嬢様も、帰宅を報せるのに呼び鈴を鳴らすことはない。
また客人だろうか。こんな時間に?
玄関のドアスコープを覗き込むと、視界は真っ黒だった。
日が落ちたからではない。
この黒は――あの男のスーツだ。
三顧の礼といったところか。
だが、舌の根も乾かぬうちにやってくるとは図々しいにもほどがある。
私はつい、ドアを勢いよく開けた。
「言ったはずで……? ……!?」
「ただいまー、千夜ちゃん♪」
「夜分に、失礼致します」
ドアの前には、先ほどの男と――お嬢様が、並んで立っていた。
この子の作るハンバーグは、ウチの自慢です。ささ、遠慮せず」
食卓に着いたおじさまが、ニコニコと笑いながら、同じく席に着いたあの男に促す。
せっかくだからと、夕食を共にするよう勧めたのだという。
「どうしたの? ハンバーグ嫌い?」
おじさまの隣に座ったお嬢様が首を傾げる。
「いえ、その……好きです」
男は気まずそうに首を掻きながら首肯した。
「それは良かった」
おじさまは笑っているが、良いことなど無い。
どうしてこうなった。
この男もこの男だ。
誘われたとはいえ、人様の食卓に上がり込むなど、やはり厚かましい。
だが――図らずも、作りすぎた料理がちょうど良く捌けたのも事実だった。
ひどく恐縮する素振りを見せながらも、男の食べっぷりは体格に違わず見事なもので、瞬く間に私の作った料理が消えていく。
「千夜ちゃん、ちょうど良かったね。
ひょっとして、この魔法使いさんがまた来てくれることを見越して用意していたの?」
「いえ、そんなことは……魔法使い?」
聞き違いかと思ったが、お嬢様はニンマリと笑っている。
やはり、この男のことを指して『魔法使い』と呼んだらしい。
男は私に、「ごちそうさまでした」と丁寧に頭を下げた。
「とても美味しかったです。
よく利用する洋食屋で食べるものよりも、繊細な味付けと食感で、非常な手間暇を感じさせるものでした」
「お世辞は要りません」
紅茶を出し終えて、私はおじさまとお嬢様に向き直った。
「経緯をお聞きしてもよろしいでしょうか」
「まぁ落ち着いて。座ろうよ、千夜ちゃん」
お嬢様に促され、黙って従う。
その様子を見た男が、どこか得心したように小さく頷いたのが視界の端に見えた。
「私も、この人から名刺をもらっていたからね。
千夜ちゃんとの話し合いがどうなったか、気になってこの人の携帯電話にかけてみたの」
お互い車で移動していたはずのお嬢様方と男が、ここに来るまでどう接触をしたのか不思議だったが、そういうことか。
同時に、そうまでして私をアイドルにしたかったのかという、お嬢様の強い意欲を感じる。
「千夜ちゃんは、私がアイドルになるならまだしも、ってこの人に言ったんだよね?」
お嬢様の問いかけに、私は首肯した。
確かに、お嬢様ほどのお方であれば、人を魅了することは容易い。
「だから私、アイドルになることにしたの」
そう、お嬢様ほどのお方であれば――。
――は?
「今、なんと?」
「だから、アイドル。
私は、アイドルになります。だから千夜ちゃんもやろう?」
私は、背中に定規が刺さっているその男を見つめた。
「あなたは、何と言ってお嬢様を籠絡したのですか」
「いえ、そんな……」
返答に窮した男に、助け船を出したのはおじさまだった。
「この子がそう考えたように、私もお前に、アイドルなるものを志しても良いのではと思ったのだよ。
私達に仕える以外にも、違った未来があることを知るのは、決して悪いことではない」
――私にここを出ろと、暗に仰っているのだろうか?
私にはまだ、黒埼家に返すべき恩が残っているというのに。
「良くない想像をしているようだが、そう極端な話をしているのではないよ」
黙り込んだ私を見て、おじさまはお嬢様と顔を見合わせて笑った。
「千夜ちゃんは、違った生きがいを見つけてもいいんじゃないかな、って思ったの。
あまり悪く思わないで、ねっ?」
「悪く思うなどということは……」
私は、首を振った。
そのように言われてしまうと、返す言葉が無い。
地方から上京するアイドル達の生活を支援するものであり、大手故にセキュリティも、万が一の医療体制も万全。
これまで探してきた都内のどの物件よりも、今後の私達に理解のある住まいとなるのは明らかだった。
4月から通うことになる学校にも、電車で二駅ほどしか離れていないらしい。
「お聞きしたいことが、二つあります」
この346プロダクションに入るほか無いというのなら、それでもいい。
問題は、この男がどれほど本気なのかだ。
「客観的に見て、私はアイドルとしての魅力を満足に備えているとは思えません。
まず、私をスカウトした理由を教えてください」
お嬢様やおじさまに強く要望されたから、と答えるのであれば、それでも構わない。
しかし、仮にも大手の芸能事務所が、こんなにも簡単に候補生なるものを引き入れるものだろうか?
選り好みのきらいが少しも感じられないのはいかがなものか。
男は、私以上の仏頂面を少しも変えることなく、抑揚の無い声でまっすぐ言い放った。
「笑顔です」
「……笑顔?」
「はい」
お嬢様は、何も言わずにニコニコと笑ったままだった。
私は、この男の前で笑ったことなどない。
どういうことか、まるで意味が分からなかった。
理解できないことは、無視するに限る。
これまでもずっと、そうしてきた。
依然として態度を崩さない岩のような男を前に、私は咳払いを一つして気を取り直した。
「もう一つ。雇用形態はどうなるのでしょうか。
私はアイドルとなる以前に、黒埼家の従者です。
あなたが私の専属の指導者となるとしても、黒埼家以外の者に隷属するつもりはありません」
お嬢様が小さく笑う声が聞こえた。
だが、私にとっては決して小さくないことだ。
「弊社が甲で、黒埼さんや白雪さん……正確には、お二人とも未成年ですので、お二人の代理人となる方が乙となり、346プロと専属契約を結ぶことになります。ですが」
男は、これ以上正す必要がないと思える姿勢を、今一度正した。
「私が担当のプロデューサーとなり、あなた方がトップアイドルとなれるよう、共に歩むことになります。
両者は優劣のある関係などではなく、立場としてはパートナー、すなわち対等とお考えいただければと思います。
遠慮は要りません」
テーブルに肘をのせ、悪戯っぽくお嬢様が微笑みかける。
「プロジェクトの名が示すとおり、千夜ちゃんをお姫様にしてあげてね、魔法使いさん♪」
――なるほど、そういう意味での『魔法使い』か。
しかし、なぜ私だけ――姫というなら、お嬢様こそふさわしい。
「それはもちろん、ご期待に添えられるよう善処します」
男は頷いた。
善処という言葉に卑屈な予防線を感じたが、首を掻いていない辺り、この男なりの意志は垣間見える。
「白雪さんも、私を信じていただけないでしょうか」
「分かりました」
私が真っ直ぐに応えたことに、男は少し驚いた表情を見せた。
「意外に思われましたか。
おじさまとお嬢様がそう仰るのなら、決まったことを蒸し返すことはしません」
お嬢様の戯れに付き合うことには慣れている。
元より、従者が主に逆らう筋合いなどあるはずも無く、考えるだけ無駄なこと。
これも戯れの一つであるなら、黙って興じてみせるのみ。
「これからよろしくお願いします、プロデューサー……いや」
今の私には、考えることが一つだけある。
対等――従者として生きてきた私には、対等といえる立場の相手が久しくいなかったことに気がついた。
そういった者には、どう呼称するのが一般的なのか。
「プロデューサー……ふむ……」
「あの……白雪さん、何か?」
単なる肩書きだと考えれば、プロデューサーという呼称も妥当ではある。
が――やはり隷属している感が否めない。
そしてこの男は、遠慮は要らないと言った。
「……お前」
「え?」
うん――そうだな、これくらいがいい。
「とりあえず、お前でいいか」
お嬢様とおじさまはなぜか苦笑し、プロデューサーとなるソイツは、首の後ろを掻いた。
「ほっ! お、やっ……とぉ! ほぁ!」
「未央」
「ふんわぁぁっ!?」
「ああぁ! み、未央ちゃん大丈夫ですか?」
「おぉ~いちちちち……ううんヘーキヘーキ、ってしぶりーん、変なタイミングで声掛けないでよぉ」
「変な声出してるのは未央でしょ。こっちの調子が狂うから、やめてほしいんだけど」
「あぁー、それは凛ちゃんの言う通りかもですねー」
「し、しまむーまで! 二人ともヒドい!」
転んでしまい、レッスン室の床に腰を落としたまま、本田さんが私の方に顔を向けた。
「ちよちーも何とか言ってよ!」
「……本田さんは、半拍ほどズレていたように思います」
「そういう事じゃなくって!!
いや、そういう指摘はありがたいけども! ええぇぇ……!」
憤慨する本田さんを見て、島村さんはニコニコと笑い、渋谷さんは腰に手を当てて小さくため息をついた。
元々は14人で構成される予定だったが、急遽増員が決まったらしい。
その増員枠に、収まったのは私。
お嬢様はというと――。
「ちとせさんは、その後、身体の調子は大丈夫なんですか?」
昨日のレッスンで倒れたお嬢様の容態を、島村さんが心配してくれる。
その表情を見ると、彼女の気持ちに嘘や打算がないことはよく分かる。
「お嬢様でしたら、ご心配にはおよびません。
あの程度であれば、それなりの頻度でよくある事です」
「いや、言うほどそれ大丈夫じゃなくない? ちよちー」
本田さんの言うとおり、確かに大丈夫とは言いがたい。
とかく華やかで俗な印象を連想させるアイドルというものが、こうも泥臭いトレーニングを強いられるものとは知らなかった。
事前に教えなかったアイツにも落ち度があるが――私が予め把握しておくべきことだった。
アイツは、お嬢様の体力が一般的な候補生と同等だと捉えていたのだろう。
一概に責めるのは筋が違う。
私が従者の務めを果たせなかったことを悔やむ一方、お嬢様は毎日毎日、実に愉しそうにされている。
「今日はどんなレッスンがあったの? 誰と一緒だった?」
もはやお決まりのように、お嬢様は私の部屋に入り、ニコニコしながら今日の出来事を聞き出そうとする。
「今日は、本田さん、渋谷さん、島村さんと一緒でした。
ボーカルレッスン、ダンスレッスンをそれぞれ2時間ほど受け、私へのトレーナーの評価は、可も無く不可も無くといったところです」
「そっかぁー、いいなぁ楽しそう」
「なかなか、大変です」
お湯を沸かし、紅茶を淹れて差し出す。
茶葉もカップも安物だが、お嬢様はそれを嬉しそうに手に取った。
カップを持つ右手の手首を、軽く握った左手の上に乗せる。
黒埼家で使っていたカップは少し大きめで、力の弱い幼少期のお嬢様が、熱くて重たいそれを無理なく持てるよう、おじさまが教えたのだそうだ。
大人になられた今でも行う見慣れた仕草だが、その特徴的な持ち方は、いつ見ても瀟洒でサマになっていた。
「千夜ちゃんが楽しいなら、それでいいんじゃないかな♪」
お嬢様は、シンデレラプロジェクトには所属しなかった。
体力的に不適当と判断されたのだろう。
一方、346プロは即座にお嬢様を解雇することはせず、籍だけは確保することにしたようだ。
私がお嬢様より優れている点など、人並みの体力以外には無い。
お嬢様の魅力を慎重に見出そうとしているのなら、346プロはまだ懸命な判断をしていると言えるだろう。
三村さんが事務所に持ち込んだクッキーに、私が紅茶を用意すると、皆さんはとても喜んでくれた。
「甘美な愉悦がこの身に宿り、我が魔力の高まりを感じるわ!」
今日も神崎さんは、訳の分からないことを言っている。
事務所で度々開かれるお茶会を、もっとも楽しみにしてくれているのも彼女だ。
「千夜ちゃんの淹れてくれた紅茶、すーっごく美味しいにぃ☆
ほら、杏ちゃんもこっち来て食べゆ?」
「もう間に合ってるよ、それより」
諸星さんの誘いを雑にあしらい、双葉さんは飴玉を口で転がしながら部屋を見渡した。
「美波さんとアーニャ、いないなら杏の分と一緒に残しといて、後で食べるから」
「あ、ホントだ。いない人の分も取り分けなくっちゃ!」
赤城さんがパタパタと給湯室の方に走っていくのを、城ヶ崎さんが後ろから付いていく。
「アタシ知ってるよ、大きいお皿はこっちに置いてあるんだもんねー♪」
「あー! 莉嘉ちゃんズルい、私が先に見つけたのにー!」
新田さんとアナスタシアさん――。
確か今日は、宣材写真というものを撮影するのだと、アイツは言っていた。
事務所のHPに掲載するほか、仕事やイベントのプロモートに使うための写真だと聞いている。
私が撮るのは、明日の予定だ。
「私、行ってこようか」
「二人が撮影してるの、スタジオ棟の2階でしょ」
「おっ? なんだなんだしぶりーん、抜け駆けは良くないぞー♪」
渋谷さんに何かとちょっかいを出したがる本田さんが、肘で彼女を小突く。
仲が良いな、この二人は。
しかし、どういう風の吹き回しだろうか?
私の見立てでは、渋谷さんはあまり、面倒事を率先して行うような人には見えなかった。
私の思い違いか。
「千夜も、手伝ってくれる?」
「えっ?」
渋谷さんが声を掛けた。
気のせいではない。彼女は、私の方を向いている。
「私、紅茶の美味しい淹れ方なんて分からないから」
淹れ方も何も――水筒に入れてあるものに、作法も何も無い。
本来であれば、ちゃんとした茶器で淹れたてをお出しするべきなのだが、ここにあるのは粗末なプラカップだけだ。
それはさておき、彼女には何か別の目的があるようだった。
「分かりました」
私は頷き、お皿を持つ彼女の後ろについて部屋を出た。
本田さんや三村さんもついてきたがっていたが、渋谷さんは断った。
スタジオへ向かう途中、長い廊下を歩きながら、渋谷さんがこちらの機嫌を伺うように口を開いた。
しばらく無言の状態が続いており、彼女が先に根負けした形になる。
「千夜でいいですよ」
渋谷さんは、私が年上であることに一応の遠慮をしたらしい。
「それなら、千夜もそんな丁寧語じゃなくてもいいんだけど」
「私のことは、気にしないでください。癖のようなものです」
「まぁ、いいんだけどさ」
一つため息をついて、渋谷さんはお皿を持っていない方の手で頬を掻いた。
「ごめん、急に付き合わせて」
「私に、何か?」
渋谷さんは、年齢の割にとても冷静で、客観的な視野を持っている。
言葉を交わしたことは少ないが、何となく通ずるところを感じていて、密かに二人で話をするのが楽しみでもあった。
そんな彼女の方から私に声を掛けてきたので、内心少し動揺している。
「あ、いや……千夜も、あのプロデューサーにスカウトされたんだよね?」
「はい」
「その……なんて言って、スカウトされた?」
「大したことではありません。お嬢様が推薦しただけです」
「笑顔、とか言われなかった?」
渋谷さんはそう聞きながら、廊下の窓の外に目を向けた。
一見素っ気無さそうにしているが、今の彼女には、どことなく照れ臭さを感じさせる。
「笑顔? ……あぁ」
思考の外に投げ出していたから、すっかり忘れていた。
「渋谷さんも、言われたのですか?」
「一度も笑ったこと、無かったんだけどね」
――なるほど。
渋谷さんが私を誘い、これを聞きたかったことの意味を理解する。
「シンデレラプロジェクトの中で、普段笑わないであろう他の人の話を聞きたかった、ですか?」
「えっと、まぁ……ごめん」
「謝ることはありません」
あの男が意図したことは、渋谷さんにもよく分からなかったらしい。
泰然としているように見えて、あの男、いい加減な所もあるのではないか。
「気にすることは無いと思いますよ」
まともに伝える意志が無いのなら、どうせ大した意味も無いものだ。
そのようなものに、いちいち気を遣う必要も無い。
渋谷さんは頷いた。
やはり、釈然としてはいないようだった。
着いてみると、思いのほか大勢の人がいた。
被写体となるアイドルはほんの数人と思われるが、その十倍はいるであろうスタッフが辺りをせわしなく動き回っている。
想像していたほど、簡単なものではないらしい。予め確認できて良かったと思う。
「あ、いた」
渋谷さんが、その広々とした部屋の一角を指差した。
背伸びして目を凝らすと、確かにアイツと、新田さん、そして――。
――アナスタシアさん、か。
あまり話したことはない。
おそらく普段着だと思われるが、カメラの前でポーズを取る彼女の顔は、ギリシャ彫刻のように端正だった。
美しいものには、それだけで価値がある。彼女は、なるべくしてアイドルになったのだなと思う。
渋谷さんがアイツに声を掛けて、一旦休憩を挟むことになった。
「ごめんね、邪魔をするつもりは無かったんだけど」
「ううん、そんなこと無いわよ。ありがとう、凛ちゃん、千夜ちゃん」
嬉しそうに新田さんが駆け寄ってきて、ふと後ろを振り返る。
「アーニャちゃんも、こっち来て一緒に休憩しよう?」
途端、先ほどまでのキリッとしたアナスタシアさんの表情がホロリと崩れ、まるで別人のようにあどけない笑顔を見せた。
ボーイッシュでクールな外見とのギャップがあまりに大きく、思わずドキッとしてしまう。
控えのスペースに設けられた簡易なテーブルに、皆で席に着く。
紅茶を注ぎ、アナスタシアさんに手渡すと、彼女はそれを両手で大事そうに受けた。
「チヨの紅茶、飲んだことないから、プリヤートナ……とても楽しみでした」
「このようなプラカップでお出しするのは、些か不本意で恐縮ですが」
「アー……イササカ? キョウシュ?」
私の言葉に、アナスタシアさんは首を傾げた。
彼女はロシアとのハーフだという。
難しい日本語はちょっと苦手なのだと、緒方さんから以前聞いたのを思い出した。
「千夜ちゃんが言っているのは、ちゃんとしたコップで出せなくてごめんなさい、っていう意味なの」
横から新田さんが注釈すると、アナスタシアさんはますます首を捻っている。
「チヨは、紅茶を淹れる時には謝る、ですか?」
「いえ」
いたずらに卑屈を構えたつもりは無いが、正確に言い表そうとすると、言葉に迷う。
「もてなす側として、満足のいくものをお出しできないことは、少々後ろ暗い思いがするものなのです」
「ニェット、チヨ」
アナスタシアさんは、優しく首を振った。
文脈的に見て、『にぇっと』というのは、おそらく否定の意を示す言葉らしいと推察する。
「アーニャ達のために、チヨがしてくれたことが、嬉しいです。
優しいことをされて、嬉しくない人、いませんね?」
「優しいこと?」
「ダー」
彼女は頷いた。これはたぶん『イエス』だ。
「優しいに、満足、アー……足りないも多いも、ありません。
チヨは、優しいです。スパシーバ、チヨ」
従者として仕える間、黒埼家の人達に感謝をされてこなかった訳ではない。
ただ、彼女がありがたいと言った私の行動は、私にとっては当たり前に思っていたものだった。
「千夜ちゃんは、もっと気を楽にしてくれていいのよ。
何というか、千夜ちゃんはいつも、お掃除とかお茶出しとか、皆のお世話をしてくれてばかりだから」
「それは私も思う、かな。
あと、丁寧語はともかく、名字にさん付けじゃなくて、下の名前で呼んでくれた方がやりやすいよ」
「そうそう、まるでプロデューサーさんみたい。ふふっ」
アイツを引き合いに出されるとは、心外だ。
少しムッとする私の顔を、どこか満足げに見つめた渋谷さんが、後ろを振り返る。
「プロデューサーも、こっち来て食べたら?」
何やらタブレットを睨んでいたアイツは、手を止めてこちらを向いた。
「ありがとうございます。
ですが、私の分はおそらく無いのではと」
「ちょ、ちょっと千夜ちゃん!?」
新田さんと渋谷さんがなぜか狼狽える一方で、アナスタシアさんはクスクスと笑った。
「プロデューサーは、アーニャ達を、太らせたいですか?」
「太っ……!?」
「こんなにあると、食べきれないですね?」
「そうですよ! ほら、プロデューサーさんもどうぞ。美味しいですよ?」
新田さんに促され、ひどく恐縮してみせつつも、アイツは首の後ろを掻きながら私達の輪に加わった。
忘れもしない。
それが、346プロにおける私とアナスタシアさん――もとい、アーニャとの出会いだった。
「チヨ、お水です」
休憩に入ると、いつもアナスタシアさんはクーラーボックスから給水を取り出し、私に手渡してくれる。
最近、一緒にレッスンをすることが多くなった。
「ありがとうございます」
「調子、良いですね」
「そうでしょうか」
「チヨのステップ、とてもキレイです」
アナスタシアさんは、気安いお世辞とは思えない真っ直ぐな褒め言葉を、臆面も無く私に投げかける。
何だか、身体がむず痒くなってしまう。
「綺麗というなら、アナスタシアさんの方がずっと綺麗です」
持って生まれた才能だけでなく、真面目にレッスンに取り組む中で着実に培われていったものだ。
極めて素直であり、純粋で真面目な心根であることが、そばにいるとよく分かる。
だが、彼女のアイドルに対するモチベーションは、どこから来るものなのか。
「アナスタシアさんは、ずっと前からアイドルを志してこられたのですか?」
「ンー……チヨ」
ちょっと困ったような顔で、アナスタシアさんは苦笑した。
「? 何か?」
「アーニャ、と呼んでください。
パパもママも、事務所の皆も、アーニャと呼んでくれますね?」
「それは……」
私は言葉に窮した。
それを拒む理由は、無いといえば無いのだが――。
返答に困っている私を見て、アナスタシアさんは握り拳を口元に寄せてクスクスと笑った。
「プロデューサーのことは、お前って呼ぶのに、アーニャは難しい、ですか?」
確かに、私達は同じプロジェクトの仲間。立場は対等、だな。
「では、アーニャ」
思い切って口に出してみると、思いのほか言いやすくて驚いてしまう。
目の前の彼女は、とても嬉しそうに微笑んでいる。
何だか気恥ずかしくなり、咳払いをして仕切り直した。
「アーニャさんは、アイドルになりたくて、この事務所に入ったのですか?
レッスンへの姿勢を見ても、すごく誠実で、熱心に取り組んでいると思ったので」
さん付けに直すと、彼女はどことなく残念そうに苦笑した。
私にもペースというものがある。どうか斟酌してほしい。
いや、斟酌という言葉も、彼女には少し難しいのか――。
「レッスンは、好きです。
出来ないこと、たくさんあるから、それはとても、嬉しいことですね」
「嬉しい?」
何が嬉しいのだろう。
ひょっとして、言葉を間違えているのではないか。
私が訝しむ表情を見せると、彼女はそれを“斟酌”したらしい。
彼女は小さく頷き、丁寧に言葉を選びながら話を続けた。
出来るようになると、フヴァリーチ……褒めてもらえます。
小さい頃、パパとママはよく褒めてくれました。
パパとママ、離れていても、それを思い出せたら、寂しくないですね」
「褒められる、ですか」
「ダー」
まさしく、現在進行形で褒められているかのように、アーニャさんは嬉しそうに笑った。
「アーニャが素晴らしいアイドルになれば、パパもママも褒めてくれます。
アーニャを送り出してよかったって……だから、頑張りたいです」
――なるほど。
彼女は、ご両親の豊かな愛を受けて、すくすくと健やかに育ったらしい。
「チヨはレッスン、楽しくないですか?」
アーニャさんが逆に尋ねてきたが、私はかぶりを振った。
「分かりません。
おそらく、楽しいもつまらないも、無いのだと思います。
要求に応えるのが、私の務めですから」
「ンー……チヨ、それはたぶん、良くないです」
アーニャさんは立ち上がり、やおら私に手を差し伸べた。
訳も分からず手を引かれ、大鏡の前に二人並んで立つ。
こうして自分と比較すると、年齢の割に長身で均整な彼女のプロポーションが、より際だって見える。
「私と、ゲームしましょう、チヨ。
勝った方が、好きなこと、命令できます。
ミクとリイナが、よくやっていること。アーニャも、やってみたいですね」
合点した。
確かに、前川さんと多田さんは、レッスン中にお互い勝負事を持ちかけているのを度々見かけたことがある。
どっちが上手くいったか、どちらがトレーナーに怒られる回数が少なかったか。
でもそれは、アーニャさんが意図していることとは少し意味合いが違う。
前川さんと多田さんは、同じユニットを組む同士である一方で、ライバル同士というか――平たく言えば、犬猿の仲だ。
ユニットの主導権をどちらが握るのかを競うために、勝負をしている。
それは、ゲームなどという穏やかな響きのあるものではない。
「どうでしょう、チヨ?」
「分かりました」
だが、これも戯れだ。
それでアーニャさんが納得するのなら、勝ち負けなどどうでもいい。
ニコリと笑ったアーニャさんの背後、入口の扉がガラッと開いて、トレーナーが入ってきた。
その日の夜、私の部屋にはお嬢様ともう一人、アーニャさんが来ていた。
寮の食堂でお嬢様がアーニャさんを見つけ、この定期報告の場に彼女を招待したのだ。
ウキウキと興味津々そうに尋ねるお嬢様に、アーニャさんもまた紅茶を飲みながら笑顔で返した。
「今度のレッスンが終わった後、チヨ、アーニャの趣味に、付き合ってくれます」
「へぇー、いいなー。アーニャちゃんの趣味ってなぁに?」
「フフッ。ンー、セクレート……内緒、ですね」
悪戯っぽく首を傾げる。
年相応だけど、やはりそんな仕草の一つにも華があって、目を奪われてしまう。
「ただ、チヨはチトセの、アー……ジュウシャ? だから、あまり夜が遅くなったり、長くいるの、できないです。
それは、仕方がないですね」
「ううん、いいよ♪」
「むしろシンデレラプロジェクトの皆には、千夜ちゃんのこと、どんどん誘ってあげてほしいの。
色んなことをしてくれた方が、私も千夜ちゃんから色んなお話を聞けるからね」
「お嬢様、それでは従者としての私の務めが」
「大丈夫だよ、この寮は食堂に行けば美味しい食べ物があるし、念入りなお掃除がしょっちゅう必要になるほどお部屋も大きくないでしょ?
あ、それとも私の言うことを聞けないのかな、僕(しもべ)ちゃん?」
「いえ、それは……」
返す言葉が無くなり、黙って紅茶を啜る。
プロジェクトの人達はもとより、お嬢様の戯れにも、最近は上手く返せなくなってきた。
アーニャさんが言うには、それは夕食を食べた後に行うのだという。
一体、彼女の趣味とは何だろうか?
その日、寮の食堂を出ると、アーニャさんは外に出ることもなく、エレベーターに乗った。
最上階まで上がり、降りた脇にある階段を、導かれるまま黙々と上っていく。
彼女の目的地は、屋上か――来るのは初めてだ。
塔屋の扉を開けると、広々とした空間に出た。
手すりと、その外側に落下防止用の柵がグルリと外周を囲っている辺り、寮生も自由に出入りが許されている場所らしい。
「チヨ、見てください」
アーニャさんが私にそう声を掛け、空を見上げた。
黙って彼女に倣うと――。
――星、か。
こうしてマジマジと見るのは、随分と久しぶりな気がする。
「ズヴェズダ……」
アーニャさんの声が聞こえたので、振り返ってみると、星明かりに照らされた彼女の横顔があった。
「星、キレイ……キレイなもの、見るのは好きです」
「天体観測が、アーニャさんの趣味だったのですね」
「ダー♪」
嬉しそうに、アーニャさんは一等星を見つけて指を差した。
「あれ、とても赤くて明るいですね」
「あの星は、きっとアークトゥルスかと」
春の季節、南の空に上る一等星。
うしかい座を司り、おとめ座のスピカとしし座のデネボラと共に春の大三角を構成する赤色巨星。
「改めて見ると、やはり美しいものですね」
アーニャさんの視線に気がつき、思わず目が合う。
とても不思議そうに私の顔を覗き込む彼女の瞳が、何だかおかしい。
「お嬢様にお付き合いして、星や星座の当てっこをしたことがありますから、多少は」
「フフッ。ハラショー!」
キラキラと感激した様子で、アーニャさんは勢いよく私の手を取った。
「チヨは、ズヴェズダにも詳しいですね? すごいです」
彼女が笑う。
アーニャさんから、自分にも聞いてみてほしいと言われ、私が適当な星を指差す。
彼女が誤った回答をし、私がそれを正すと、彼女はキラキラとはしゃいで、また笑う。
そんなことを、しばらく繰り返していると、時間が過ぎるのはあっという間だった。
「チヨも、キレイなもの、好きですね?」
目に見える範囲の星々を一通りさらったのち、アーニャさんが微笑みかけた。
彼女の碧い瞳にも小さな光がいくつも瞬いていて、見つめていると吸い込まれそうになる。
「美術館には、よく行きます」
「オー、ムゥズィエーイ……チヨの、良いものを見る目、それで育ったですか?」
「というより、無いものねだり、と言った方が正しいかと思います」
「シトー?」
届かないからこそ価値がある、などと詩人を気取るつもりは無いが、確かに星は綺麗だ。
過去から今に至るまで、想いを馳せた人が絶えなかったのも頷ける。
「美しいものには、それだけで価値があります。
私自身、無価値であるが故に、そのような強さを感じるものに憧れるのです」
「チヨも、キレイですよ」
アーニャさんが私の手を握る。
日が落ちると少し肌寒い、中途半端な季節。
その中にあって、彼女の手は、まるで細氷のように儚げな指をしているのに、羽毛で包まれたかのように温かい。
「チヨは、どうして昨日のレッスン、アーニャに負けましたか?」
レッスンを終えた後、トレーナーから私達に対し、改善点の指摘があった。
私への指摘の方がアーニャさんのそれよりも多かったため、私はそれを勝敗の判断基準とするよう提案したのだ。
「どうして、と言われても……実力の差としか、言いようがないと思います」
「ニェット」
手を握る力が、少し強くなった。
「チヨは、アーニャに勝とうとしませんでしたね?」
「……それは、そうかも知れません」
否定はしなかった。
勝負というのは結果であり、なるようにしかならないこと。
私とアーニャさんのどちらがより秀でているか。その結果を私達は確認しただけだ。
「決して手を抜いた訳ではありません。
ただ、私はこの仏頂面ですから、その分トレーナーからの指摘を受けたということです。
アイドルとしては、この顔は好ましい要素ではないでしょう」
アーニャさんは、握った私の手を自身の頬に近づけた。
「アーニャに、ズヴェズダを教えてくれる時のチヨ、笑っていました」
笑っていた――のか。自覚は無かった。
「私とて、感情が無いわけではありません」
何となく照れ臭くなり、顔を背ける。
「今日は、チヨが笑ってくれるのを見れて、嬉しいです」
「私で良ければ、レッスンの勝敗に関わらず、いつでもお誘いいただいて結構です」
「本当ですか? チヨ、スパシーバ!」
これからは、週に一度の夕方レッスンの日は、二人で天体観測をすることが決まった。
自室に戻ってから、椅子の上で一人自問している。
「あ、千夜ちゃんいた。ねぇねぇ千夜ちゃん♪」
私には、お嬢様の世話をする義務がある。
ただでさえ、学業やレッスン、仕事で時間と労力を割かれる中で、無駄な行いは避けるべきなのは自明だ。
――笑っていた、か。
「あれ? ……千夜ちゃーん、聞いてるー?」
何が楽しかったのかな――。
言われてみれば、悪くない感覚ではあった。
アーニャさんを前にすると、妙に調子が狂うというか――不思議だ。
「千夜ちゃーん、千夜ちゃーん」
昔、似たようなことが、どこかで――。
「千夜ちゃんってば!」
「わっ!?」
「お、お嬢様……お越しになられていたのですか。申し訳ございません」
「ううん、いいよ。
珍しいね、気ぃ遣いの千夜ちゃんが自分の世界に籠ってボーッとするなんて」
「面目ありません。今、紅茶をお淹れします」
「謝らなくていいってば、悪いことじゃないと思うし。あ、それでね?」
いつものように楽しそうなお嬢様の手には、気づくと一枚のDVDが握られている。
「アイドルのライブのDVDを、北条加蓮ちゃんって子から借りてきたの。
千夜ちゃん、こういうの見た事ないでしょう?」
「お嬢様、今の時間からそのようなものをご覧になられては、ご就寝のお時間が……」
「大丈夫だよ、眠くなったら寝るし、千夜ちゃんも途中で好きに寝てくれていいから」
勝手知ったる様子で、お嬢様は備え付けのテレビに内蔵されているDVDプレーヤーにそれをセットする。
リモコンを操作し、画面が切り替わると、途端に華やかな衣装に身を包んだ女の人達が飛び出してきた。
「夜中ですので、音量は小さめでお願いします」
「はーい」
だが、実際に見てみると、収録されているのは他社のプロダクションが主催するライブのようだ。
お嬢様の話によれば、貸した当人はDVDを間違えた認識は無かったようで、業界研究用ではなく、あくまでプライベート用に持っていたものだという。
筋金入りのアイドル好きなのだろう。
ステージに立つ一団の中央、マイクを持った女の子が観客席を指差して叫ぶ。
「一番後ろの人も、ちゃんと見えてるからねーー!!」
以前、何かの本で読んだことがある。
このような劇場で、演者の大まかな身振り手振りが視認できる視距離の限界は約40m。
演者の細かい表情となると、20m程度が限界だという。
これだけ大きな会場だと、舞台上の演者から、まして暗い客席の一番奥に座る観客一人一人の顔など、視認できる訳がない。
パフォーマンスの一環と言えばそれまでだが、アイドルというのはこうして媚を売らなければならないのだなと、他人事のように感心する。
しかし、映像の中にいる観客の盛り上がり方は尋常ではない。
アイドルの言葉を鵜呑みにしているのか。それとも、真偽などどうでもよく、ただ騒ぎたいだけなのか。
いずれにせよ、私のいる場所からは、遠い世界の出来事だな――。
――――。
――夢か。
目の前で、あらゆるものが燃えている。
私の大切だったもの――。
いつもの夢だ。今さら、驚くべきことでもない。
荒れ狂う炎を眺めているうち、直に目が覚める。
私はただ、それを待つだけ。
――?
誰だろう、見知らぬ人影が――炎の奥に立っているのが見える。
背格好からして、子供。
俯いて、とても、辛そうに――。
「カナール……」
――――
携帯にセットした二つ目のアラームの音に、起こされる。
いつの間にか、布団に入って眠っていたのか。
もしかして、お嬢様が私に布団をかけてくださったのか――?
きっとそうなのだろう。またしても面目ないことをしてしまった。
しかし、我ながら今日はいつにも増して寝覚めが悪いらしい。
一つ目のアラームで起きないとは――。
おそらく、今朝見た夢のせいだ。
いつもと違う、あの子供、そして――謎の一言が、なぜか頭の片隅にこびりついている。
あれは、誰だ?
なぜ、あんな夢を――。
“かなーる”って、何だろう――。
まぁ、深く気にすることでもないか。
分からないことは無視、だ。
「李衣菜チャン! 今日はみくが早起き勝負に勝ったから、一日みくの言うこと聞くにゃ!」
「そんなのズルいよ! 昨日私が早く起きた時はそんなの言わなかったくせに!」
「ちゃんと約束したもん! つべこべ言わずに猫チャンになる!」
「じゃあ朝ごはん早食い勝負で勝ったらチャラね、よーいどん!」
「ああぁぁあフライングー!!」
民宿の食堂で、今日も前川さんと多田さん――もとい、みくさんと李衣菜さんは、朝から言い争いをしている。
ケンカするほど仲が良いとはよく言うが、あの二人を見るとあながち間違いでもないなと思う。
ただ、いつもと違うのは――。
「智絵里ちゃん、さっき食堂のおばさんに聞いたら、後でスイカを振る舞ってくれるんだって。
どっちがたくさん食べられるか、競争しよう!」
「ええぇぇ、そ、そんなかな子ちゃん、スイカって結構お腹冷えちゃうから、たくさん食べるとお腹壊しちゃいそう…」
「美味しいから大丈夫だよぉ」
「やってもいいけど、私は競走なんてしないからね」
「な、何で!? 人はなぜ走るのか、考える脚だからである。
じゃあしまむーやろうよ! 勝った方が今日一日私をちゃん付けね!」
「うえぇっ!? わ、私は普段からちゃん付けですし、そもそも未央ちゃんが勝つの前提……!」
「きらりちゃーん! みりあ達とお皿片付けるの、競争しようよ!」
「えへへ、みりあちゃん莉嘉ちゃん、そんなにたくさん持つと危ないにぃ。きらりに任せて」
「アタシだって、家ではお姉ちゃんのこと、いーっぱい手伝ってるもんねー!」
「誘われても杏はもうやんないからね」
「いいえ、今日こそは勝つわよ。今夜、もう一度杏ちゃんの部屋でババ抜きしましょう」
「美波さんの部屋で勝手にやっててくんない?」
346プロダクションによるサマーフェスを控えた、シンデレラプロジェクトによる夏合宿。
元を正せば、みくさんと李衣菜さんに端を発する勝負事が、合宿が始まってからというもの、妙に流行りだしている。
アーニャさんと私の話が、プロジェクトの間で広まったらしい。
プロジェクトのメンバーではないが、広めたのはお嬢様だという噂話も聞こえてくる。
この風潮について、何となく申告してはみたが、コイツはどうも楽観視している。
「お前は、メンバー同士の穏やかならぬこの状況が、プロジェクトとして問題ではないと思っているのですか」
「お互いの不和に発展する場合は、問題であると思いますが」
レッスン場の片隅に備えたデスクから立ち上がり、プリンタにある紙を取りながら、コイツは続ける。
「研鑽には目標が必要であり、これを満たす上で、競争心は有効に機能することもあります。
とはいえ、白雪さんの仰るように、あまり関係のない事にまでいたずらに競いすぎるのであれば、健全ではないかも知れません」
「それは、何ですか?」
「今後の予定表と、フェス当日のセットリスト案です」
それまで他人事のように捉えていたものが、白雪という名前を見ると、ようやく我が事としての実感が湧いてくる。
「白雪さんは、このセットリスト、いかがでしょう」
「経験がないのに、聞かれても答えられるはずがありません」
紙を返した。私は与えられた役割を果たすだけだ。
「一応のプロであるお前が良いと判断したのなら、それに従うのが現時点での最善です」
私がそう言うと、コイツは首の後ろを掻いた。
照れているのではない。なぜ、コイツは今困った仕草をしたのだ。
「どうか、皆さんの自発性を……「我」の強さというものを、あまり悪く思わないでください」
コイツは頭を下げた。
仕事の都合で、しばらく合宿の場から離れるらしい。そのための予定表か。
いかに技能向上が望ましいとはいえ、戦わないに越したことなどないはずだ。
競争など、くだらない。
「何の、ですか?」
「リレー、ですね?」
プロジェクトのリーダーに任命された美波さんから、どういう訳か提案があったらしい。
二つのチームに別れて行うとのことで、アーニャさんが楽しそうに私に駆け寄ってきた。
言ったそばからこれか。
第一、これはステージパフォーマンスとは何も関係が無いのではないか。
戯れにしても、度が過ぎている。
だが、すっかり皆やる気のようだ。
レッスンの時と同じか、それ以上に息巻いている。
気分転換、というものか――。
自身の器量の小ささ故に、必要以上のことを行ってこなかった私には、あまり馴染みがなかったことだと気づかされる。
「分かりました」
これも戯れ。
私一人の心情など、取るに足らないものであれば、流れに身を任せていればいい。
「はぁ、はぁ……!」
い、意外と皆、本気でやるもんだな。
遊びじゃないのか。何なんだこの殺伐とした空気は。
「ちよちー早く! らんらんが後ろから来てるよぉ!」
「チヨ! ダヴァーイ!」
「ぜぇ、ぜぇ……ふんす、わ、我が翼に宿りし魔力、今燃やし尽くす時、かひゅ……!」
蘭子さんの猛追をやっとの思いで振り切り、杏さんにバトンを渡す。
しかし彼女は、傍目にも明らかなほどにやる気の無いペースでノロノロと走り出した。
「ふ、杏さん、早く……せっかく私が、こんなに、が……頑張って……!」
「省エネ運転が杏の売りだからねぇ」
こ、この人は――!
結局、その予期せぬブレーキが響いてしまい、私達のチームは負けた。
ご丁寧に、小麦粉がたっぷり入った大皿をわざわざ用意するという力の入れようだ。
これに、顔を埋めろと?
「うぅぅ……えいっ!」
意を決して、智絵里さんが隣の皿に顔を突っ込んだ。
「早く早く! 千夜ちゃん、アタシもやりたいんだからぁ!」
莉嘉さんが邪な理由で私を急かす。
どうやらやるしかないらしいので、大きく息を吸い込んで飛び込む。
途端、小麦粉が気管に入ったらしく、盛大にむせた。
「!? グエェッホ!! ウェホ、エホッ!!」
「ああぁぁ!! 千夜ちゃん! 千夜ちゃん大丈夫ですか!?」
「ば、バカ殿みたいな顔になってるよ千夜ちゃん!!」
飴食い競争に参加した人は、何故か顔を洗ってはいけないルールが追加された。
私達のチームはまた負けた挙げ句、さらに私は白粉まみれの顔を写真に撮られた。
その後も競技は続く。
ハンカチ落とし、二人三脚――モノマネ対決などというふざけたものもあった。
疲労感に肩を落としつつ、最後の競技は、大縄飛びだ。
「随分な言い方だね」
杏さんはややヘソを曲げているが、私は合理的な提案をしているにすぎない。
どうせこの人はまともにジャンプをする気など無いに決まっている。
この期におよんで、勝つために手段を選ぶ必要があるのか。
「あ、ちよちー。大縄飛びはチーム対抗じゃなくて、私達皆でやるんだって」
「えっ!?」
こ、ここまで来て、私は負けっ放しでいろと――!?
「意外と千夜って、ムキになるところあるんだね」
凛さんが少し驚いた様子で私を見つめる。
それを見つめ返していると、ほどなくして彼女は吹き出した。
「ごめん。でも、やっぱりそれ、おかしくて」
「好きでこんな顔になっているのではありません」
そのやり取りを見ていたアーニャさんも、クスクスと笑っている。
「アーニャさんまで、私をおかしいと笑うのですか」
そう言うと、アーニャさんは「ニェット」と首を振った。
「おかしいでは、ありません。
チヨが楽しそうなのが、嬉しいです」
何が楽しいものか。
もういい。こんな戯れ事はさっさと終わらせようと、私は美波さんに進言し、大縄飛びが始まった。
背が低い私は、先頭に立たされた。
体を縮こませ、かつ脚は高くジャンプしなければならない。
負担の大きいポジションではあるが、誰かが務めなければならないことだ。
きらりさんは美波さんと大縄を振る役割を担ったため、杏さんはしんがりを務める。
大変だなんだと文句を言っているが、今さらご託を並べないでもらいたい。
「何やってるにゃー! 李衣菜チャン!」
「そ、そんなこと言われたって!」
李衣菜さんが脚を引っかけ、みくさんがすかさず責め立てる。
面倒ごとが大きくなる前に、私は仲裁に入った。
「言い争いをしている暇があったら、すぐに再開しましょう。その方が生産的です」
「く、くひひ……ち、ちよちー、そんな顔でまともな事言われると逆に……!」
「な、何ですか!」
未央さんが茶化したのをきっかけに、皆が笑う。
みくさん達も、一緒に笑っているうちに仲直りしたようだ。
この顔で、もう余計な事は言うまい。
ただ無心で飛ぶのみ。
「ごめんなさい! 私が、今のは私がぁ、うぅぅ…!」
「大丈夫だにぃかな子ちゃん! 何度でもやり直そう?」
「ダー! キラリの言うとおりです」
くっ……そろそろ脚が、上がらなくなってきた。
震える膝に両手をつき、肩をガックリ落として必死で呼吸を整える。
「ち、千夜ちゃん、大丈夫ですか?」
「はい……ありがとうございます、卯月さん。まだ大丈夫です」
ふと杏さんの方を見る。
彼女は怠そうにしながら、Tシャツをパタパタとはたいている。
汗は多少かいているものの、顔色はさほど変わっていないようだ。
端っこ同士、条件は私と杏さんで同じのはずなのに、この違いは何だろう。
どうやら彼女には、無視できないレベルの技術ないし基礎体力が備わっているらしい。
美波さんが、目標回数を下げることを皆に提案した。
だが、皆は一様に首を振った。
ここまで来たのなら全員でやり遂げようという、気迫のこもった未央さんとみくさんの回答があり、皆もそれに同調したのだ。
私も、それには同意見だった。
冷静に考えれば、こんな戯れ事に意味は無いのだけど――いや、このまま終わったら、本当に意味が無いままで終わってしまう。
それは私にとっても我慢がならないことだった。
これもようやく――ようやく、終わる。
「……99…!! ひゃくーーっ!!!」
悲鳴のようなカウントが夕暮れの広場に弾け、同時に皆の体が一斉にその場に崩れ落ちた。
さすがに、これは堪えたな――。
膝と両手をつき、肩で息をしているうちに、目の前の地面に汗がいくつも垂れていく。
顔についていた白粉は、とっくに剥がれ落ちているだろう。
「チヨ」
ふと、視界が少し暗くなった。
何とか体を起こして見上げると、アーニャさんがペットボトルを持って目の前に立っている。
「お水です」
この人の、これだけ気配りができる余裕はどこから来るものなのか。
彼女の行いは、私が黒埼家で行っているような使命感、義務感とは、まるで毛色が違う。
アーニャさんは私の隣に腰を下ろし、自分のペットボトルをクイッと一口飲んで息をついた。
「チヨ、楽しかったですか?」
首を傾げ、星が舞う碧い瞳を私に向ける。
「ミナミが、気にしていました。ワガママに、皆を付き合わせてしまったかと」
「……分かりません。
これが楽しかったのかも、フェスの完成度を上げるために必要なことだったのかどうかも。
ただ、疲れました」
私はかぶりを振って、空を見上げた。
先ほどまで青い空に上っていた積乱雲はいくつにも千切れ、茜色に染まりながら暢気に浮かんでいるのが見える。
「こんなにボーッとした、のんびりした気分は、久しぶりです」
フフッ、と弾けるような小さな笑いが、隣から聞こえる。
見ると、アーニャさんはもう一度水を一口飲んで、どこか思わせぶりにこう言った。
「はぁ……アズマシィ」
「あっ! アーニャ、それってどんな意味!?」
遠くの方でかな子さん達と談笑していた未央さんが、耳ざとくアーニャさんの呟きを聞きつけて駆け寄ってくる。
「ふっふーん、私、当ててみせよっか。
このシチュエーション、この雰囲気から推測するに、アズマーシィ、その意味はズバリ「縄跳び楽しい」っ!」
「いや、そんな限定的な単語無いでしょ」
凛さんの指摘はもっともだ。
それはロシア語ではなく――。
「それたぶんロシア語じゃなくて北海道弁だよ」
未央さんと凛さんが、杏さんの方に向き直った。
「そうでしょ、千夜?」
彼女、北海道の人だったのか――私は、首肯した。
「あずましいというのは、心が落ち着くとか、居心地が良い、満足とか、そう言った意味の言葉です」
「はい」
「ええぇぇ、でも、そんなズルいよアーニャ!
だってさっき、明らかにロシア語っぽく「アズマァースィ~」って流暢に言ってたじゃん!」
未央さんが訳の分からない難癖をつけ、頬を膨らませて憤慨してみせる。
その仕草のおかしさに皆が笑い、未央さんもまた楽しそうに笑った。
まぁ――お嬢様への良い土産話になったと思えば、悪くない。
この合宿で留守にする間、ずっとお世話ができずにいた。
いくら寮のサービスが整っているとはいえ、従者としての最低限の務めは――。
――?
「……北海道、覚えていますね、チヨ」
アーニャさんから感じる、潤沢な愛に満たされた心の余裕は、私には無いものだった。
それを疎ましく思ったことは無い。
卑屈な思いをさせられたことも無い。
彼女は、私に無いものを与えてくれる。何の見返りも期待せず。
ただ、その時のアーニャさんの笑顔は、なぜか少し寂しそうに見えた。
当日は生憎の天気だった。
それはシンデレラプロジェクトにとって、ある意味幸いだったかも知れない。
「ふっ……ッ……!」
「チヨ、良い感じです。焦らなくても大丈夫、ですね」
特に、私にとっては。
事の発端は、美波さんがリハーサルの直前に倒れたことだった。
プロジェクトのリーダーというプレッシャーを背負い込み、高熱を出してしまったのだ。
偶然女子トイレを通りかかったスタッフが、洗面所の前でうずくまっている彼女を発見したという。
医務室のベッドの上で、ひどく無念そうに泣きはらす美波さんを、沈痛な面持ちで見守るメンバー達。
思うに彼女は、気ぃ遣いが過ぎたのだ。
リーダーに抜擢されてから、ずっとそうだったが、特に今日は会場に着いた時から、熱の入れようが異常だった。
重責に耐えるため、自分を納得させるために率先して動き回ったのは良いが、心と身体のバランスが取れずに自壊した。
故に、美波さんに感謝や同情をする人はいても、責め立てることなど出来はしない。
そんなところだろう。
黒埼の従者としての務め以上の気配りを他人に行う余裕がない私には、理屈は分かっても理解は難しい。
「セットリスト、どうするの? プロデューサー」
凛さんが、いつになく不安そうな表情でアイツに問いかける。
ソイツは、少し手を口元に当てて考え込み、タブレットを幾度か操作すると、私達に向き直った。
「セットリストは、このままで行きます」
お前、状況が分かっているのか?
美波さんがこのような状況になっていて、ラブライカの曲をどうやり遂げようと言うのか。
「こちらに接近していた台風は、今では太平洋側に抜けて、天候も回復傾向に向かうようです。
これからステージマネージャーらと協議し、開演を1時間ほど遅らせるように提案しようと思います。
その間」
ソイツは一度、言葉を切った。
ほんの少しだけ、私の目を見た、気がした。
「新田さんの代わりにラブライカを……アナスタシアさんのパートナーを、どなたかに務めていただきたいのです。
開演までの間、可能な限りラブライカの振付を習得していただきたいのですが、お願いできないでしょうか」
言うまでもなく皆の、そして、誰よりもアーニャさんの視線を。
確かに私は、アーニャさんと親しくさせていただいていた。
というより、何故かアーニャさんが積極的に私との交流を図ってくれると言った方が正しい。
それは、断る理由も無かったし、悪い気もしなかった。
ラブライカでない時のアーニャさんが、いつも何となく私と一緒にいることを、美波さんを含め、メンバーの誰もが認識していた。
彼女と呼吸を合わせる適役は一人しかいないと、皆はすっかり思い込んでいる。
「遠回しな言い方などせず、ハッキリと私に命じたらどうですか」
結果が見えていながらそこにたどり着かない部屋の空気に業を煮やし、つい言葉に棘が出る。
私は、ソイツに一歩踏み寄った。
「お前が一言言えば、それで済む話です」
私の後ろで「ちょっと千夜チャン……」と零すみくさんの声が聞こえた。
当のコイツは、困ったような顔をして首の後ろを掻いている。
困らせるような事は言っていない。私は事実を言っている。
声が聞こえた方を振り向くと、いつも優しく微笑んでいるアーニャさんが、険しい顔をして私を見つめていた。
「プロデューサーもアーニャも、チヨに言ってほしいです。
チヨは、アーニャと一緒のラブライカ、やりたくないですか?」
――アーニャさん、そういう言い方はズルいと思います。
「あっ! ちよちー、首の後ろを掻いた」
「プロデューサーとおんなじだね!」
「えっ?」
ふと、自分の手を見つめた。
私の手が、いつの間に首へ――?
「白雪さん」
向き直ると、ソイツは、少し柔らかくなった部屋の空気に少しも表情を緩めることなく、私を見つめていた。
「あなたの抱く感情は、もっともです。
無言の圧力で、あなたに押しつけるような形となり、大変申し訳なく思います。
当然に、この責任はプロデューサーである私が取ります」
「ですが、私はあなたの主体性に期待したいと考えました。
図々しいお願いであることは承知しておりますが、能動的な一歩を踏み出していただきたい。
自分から投げ出すことで得られるものを、その目で見てほしいのです。
アイドルとは、その連続です」
――まったく、コイツは勝手なことをばかり言う。
「お前はウソつきですね」
「えっ?」
いや、ウソつきというなら私も同じか。
対等と言いながら、私に命じろなどと――。
「あるいは、バカです……バーカ」
聞こえよがしに盛大なため息を吐いて、私は顔を上げた。
「お前と私は対等の関係。
そういう約束だったことを、私も忘れていました。
故に、責任を持つべきはお前ではなく私。いちいちお前に指図されるまでもありません」
随分と面倒なことになった。だが、四の五の言ってもいられない。
幸いにして――と言うのが正しいかは分からないが――私はアーニャさんにせがまれ、『Memories』の振付を戯れで模倣したことはある。
当初の開演時間まで、あと2時間弱――。
「伸ばせる時間は1時間と言いましたね。
できれば、私達の出番は原案よりも後半に組んでください。
少しでも長い練習時間を要求します」
戯れ――そう。
乗りかかった船の上で、黙って興じるだけのことだ。
ありがとう、ありがとう――。
ベッドの上から、美波さんの涙声が聞こえる。感謝されるいわれなど無い。
お嬢様を差し置いて、一人で先を行くことを良しとしなかった私が、アイツにそう要求したためだ。
故に、与えられる仕事は、ほとんどがグラビアと呼ばれるビジュアル重視の内容がほとんどだった。
ステージに立ったことも何度かあったが、どれも他の誰かのバックダンサーとしてのもの。
今日の出番も、最後にプロジェクトのメンバー全員で歌う『GOIN'!!!』しか予定されていなかった。
つまり、余力という意味でも、私が最も代役として適任ということになる。
さほど労することなく、『Memories』の振付はアーニャさんと通しで確認することができた。
後は、歌詞を間違えずに歌いきるだけだが、これについては、演者向けに表示されるディスプレイがあるらしい。
ステージにて、機材の動作確認をしていたスタッフが、両手で丸印を作った。
先ほどまで大雨に降られていただけに故障が心配されたものの、どうやら問題は無いようだ。
●MC(前川みく・多田李衣菜)
M17 「LEGNE -仇なす剣 光の旋律-」Rosenburg Engel(神崎蘭子)
M18 「できたてEvo! Revo! Generation!」new generations(本田未央・島村卯月・渋谷凛)
M19 「Happyx2 Days」CANDY ISLAND(双葉杏・三村かな子・緒方智絵里)
M20 「LET'S GO HAPPY!!」凸レーション(城ヶ崎莉嘉・諸星きらり・赤城みりあ)
M21 「OωOver!!」*(Asterisk)(前川みく・多田李衣菜)
M22 「Memories」LOVE LAIKA(アナスタシア・新田美波)→白雪千夜
●MC(城ヶ崎美嘉)
M23 「GOIN’!!!」CINDERELLA PROJECT
「緊張してきた? ちよちー」
未央さんがひょこっと、横から私の顔を覗き込んできた。
この人は、つくづく他人に対する心の壁というものが無いらしい。
彼女の後ろには、凛さんと卯月さんもいる。
私が出番の繰り下げを進言した時、これに応じて出番を入れ替えてくれたのが、未央さん率いるニュージェネレーションズだった。
彼女は普段から、プロジェクトのメンバー内でも率先して協力的な姿勢を示し、ムードメーカー役を担うことが多い。
美波さんを表のリーダーとするなら、未央さんは裏の、第二のリーダーとも言うべき人だろう。
「分かりませんが……緊張をする必要も筋合いも、無いと考えています」
そう、元々私は無価値。
まして代役で果たすべき役割に興じるだけのことに、手前勝手な緊張など――。
私の言葉をオウム返しに、それも何故かしかめ面をしながら冗談めかして未央さんは言った。
「そんな事言ってぇ~。知らないぞ~、私もそうだったけど初ステージってすっごく緊張するんだから!」
「今からそんなプレッシャーかけてどうすんの、まったく……千夜、気にしないでいいからね」
「千夜ちゃん、人を! 人を手のひらに書いて飲み込むといいですよ!」
三者三様でありながら、この人達に共通して言えることは善意だ。
代役とはいえ、初の舞台に立つ私を気に掛けてくれている。
「ありがとうございます」
素直な言葉が自分の口から出たことに、ふと驚いた。
軽くあしらおうとして発したものではない。
彼女達にどう受けとめられたかは分からないが、私にしては、確かな湿り気のある言葉だ。
少し、心臓の鼓動が早くなっている。
アーニャさんともう一度確認をしておきたくなり、私は三人に断りを入れて踵を返した。
「あ、ありがとうございましたぁ!」
「たぶん電車混むから、今日は早めに帰った方が良いよ」
「あ、杏ちゃん、終わる前からそんなこと言わないで!
あの、これから登場する子達も、いっぱい応援してください!」
キャンディアイランドの三人がステージを降りる。
私とアーニャさんの出番は、この後に登場する凸レーションの、次の次だ。
舞台の袖から、こうして様子を見るのは初めてだ。
それは当然のことだった。ライブイベントを直に見たことさえ無かったのだから。
1時間の順延をした甲斐もあってか、雨は今では止み、会場は満員に近い観客達による真夏の熱気に満ちている。
――――。
「お前」
「はい」
「アーニャさんはどこにいる」
私が懸念しているのは、美波さんの容態でもあり、彼女の本来のパートナーであるアーニャさんが、ステージに集中できないのではないかということだ。
それだけだ――そ、それだけ――。
「アナスタシアさんは、直にこちらにお越しになるのではと思います」
「どこにいるのかと聞いているんです!」
思わず上ずった見苦しい声に、スタッフの何人かがこちらを振り返ったのが見えた。
「あ、う……す、すみません、私は、ただ……」
「白雪さん」
ソイツは、大きな膝を畳んで私の前に屈みこんだ。
「初舞台は、誰もが緊張します。あなただけではありません」
咄嗟に何も言い返すことができないのが情けない。
膝の震えが、止まらない――。
「私は……お、お嬢様が……」
従者として、粗末なものは見せられない。
「黒埼家の、じゅ、従者として……私は、果たすべき……!」
「それよりも、白雪さん」
急に両肩に手を置かれ、私の体が跳ねた。
「今のあなたは、シンデレラプロジェクトの力になりたいと願っているように、私には見えます」
胸の奥が大きく響く。
しかし、どういうわけか、目の前のコイツの瞳から、目をそらすことができない。
「今のあなたが感じていることは、メンバーの一員としての責任感と、皆さんとの思い出、絆。
これを守りたいがための緊張だと、私は思います。
あなたは、正常です。何も恥じることなどありません」
――知った風なことを、コイツは。
「どうか、自分を無価値などと、思わないでください。
守りたいものができたあなたと、アナスタシアさんなら、何も心配はいりません」
つくづく――私のことを、好き勝手に、知った風なことを――。
「この後もぉ、すーっごく可愛ぃ子たちがたくさん登場するから、楽しんでってにぃ☆」
「みりあ達もまたあとで出てくるからねー!」
いつの間にか、凸レーションの出番が終わったらしい。
次の、みくさん達の出番が終わったら、私が――。
「チヨ」
振り返ると、ステージ衣装に着替えたアーニャさんが、私の後ろで真っ直ぐに立っていた。
「アーニャさん……」
「チヨ、手を」
彼女の指が私の手に絡み、ギュッと握りしめられる。
細いのに温かい、とても不思議な、彼女の手。
鼓動が、ゆっくりと小さくなっていく――。
「アズマシィ、ですね?」
「……そうですね」
私はかぶりを振ったが、アーニャさんにつられ、つい小さく笑った。
「あずましいです」
美波さんが急遽リタイヤしてしまった旨は、既に冒頭でアナウンスされている。
彼女の出番を期待してきた観客は、代わりにやってきた私を見てさぞガッカリすることだろう。
そう思っていた。
「――――ッ!?」
観客の熱気と、歓声の圧に押され、思わず身じろぎをした。
これは皆、ラブライカのファンによる声援のはず――そうではなかったのか?
元々、ステージパフォーマンスの仕事が多くなかっただけで、思い返せば、他の仕事での露出は少なくなかった。
アイツの宣伝戦略、と認めるのは些か釈然としないが――。
差し詰め、シンデレラプロジェクトの隠し球――アイツは、私をそう位置づけたのか。
それで観客の期待感を煽り、今日のこの場で起爆するよう周到に仕込んでいた。
だから、私の名前がプリントされた団扇を振る人もいた。
なんと物好きな――。
「せぇーの、千夜ちゃあぁーーーーん!!!」
一際大きな歓声が上がった一角に目を凝らす。
あれは――。
「お……お嬢様っ!?」
いや、お嬢様だけではない。
一切伝えていなかったはずなのに、お嬢様や私が通う学校の同級生まで来ている。
なんと、あんな品の無いペンライトを、黒埼のおじさまが振るうなんて――!
動揺するなという方が無理な話だった。
再び心臓の鼓動が早くなる私の手を、アーニャさんが握った。
「ダヴァーイ、チヨ♪ 一緒に、楽しみましょう♪」
一言で言えば、上出来だったのだろう。
歌い終わり、二人で観客席に向かって頭を下げると、割れんばかりの歓声が上がった。
アーニャさんが微笑みながら、彼らに手を振っている。
「チヨも。皆、喜んでくれますね?」
促されるまま、胸の前で小さく手を振ってみる。
――た、ただ手を振っただけなのに、何の冗談かと思うほどの反応だ。
「アーニャさん、も、もう良いです行きましょう」
これ以上はなんだか、現実の出来事として受け止めきれない。
頭がおかしくなりそうだ。
踵を返し、大股で歩いて舞台袖へ捌ける。
降りた先では、メンバーの皆が手厚く出迎えてくれた。
無我夢中でしかなかった私のパフォーマンスを褒めてくれているようだった。
「すごかったわ、千夜ちゃん! 私の立場がなくなっちゃいそう」
なんと、メンバーの中には、先ほどまで医務室で寝ていたはずの美波さんまでいた。
いつの間にかステージ衣装に着替え、ピンシャンとしている。顔色も良い。
初舞台を終えたばかりで冷静な思考ができない身に追い打ちをかけられ、すっかり頭が混乱している。
一体、どういう事なのか?
「ごめんね、千夜ちゃん。
実は、予め皆で話し合っていたことなの。プロデューサーさんや、ちとせちゃんとも、ね」
話を聞くと、どうやらお嬢様の差し金だったらしい。
シンデレラプロジェクト内で、唯一自分の持ち歌が無い私に、お嬢様は疑問を抱いた。
そして、アイツに問い質して事情を把握し、私を表舞台に引きずり出そうと画策したのだ。
それは、私を起爆する機会を覗っていたアイツにとっても利害の一致があったのだろう。
リーダーである美波さんにその意志が伝えられると、彼女の方から今回の“作戦”が提案された。
つまり、アーニャさんのパートナーとして登場する方が、私にとっても良いだろうという、彼女の配慮だったのだ。
他のメンバーも、皆一様にこれに賛同したという。
納得した。どうりで無言の圧力があったわけだ。
アーニャさんが私に、戯れに振付の模倣をせがんでいたのも頷ける。
不自然なほど統制が取れていた学校の同級生の一団があったのも、当然にお嬢様の音頭によるものだろう。
後ろから肩をポンッと叩かれ、未央さんがニカッと歯を見せて笑う。
「これからもぉーっと楽しいことが待ってるにぃ☆」
「そうだよ、皆での全体曲があるもの!」
そうだった。
まだ、私の――私達の出番があったのだな。
「それでは、新田さん。後はよろしくお願いします」
「はいっ」
アイツが舞台の上へ手を向ける。
目の錯覚かと思った。アイツが、ニコリと笑っているなど――。
「それじゃあ、皆。
私達の今日最後の締めくくり、私達の最高を、最高のお客さん達に精一杯届けましょう!」
アーニャさんが、そっと私に寄り添った。
足を指差し、小声で何かを伝えようとしている。
足を――?
「足を、鳴らします。一緒に、ですね?」
「シンデレラプロジェクトっ!!」
ダンッ!
という、一斉に踏み鳴らした足の群れに、私も加わった。
「ファイトーー!! おぉーーー!!!」
お嬢様もそこにいるであろう観客席は、もはや言うまでもないほどの盛り上がりようだ。
ラブライカの『Memories』とは違い、『GOIN’!!!』は前々からしっかり練習を積んでいた曲だ。
それに、今のこのステージ上には、馴染みのある15人のシンデレラプロジェクトのメンバーが勢揃いしている。
ずっと不思議だったことがある。
観客が行う、いわゆるコールと呼ばれるものだ。
今日初めて披露される新曲でも、こうして観客がピッタリ息を揃えて声を出し、ペンライトを振るうことができるのはなぜだろう。
皆に聞いてみたところ、どうやら入場した際に予めパンフレットと一緒にコールを示したものが配られるらしい。
それは、観客にもステージ上のアイドル達と一体となって楽しんでもらうための配慮なのだろう。
事実、まるで観客達と会話をしているかのように、私達の歌にペンライトの群れが呼応する。
然るべきタイミングで与えられるコールが私達の気力を引き上げ、同時に観客のボルテージも上がっていく。
先ほどよりも、ずっと落ち着いていることに気づいた。
こうしてステージを見渡し、観客の反応を楽しむ余裕さえある。
――楽しい?
これは、あの日お嬢様と一緒に見たライブの映像と、よく似ている。
私がいるべき世界とは、まるで遠いものだったはずの――。
それが、どうして楽しいなどと――。
「――ッ!? あっ…!」
突如、私の上体がグラリと揺れた。
ステップを踏み外し、足があるべき所に着地しなかったのだ。
私の体は、そのまま無様にもんどり打って倒れ――。
るはずだった。
すんでの所で私の手を引いたのは、凛さんだった。
「り……ッ!?」
そのまま彼女は何食わぬ顔で――私も、彼女に倣ってステージを続けた。
時間にしてみれば、コンマ数秒のことだっただろう。
最後の曲も、そうして無事に、終わった――。
あのまま倒れていたらと思うと、ゾッとする。
皆とのステージを台無しにするところだった。
――皆との?
お嬢様にお見せするステージが、ではなく?
最初に脳裏をよぎった言葉の妥当性を自問する。
私は、アイドルである以前に、黒埼家の従者であるはずだ。
第一に考えるべきはお嬢様――。
「……え?」
ともすれば地響きさえも起こしている観客席から、ふと毛色が異なる高音域の歓声が上がった。
見上げると、ステージの上をキラキラと、白い何かが舞っている。
これは――雪?
この日に舞い降りた雪も、その一環だったという。
つまり、人工雪による冷却効果の実証実験を行う場として、346プロがその事務局側の公募に応じたのだ。
真夏とはいえ夜間の、しかもアイドルのライブという、様相も条件も異なるものにも採用された辺り、まるで節操が無い。
だが、346プロはこれを効果的なステージ演出として利用できると考え、実際その目論見は奏功したと言えるだろう。
ちらちらと降る雪を、諸手を挙げて拾い上げようとしながらはしゃぐ観客達。
ステージ上のアイドル達も、思った以上に綺麗に煌めくそれに、誰もが弾けるような笑顔を浮かべている。
雪、か――。
ルーマニアでは、一度お嬢様と雪合戦を――。
「white snow……」
大歓声のステージ上で、流暢な英語が唐突に、それも――。
とても小さな声だったのに、なぜか私の耳に強く響いた。
案の定、というべきか、それはアーニャさんの声だとすぐに分かった。
彼女の方に顔を向けると、しっかりと視線が合ったからだ。
「チヨの名字……ですね?」
後になって知ったが、人工雪による演出は、アーニャさんの強い希望があったのだという。
その時の彼女も、いつか見た時と同じ――まるで、泣き出したいのを必死で誤魔化すような――。
何かを言いたいのを堪えるような、寂しい笑顔だった。
――――
無理にとは言わないが――養子になる気はないのかい?
もちろん、君のお父さんもお母さんも、たった一人しかいない。
私に代わりが務まるなどという、思い上がったことを言うつもりなんて無い。
だが――君さえ良ければ、私達を本当の家族だと思って、接してくれていいんだよ。
ちとせもあの体だし、私の仕事の都合もあって、同世代の友人があまりいなくてね。
歳の近い妹のような子がいた方が、あの子も喜ぶだろう。
どうかな――?
――――
「はぁぁ……ハラショー……」
上野にある美術館。
その大広間に飾られた絵画の一つを見て、アーニャさんが感嘆の声を漏らした。
やはり大作というのは、人の心に残るだけの力がある。
「クロード・モネの『睡蓮』ですね。
1900年代初頭ですから、彼の晩年におけるシリーズのうち、比較的早期に制作されたもののようです。
柔らかで温かみのある色使いと光の表現は、モネならではかと」
「はあぁぁぁ……」
「すっかりツアーコンダクターだね、千夜」
私とアーニャさんの後ろから、凛さんがからかい混じりに感心した様子で声を掛ける。
「これくらいのことは、何でもありません」
私でさえ、それまではグラビアだけだったものが、最近は歌う仕事の方が多くなっている。
346プロの他のアイドルがパーソナリティを務めるラジオ番組のゲストに呼ばれたり、あろうことかテレビに出たこともあった。
それをこなすためのレッスンも比例して増えたため、ますますお嬢様のために費やす時間が無くなっていく。
本来、あまり望ましいことではないのだが――。
そのような生活の中で得た貴重なオフを、お嬢様のためではなく、こうして他の人達と過ごすという選択をしている辺り、いよいよ私はおかしくなってきている。
「チヨ、これは何ですか?」
余計な思考に耽るのをまるで茶化すように、アーニャさんはもう次の作品の前にいる。
楽しそうだ。凛さんも、悪い気はしていないように見える。
誘って良かったと思う。
ただ――。
「セザンヌのようですね」
後ろから、黒くて大きい定規が私のそばを通り過ぎた。
アイツの位置から、おそらく作品の名前までは判読できていないはずだ。
「オォ~~。プロデューサー、すごいです。知っているんですか?」
「過去に、見覚えがあった気がしたもので」
しかし、なかなかどうしてコイツも、絵画に対する造詣が深いように見える。
畑は違うとはいえ、アイドルという芸術を作り上げるものとして、一定の教養は持ち合わせている――ということか?
「プロデューサー、あそこにも似たようなもの、あります。
一緒に、行きましょう。ダヴァーイ♪」
「あ、アナスタシアさん。あの、腕を……」
――――。
ああいう過度なスキンシップは、プロデューサーとして節度を持って断るべきではないのか。
「千夜、千夜ちょっと、怖い顔してる」
「何か」
私が仏頂面であると言いたいのならいつもの事だ。
今さら凛さんが注意すべきものでもないだろう。
アーニャだけじゃなくて、私まで誘ってくれて」
アイツとアーニャさんが私達を置いて先に行ってしまったのを見計らい、凛さんが改めて私に声を掛けた。
確かに、日頃からお世話になっているアーニャさんとは、一緒に美術館に行きたいとはずっと思っていた。
ただ――。
「凛さんにも、お世話になっていますから……ですが、お誘いしたのには、理由があります」
「えっ?」
そう、凛さんにはお世話になった。
彼女がいなければ、あのフェスはどうなっていたことか知れない。
だからこそ呼んだのだが、それは単純な感謝の気持ちだけによるものではない。
そう、今は二人だけ。タイミング的にもちょうどいい。
「なぜ、凛さんはあの時、私の手を引くことができたのか。
それをお聞きしたかったのです」
あの『GOIN’!!!』で、私と凛さんのポジションは、確かに隣同士ではあった。
それに、一緒にレッスンを重ねてきていたし、複雑なライン移動もピッタリ呼吸を合わせてこなせるまでになっていた。
だが、基本的には個の集合体であるはずのものだ。
移動で導線が交わる以外は、私と凛さんは当然に各々別の場所で歌い踊っているにすぎない。
いくら隣同士とはいえ、私が倒れようとした瞬間に手を伸ばして助けることなど、人間の反射神経ではまず不可能だ。
それとも、私があそこで転ぶことを予め予測していたとでもいうのだろうか?
「あぁ……あれは」
凛さんは、平静を装っているものの、気恥ずかしそうに頬を掻いた。
そうして、「うーん……」と言葉を選びながら、悩ましげに俯いている。
「千夜は、納得しないかも知れないけど……そういうものなんだよ、きっと」
理由になっていない。凛さんともあろう人が、随分と具体性に欠く、ナンセンスな回答だ。
「そういうものとは?」
「だからさ……」
頭を少しクシャクシャと掻いて、開き直るように鼻で一つ息をついた。
「上手く言えないし、合理的な理由なんて無い。
あの時は、たまたま私がそういうのを発揮して、気づいて、そうしたってだけ」
「……たまたま、ですか」
「千夜はきっと、信じられないって言うと思うし、私にもまだ信じられないけど……
ライブってたまに、そうなんだよ」
凛さんがある作品の前で足を止めた。
ドガだろうかと当たりをつけてみると、案の定そうだった。
たぶん、思考の置き場に困った彼女が、適当な対象としてこれに視線を預けているに過ぎないと思った。
「自分でも信じられないような力が、急に働くんだ。
それはたぶん、このステージを成功させたい、絶対失敗なんてさせたくないっていう、潜在的な強い気持ち……。
あるいは、お客さんからもらえる力もあるのかも知れない。
美嘉も言ってたけど、ステージって、私達アイドルだけじゃなくて、お客さん達と一体で作るものらしいから」
かぶりを振って、顔を上げる。
その真っ直ぐな横顔は、適当な言い草で私の質問をやり過ごそうとしているのではない、彼女の真摯な想いが感じられるものだった。
「強いて理由があるんだとしたら、そんなところかな」
「ほんとに分かってる?」
「いえ、分かっていません」
「だと思った」
フフッ、と年相応に吹き出す彼女の笑顔に、私もつい頬が緩む。
理解のできないことに、いちいち心を惑わされるのは合理的ではない。
そういう私のスタンスを、今ではアーニャさんだけでなく、プロジェクトの皆が認識していた。
分からないことは無視、だけど――。
凛さんの口から、そういう抽象的な話が出てきたことは、ちょっと興味深い、かな。
「ところでさ、千夜」
「何でしょう」
「ちとせは、今日呼ばなくて良かったの?」
「……もちろん、お誘いしたかったのですが、ご都合がつきませんでした」
「そうなんだ……忙しいのかな」
少し落胆しながら、凛さんは顎に手を添えて何か思案している。
最近では、お嬢様の方も、ご不在の時が多くなっている。
長らく候補生の身に甘んじていたが、アイドルとしていよいよ始動し始めたということだろうか。
そうであるならば、早く見てみたいという気持ちは純粋に強い。
私に対してさえ、一定の物好きが集まる業界だ。
お嬢様の美貌であれば、ファンの獲得などずっと容易いに違いない。
ただ、気になることがある。
お嬢様は私と同様、シンデレラプロジェクトのプロデューサーたるアイツにスカウトされ、この事務所に来た。
一方で、アイツの口から、お嬢様を担当することになった旨の話は聞いていない。
アイドルの活動を始めたのだとしたら、お嬢様は一体、誰が担当しているのだろう?
「あっ」
凛さんが、ふと何かを見つけて足を止めた。
「どうかされましたか?」
「ほら、あそこ」
通路の脇に退いて、電話で何やら話しているアイツを、アーニャさんが不思議そうに見つめている。
ほどなく電話が終わり、その場に合流した私達の下へ、アイツが戻ってきた。
「申し訳ございません。
急遽、事務所に戻る用が出来てしまったため、私はここで失礼させていただきたいと思います」
熊の様な巨躯で、丁寧に腰を折る。
何度も見てきた姿ではあるが、コイツのアイドルに対する慇懃さは、少し過剰なのではないかと度々思う。
「白雪さんも、お誘いいただいておきながら、誠に恐縮です」
「お前は元々誘ってなどいません。どうぞお構いなく」
「はい」
では、と再び小さく頭を下げ、アイツは大きな脚を大股に歩き、足早に私達のもとを去って行った。
「一体、何があったのでしょう」
「ふふっ……それより、千夜」
「何ですか?」
「ヘン?」
首を傾げる私に、凛さんは苦笑しながら手を振るう。
「だってさ。お前呼ばわりもそうだけど、結構キツい言い方に聞こえるのに、プロデューサーも普通に返してるし」
「ダー。リンも、そう思っていましたか。
チヨとプロデューサー、何だか、信頼感があって、楽しそうです」
「いや、信頼というものでは……」
一体何を言っているんだろう、この人達は――。
「あ、ほら。首を掻いた」
――凛さんに指摘され、無意識で首の後ろに回していた手を引っ込める。
「プロデューサーと一緒、ですね?」
「……次に進みましょう」
せっかく美しいものを観賞しに来ているのだ。
くだらない話に付き合うより、これを楽しむ方に時間を費やす方がはるかに有意義である。
後ろの二人が、小さく笑い合っているのが聞こえる。
不可解だな。実に、不可解極まりない。
特に用は無かったのだが、アイツのことが気になると二人が言い出したため、様子を見に行くことになったのだ。
だが、シンデレラプロジェクトの事務室に行くと、そこにアイツはいなかった。
それどころか――。
「ちょ、ちょっと! 何をするんですか!?」
みくさんの、少しヒステリックな声がこだました。
普段もそれなりに騒がしい人ではあるが、李衣菜さんに怒る時のような賑やかな調子は、微塵も感じられない。
引っ越し業者らしき真っ青な作業着に身を包んだ男の人達は、困ったように頭を掻いている。
「何と言われましても、ここを片付けろという依頼があったもので……」
そう説明する間も、何人もの作業員達が事務室に出入りし、中にあったものを次々に運び出していく。
346プロの事務所棟の地下。
物置として放置されていた、埃まみれの部屋にメンバーの皆が集められた。
ひどく無念そうに頭を下げ、険しい顔をしながら、アイツは口を開いた。
「先日、我がプロダクションのアイドル事業部に、新しい常務が着任しました」
ソイツの話によるところでは、こういう事らしい。
アイドル事業部の新たな統括重役として就任した美城常務というのは、会長の娘であること。
親のコネや欲目によるものではなく、海外のグループ会社を立て直した辣腕ぶりを買われ、就任したらしいこと。
業績が伸び悩む346プロの経営状況を一目した美城常務から、全てのプロジェクトを解体し、白紙に戻すとの宣言があったこと。
「ちょ……ちょっと待ってよプロデューサー!
私達、最近すっごく調子良かったじゃん! まるで失敗してるみたいな言い方はヒドくない!?」
未央さんの言い分は、もっともだと思った。
いくら会社の代表に近い立場とはいえ、昨日今日来たばかりの人に、知った風な口を聞かれる筋合いは無い。
「もちろん、私も反論をしました。ですが……」
曰く、これまでのプロデュース方法では、効率が悪いということらしい。
会社の財政的な面だけでなく、この業務を司るスタッフ――すなわち、プロデューサーや事務員達にとっても。
労働者の待遇改善と心身のケアは、経営者側にとって喫緊の課題であるという。
特に、業界でも大手の346プロは、その性質上マスメディアに対する露出も多く、揚げ足取りに近いスキャンダラスな追求がいつあってもおかしくはない。
クリーンなイメージを保つためには、ホワイトを演出する必要がある、ということのようだ。
「つまり、プロデューサーさんのやり方を、常務は否定したんですか?
私達に親身に尽くしてくれた、プロデューサーさんを……」
美波さんの呆然とした、消え入るような言葉が、ひんやりとした物置部屋にひっそりと霧散する。
私のプロデューサーは、コイツだけだ。
だから、一般的なプロデューサーがどういう性質のものかを私は知らない。
しかし、正すべき点が全く無いとは言いがたいが、コイツは常に私達のことを考え、私達のためになることの最適解を常に講じてきたことは、私にも分かる。
劣悪な労働環境があったとするならば、確かにそれは礼賛されるべきものではないだろう。
だが、コイツの心意気までをも否定することはいかがなものか。
「別にいいんじゃない、どっちでも」
「え、あ……杏ちゃん、何言ってるのぉ?」
「要するにその常務って人は、杏達の活動の仕方に文句を言ってるだけで、アイドルとしての活動そのものを止めろって言ってるんじゃないんでしょ?」
部屋にいる全員の、ともすれば非難にも似た視線を一身に受けながら、泰然としたものだ。
愛用のぬいぐるみに埃がつかないよう、両手でそれを抱え、しかし怠そうに欠伸をかいている。
「働き方改革大歓迎。労働の効率化は良いことだよ。
効率的ってのがローコスト・ハイリターンを意味するんだとしたら、346プロは即戦力を求めている。
だから、一応の実力を獲得した杏達を簡単に手放すことはしないでしょ。杏は別に手放してくれていいんだけど」
「で、でも!
シンデレラプロジェクト、一緒にやれなくなっちゃってもいいの!?」
「一生会えなくなるわけじゃないんだし、同じ仕事してればどうせまたいつか一緒になる時もあるんじゃない?
そこまで悲観するような話じゃないと思うけど」
というより、反論する必要が無いもののように思われた。
少なくとも、私の当初の目的は、お嬢様に言われたとおり、アイドルをこなすこと。
たまたま配属された先が、このシンデレラプロジェクトであっただけで、これにこだわる理由は無い。
「千夜は、その辺どう思う?」
不意に杏さんが私に話を振った。
いや、不意に、ではない――。
最近分かったことだが、彼女は無能な怠け者を装っているように見えて、その実非常に聡明で狡猾だ。
自ら省エネ運転を公言するくらいである。決して無意味で無駄な行動はしない。
私に話を振ったのは、何事にも合理性を求める私の考え方を熟知しているからだ。
自分のスタンスを、私なら否定することはないだろうと、杏さんは考えている。
「私は」
皆が私の言動を、固唾を呑んで見守っている。
ふと、隣に立っているアーニャさんにチラッと視線を向けると、非常に心配そうな表情をしているのが見えた。
一斉に、皆が安堵のため息を漏らす。
へぇ、という杏さんの値踏みをするような声も、その中に混じって聞こえた。
私は、アイツに向き直った。視線が絡む。
「お前は、私やお嬢様と約束しましたね?
私、いえ……私達がトップアイドルとなれるよう、善処をすると」
「はい」
「つまり、私達はまだ道半ばです。
望まれた成果が達成されないのであれば、私はお前や346プロに対し、契約不履行の事実を訴えることになる。
その常務に従い私を相手取るか、私との約束を守って常務に刃向かうか……。
お前にも、どちらかを選ぶ自由は許されましょう。どうぞ好きに」
コイツは、首の後ろを掻いた。
だが、どういうことだろう。
苦笑している。珍しいパターンだ。
「どちらかと言えば、白雪さんを相手にする方が、恐ろしいですね」
その言葉を聞いた美波さんの表情が、見る間に明るくなる。
「プロデューサーさん……それじゃあ!」
「シンデレラプロジェクトの活動計画をベースとした新規の企画案を作成し、常務に提出致します。
常務のプランと対立する形となりますが、より良い改善策は歓迎すると常務も仰っていたので、勝算はあるかと」
物置部屋が歓声に包まれる。
まだプロジェクト存続が決まったわけでもないので、ぬか喜びになり得る可能性は否定できない。
だが、気づくと私は、アーニャさんと手を取り合っていた。
「チヨ、ありがとうございます」
「感謝をされる筋合いなどありませんよ」
「ニェット。チヨがプロデューサーを、脅かしたから、ですね?」
微笑みかけるアーニャさんに、私はかぶりを振り、鼻で小さく笑った。
「そのような事を言われるのは、心外です」
「フフッ♪」
「杏ちゃんも、プロジェクトを抜けたかったら抜けてもいいんだよ~?」
意地悪く杏さんを肘で小突くのは、未央さんだった。
ニヤニヤしている辺り、本心でないのは自明だ。
「だから杏はどっちでもいいんだってば。千夜の反応は予想外だったけどね」
「私は客観的な事実を言ったに過ぎません」
「まぁ、そういう事にしておくよ」
プロジェクト存続に向けて動き出した私達の最初の仕事は、部屋の掃除だ。
「千夜ちゃん、普段やってくれてばかりだから、今回は休んでくれてもいいわよ」
「ありがとうございます。掃除は、少々苦手なもので」
「えっ、千夜ちゃん、お掃除苦手なんですか?」
卯月さんが驚いた様子で私を見る。
「黒埼に仕えている間は、それが仕事でしたので、四の五の言っていられなかっただけのことです」
掃除というのは、やればやるほど新たな汚れが見つかり、キリが無くなっていく。
どこまでやれば良いという終焉が見えないものは、私にとって付き合い辛い対象だ。
機械に任せようと、黒埼の屋敷でルンバを一度操作した時のことを思い出す。
あれは、どうしようもない代物だったな。痒いところに全く手が届かない。
お嬢様の気まぐれで買われたは良いものの――。
――――。
突然、背筋が凍る感覚が我が身を襲った。
「……ねぇ、プロデューサー」
皆と掃除をする手を止め、凛さんが後ろを振り返る。
アイツは、部屋の一角でノートパソコンを広げていたが、その作業の手を止めた。
「常務って人のプランと対立する、って言ってたけどさ……
それ、どういうことなの? その常務のプロジェクトと、私達が戦うってこと?」
先ほどまで明るくなってきていた部屋の空気までもが、急激に陰鬱になっていく。
しばらくして、アイツは自分のバッグから書類を一枚取り出し、凛さんに手渡した。
「まだ、明確に争うと決まったわけではありませんが……」
「……プロジェクトクローネ?」
なるほど、一方的に全てのプロジェクトを白紙にするだけではなく、常務には新規プロジェクトの案があったらしい。
コンセプトは、
「かつてのアイドル全盛期を彷彿とさせるスター性、別世界のような物語性の確立」
「お城のような煌びやかさ」
とある。
その下には、プロジェクトのメンバーが列記されているようだ。
――――。
・塩見周子
・宮本フレデリカ
・一ノ瀬志希
・城ヶ崎美嘉
・鷺沢文香
・橘ありす
・アナスタシア
・渋谷凛
「え、ちょ、ちょっと待って!? 何でアーニャとしぶりんが……!」
もちろん、動揺しているのは未央さんだけではない。
なぜ、既にシンデレラプロジェクトに所属している者までもがメンバーに選ばれているのか。
しかし、私をさらに動揺させたのは、そこに記された最後のメンバーだった。
・神谷奈緒
・北条加蓮
・大槻唯
・黒埼ちとせ
・黒埼ちとせ
「ち、チヨ……」
私は目を疑った。何度も何度も見直した。
だが、当たり前のことだが、書いてあるその名は、いくら読み返しても一向に変わることは無かった。
こんにちは。
また、私と一緒に遊んでくれるの?
あそこの丘、もう紅葉は終わったけれど、落ち葉がフカフカだから、きっと楽しいよ。
え、違う?
従者――そうなんだ。
もう。パパの言うことも、当てにならないんだから。
何でも言うことを聞いてくれるの?
うーん、それじゃあねぇ――あなたの命を、私にくれる?
あはは、そんな困らないで。
今のは私がイジワルしたかっただけ。ごめんね?
でも、軽々しく「何でも」なんて言葉、使わない方がいいよ?
何にでも限界というものが、どうにもできないものがあるんだから。
私の身体が、そうであるように――。
――――
アーニャさんと凛さんの『プロジェクトクローネ』への配属は、シンデレラプロジェクトからの脱退を前提とするものでは無かった。
当人の意向を個別に聞き、希望があれば兼任という形で所属することも可能らしい。
しかし、いくら強制でないとはいえ、常務が提唱するプロジェクトへの配属を断るという選択は、実質的に不可能であろうというのが、アイツの見解だった。
それについては、私も否定はしない。
元々、そういうしがらみを避けたくて、契約時はアイツに雇用形態を確認したものだった。
今となっては、結果的に隷属する形になってきているが、そんな事はどうでもいい。
私が問題とすべきは、当然に別の所にあった。
「あ、千夜ちゃん!」
レッスン室を飛び出し、医務室への廊下をひた走る。
また、お嬢様が倒れたらしい。
頻度で言えば、この程度はよくある事――。
だが、これは決して看過できる事ではない。
息が整うのも待たず、ほとんど衝突せんとする勢いそのままに、私はそのドアを開けた。
「お嬢様!」
「えぇー? それ、ヘンなの入ってるでしょう」
お嬢様が横たわるベッドに、数人が群がっている。
あの人達もアイドル。それも――。
一ノ瀬志希さんと、宮本フレデリカさん――。
「やだなー、眠らなくても疲れなくなる魔法のオクスリだよ?」
「志希ちゃん、言い方!」
「チトセちゃーん☆ チトセちゃん、こっちのフレちゃんのお水ならどう?
おフランスから遠く離れた、東京の由緒ある地で作られた魔法の聖水、源泉掛け流しだよー♪」
「いやそれモロに普通の清涼飲料水やん」
城ヶ崎美嘉さん、塩見周子さん――。
「うーん、志希ちゃんのヘンなお薬よりかは、フレデリカちゃんのがいいかなー」
「ワァオ☆ じゃあこのコップに入れるねー、あ、でも宮本的にはもう一つアクセントがほしいかもー。シキちゃんお薬ちょうだい?」
「はーい♪」
「いや入れるなっ!!」
「あら」
くだらないやり取りを傍からボーッと眺めていると、横から声を掛けられた。
「速水奏さん、ですか」
「シンデレラプロジェクトの人に名前を覚えてもらえているなんて、光栄ね」
嫌でも覚える、という言葉は、すんでの所で飲み込んだ。
常務が提唱するプロジェクトクローネの看板ユニット『LiPPS』。
そのリーダーである速水さんは、プロジェクトの実質的なまとめ役であり、もはや顔とも言える存在だ。
なるほど。同い年とは思えない大人びた美貌もさることながら、肝が据わっている。
この人達が、私達シンデレラプロジェクトの――。
「あまりそう、敵意をむき出しにされても困るわね」
「そんなつもりはありません」
「あ、千夜ちゃん」
お嬢様が私に気づき、手を振った。
「ありがとう、来てくれたんだねー。
フレデリカちゃんと志希ちゃんの特製ジュース、千夜ちゃんもどう?」
「さり気なく毒味させようとしてんな、この子」
「周子ちゃん鋭い」
「お嬢様、なぜ……」
ゆっくりとベッドに近づく。
「なぜ、そのような無茶をなさるのですか」
事実、これまでにも346プロのレッスン中に倒れてしまったことは何度もある。
私は、部屋にいる他の人達を見返した。
睨みつけたと言っても良い。
「あははは、あのぉ~……ち、千夜ちゃ~ん、あんま怖い顔してると福が逃げるよー?
って、そういや初対面だよね。初めまして、LiPPSの色白担当です」
「存じています、塩見周子さん。
あなた方が今日、お嬢様と同じレッスンを受けていたことも」
ご自身だけでなく、お嬢様の周りの人間も、既にその体力の程は承知しているはずだ。
限界を見極められるだけの――行き過ぎたレッスンを止めるだけの条件は、優に揃っている。
「千夜ちゃん、ごめん……」
真っ直ぐな、それでいてひどく申し訳無さそうな声は、城ヶ崎美嘉さんだった。
シンデレラプロジェクトにおける私達の仲間、莉嘉さんの実の姉だ。
先日のサマーフェスでは、全体曲に入る前のMCを上手く行ってくれたこともあり、私達にとっても頼れる存在ではあった。
「本当なら、アタシ達がちゃんとちとせさんを止めなきゃいけない立場なんだけど……」
「ううん、いいの美嘉ちゃん」
ベッドの上で横たわるお嬢様が、優しく首を振った。
「千夜ちゃんには悪いけれど、これからも同じようなことが起きると思うから、気にしないでいいよ」
お嬢様の無理な相談は今に始まったことではない。でも、今のはあまりに――!
「やはり君か、黒埼ちとせ」
激昂する寸前だった私の背後、医務室の入口に立っていたのは、灰色のスーツを着た背の高い女性だった。
ウェーブがかった長髪を束ね上げ、真っすぐと、かつ豪然たる姿勢でその場に佇んでいる。
「私は君に無茶をしろと命じた覚えは無い。
レッスンを行う度に医務室の世話になるようでは、スタッフにとっても気が気で無くなるな」
「それは私が一番よく分かっていること。
今度のフェスで、私が結果を出さなくてはならないことも、ね」
「フン」
お嬢様との会話の内容と、その態度で察しがついた。
この人が、美城常務か。
アイドル事業部、並びにプロジェクトクローネの、総責任者――。
私の存在に気づいた常務が、顔をこちらに向けた。
「白雪千夜と申します。シンデレラプロジェクトに所属しています」
「名前は知っている。なぜ君がここに来ている」
「お嬢様の従者だからです」
常務は鼻を鳴らした。
「なるほど、それなら君からも彼女によく言い聞かせてほしい。
プロジェクトの目玉となる大事なアイドルが本番前に潰れてしまうことは、私にとって本意ではない」
「ふふ……妬いちゃうわね?」
常務の言い草に、速水さんが肩を揺らした。
「何が言いたい」
「まるで、私達が目玉ではないみたいに聞こえたものだから」
「我がプロジェクトのメンバーは皆、当然に家族とも言える存在だ。
勝手に被害妄想をされては困るな」
「そうだとしても」
腕を組みながら部屋の壁に背を預け、速水さんは常務を真っ直ぐに見据えた。
不敵の一言に尽きるその表情は、およそ新人アイドルが上役に向けて出せるオーラではない。
「ちとせに対する346プロの力の入れようは、他のアイドル達の比ではないんでしょう?」
話の趣旨がつかめないでいると、何がおかしいのか、猫のような笑い声を上げながら一ノ瀬さんが部屋の中央に躍り出た。
「犬が飼い主側をランク付けしていることがよく話題になるように、動物っていうのは何かにつけて順位を付けなきゃ気が済まないんだって。
そうすることで初めて群れの中での従属の関係性とか自分の分、つまり立ち位置や実在性を確認することができるんだよね。存在の証明ともゆー。
人間社会で言えば、親は子供を、先生は生徒を、上司は部下を、あるいはそれぞれその逆を……芸能界、取り分けアイドルの世界はひょっとしてその最たる例なんじゃないかにゃ?
常務の立場としてはそりゃあ万物平等公平無私を唱えるほかは無いかも知れないけど、どこかでホンネの部分を曝け出さない限り、ヒトたるべきアイドルはヒトならざるキミらの人形でしかなり得ないと思うなー」
「えぇー、シキちゃんお人形になっちゃうの?」
「にゃははー全身フル稼働1/1サイズだよー♪」
「やったー☆ 由緒ある魔法の宮本水で育てなきゃー!」
「人形の概念壊すのやめて……」
「あ、えーとね千夜ちゃん、一応あたしの方から説明すると」
一ノ瀬さんと宮本さんが好き勝手にはしゃいでいるのを無視して、塩見さんが私に声を掛けた。
あしらい方に慣れている辺り、こういうやり取りは日常茶飯事らしい。
「961プロの、玲音さんっていうアイドルいるでしょ?」
「うっそ、オーバーランク知らん?
ははぁ~、あたしも自慢できたもんじゃないけど、千夜ちゃんも存外マイペースだねー。まぁいいや」
ケラケラと愛想良く笑って、塩見さんは続ける。
「今度のフェスで、ちとせちゃんが歌う曲、玲音さんの曲なんだって。
何て言ったっかな、『アクセルレーション』だっけ?
つまり、961プロとの事務所の垣根を越えた一大コラボ企画。しかもすんごいエラ~い人の曲。
だから346プロとしては余計に失敗が許されないってわけ。
でいいんだよね、奏ちゃん?」
「私じゃなくて、常務に直接聞いてもらえないかしら」
「えぇー、あたしあんま怖いの苦手やし」
軽い調子で言っているが、どうやらお嬢様を取り巻く環境は決して軽いものではないらしい。
新任常務のメンツをかけた新規プロジェクトの駒の一つとして、お嬢様はあてがわれただけのものと思っていた。
だが、他事務所の、それも聞く限りでは業界のトップに君臨するアイドルの曲を借りるという。
もし失敗しようものなら、業界内における346プロの信用は地に落ちる。
お嬢様は、常務だけでなく、346プロの期待を一身に背負うことを承知し、これを成功させようと過酷なレッスンに身を投じている。
城ヶ崎美嘉さんが、言葉を継いだ。
「アタシ達も、本当はちとせさんが無茶をするのは、黙って見てられないの。
でも、ファンの人達の事を考えたら、次のフェスがすごく重要なイベントになる、絶対成功させなきゃって思うと、どうしてもダメって言えなくて……
常務には、アタシにやらせてとも言ったんだけど、でも」
「城ヶ崎美嘉、君には既にイメージがある。
余所の曲を軽率に歌って、君が培ってきたものを失わせることは得策ではない」
常務は、部屋にいる私以外の全員を見渡した。
「君達を始め、プロジェクトクローネには私が見出したそれぞれの役割、持ち味がある。
そこに優劣はない。一ノ瀬志希がふざけたことを言おうとも、それは各自認識してほしい」
「ふざけたってヒドーい」
「……なるほど、よく分かりました」
頭の中はひどく静かだ。
でも、腹の底は久しく感じていなかった怒りがこみ上げてくる。
「経営者の立場として、そういう建前をとることを良しとしたあなたの考えが」
確かに常務は「無茶をするな」と言うだろう。
だが、無茶をしなければ到達できないレベルを要求されていたのでは、使われる側のやるべき事は変わらない。
その結果、仮にその者が潰れたとしたら、経営者は「それを命じた覚えは無い」「勝手にやったことだ」と言い逃れる寸法だ。
つまり、常務が行っていることは、改善とは名ばかりの責任放棄に他ならない。
まして、それをお嬢様に対して仕向けるなど――!
「そういうわけだから、千夜ちゃん」
お嬢様の、妙にのんびりした調子の声で、我に返った。
「私も、自分のことはよく分かっているから、心配しないで。
本当にダメな時は、こうしてダメって言って休むから。
千夜ちゃんがいるシンデレラプロジェクトみたいに、私もこうして色んな子達と仲良くできて、楽しいの。
だから、千夜ちゃんも、自分のことを優先して、お互い楽しんでいこう? ねっ?」
「お、お嬢様……」
「うひゃあ!?」
急に抱きつかれ、後ろを振り返ると、宮本さんだった。
いつの間に背後に回ったのか、この人は。
「チヨちゃん、心配しちゃう気持ちも分かるけど、フレちゃん達も一緒だから安心してね。
楽しいことが大好きな気持ちは、シンデレラプロジェクトの子達とギリギリ同じくらい、アタシ達も持ってるんだー☆
チトセちゃんが本番もちゃーんと楽しくなれるよう陰日向に海越え山越え春はみやもと的にガッチリサポートするよー♪
ね、カナデちゃん?」
宮本さんが同意を求めると、速水さんは壁に背をもたれたまま、フッと肩を揺らした。
まるで女優のような仕草に目を奪われていると、いつの間にか一ノ瀬さんが私に顔を近づけ、鼻を鳴らしていた。
「んふふ、千夜ちゃんもなかなかユニークな匂いを持ってるねー」
「ゆ、ユニーク? 匂い?」
「いかにも建前を是としてそうな子が、常務の建前に真っ向から異を唱えるその胸中や如何ほどかにゃ、って思ってさ。
仲良くできそうで安心したよ。キミはまだホントの部分を隠してる。ないすとぅーみーちゅー、はろーわーるど、にゃははー♪」
理解できないものへの思考はシャットアウトしたいのに、目の前の彼女はお構いなしに私の視線を釘付けにする。
「取り繕わないハダカの部分に訴えかけて初めて人の心は動かせる。
曝け出そう、解放しちゃおう。内なる本能を認識して初めてあたし達は生を得るんだよ。
建前だけで乗り切れるほど簡単じゃなくない? アイドルって。だからあたしはここにいるの」
――本当の部分?
まるで私がウソを言っているかのような言い草に、少し胸がざわつく。
「もういい、そこまでだ」
常務が手を叩いた。
「黒埼ちとせ、君はスタッフの言うことをよく聞いて、着実な快復に努めなさい。
他の皆も、予定されたレッスンメニューを消化していないままだろう。しっかり整理体操をしておくこと。
いいか、くれぐれも無茶なことはするな。これは命令だ」
「要求レベルを下げる気はないようね」
速水さんがポツリと言った皮肉に、常務は何も言葉を返さず、部屋を後にしていった。
寮の屋上の手すりにもたれながら、アーニャさんはボンヤリと俯いていた。
生憎の天気であり、夜空を見上げても薄曇りを通して月明かりが辛うじて確認できる程度だ。
通り抜ける風も冷たく乾いており、秋の終わりをいよいよ近く感じさせる。
たとえ星が見えなくとも天体観測をしたいと、今夜彼女が言ったのは、私と話をしたかったからだという。
それは私も同じだった。
「私のことなど、どうでもいいです。それより」
私はアーニャさんの背を見つめる。
少し肌寒いせいか、いつもよりも少し小さく見える気がする。
「アーニャさんは、プロジェクトクローネに参加するのですか?」
少し間を置いて、彼女の頭がほんの少しだけ、縦に揺れた。
「リンも、やるって、言ってました」
「イズヴィニーチェ……ごめんなさい」
「何を謝ることが?」
私はアーニャさんの隣に歩み寄り、手すりに手を置いた。
「アーニャさんに、お願いしたいことがあります」
「……チトセ、ですか?」
「はい」
私は、プロジェクトクローネのメンバーに選ばれていない。
希望すれば合流できる可能性もあるとアイツは言うが、選ばれた者とそうでない者がいるという事実が何を意味するのか、理解できないほど私は愚かではない。
それに、シンデレラプロジェクトの皆を――。
いや、それ以上を言うのは、決断をしたアーニャさんや凛さんに失礼だ。
「私よりも、アーニャさんの方がお嬢様と一緒にいられる時間が増えることが想定されます。
どうか、お嬢様が無茶をなさるようなことがあれば、アーニャさんにも止めていただきたいのです」
アーニャさんは、何も言わない。
遠くに煌々と広がるビル群の光を、黙って眺めている。
「凛さんは、神谷さんや北条さんとのトリオユニットでの活動を予定されているとお聞きしました。
お嬢様と同じソロ同士、アーニャさんであれば、お嬢様と同じレッスンを受けることも多いのではと思います」
アーニャさんは、小さく首を振った。
「それはたぶん、アーニャには、難しいですね」
「なぜですか」
私はつい声を荒げた。
心根が優しく、いつも相手を気遣ってくれる彼女からの予想外の返答に、動揺を抑えることができない。
「どうかお願いです。
お嬢様に関することを誰かにお願いしたい、頼りたいと思うこと自体、私にとっては初めてなのです」
「ンー……理由は二つ、あります」
アーニャさんはフッと空を見上げた。
頭の中で、私を説得するための言葉を整理しているのだろうと思った。
「まず、これからのチトセの、レッスンメニューは、特別です。
961プロの、レオンの曲を歌うの、とても大変ですね。
アーニャは、一緒に特別なレッスン、受けることができません」
オーバーランク――つまり、並び立つ者がいない領域のアイドルの曲を借りるのだ。
アーニャさんの話では、その玲音なる人の特別レッスンを受けることもあるのだという。
二人は意気投合、というより、玲音さんがお嬢様をいたく気に入ったこともあり、企画自体はスムーズに進んでいるらしい。
問題は、どこまで完成度を高められるか――つまり、お嬢様の頑張り次第ということだ。
無茶なお願いであろうと何とかしてほしい。
いや、しなければならないのだ。
私はアイドルである以前にお嬢様の従者。
お嬢様の身の安全の確保は、私にとって第一に行わなくてはならないこと。
あの人は、人形である私に生きる意味を与えてくれた、大切な方なのだ。
「お嬢様のお身体に、何かあってからでは遅いのです。
ご自身が自称されているように、お嬢様のお身体は決して強いものではありません。
せめて、レッスン以外の所で一緒の時間を作るとか、できる限りのケアを……!」
「一緒の時間……」
アーニャさんは、こちらに顔を向けて、ニコリと笑った。
「それなら、たぶんできます」
「良かった……」
「でも……チトセを止めることは、できません」
寂しそうな笑顔のまま、アーニャさんは俯いて首を振った。
「どうして……?」
「アーニャは、チトセを止めたいと、思わないからです」
この人は、ひょっとして私に喧嘩を売っているのか?
親しくしてくれる人からの決して無視できない一言に、私は身を強張らせた。
星空のように綺麗なその瞳を真っ直ぐに見据える私は今、どんな表情になっているだろう。
「チヨ……話をしても、いいですか?」
「話?」
「ちょっとだけ、昔の話……それと、アーニャがアイドルになった理由」
以前、聞いたような気がしたが、ふと思った。
そうだ。
あの時は確か、アーニャさんがレッスンを頑張る理由について聞いただけだ。
出来なかったことが出来るようになれば、ご両親が褒めてくれると――確か、そういう話だった。
「チヨに聞かれて、アーニャは、ちゃんと答えていませんね?」
――まただ。
この人は度々、寂しそうな、何かを我慢するような笑顔をこうして私に向ける。
「……お願いします」
そう言うと、彼女は「ダー」と頷き、胸に手を当てた。
?
――え、そこから?
「……知っています」
「フフッ、そうですね。
アーニャは、北海道で生まれました。
日本で生まれたアーニャは、日本人です。でも……」
胸に当てた手をスゥッと下げて、アーニャさんは俯いた。
「ロシア人のパパと、日本人のママ……アーニャに会う人は、みんな、外国の人だと思います。
それは、仕方がないです。
アーニャは言葉、上手くありません。見た目も、日本人らしく、ないですね」
「過去に何かご苦労が、あったのですか?」
「ンー……」
アーニャさんは、首を傾げながら、ちょっと困ったような顔をして虚空を見上げた。
その姿を見て、ふと気づいた。
日本語が下手だからではない。
優しい彼女は、聞く相手が不快にならないような言葉を、とても丁寧に探している。
「そうですね……とても、大変でした。
初めましての人と、うまく話せなくて……悲しくて、寂しかった」
「ダー」
彼女が日本語を自在に扱いきれない理由の一つは、それだ。
「生まれて、小さい時にすぐ、ロシアに行きました。
ロシアの時は、パパのロシア語と……ママの日本語も、教えてもらいました。
でも……10歳のアーニャが、北海道に戻った時、どちらも上手では、ありません。
日本語も、ロシア語も……ヘンな言葉しか、使えなくて、皆、アーニャを避けましたね。
怖い子、冷たい子……皆、そう言いました」
「アーニャさん……」
豊かな愛に育まれた、元来心の温かな人だと思っていた。
彼女にも背負ってきた過去があり、辛い経験を乗り越えて今の優しさがあるということか。
つまり、どこかで転換期があったはずだった。
暗い過去を払拭し、明るい感情を持てるきっかけとなった出来事が。
私の心情を察するかのように、アーニャさんは私の目を見つめ、フッと笑った。
少し、表情が明るくなった気がした。
「チヨ……たぶん、アーニャに何があったのか、知りたいですね?」
「えぇ、その通りです」
「とても、優しい人に出会いました」
「一人ぼっち……小樽で運河を、ボーッと眺めていたアーニャに、声を掛けてくれた女の子がいました」
「小樽、ですか……」
「ダー♪」
その女の子はアーニャさんの二つ年上で、アーニャさんの知識ではほとんど理解ができない日本語だったという。
よほど北海道訛りの強い子だったのだろうか。
「でも、色々なお話、してくれました。
言葉は分からなくても、明るい笑顔で、楽しそうに話すのを見て、アーニャも、楽しくなりました」
「分からなくても、ですか?」
「ダー。アーニャの手を引いて、いっぱい色々な所へ連れて行って、遊んでくれました。
とても寒い日だったけど、さよならをする頃には、体も心も、ポカポカですね」
良い人に巡り会えたのだなと思う。
名前も顔も知らないどころか、言葉さえ分からない他人と四六時中遊び倒すなど、よほどの暇人か奇人――。
「その時、アーニャは、教えてもらいました」
こちらに振り返り、ニコリと笑う。
「アーニャは、色々な子と、お話するようにしました。
言葉は、ンー……あまり、伝わっていなかったかも、ですね。でも、たくさん話しました。
そうすると、友達、たくさんできました。アーニャも、皆も明るくなって、とても嬉しかった。
寂しかった時には、皆近づいてくれなかった。でも、それはアーニャが、寂しかったから、ですね?」
「アーニャの、恩人です。
あの子にもらった明るい、優しい心を、アーニャはずっと、大切にしています」
――――。
実に良い話だ。だが――。
なぜか先ほどから、素直にアーニャさんの話に傾聴しきることができない自分がいる。
胸がざわつく――。
「それで、その……たとえば、アーニャさんのその……」
「はい」
「その子に元気づけてもらった、その経験を、誰かにも与えたいという想いから、アーニャさんはアイドルを……?」
「ンー……それも、無いことは、無いですね。
でも、きっかけはちょっと、違います。アーニャも、スカウトでした」
眉根を寄せて、悩ましそうに苦笑している。
「アイドルが何をするのか、分かりません。でも、プロデューサー、とても熱心でした。
ストラースチ……情熱、ですね。この人の情熱、どこに向かうのか、とても興味ありました。
大好きになれた、北海道の街……離れたとしても、私の知らない世界、見たいです」
騙されている、乗せられているとは、考えなかったのか――そう聞こうとしたが、飲み込んだ。
彼女はきっと、人を疑うことを知らない。
それは、すごく危ないことなのに。
「ンー……チヨはアーニャを、心配してくれています」
「えっ?」
「スパシーバ、チヨ。
でも、人を疑うより、信じる方が、楽しいですね?」
「信じた末に、裏切られることになったとしても、ですか?」
彼女の言っていることは、詭弁だ。
あるいは、無知であるが故の夢想。
世の中、良い人間ばかりとは限らない。
「信じることを決めたのは、アーニャです。
だから、裏切られて、悲しい思いをしたとしても、それはアーニャのせい、ですね」
アーニャさんは、かぶりを振った。
「アーニャは、ワガママです。自分で決めたい……誰かのせいにしたくない。
誰かの助けになったとしても、誰かに傷つけられたとしても、自分の気持ちで、受け入れたい。
アーニャのいる世界は、アーニャの足で歩きたいです」
アーニャさんの瞳は、私を真っ直ぐに見つめていた。
その気迫から、私にその言葉をしっかり届けたかったのだろうという意志は明確に感じ取ることができ、実際それは、私の心に強く突き刺さった。
決して平坦では無かった過去。
それでも「我」を見出すことを選択した今。
彼女は、常に黒埼家に依存してきた私の生きてきた世界とは、全く違うところにいる。
「だから、チトセを……そうしたいと、自分で決めたチトセを、アーニャは応援したいです」
アーニャさんは頷いた。
「チヨの言うこと、分かります。
アーニャもチトセは、とても心配です。倒れちゃうの、怖いですね。
でも、アーニャ達が止めたら、チトセは、傷つくと思います。
心に傷を……ずっと治らない、深い傷を」
「アーニャさん……」
彼女は、冗談を言うような人ではない。
とても真面目で、素直で、純情で、心根の優しい人。
なのに――。
「何で、そんなことを言うんですか……」
なぜそんな、訳の分からないことを言って、私の心をかき乱すのか。
悲しそうな表情をして言うくらいなら、なぜそれをわざわざ呼び出して私に伝えるのか。
胸の中で渦巻く、怒りとも悲しみともつかない暗く重たい感情に煩悶していると、携帯が鳴った。
凛さんからのメールだった。
美城常務とのミーティングに、お嬢様が姿を見せていなかったとのこと。
部屋にいるはずのお嬢様と、連絡がつかないらしい。
電気をつけ、居間へと進むと、お嬢様は座椅子に腰を下ろし、背の低い丸テーブルに顔を埋めて眠っていた。
「お嬢様……」
テレビが付いたままになっている。
画面が灰色な所を見ると、おそらくDVDか何かを観ていた最中だったらしい。
レッスンを終えて自室に戻り、それを最後まで観ることなく、疲れきって眠ってしまったのだろうか。
「お嬢様、お身体に障ります。ベッドで寝ましょう」
「んぅぅ~……」
何とか体を起こし、肩を担いでベッドに寝かせた。
この間、二人でライブのDVDを観た時は、お嬢様が私に布団をかけてくださったことを思い出す。
「ちよちゃん……」
「はい、白雪です。何も気にせず、どうかゆっくりお休みになってください」
「ちよちゃん……」
起きた訳ではないようだった。
うわ言のように私の名を数度口にした後、そのまますぅすぅと、再び眠りについていく。
こんなご無理をなさらずとも、お嬢様は十分美しい。
ふと、アーニャさんの言葉を思い出した。
お嬢様のフェスに向けた努力は、美城常務からの一方的な指示だけでなく、お嬢様ご自身が望んで決めたことであると。
確かに、あの人はそう言っていた。
なぜ、お嬢様はそのような過酷な道を――。
――部屋の空気が澱んでいる。
「少し、空気を入れ換えます」
ベランダ側の掃き出し窓の上部にある小窓を少し開ける。
サァッとカーテンがなびき、部屋の中に冷たく澄んだ空気が入ってきた。
少し乾燥しすぎてしまうな。もう少ししたら閉めよう。
手袋と、身にまとったインナーを、知れずキュッと握りしめる。
冬は、とかく空気が乾燥するから嫌いだ。
私の故郷、北海道ほどではないにせよ――いや、それを思い出すからこそ、冬は好きになれない。
雪という水分にあれだけ覆われているのだから、本州と比べれば、空気には湿気があるのではないかと。
しかし、そうではない。
本州の雪と北海道の雪は、大きくその性質が異なる。
大気中に含まれる水分量が限界を超えると、雨となって地上に落ちる。
それが一定の気温まで下がれば雪になるというのは誰もが知るところであり、当然にそれは本州も北海道も変わらない。
双方で異なるのは、気温差である。
北海道はその土地の性質上、あまりに気温が低いために、そもそも大気に含むことのできる水分量が極端に少ないのだ。
言い換えれば、空気中に水分が存在できないほどに寒いのであり、その乾燥具合は本州の比ではない。
翌週は、東京に季節外れの大寒波がやって来ると、連日ニュースで大騒ぎしている。
それほど寒い日であれば、東京でも雪になるかも知れないが、それはいわゆる“ベシャ雪”と呼ばれる、水分を多量に含んだもの。
飽和水蒸気量の少ない北海道の、乾いた冷たいそれに比べれば、さぞ温かな雪になるだろう。
大気のキャパシティを超えた水分が、地上に落ちる。
空気が乾燥する冬は、嫌いだ。
――?
ふと、付きっぱなしだったテレビを消そうとした手が止まる。
無粋な真似とは思いつつ、リモコンを操作して音を消し、巻き戻して再生ボタンを押した。
「……これは」
アイドルのライブのDVDだった。
随分と、引きの画だな。客席側から撮ったものらしいが、手ぶれも激しいし、画質もそれほど綺麗じゃない。
まるで一昔前のホームビデオのような映像だ。
だが、よくよく目を凝らしてみると、どうも見覚えのあるステージであることに気づく。
そして、その上にいるのはアーニャさんと――私。
「誰が、こんな映像を……」
明らかにこれは、先日のサマーフェスだ。
なぜか、急に私の方へズームされていく――恥ずかしい。
しかし、察しがついた。
おそらく、これは黒埼のおじさまが撮影したものだ。
たぶん、スマートフォンではなく、昔から使用されているご自身のビデオカメラで。
おじさまのカメラは、即興ラブライカの後、そのままシンデレラプロジェクト全員でのステージを残している。
しかし、フォーカスするのは専ら私の姿ばかりだ。
凛さんが私をさり気なく助けたシーンも、バッチリ映っている。
おじさまが、私を――そして、お嬢様も、私のことを――。
振り返ると、凛さんが部屋の入口に立っていた。
手には、お見舞いの品と思われる小包と、クリアファイルに入った書類が握られている。
「凛さん……」
「勝手に入っちゃって、ごめん。
携帯とチャイム、鳴らしても反応が無かったから。
今日あったクローネのミーティングの資料、ちとせにも渡しておきたかったんだけど……寝てるね」
「はい」
私はその場に立ち上がった。
「お嬢様はご覧のとおり、お疲れのようです。
どうか、ご無理をなさることが無いよう、凛さんからも改めてお嬢様にお伝えいただけると助かります」
「…………」
返答が無い。黙って俯いている。
だが、私の願いを受けた凛さんの反応は、アーニャさんのそれとほとんど同じだったと言える。
「え……?」
「あなたなら、理解を示してくれると思っていました」
「あ、ちょっと千夜……!」
このままこの場にいると、私は凛さんにあらぬ言葉をぶつけてしまうだろう。
彼女を説得することが不可能だと悟った私は、足早にその場を後にして、逃げるように隣の自室に駆け込んで鍵を閉めた。
「なぜ、皆してお嬢様を……」
尊重とか応援とか言いながら、結局はお嬢様と関わり合いたくないだけではないのか。
彼女達は、常務という大きな力を持つ者に逆らい、事務所内の居場所を脅かされたくないのだ。
私だけがお嬢様の御身を案じている。私こそが。
やはり、私がいないと――。
「……あ」
お嬢様の部屋、小窓を開けっ放しにしていたのを思い出した。
後で閉めようと思っていたのに、凛さんに気を取られてしまい、すっかり失念してしまっていた。
急いで戻りたい所だが、また凛さんと鉢合わせになるのも煩わしい。
二の足を踏んでいた所へ、声が聞こえた。
千夜の言うことも、正しいよ――。
「! ……」
外から聞こえてくるらしい。
私はそっと窓を開け、ベランダに出た。
「体を壊したら、元も子もないんだから……あまり、頑張ればいいってものでも、ないと思う」
やはり、凛さんの声だ。
換気のために開けた小窓から、話し声が聞こえてくる。
私は、ベランダの隔て壁のそばに立ち、そっと息を殺して聞き耳を立てた。
「…………」
「あはは、ゴメンゴメン。気を悪くしないで。
私を思ってのことだったって、分かってるよ。
千夜ちゃんに何も言わなかったのも、本当は同意したい気持ちと、私を尊重したい気持ちが綯い交ぜになって、整理がつかなかったからでしょう?」
お嬢様、起きていたのか――。
それに凛さんも、本当はお嬢様がご無理をなさっていることを、快く思っていないらしい。
「いや……ちとせの気持ちも分かるんだよ。でもさ」
「凛ちゃん、千夜ちゃんに言っていたでしょう?」
「えっ?」
「アイドルのライブは、信じられないような力が働くものなんだ、って……。
それ、本当なんだなぁって、千夜ちゃんのステージを見て分かったの」
体が強張る。
お嬢様が、私のステージを見て、一体何を――?
「あ、凛ちゃんが千夜ちゃんを助けたのを指してそう言ってるんじゃないよ?
私は、あんなに楽しそうな千夜ちゃんを見るの、初めてだった……ううん、久しぶりだった、だね。
自分は無価値だと公言して憚らなかったあの子が、良い仲間を持って、すごい力を発揮しているのを、肌で感じることができたの。
黒埼家に仕える以外の生きがいを、千夜ちゃんに与えたくて、魔法使いさんの力を借りてアイドルという情熱の火種をあの子に示したんだけど、それは上手くいったみたい。
フフッ……そう、うまくいき過ぎたの。まさかその炎が、誰かに燃え広がるものだなんて知らずにね」
「私、ワガママだったみたい。
欲しい物なんて無かったのに、叶う事なら自分の思うように生きたいと思ったの。
あの子が見たものを、私も見てみたい。ライブで得られる信じられない力、私も感じたいし、千夜ちゃんにも勝ちたいの。
分不相応だなんて、笑わないでね。夢を見るのは自由、でしょう?
千夜ちゃんも凛ちゃんも、自分だけ良い思いをして、私には「無理をするな」だなんて仲間外れにするの、人が悪いんだから、フフッ♪」
「ちとせが辛い思いをすると、千夜が悲しむから……」
「それは分かってる。呪わしいほどに弱い自分の身体も、私が一番……。
でも、私はアイドルを止める気はないよ。
千夜ちゃんを焚きつけておいて、自分だけ何も遺さないままなのは、格好がつかないもの。
何としてでも、アイドルとしてのあの子に勝つか……せめて、あの子に並ぶくらいにならないと、顔向けできないかなって、ね。
あ、千夜ちゃんには言わないでね、今の」
「分かってる……これ、薬。志希が真面目に作った、って。
ここに置いておくね……本当に、身体だけは壊しちゃダメだよ」
「ありがとう、凛ちゃん。
そこの窓、閉めてくれる? 千夜ちゃんが開けてくれたまま、忘れちゃったみたい」
「あ、うん」
カチャン――。
という音がして、それ以降、話し声は聞こえてこなかった。
私のステージが、事の発端だったというのか。
常務の過度な期待があったとはいえ、その身を削ってでもステージに立つのだという決意をお嬢様がされたのは――。
あのご様子だと、お嬢様は本当に壊れるその日までレッスンを止めることは無いだろう。
私が経験したと空想している、得難き力――それに夢見て邁進し、勝手に私をライバルと決めつけるお嬢様を説き伏せることは極めて難しい。
私が、アイドルを続けている限り。
アイドルである私に立ち向かうことがお嬢様のモチベーションに繋がっているというのなら、私の取るべき手段は一つだ。
「レッスンをサボってまで話をしたいっていうから、何事かと思ったけど、そういう話ね」
昼下がり、346プロ内にあるカフェで、ため息が一つ生まれて消える。
私としてはそれなりの覚悟を持って連れてきたものの、この人が普段通りにボンヤリしているせいで、あまりシリアスな空気が流れない。
「こういう事を相談できるのは、杏さん以外にいないと思ったので」
「杏だって、まだやったことも無いのに相談されても困るんだけどねぇ」
「いえ」
私はかぶりを振った。
アドバイスを期待して、あまり親しくできていない彼女をわざわざ誘ったのではない。
「杏さんなら、私の決断を否定しないだろうと思ったのです」
「つまり杏に背中を押して欲しかったってことね。千夜はいい性格してるよ」
「……そうですね」
杏さんの言う通りだ。
辞めたいのなら、誰に相談するまでもなく勝手に辞めればいい。
行動を起こす前にこんな事を他人に話すのは、そうしないと踏ん切りを付けられない自分がいるからだった。
「私は、お嬢様やアーニャさん、他の皆さんとは違います。
自分の道を自分で決めることができない、弱い人間です」
でも、プロデューサーにはちゃんと自分から言った方がいいよ」
「それは、言われるまでもありません」
「はいはい」
鼻で笑い、杏さんは目の前のオレンジジュースを吸った。
「辞めたらさ、後でどんな感じかを杏にも教えてよ。
今度杏も辞める時の参考にしたいし」
「……杏さんは」
俯いて、膝の上に置いた手をギュッと握りしめた。
一体、何なのだろうな、この――。
「辞めようと思ったことは、無いのですか。
普段、あれだけ「働きたくない」などと文句を言って、サボって、逃げて……でも、肝心な所ではしっかり仕事をして」
劣等感、とは少し違う――憧れ、あるいは後悔だろうか。
私には、彼女のように上手く泳げなかったという、無念さ――。
「なぜ、杏さんはアイドルを続けるのですか……?」
素知らぬ顔で彼女は答えた。
ストローから口を離し、椅子の上であぐらを半分かいて店の天井を仰いでいる。
定規のアイツとはまるで正反対だ。
「そんなこと考えてダラダラ続けてたら、逆に辞める方が面倒くさくなってきちゃってさ」
「辞める方が、面倒?」
「うん」
これは誰にも言わないでほしいんだけど、と前置きを加えて彼女は続ける。
「辞めたらうるさく言う人がいるでしょ? きらりとか未央とか……あぁ、千夜ならアーニャかな。
そういう連中にやいのやいの文句言われるくらいなら、惰性で今の状況を続けてた方がリスクは少ないかなって。
今も杏的には忙しいけど、適度にサボれるし、プロデューサーも杏の性格見越して仕事の量を調節してるんだとしたら大したもんだよね」
「つまり……シンデレラプロジェクトの皆さんに不和を与えないことを、杏さんは重要視していると?」
「そういう勘違いをする人がいるから、誰にも言わないでって話。
……って、あぁ、辞める千夜には関係ないか」
面倒くさそうに手を振り、再びオレンジジュースを手に取った。
「杏がどうってより、今は千夜の話でしょ。
ちとせのためになると思って辞めるんだって千夜が決めたんだったら、それでいいんじゃない。
まぁ杏の見立てでは、千夜が辞めてもちとせはアイドル辞めないと思うけどね」
「だって、アイドルとしての得難き経験とやらをちとせが欲してるなら、アイドル辞めるわけないでしょ。
目標としていた千夜が辞めて、多少モチベーションが下がるくらいはあるかも知れないけど」
――反論すべき点が見つからない。
この人は実に聡明だ。常に端的で、言動に迷いが無い。
「でもそれはちとせにしか分からない話で、杏が我知り顔で言えることでもないしね。
ところでさ、千夜は辞めたらどうするの?」
「……えっ?」
私としたことが、346プロを辞めた後の事を全く考えていなかった。
当然に、私は寮を出なければならなくなる。
そうすると、ひとまず黒埼の屋敷に戻って――。
「……黒埼家の従者に戻るだけです。
学校も、遠いですが、そこから通うことになるかと」
「ふーん」
一瞬、瞳の奥を見透かされたような気がした後、彼女は鼻で小さくため息をつき、腕の中の人形を軽く撫でた。
「まぁ達者でやればいいさ。
この際だから言うけど、杏は千夜のことあんまり得意じゃなかったよ」
「奇遇ですね。それは私もです」
フッ、と知らず笑みがこぼれる。
「こんな事を言うと、おそらく杏さんは怒るかと思いますが……
同族嫌悪に近いものだったと、今では思います」
異なるのは、ポテンシャル――彼女は、近道を可能にするだけの力がある。
私は言われた通りのことしかできず、それでいて客観的な思考を盾にして本音を隠す卑怯者だ。
あの日、一ノ瀬さんが言っていたことが、少し分かってきた気がする。
「いや……合ってるよ、同族嫌悪」
「えっ?」
顔を上げると、杏さんは頬杖をつきながら、どこか据わりが悪そうに窓の外へ視線を投げていた。
「千夜みたいな子がいたら、杏もがんばんなきゃいけないし……
張り合える子がいなくなって、ようやくラクが出来そうで清々できるよ」
大きなため息を吐いた後、彼女は椅子から飛び降りた。
「あー良かった良かった。
あ、ここの会計はプロジェクト宛てに領収書を菜々さんに書いてもらえれば大丈夫だから。
あとよろしくね、それじゃ元気で」
大袈裟な欠伸をこれ見よがしにかきながら、杏さんはペタペタと小さい体を揺らして出口の方へ歩いて行った。
同族嫌悪などと言ったのは謝るべきだった。
だが――まぁいいか。
あとは、アイツに断りを入れる、その前に――。
やはり、お嬢様と話をするべきだろう。
お嬢様が辞めないのであれば、私が行動を起こす意味が無い。
――意味が無い?
私は、アイドルを続けたいのか――?
一人かぶりを振り、余計な雑念を払う。
私は伝票を持って席を立ち、杏さんが言うところの安部菜々さんを頼ることなく、会計を済ませた。
これから辞める身で、これ以上346プロの世話になることもない。
すっかり見慣れた部屋の、ドアの前に立つ。
呼び鈴を押しても、電話をしても、やはりと言うべきか、応答は無かった。
この部屋に入るのも、今日が最後かも知れないな。
「……失礼致します」
部屋の中は、ひっそりとしていた。
まだ日が暮れるまで1~2時間はある。
電気をつけなくとも、カーテンを開けると陽光が部屋中を明るく照らし、改めて主の不在を私に知らしめる。
ここで待とう。
もし万が一お嬢様が倒れたという連絡を受けたとしても、寮からスタジオ棟の医務室へは走って5分もあれば行ける。
「……むっ」
見慣れないDVDケースをテーブルの下に見つけた。
中身は空だ。ラベルも無い。
既にセットされているのだろうか?
「これは……」
青紫を基調としつつ、虹色に煌めく絢爛でワイルドな衣装。
オレンジ色のポニーテールが、軽やかかつダイナミックに舞う。
髪留めといい、およそ蝶をモチーフにしたであろう意匠が目立つものの、その威容と気迫は気高き獅子を思わせた。
なるほど、『レオ』――間違いない、この人が玲音だ。
画面の下部に、曲名が表示されている。
観客のボルテージは、始まる前からクライマックスを迎えたかのような盛り上がりようだ。
差し詰め代表曲なのだろう。
曲名は『アクセルレーション』――塩見さんが言っていた名前と同じ。
――――。
息をするのも忘れるほど、私は画面に――彼女のステージに魅入っていた。
これを、お嬢様がやるのか。
表情はおろか、指の先の一瞬にまで機微を感じさせる表現力。ターンのキレ。声の伸びと張り。
彼女のパフォーマンスの隅々が、一挙手一投足が、今日まで私自身がトレーナーから指摘されてきたことを遙かに超越しきっている。
だが、彼女の凄さは教科書に即した完成度の高さだけではない。
何よりも、この玲音さんは――観客と一体になっている。
エンターテイナーとして観客を楽しませようという精神を、ひしひしと感じる。
およそ全てのアイドルファンに愛される存在であり、彼女もまた全てのファンを愛する人なのだと、そのステージを見て分かった。
果たして、お嬢様にこれと同じステージができるだろうか――?
お嬢様には失礼だが――おそらく、不可能だろう。
これは、玲音さんの献身的な姿勢と、それ以上に彼女自身がこれまでに培ってきた非常な努力を感じさせるものだ。
アイドルを始めてたかだか数ヶ月、それも並みの体力を持ち合わせていない者が、軽々しく比肩できる厚みではない。
――分不相応だなんて、笑わないでね。
「……!」
――夢を見るのは自由、でしょう?
城ヶ崎美嘉さん、アーニャさん、凛さん――。
彼女達の気持ちが、今、痛いほどに分かった。
無理だけど――止めることは、できない。
第三者の勝手な都合で、その人の夢を潰すことは、とても――でも。
「私は……」
アイドルである以前に、黒埼家の――お嬢様の、従者だ。
お嬢様の御身の安全を守ることが、私の最低限の務め。
でも――お嬢様がステージに上がったら、どうなるのだろう?
本当に、玲音さんが全て勝っているのか?
お嬢様が勝っている部分など何一つ無いと、それを見ずして言い切れるだろうか。
何より私は――。
ステージの上で、この曲を歌いきり、およそ信じられないくらいキラキラに輝くお嬢様を。
観客からの大歓声に、満面の笑顔で手を振るお嬢様を。
「私は、どうしたらいい……」
誰もいない部屋で、一人途方に暮れていると、呼び鈴が鳴った。
「ッ……!?」
ひょっとして、お嬢様!?
いや、落ち着け。自分の部屋に入るのにいちいち呼び鈴を鳴らす人がどこにいる。
「チトセちゃーん! チトセちゃーん!」
「フレデリカさん、ちょっと、近所迷惑ですから……!」
「やっぱり出ないよぉ、およよよ……哀れ宮本のフレンチボイスでは掠りもしないのであった。
んじゃ、ここはフミカちゃんとありすちゃんにバトンタッチ☆ ささ、ノックノックしるぶぷれ~♪」
「わ、私が、ですか……?」
「文香さん、相手にしなくていいです。
あとフレデリカさん、私は橘ですっ! 何度言ったら分かるんですか!」
「ワォッ☆ 橘氏、なかなかボイスがビッグデリカだねー♪」
会話の内容からして、おそらく――。
私は、ドアをそっと開けた。
「あっ」
「ンンー? チトセちゃん、ちょっと小っちゃくなっちゃったね?」
「貴女は、確か……」
「白雪千夜と申します」
そう言って、私は目の前の三人を見渡した。
宮本さんと――鷺沢文香さんに、橘ありすさん。
やはり、プロジェクトクローネの人達だ。
「申し訳ございませんが、お嬢様はここにはいらっしゃいません。
まだ、レッスン中なのではと」
「あれ? おかしいですね」
ありすさんは手に提げたバッグからタブレットを取り出し、幾度か操作をして首を傾げた。
「どうかしたの、ありすちゃん?」
「橘です。クローネの予定表を見ているのですが、ちとせさん、今日は午前中にはレッスンを終えて、午後は大きな予定が入っていません」
プロジェクトクローネ総勢13名のメンバーそれぞれの予定が示された横使いのスケジュール表は、確かに、お嬢様の午後の空白を示している。
「ご予定が無いのであれば、ちとせさん、こちらにお戻りになるかと思ったのですが……」
「どこか遊びに行ってるのかなー? あ、アーニャちゃんも午後オフだね」
二人だけでどこかへ遊びに行く――いや、それはあまり考えにくい。
これまでお嬢様からもアーニャさんからも、特にそういう話を聞いたことが無かったからだ。
一方で、アーニャさんには、レッスン以外の所でお嬢様と一緒の時間をできる限り作るようお願いし――。
――!
「……あの、白雪さん、何か…」
「今日は何日でしょうか」
「え? ……わっ!?」
半ば引ったくるように、橘さんのタブレットを掴んだ。
スケジュール表の日付を急いで確認する。
――やはり。
何ということだ!
「ひぁっ、し、白雪さんちょっと!?」
引っかけた靴を履き直す時間すらもどかしい。
お嬢様の部屋の片付けも、ドアの鍵も、まるで無視してしまうほどに、私は頭が真っ白のまま寮の出入口へと走った。
「チヨちゃーん! 1階のトイレは今使えないよー!? シキちゃんがぃ……!」
角を曲がり、宮本さんの底抜けに明るい澄んだ声が遠くに響いて、彼方に消えた。
「はぁ……はぁ……!」
本当に私は、どうかしている。
今日は11月10日。
自分のことばかり考えて、お嬢様の誕生日すら忘れるなんて!
寮にもレッスン室にもいないのなら、今日は屋敷に戻っているはずだ。
急いで私も向かわなくては――!
「……えっ!?」
見慣れた黒い定規が――アイツが、門の前に立っている。
「白雪さん、お待ちしていました。どうぞこちらへ」
「な、何をしている。
私は急いでいるんです、お前に構ってなどいられ……!」
「黒埼さんの屋敷へは、私の車で向かいましょう」
「!?」
少しずつ息が整ってくる。
よく見ると、門のそばの駐車場にはいつもコイツが送迎で使用する車が置いてあり、その後部座席には――。
アーニャさんが手を振っていた。
「白雪さんとアナスタシアさんをお連れするよう、黒埼さんより仰せつかっております。
一緒の時間を作るよう白雪さんに頼まれた旨を、アナスタシアさんが伝えたところ、黒埼さんが彼女も誘われたとのことです」
「え、あっ……」
呆然と立ち尽くしていると、アーニャさんが後部座席のドアから飛び出し、助手席側に回ってそのドアを開けて手招きをした。
「ダヴァーイ、チヨ♪
チヨはプロデューサーの助手席、好きですね?」
幹線道路を使えば、近くまでは比較的一本道で行けるが、その先は細い山道を慎重に上る必要がある。
346プロの寮に越してからも、お嬢様と二人でタクシーを利用して帰ることは何度かあったが、どの運転手もその道を嫌がっていた。
車の中は、しばらく無言だった。
後部座席にいるアーニャさんは、いつもはこういう時に色々な話題を振ってくれるのに、今日は何も言わない。
どんな様子で座っているのか、後ろを振り返ってみたい気持ちを、先日穏やかでない言葉をぶつけてしまった後ろめたさが邪魔をする。
後ろめたいといえば、コイツだ――。
コイツも、岩のようにデカい手でハンドルを握り、黙って前を見つめている。
ついに、私は根負けした。
「何も、言わないのですか……」
今日のレッスンをすっぽかした私に、言いたいことが無いはずは無い。
私に、そんな筋合いが無いのは分かっているのに――自分の気持ちを隠しているコイツに、イライラしてしまう。
そんな手前勝手な自分自身にも――。
嫌味も抑揚もまったく感じられないトーンのまま、コイツは続ける。
「もちろん、望ましいことではありませんが……
調子が悪かったり、気分が沈んでしまったりすることは、誰しもあることです。それにより、つまずいてしまうことも。
ナーバスになってしまったとしても、どうか大目に見てほしいと、今日、双葉さんもそう仰っていました」
「いつも自堕落なあの人が言っても、説得力がありません」
「いえ」
短い、しかしハッキリとした否定が聞こえて、思わず隣を振り向く。
「双葉さんが大目に見てほしいと仰ったのは、あなたのことです、白雪さん」
「……私を?」
双葉さんの、去り際の後ろ姿が脳裏に蘇る。
素っ気ない様子で大きな欠伸を掻きながら、面倒くさそうにカフェの出口へ向かう背中――。
「先ほど、寮を飛び出してきた白雪さんを見て、その意味が分かった気がします」
私は小さくため息をついて窓の外へ顔を背けた。
「お前は、私がどれほどお嬢様のことを案じているか、分かっていないのです」
「……白雪さんには、お話していなかったかと思いますが」
車はようやく山道に入った。
今日は、季節外れの寒波が関東を直撃するという。
ひょっとすると、山間部は雪が降るかも知れない。
「私は、自分の担当アイドルを潰したことがあります」
身体が強張ったは、悪路のせいじゃない。
後部座席で、アーニャさんが小さく声を上げたのが聞こえた。
「自分のエゴを押しつけ、苦しめた……もう二度と、担当アイドルに同じ事はするまいと、心に誓いました」
「私だけでなく、シンデレラプロジェクトの皆も、よく分かっています。
白雪さんが黒埼さんの事を、とても大切に思われていることを」
「私のお嬢様に対する気持ちが、エゴだとでも言いたいのですか?」
唐突に自分語りをしたかと思えば、その次は説教か。
結構なことだ。
「余計なことを話している暇があるなら、屋敷へ急いでください」
「白雪さんは、黒埼さんが今、屋敷で何をされているか、ご存知ですか?」
「えっ?」
おそらく、聞き間違いではないだろう。
クスッと小さく笑う声は、アーニャさんのものではなかった。
「今日は、黒埼さんが私達に手料理を振る舞われるとのことです」
なぜ!?
お嬢様ご自身の誕生日だ。お祝いされる側がホストに徹するのはおかしい。
というより、私やアーニャさんだけでなく、一緒に向かっているコイツの分もか!?
「わぁ、それはプリヤートナ、とても楽しみです♪」
「の、暢気なことを言っている場合ではありません!」
早く、お嬢様の下へ――私が――!
「白雪さんが黒埼さんをお想いになられているのと同じように」
道がだんだん開けてきた。
もう一つカーブを曲がれば、屋敷が見えてくる。
「黒埼さんも、白雪さんのことを案じています。
だから、黒埼さんは私に、「あなたを頼む」と……
今日のことだけでなく、シンデレラプロジェクトに入る事になった時から、ずっと彼女は、私にお願いし続けてきました」
「今日はどうか、黒埼さんのお話に、耳を傾けてあげてください」
――お嬢様の仰ることを無碍にしたことなど無い。
いつだって私は、あの人の言うことを聞いてきた。
だから私はアイドルをやっている。
だが――コイツが今言った事に、堂々と反論する気になれないのはなぜだろう。
車を降り、アーニャさんと並んで玄関ドアに向かうと、扉が開き、中からお嬢様とおじさまが和やかに出迎えた。
意味ありげにアーニャさんやアイツと目配せをしていた辺り、この場にいる人達は、おじさまも含め、予め今日のことを了解していたように見える。
皆が申し合わせていたのは、ひょっとして私のことだったのではないか――そのような考えは、果たして飛躍だろうか。
アーニャさんと私、アイツが並んで席に着き、おじさまが向かいに座る。
ひたすらに冷えた今日の天気のことなど、しばらく談笑したのち、ようやくおじさまが核心に迫りそうな話を切り出した。
「ちとせと千夜が、今度、346プロさんのフェスというものに出場すると聞きました」
アイツは頷いた。
「弊社は年に二回、夏と冬に、ファンの方々向けの感謝祭と称して、フェスを開催します。
ちとせさんと白雪さんだけでなく、こちらのアナスタシア他、弊社の精鋭並びに新進アイドル達が揃い踏みする、一大イベントです」
「聞くところによると、ちとせと千夜は、別のプロジェクトというものにそれぞれ所属していると」
おじさまがテーブルの上で両手を組み、少し身を乗り出した。
「何と言いますか……ちとせが今日、千夜に勝ちたいと、よく言っていたもので……
その、二人が何か戦うとか、競争するようなイベントだったりするのでしょうか?」
今日、どんな顔をしてお嬢様とこれから話をするべきか気を揉む私を尻目に、コイツは首を振った。
「他社さんと協働で開催するフェスの場合は、ライブバトルと称し、観客の方々からの投票形式によって、その出来を競い合うこともあります。
ですが、これは社内イベントであり、アイドルを含む事務所のスタッフが一丸となって行うものです。
弊社としましても、同じ事務所内のアイドル同士で対立感情を煽るようなことを、メリットとして捉えることはありません」
お前、夏の合宿の時は違うことを言っていなかったか?
そう横槍を入れてやりたい気持ちを、グッと飲み込んだ。
コイツにも、冗談で済むレベルとそうじゃないものの線引きがあるのだろう。
だが、コイツの今の話には、正しくない部分が半分以上はあることを私は知っている。
確かに、明確なライブバトルとして銘打たれたものではないが――実質的には、今度のフェスは戦いだ。
私達シンデレラプロジェクトと、常務が率いるプロジェクトクローネ。
どちらがより観客の心を掴めるか――つまり、私達と常務のどちらが正しいかを決する舞台となる。
引いては、シンデレラプロジェクトの存続を賭けた舞台。
お嬢様も、理解していないはずはない。
そうとも知らず、おじさまは椅子の背にもたれ、ふぅと息を吐いた。
「私はてっきり、ちとせと千夜が仕事の関係で喧嘩でもしたのかと心配で」
「おじさま。お嬢様は、私のことを一体なんと?」
「ん? いやなに、今日はとびきりに千夜のために腕を振るってやるんだって、息巻いていたよ、ワハハハ」
こう言っては失礼だが、暢気に笑っているおじさまが、何だか腹立たしい。
私は今もこうして焦燥を募らせているというのに。
「チトセの料理、とても楽しみです。チトセは、何を作りますか?」
アーニャさんもまた、あまり重要そうでない話題に目を輝かせる。
――いや、ちょっと気になるが。
「ハンバーグを作ると言っていたよ」
「オォー、プロデューサー、ハンバーグ大好きですね♪ 今日は皆で……アー……」
「? アーニャさん、どうかしましたか?」
部屋の中をキョロキョロと見回して、アーニャさんが気まずそうにおじさまを見つめた。
「チトセのママは……お出かけですか?」
良からぬ想像をしたであろう彼女とは対照的に、おじさまは和やかに笑った。
「妻とは、あの子がまだ生まれて間もない頃に別れたんだ」
「あぁいやいや、謝らなくて大丈夫だよ」
アーニャさんを慰めるように、おじさまが言葉を続ける。
「お互い、家が大きすぎたんだろうね。
彼女は大企業の一人娘で次期跡継ぎ。私も、欲しくもない伝統と格式を背負わされた身だった。
黒埼家という、歴史が長いばかりでとっくにカビが生えた家柄を。
だから、結婚をしてもお互い別姓のまま、お互い仕事に追われて暮らしていたのだけど……」
「ちとせさんがお生まれになられてから、状況が変わったと?」
慎重に探るアイツの一言に、おじさまは「そうです」と首肯した。
「あの子にどちらの姓を名乗らせるかで、両家が大喧嘩をしたのです。私と妻を放ってね。
いっそ別姓をやめようという話もあったが、黒埼になれば向こうの会社名も変わるから、納得してもらえるはずがない。逆も同様です。
話はいつまで経っても平行線のまま。だから、私と妻はよく話し合い、離婚をしようという判断に至ったのです」
それは、私も知らなかったことだった。
この家に、おじさまの奥様がいらっしゃらない事は、従者として不可侵の領域であると思い、触れてはこなかった。
「円満離婚、と言えば良いのかな。彼女も経営者なだけあるから、聡明かつ理知的でね。
話し合いはすこぶる建設的に進みました。もちろん、ちとせのために我々ができる最善策についてです。
結果として、親権は私が預かりましたが、彼女に面会の制限は設けていません。いつでも遊びに来てほしいと言ってあります」
「ですが……」
言いかけて、慌てて口をつぐんだ。
しかし、遅かったらしく、おじさまは私を見てニコリと笑っている。
「そう。千夜が今口を挟んだように、彼女はまだこの家に来たことがありません。
一方で、要らないと言っているのに、定期的に養育費を振り込んでくれているようです。
あの子に無用な伝統を背負わせまいと、本家とは断絶した私にとって、経済的援助はありがたいのですが、男としては情けないばかりで、ハハハ」
「そんなにチトセを大事にしているなら、なぜ、チトセのママは、会いに来ないですか?」
アーニャさんがもっともな疑問をぶつけると、おじさまは肩をすくめた。
「私に遠慮しているのかも知れないね。あと、この家もアクセスが悪いし。
ただ、この間海外からこっちに帰ってきて、東京の本社で働くという話は聞いていたから、これからは会う機会も出てくると思うよ」
「それは、良かったです」
アーニャさんはホッと胸をなで下ろした。
でも、おじさまの今の話は、少し不可解な気もする。
これまで訪れたことが無かったのに、東京で勤めるようになっただけで、会う機会がゼロから増えるものだろうか?
「ロシアでは、よくホームパーティーをします。
パパとママも、アーニャも大好きな人達、たくさん呼んで、みんな楽しいです。
今日も、チトセのホームパーティーに呼んでもらえて、とても嬉しいですね」
「ちとせからも、アーニャさんのことはよく聞いていますよ。
千夜と二人、とてもお世話になっていて、しかもこんな可愛い子をお招きできて嬉しいなぁ」
「ワァー♪」
「ふふっ、いいなぁ楽しそうにお話してて」
すぐさま、声のした方を振り返る。
お嬢様が料理をカートに乗せて、こちらに歩いてきていた。
「まぁ、今日は私がホストだから、どうぞくつろいでいってね」
「お、お嬢様っ」
思わず立ち上がり、お嬢様の下へ駆け寄る。
「私がやりますから、どうか…」
「ダ~メ♪」
悪戯っぽく私の肩をポンと押すように叩いて、お嬢様は微笑む。
「私がやりたいの。
今日は私の誕生日。だから、好きなようにさせて?」
と言っても、ワンプレートだけだ。スープも、ご飯やパンすらも無い。
「これだけかい?」
おじさまが訪ねると、お嬢様は悪びれずに「うん」とだけ答えた。
お嬢様の手料理――ついぞ記憶に無いが、想像していたものとあまり変わりは無かった。
お祝い事の時にしか使わない高級なお皿には、所々焦げたり崩れたりした、頼りないハンバーグが乗っている。
あまり煮詰めていないであろうソースもベチャベチャで、付け合わせのニンジンやクレソンも何だか素っ気ない。
アーニャさん達のものと比べても、盛りつけの見栄えはそれぞれ皆バラバラのようだった。
だから私がやると言ったのに――。
いや、お嬢様の誕生日を忘れるという大失態を犯し、準備をできなかった私に、文句を言える筋合いは無い。
ただ――。
「魔法使いさんも、ハンバーグお好きでしょ?」
席に着かず、ニッコリ笑うお嬢様に対し、アイツは気まずそうに首の後ろを掻く。
「パパも、アーニャちゃんも……千夜ちゃんも、ほら、遠慮なくどうぞ♪」
私は、膝の上に置いた手を握りしめ、俯いた。
「お気遣いいただきながら、やはり……これは、私がいただくわけにはいきません」
「チヨ……?」
「うん、知ってるよ」
お嬢様のあっさりした声が、妙に白々しくリビングに響いて消える。
「千夜ちゃんは私の従者だから、でしょう?」
「そうです」
どういう風の吹き回しかは知らないが、お嬢様は今日、ご自身の誕生日でありながら、ホストに徹している。
お嬢様が振る舞う手料理を――施しを受けるのは、ゲストだ。
だが、私はゲストではない。
従者が主のゲストとして施しを受けることは許されない。
もしそれを許容してしまったら、その瞬間、黒埼家の従者たる私のアイデンティティは崩れる。
それを知っていながら、お嬢様はなぜ――。
「なぜお嬢様は……私にこのようなことをなさるのですか……」
よりにもよって、私の存在意義を奪うようなことを、嬉々として行うなんて。
気まぐれにしても、これはあんまりだ。
ガックリとした態度を見せてしまう私を尻目に、お嬢様は愉快そうに胸を張ってみせる。
「これが私の望んだことだもの」
真意を推し量りかねる私に、構わずお嬢様は続ける。
「たぶんだけど、千夜ちゃん、アイドルを辞めるつもりだったでしょう」
「えっ!?」
アーニャさんがこれまでに見たことも無いような速さでこちらを振り向くのが、視界の端に見えた。
アイツも、岩のような体が少し動いたように見える。
「……どうしてそれを?」
「なんとなーく、ね。千夜ちゃん、考えることが分かりやすいもの」
私は、誰よりもお嬢様のことを理解している。
そう思っていたが――逆のことは、考えもしなかった。
おじさまの隣からゆっくり歩みを進めながら、お嬢様はまるで詩を詠むようにボンヤリと言葉を繋ぐ。
「今日の誕生日に、私が本当に欲しかったもの……それはね」
その足は、私の席の真向かいで止まった。
「千夜ちゃんの解放」
「黒埼家の従者という呪いからの、ね」
――それはつまり。
「私にここを出ろ、と仰るのですか?」
「千夜ちゃん、この家に来たときのこと、覚えてる?」
――――。
「……忘れました。
私の人生は、黒埼家に仕えたその時から始まったもの。
それ以前のことを、今さら思い出す価値などありません」
「そんなこと言わないで」
「えっ?」
「同年代の友達がいなかった私に、北海道の白雪のおじさまとおばさまは、この屋敷へ遊びに来てくれる度に私を可愛がってくれたよ。
そして、その女の子も。
お庭に連れ出して、一緒にお花を摘んだり、落ち葉を投げ合ったり、夏は蝶々を捕まえて、冬は雪玉をたくさん作って、鼻の頭を真っ赤にして笑う子が、私は好きだった。
誰かに照らしてもらわないと輝けない月が私なら、その子は太陽。ルーペンスの天使みたいな、キラキラの笑顔で笑ってくれる子だったの。
でも」
お嬢様の顔が、少しずつ歪んでいく。
こんなにも悲しそうな、お嬢様の表情を見るのは初めてだ。
私が覚えている――もとい、記憶に残している限りでは。
「悲しい出来事が、その子を変えてしまった。
太陽は沈み、明けない闇へと落ちていく……それは、私にとって耐えられない。
だからパパにお願いして、その子を私のそばに引き寄せて、呪いをかけたの。
誰にも奪われないよう、私のものにして、大切に、大切にしまって……でも」
「おやめください」
つい声を荒げてしまった。お嬢様の言葉を遮るなど――。
だが、それ以上の言葉は許容できない。
お察しの通り、私がアイドルを辞める決意をしたのは、お嬢様からアイドルを引き離すためです。
このまま無茶なレッスンを続けていては、お嬢様のお身体はいずれ壊れてしまいます。
私に生きがいを与えてくれたお嬢…」
「誰かに与えられる生きがいじゃなくて」
今度は私が言葉を遮られる番だった。
私のことで、こんなに必死になられるなんて――。
「私は、もう一度、太陽が昇る時が見たくなったの。
私からアイドルを取り上げるためにアイドルを辞める? それは違う……逆なんだよ、千夜ちゃん。
私が私だけの道を歩めば、千夜ちゃんは千夜ちゃんの人生を生きられる。
そう思ったから、私はアイドルを続けるの。
千夜ちゃんにアイドルを続けてもらえるように……また、あの素敵な姿で皆を、私を明るく照らしてもらえるように。
だから」
ゆっくりと大きく息を吸い、お嬢様は目を潤ませながらニコリと微笑んだ。
「もう一度、友達になりましょう、千夜ちゃん。
主と従者ではなく、対等の……一緒に遊び回っていたあの頃の私達に、これは帰るための儀式。
今日、私の誕生日というこの日に、その素敵なプレゼントを私に与えてほしいの」
「お嬢様、も止めよう?」
フフッ、と肩を震わせて、お嬢様は照れ臭そうに鼻をかいた。
お嬢様も、非常な覚悟で今日を迎えたのだな。
かつては自分のものにすることで守ろうとした私を、今日、お嬢様は手放す決意をした。
私に、自立を促すために――。
改めて、目の前の不格好なハンバーグを見つめる。
この施しを受ければ、私はこの家の従者ではなくなる――。
「もう冷めちゃったかな。長々と話し過ぎちゃった、ごめんね」
「いえ」
私はお辞儀をして、手を組んだ。
「いただきます」
それまでのやり取りもあり、おじさまも、アーニャさんもアイツも、私が最初に手をつけるのを待っているようだった。
ひょっとしたら、これが最初で最後になるかも知れない、お嬢様の手料理。
その味は――。
「どうかな?」
「やっぱり?」
案の定ボソボソしている。玉ねぎどころか、つなぎに小麦粉もパン粉も入っていないのではないか。
ソースも、醤油を水で伸ばしたかのようなシャバシャバとボンヤリした味わいで、中途半端な塩味が見事に口当たりを邪魔している。
一応食べてはみるものの、大きさや火の通りが不揃いのニンジンも、何故かベチョベチョに煮つめてしまったクレソンも、無い方がまだマシだ。
私の第一声を聞いて、他の皆が恐る恐るそれを口に運ぶ。
「これは……」
「ンー……」
「……味見はしたのかい? ちとせ」
皆一様に顔をしかめているのが何だかおかしくて、思わず私は吹き出してしまった。
「ちょっと! 千夜ちゃん笑わないでよ、これでも一生懸命作ったんだから」
「すみません」
コホンと咳払いをして、私は顔を上げた。
「今度、美味しい作り方をお教えしますよ、“ちとせさん”」
私のその一言に、彼女は飛びきりの笑顔をパァッと咲かせて「うんっ」と大きく頷いた。
結局、その日のハンバーグは、それぞれ半分以上ずつ残したプレートをアイツが全て平らげて事なきを得たのだった。
「いえ……私の方こそ、話をしませんでしたから」
コイツの慎重な運転で、暗い山道を下っていく。
「それに、私が勝手に考えていたことです。お前が気に病むことではありません」
泊まっていけばいいとおじさまは仰ってくださったが、お嬢様とああいうやり取りをしてなお、黒埼家の世話になるのは気が引けた。
コイツも、事務所に残してきた仕事があるという。
「すみません、アーニャさん」
「シトー?」
「今日一日、付き合わせてしまいました。
アーニャさんだけでも、泊まっていただくようお願いするべきでしたね」
「ニェット、チヨ……とても大事な日に、アーニャも一緒にいることができて、嬉しいです。
今日はチトセだけでなく、チヨの誕生日、ですね?」
アーニャさんも、時折こうして洒落たことを言う。
それなら――そうだ。
「お前」
「はい」
「少し、寄りたい所が